ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 12/07

2014-12-09 06:22:24 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。朝食はパンとベーコンエッグ。『ツァラトォの謎』続読。神の死とは「逆転した福音書」。練習30分。昼食はインスタントラーメン。午後、病院へ。夕食はおでん。三谷幸喜監督映画「清州会議」を途中まで見て10時就寝、4時起床。体調、快調。チュン、チュン。

播 稔さん、Fumiko Mamuraさん、北村 良輔さん、他20人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 おはようございます~♪アドヴェント第2主日礼拝が祝されますようにm(__)m
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ支えられますようにとお祈り致します

萩野 秀子 おはようございます。アドベント礼拝です。祝された時となりますように。お祈りします。

播 稔 お伝はいろいろたべるので、身体に良い。お酒も美味しい。
posted at 04:15:50


文屋 善明
今日の名言:RT @wisesaw:
若い時われわれは学び、年をとってわれわれは理解する。(エッシェンバッハ、中世ドイツの詩人)
<一言>この人どんな人が知りませんが、こういうことって結構多いですよね。若い頃には理解していたつもりだったのに。何にも知らなかったのだということが、今頃になって分かります。

村田 多鶴子さん、播 稔さん、大津 博子さん、他17人が「いいね!」と言っています。

播 稔 学ぶはたやすく、理解は年月をようす。(碩学)

文屋 善明 そういうこととは一寸違うような気がします。若いときにも既に理解していた。しかし人生経験を踏むと若い頃には知らなかった次元の深みが加わってきます。そこで、初めて心にストーンと落ちてくる「理解」出てきます。この言葉はそのことを語っているように思います。

播 稔 文屋先生の解説よく理解できます。感謝。
posted at 05:13:09


「昨日のツイート 12/05 日本一の頭脳決定戦」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/5dd0f72cf23960bd096c16bfb0cfbfc…
posted at 05:49:48


文屋 善明さんが写真2枚を追加しました。
お目覚めの花。「やっと出してもらえました」「良かったね」「あんたも、もう種切れですか」「ハイ、菊を見に行く余裕もなかったもので。そうしたらもう、花の季節は終わってしまいました」「仕方がないわね」。
文屋 善明さんの写真

石松 周さん、鄭玹汀さん、Richard Bakerさん、他31人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 季節の果実は天の恵みですね~♪

文屋 善明 今頃はすっかり鳥たちの胃袋に入ってしまってることでしょう。

村田 多鶴子 そう言えば、幼い頃、家の裏で柿の実をとっている父に、「お父さん、まだそこにもあるよ!」という私に、父は、「あとは、鳥さんたちの分~♪」と言って、とらずに残していたのを思い出します。

播 稔 鳥たちは、つまみ食いをする。全部食べないで、ほかの視を食べる。


文屋 善明
2014日々の聖句 12月07日(日)
遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みよ。あなたの父に問えば、告げてくれるだろう。長老に尋ねれば、話してくれるだろう。(申命記32:7)
パウロのテモテへの手紙:わたしはあなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。(2テモテ1:5)
私の黙想:
歴史の伝承。歴史は現在および将来への最高の教科書である。そもそも申命記は典型的な「歴史書」である。これを編集した人たちがいる。彼らが「歴史の叙述」というものの難しさを最もよく知っている。歴史は語り手によって変更される。歴史とは現在の視点から書き改められた「物語」である。申命記を編集した人々はバビロンの地において遠い先祖たちの歴史を顧みて、現在の問題点、民族の将来に思いを馳せた。それがいわゆる「申命記史観」である。その意味では、「歴史の記憶」を可能な限り残すということの大切さを最もよく知っている人々でもある。
今日の聖句において「父に問えば」「長老に尋ねれば」と述べられている点は、殊更重要である。人間は「問われなければ」、「尋ねられなければ」、思い出さない。問われて思い出す。問うのは「現在」であり、答えるのは「過去」である。現在と過去との対話によって、歴史は継承される。若い人々は私たちの年代の者に「戦争経験」を書き残せという。そんなもの、「ハイ、そうですか」と言って書けるものではない。もし、そういう風にして書いたとしたら、それは「歴史」ではなく非常に主観的で、私的な「思い出話」に過ぎない。「問われて語る」とき、答えるものと問うものとが同じ一つの「歴史」に属していることが「経験」される。これは民族史だけではなく、家族史においても、個人史においても、信仰史においても同様である。

東山 富昭さん、播 稔さん、川染 三郎さん、他21人が「いいね!」と言っています。

最新の画像もっと見る