ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ぶんやんち(3) 親爺の就職活動

2008-07-23 09:07:33 | ぶんやんち
親爺の選択は非常に賢明であった。親爺は新京に着いて、空白の7ヶ月の後、満州国建設局計画公園課に職を得た。親爺の就職活動がどのようになされ、何かコネのようなものがあったのか、あるいは、本国にいた頃から、この部署についての何らかの情報を得て、そこを目指して新京に向かったのか、全くわからない。親爺の性格から考えて、おそらくその主のことは何もなかったのではないかと思っている。むしろ、その場に身を置いて、状況に素直に対応することから道が開けてくる、というのが親爺の基本的な姿勢である。
しかし、考えてみると、非常に賢明な選択であった。親爺にはこの辺の勘と決断は人一倍強いし早い。
昨日のブログでも述べたように、新京市の都市計画の要は「公園」であった。その公園も市民の憩いの場としての公園というよりも、近代都市としての格式の象徴としての公園である。それだけに満州国政府、内実は日本の現地部隊関東軍のインテリジェンスを示すものとして、基本的な設計は、当時一流の人材が選ばれ、計画された。どこに公園を設置し、公園の内部の施設をどのように配置にするのか、など基本的な計画は、そんなに難しいことではない。また、実際に穴を掘ったり、植木を植えたりする労務者はありあまるほどいる。しかし、足りないのは現地で、現地人を管理して働かせる中間管理者である。満州国政府としても、その管理者は現地で確保したかったであろう。親爺は、それに応募したのである。親爺には農業や造園の専門家としての資格はないが、なにしろ「農業学校の中退者」である。日常業務の上での植物や農業知識は十分ある。息子として言うのも変であるが、中々得難い人材であったのだろう。
ともかく、親爺は真面目が服を着て歩いているような人物であり、飲酒、喫煙の習慣もないし、女遊びもしない。誤魔化すとか、嘘をつくとか、人の悪口を言うとか、暴力をふるうとか、というような悪弊は全くないし、職場では上司からも、同僚からも、部下からも、信頼され、重宝がられた(ようである)。何しろ、親爺が満洲に来たのは、五族協和・王道楽土の理想国家建設のために一生を捧げるという、高邁な目的である。金儲けとか、名誉心など微塵もない。多少、職場で「揶揄」されようと、そんなものは、蚊に刺されるほどで、痛くも痒くもない。新京での親爺の生活は充実したものであったに違いない。ちょっと先の話になるが、就職してわずか8年足らずで、新京市の中心部にある児玉公園(現「勝利公園」)の園長になっている(昭和13年4月)。さらに、翌昭和14年4月には満州国公務員として任官され、「技士」を拝命し、昭和16年9月には満州国建国功労賞勲8等を授与されている。

最新の画像もっと見る