ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

親爺のこと(13) 人の本分

2008-06-19 16:44:41 | ぶんやんち
樗牛の「美的生活を論ず」という作品と親爺との関係については、5月7日と10日付の文章ですでに触れた。それがなければ、わたしは樗牛という作家について少しも興味はなかったであろう。むしろ、言葉少なかった親爺の内面に切り込むための1つの切り口として、樗牛に興味を抱いたのである。その段階では、この「美的生活を論ず」という論文は未だ謎に包まれていた。その謎を解明するために、樗牛の若き日の論文「人生終に奈何(じんせいついにいかん)」(5月9日付)を取り上げ、つづいて樗牛の唯一の小説「瀧口入道」を読み(5月26、27,28日)、樗牛の死生観を探ってきた。そして、先日、樗牛の「樋口一葉論」を取り上げ(6月18日付)、これが樗牛の「転機となった」と述べた。
もうそろそろ、樗牛と親爺との関係について結論を出すべき時であろう。
「美的生活を論ず」の眼目は「生活」を論じている点である。それまでの樗牛の作品を支配していたキイワードは「死ぬこと」、しかも「殉死」がメインテーマであった。しかし、ここでは「生きる」ということが論じられている。しかも「美しく生きる」こと、ある意味では「殉死」は「美しい死」であったが、そこには「救い」がない。むしろ、そこにあるのは「厳しい倫理」であり、義理であり、「意味」であった。しかし、この「美的生活を論ず」では、それら一切を否定する。そして、樗牛にとって「美しい生活」とは「野に咲ける玉簪花を見よ、勞かず紡がざれども、げにソロモンが榮華の極みだにも其の裝ひ是の花の一に及ばざりき」という生き方である。樗牛はこの言葉を「古の人いえらく」というが、誰でもすぐに、これがマタイ福音書が描くイエスの言葉であることは自明の理である。これをわざわざ「古の人」と言い換えるところに、樗牛の「脱宗教」「超宗教」がある。樗牛が、ここに至る転機はすでに述べたとおり、一葉の「たけくらべ」であったことは明らかであろう。
親爺は樗牛とキリスト教とのどちらと先に出会ったのか、わからない。おそらく、同じ頃であろう。むしろ、理屈としては、樗牛によって問題意識が深められ、その解答をキリスト教から得た、と言うべきなのだろう。わたしの弟は、キリスト教と出会った親爺は樗牛を卒業した、と言う。おそらく、その通りであろう。親爺の書棚に樗牛の書は見あたらなかったし、樗牛について何か積極的に話したのを聞いたこともなかった。
しかし、問題は樗牛ではない。親爺のキリスト教理解である。変な言い方をすると、親爺のキリスト教理解は樗牛的である、と言えるのかも知れない。親爺にとって、聖書も、キリスト教も美しく生きる教えである。そこから、親爺が人生の指針とした聖書の言葉が「事の全体の帰する所を聞くべし、いわく、神を畏れその戒めを守れ、これすべての人の本分たり」(伝道の書12:13 文語訳)。

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