ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 09/10

2014-09-12 08:06:55 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。午前中、『イスラエルとは何か』続読。宗教改革の時代、聖書が英語で読める様になった頃(1621)、英国で再臨運動が始まり、キリスト教によるユダヤ人の祖国復帰運動が始まる。練習1時間。なまず公園散策。「337拍子」を見て10時半に就寝。5時起床。体調・快調、チュン、チュン。

北村 良輔さん、川染 三郎さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他17人が「いいね!」と言っています。

藤木 冨士子 おはようございます。

文屋 善明 お早うございます。

町田 勝彦 おはようございます♪♪♪(^-^)/

萩野 秀子 おはようございます。チラシ配り、整形外科にいきます。良き日となりますように。お祈りします。

村田 多鶴子 おはようございます~♪守られて、終日、体調快調でありますように!m(__)m
posted at 05:08:35

文屋 善明
今日の名言:RT @wareomouyueni: どこかの森に迷い込んだ旅人たちは、あちらへ向かったり、こちらへ向かったりして迷い歩くべきではなく、いわんやまた一つの場所にとどまっているべきでもなく、つねに同じ方向に、できる限りまっすぐに歩むべきである。(デカルト)
<一言>それは森には境界線があることを知っている者の確信である。

竹本 耕造さん、播 稔さん、川染 三郎さん、他18人が「いいね!」と言っています。

清水 行雄 先生、おはようございます。逆に言えば、一人の人間が、一生に歩ける距離は限られているということでしょうか?()

文屋 善明 違います。「迷いの森」には輪郭があるということで、「真っすぐ歩けば必ず脱出できる」ということです。主体には限界がありませんが、問題には限界があるということです。

清水 行雄 そうですね。それが、正統なデカルト理解なんですね。^_^

文屋 善明 それはわかりません。それほどデカルトを読んでいるわけではありませんので。ただ、この言葉の意味はそういう意味だと理解しているだけです。

清水 行雄 先生、ちょっと考えを整理するため、コメントさせてください。「方法序説」の「序説」は、原語では、discours ですね。「方法の叙述」「方法談義」といってもいい。デカルトは、たぶんこの新しい著述方法で、自らの思考の道筋を述べることができるという確信があり、こういうスタイルで、自分の思考を顕したのでしょう。ただ、discours の持つ多義性に、あとから気づいて、当時まだ学問用語だったラテン語で、「省察」という題で、自らの思考を語りなおしたというのが、僕の思っていることです。残念ながら、「方法序説」も、「省察」も、丁寧に読み込んでいない僕の床屋談義を出ませんが、デカルトは、「主観性の哲学」の祖として重要なのではなく、discours というスタイルで哲学を語ったこと、子のことが画期的だったのだと思います。そしてその後のフランス哲学のスタイルを、決定づけたのかもしれません。

文屋 善明 きっとそうだと思います。デカルトが求めたものは信仰のある人信仰のないしとも、あるいは天才も凡才も、すべての人間が世界を把握する道を探し求めて、誰も疑うことができない出発点を求めたのだと理解しています。そして発見したのがコギトで、これを「啓示」に代わる世界理解の土台に据えた。さて、ここから議論をどう進めるのか、それが「方法序説」だと思いますが。

清水 行雄 cogito ergo sum という言葉は、デカルトの発明ではなく、それこそ中世に普通に言われていた言葉だと、どこかで聞いた覚えがあります。万人に共通する出発点を求めたという点は、同意しますが、『方法序説」は、そうしたマニフェストの書として読むのではなく、近代初期を生きた人間の思索の記録の書として、読むべきではないかと思っています。

文屋 善明 そうですか。私はこの本を読んでいませんので何とも言えません。

清水 行雄 僕も「方法序説」の野田又夫氏訳を斜め読みしただけなので、はっきりしたことは言えませんが。

文屋 善明 野田先生は松村克己と同級生で、1,2を競ったようです。二人共三高時代はフランス語専攻で、生涯の友でした。

清水 行雄 たぶんキリスト教圏に属していない者の勝手読みなので、先生の理解で間違いないと思います。
posted at 06:01:26

「昨日のツイート 09/08 九州の名月(中秋の名月)」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/4f296887df5226018d583ec586edafe…
posted at 06:38:26

文屋 善明
お目覚めの花。「老いたりとはいえ、まだまだ頑張っています」「若い花たちには負けません、とは口だけです」。
写真: お目覚めの花。「老いたりとはいえ、まだまだ頑張っています」「若い花たちには負けません、とは口だけです」。

小栗 龍男さん、竹本 耕造さん、大垣 收ピーターさん、他46人が「いいね!」と言っています。

こーる のりこ がんばっている、花の美しい色に(((o(*゜▽゜*)o)))!!

