ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート08/12

2015-08-14 09:56:16 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。田上著『キリスト教と政治』続読。ドイツ敬虔主義について。午後2時間ほど昼寝。外出なし。夜、「さんま御殿」を見て9時半に就寝。夜中、寝苦しくて起きてPCを開くと孫息子からロシア北の上空写真が届いていた。美しい。今朝は久しぶりの雨で気持ちのいい風が吹いている。5時起床、体調・快調。チュ〜ン、チュ〜ン。
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村田 多鶴子 おはようございます~♪こちらは、相変わらず蒸し暑い朝です。今朝は、体調・快調、チュ~ン、チュ~ンでよかったですネ。先生ご夫妻が、お守りの内に、穏やかなよい時間をお過ごしになられますようにm(__)m

藤木 冨士子 おはようございます。
posted at 05:10:05


文屋 善明
8月12日 6:11 ·
今日の名言:@wisesaw
習慣は偽りの友を作る。あたかも機会が偽りの恋人を作るように。(ボナール)
<一言>クラスメイトや同僚のように毎日、顔を見ていると友だちになった気分になる。逆に偶然に出会った人の新鮮さによって恋人になった気分になる。本当はその逆であるべきだろう。
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播 稔 逆が多いのかも?

文屋 善明 私たち夫婦の場合は、小学生頃からの「幼友だち(ただし、5歳違い)」でした。
posted at 06:11:38


「昨日のツイート 08/10 奈良の家族がヨーロッパへ」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/a7ae90dd0ab07dd4325912f8bd12cbc…
posted at 06:35:02


文屋 善明
8月12日 5:55 ·
お目覚めの花。「今朝は雨がシトシト降っています」「雨の音で目が覚めました」「気持ちのいい風が吹いています。この時間を味わう者は幸なり」。
文屋 善明さんの写真
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文屋 善明
8月12日 5:46 ·
2015日々の聖句 08月12日(水)
今、あなたたちは主を畏れ、真心を込め真実をもって主に仕え、他の神々を除き去って、主に仕えなさい。(ヨシュア24:14)
わたしはあなたがたが、なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。(ロマ16:19)
私の黙想:
イスラエルの民全指導者に対するヨシュアの最後の演説。要するに、民族の最高指導者による「談話」である。2節の後半から13節までの長い文章は「主の言葉」であるという。ここでヨシュアは民族の祖アブラハム以来の全歴史を振り返る。そして現在「あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与えた。あなたたちはそこに住み、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている」(13節)と言う。14節からがヨシュア自身の言葉となる。この言葉の中で、本日のローズンゲンでは「他の」と総括されて述べられているが「あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々」という言葉がある。つまりこれが民族の「恥部(=罪)」である。民族の最高指導者ヨシュアは明白に民族の罪を指摘し、反省することを宣言し、この演説に不満のあるものは出て行けと語る。その上で、すべての民が出て行っても「 わたしとわたしの家は主に仕えます」という。なんという強い言葉であろう。
この演説を受けて、民族の指導者たちは「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません」と答える。
近日中に出されるであろう「首相談話」もこれほどの迫力を示して欲しい。
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水草 修治 「美しい国」などという妄想にふけっていて、「民族の恥部を直視し抉り出す」ことなしに、先生のおっしゃる「迫力」はありえないのでしょうね。

文屋 善明 私の教名は「ヨシュア」で、ヨシュアのことになると熱が入ります。私はアンフィクチオニー説の信奉者です。関根正雄先生の『旧約聖書』(創元社)を読んで、この説に出会い、旧約聖書の読み方が変わりました。


文屋 善明
8月12日 17:48 ·
メモ:第12章 現代ドイツにおける神学と政治(田上『キリスト教と政治』)
この章は、非常に重要な問題を凝縮された文章によって綴られているので、いずれかの文章を書き出して、その内容あるいは論点を整理することは非常に困難である。それで、ここに登場する、キイワードを拾いあげるだけにしておく。
カール・バルト、「総力戦」と教会、近代神学(シュライエルマッハー、リッチェル)への批判、『ロマ書講解』(1919)、講演「決断としての宗教改革」(1933)、「ドイツ・キリスト者」(ナチスへの協力)、「バルメン宣言」(ナチス・ドイツへの不服従、1934年)、『ナイン!』、「決断」、「ドイツ教会闘争」、ディートリヒ・ボンヘッファー、1938年、カール・シュミット、「キリスト論的集中」、雑誌『時の間』、フィリードリヒ・ゴーガルデン、ユルゲン・モルトマン、ヴォルフハルト・パンネンベルグ、ドロテー・ゼレ、『現在終末論と未来終末論』、「赤い神学者」、「解放の神学」
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Luke Etsuzou Nomahさん、Hanna Bunyaさん、望月 克仁さん、他9人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明 実は、ここにゴーカルデンの名前があることは、著者の見識を示している。と、私は思う。


文屋 善明
8月12日 17:49 ·
メモ:英国の宗教改革
<「属地主義の宗教改革」 とは、たまたま16世紀後半以降イングランドの地に生まれた人は誰しもがそこで支配的なプロテスタント教会ヘの所属を義務づけられる、とうことである。そして、そのことは改革運動の性格に、ひいては近代初期イングランドの政治構想に、大きな負荷をかけることとなった。というのも新たに生まれた国教会はここで、国家権力を背景にして人びとにプロテスタンテイズムの受容を迫っているからである。迫られた側の中には「自分の良心が権力によって圧迫された」と感じる人びとも出てこよう。しかもここでの問題は、国教会がプロテスタンテイズムに立脚していることによって深刻さを増す。つまりプ口テスタントとは「個人の良心の自由」を宗教の次元で最大限重んじようとする人びとだったからである。
それゆえ、英国国教会の当局者からすれば、己が良心に対する圧迫を人びとに感じさせることは団避したい。ひとたび事態がそうなれば、この人びとは国教会とそれ背後で支える国家権力とに反感を抱くことになるだろう。そしてそのことは、国教会制度をイングランド国民の精神的バツクボーンにしようとする、当局者たちのそもそもの趣旨に反してしまうのである。その結果、英国国教会は、というよりおよそ国教会制度というものは、教会員が信じるベき教理の規定をゆるやかにしておくことになる。否、ゆるやかにしておかざるを得ない。(中略)
もっともその一方で国教会は、多様性に富む人びとの宗教意識すベてを許容することはできない。英国国教会を特定のキリスト教会として成り立たせるものは、やはり必要である。それを何に求めるか。このとき、国教会の指導者たちが注目したのが、儀式である。外見的に確認できる所定の宗教儀式を尊重できるか否か、その儀式にかなった振る舞いができるか否か。そのハードルをクリアした人びとには国教会のメンバーシツプを、ということは「良き英国民」としてシテイズンシツプを認めるわけである。近代的な国民統合に寄与する宗教を、儀式を重んじるものとする。これは一見するところ、なかなか優れたアイディアだった。>(田上『キリスト教と政治』231頁)
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