藤木 冨士子 まだまだ。

村田 多鶴子 藤木さんと同感です!!(^O^)/

文屋 善明 この「まだまだ」は藤木さん自身のことを言っているのだと思っています。私は「もう期限切れ」です。

村田 多鶴子 私たちの希望の星文屋先生、何を仰いますやら!?、まだまだです!! 
ちなみに、上にあるダリアの花言葉の中に「感謝」「溢れる喜び」というのがあるようですが、先生の日ごとの生活ぶりをFBで拝見して、「負けそう……、いや、とっくに負けている!」と、自分を激励?(笑)しています~♪(^^♪ そんな契機を与えてくださっている先生のFBには、いくら感謝しても感謝しきれない思いです~<m(__)m>

藤木 冨士子 文屋先生のことですよ~(⌒‐⌒)

塩澤 紀子 枯れかけて尚、背筋がピンと伸びていてすてき。花の盛りにうなだれてしまう花もあります。

文屋 善明
2014日々の聖句 09月10日(水)
恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。(イザヤ43:1)
あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ10:20)
私の黙想:
「あなたの名を呼ぶ」どころかその名前自体がヤハウェから与えられたものである(創世記32:29)。これがイスラエルの民の(伝説的)確信である。イスラエルの原意ははっきりしないが通常「神と共に励む」あるいは「神治める」と解されている。ソロモン後、南の「ユダ」と北の「イスラエル」とに分裂し、まもなくイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、イスラエルという国名は消滅した。ユダ王国もバビロニアに滅ぼされたが捕囚の期間を経て何とか残されたのがユダの人々で、その後彼らは「ユダヤ人」という名前で呼ばれるようになった。捕囚期前後の預言者たちはこの「イスラエル」という名前の復権を試み、あなたたちの原点は神から「イスラエル」と呼ばれたということを強調した。従ってこの「イスラエル」という名前は政治的、人種的意味合いではなく神との関係における特別な意味が込められるようになった。今日の聖句には預言者イザヤ(第2イザヤ)の思いが込められている。あなたたちは「イスラエル」ではないか。

竹本 耕造さん、川染 三郎さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他27人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明
<ドイツ便り5>憧れのアレアンツ・アレーナを訪れ、ピッチを見たり、練習風景を見学したり、FCバイエルンの入場門を見たりで、困難に早く希望が叶えられなって、とても興奮している模様のサッカーファンです。まだ新学期の授業が始まらないというのに。 (写真5枚)
文屋 善明さんの写真

北村 良輔さん、竹本 耕造さん、森内 幸春さん、他31人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 学ぶこと以外にも楽しみがあって、留学生活の彩りが豊かにされますね~(^^♪

文屋 善明 本当に勉強する気がああるのか、どうか、心配です。

村田 多鶴子 今の若い学生は、私たち世代とは違って、複数のことを同時進行的にこなしていくことに長けているようです~♪ 
ご心配は、要らないのでは?(^_-)-☆

文屋 善明さんがリンクをシェアしました。
孫のドイツ報告を見て、昔、私がドイツを旅行した時の印象記を思い起こし、手書きの文章を記録のためにデジタル化しブログにアップしました。
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ttp://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/f825a8873fd3c377e5aaf087eb2f6468

ツアー・コンダクターとしての私的報告「西ドイツの印象」 - ぶんやさんち
blog.goo.ne.jp
ヨーロッパ「労使関係視察旅行」 主催:日本クリスチャン・アカデミー 1978年9月9日~9月27日

北村 良輔さん、松下 光雄さん、渡邊 宣博さん、他17人が「いいね!」と言っています。

門叶 国泰 「森は絶対に森である」、初めてドイツに行った時の「空からの印象」を改めて思いだしました。「ゲルマン」のすべてですね。

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