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断想:降臨節第4主日の旧約聖書

2016-12-16 08:20:20 | 説教
断想:降臨節第4主日の旧約聖書
インマヌエル  イザヤ 7:10~17

<テキスト>
10 主は更にアハズに向かって言われた。
11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
14 それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。
15 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。
16 その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。
17 主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」


1. はじめに「処女降誕」について
イエスの誕生ということを考える際に、どうしても避けられない問題として「乙女マリアからの誕生」、つまり「処女降誕」という伝承がある。多くの場合、これがキリスト教信仰への躓きとなっている。
本日のイザヤの預言はいわゆる「処女降誕」の預言として有名である。ここで言われている「おとめ」(14節)いう表現が処女を意味するのか、そうではないのかということについては、古来よりいろいろな解釈があり、正しい答えはない、というのが最も正しい答えであろう。あの有名なマルチン・ルターは、「処女降誕」を立証するために、この言葉が「結婚している女性」を意味しているという聖書的根拠を発見した者に100グルデンを与えると懸賞金を出したという噂があるほどである。もっとも、この100グルデンという金額がどれほどの値打ちがあるか分からないし、その結果について何の報告もないので、嘘か本当か不明である。ともかく、このイザヤ書7章14節の「おとめ」という言葉については確定したことは何も言えない。
イエスの処女降誕についてはルカは一言も触れていない。福音書ではマタイだけが述べているだけである(マタイ1:18~25)。そしてご丁寧にこの話は「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」(マタイ1:27)であるとして、イザヤ書のこの個所を引用している。ややこしい議論をすっ飛ばして言うなら、イエスの処女降誕についてはこの預言の言葉がほとんど唯一の根拠として形成された伝説である。
神学的に考えると、イエスの処女降誕物語は「原罪論」の成立と発展に関わっている。パウロは、「一人の人によって罪が世に入った」(ロマ5:12)という。アダムの子孫であるすべての人間は、男も女もユダヤ人もギリシャ人も、原罪を背負って生まれてきた。とすると、イエスも罪人なのか、という単純ではあるが強力な疑問にぶち当たる。その議論の当然の帰結としてイエスは通常の男女関係によって生まれたのではないという「(信仰的な)理屈」が求められる。それが1世紀末頃成立したと考えられる処女降誕物語に他ならない。
しかし、この議論には大きな落とし穴がある。もしイエスがヨハネとは肉体関係がないとしたら、ダビデの子孫であるというさらに強力な信仰的疑問と衝突する。マタイが冒頭で掲げているイエスの系図、これはイエスがダビデの子孫であることを証明するための系図であるが、最も肝心の部分で、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ1:16)と、最後のどんでん返しがある。そして、その部分を補うようにイエスの処女降誕の物語が続く。イエスはマリアの子ではあるがヨセフの実子ではない、ということになる。いずれにせよ、処女降誕信仰の聖書的根拠は薄弱だということである。
私自身は、宗教という営みには、処女降誕神話(伝説)を信じる人がいてもいいし、それを信じない人がいてもいいと思っている。なぜなら、そこに信仰の根拠がある訳ではないからである。もしそれを信じなければキリスト教信仰は成り立たないという人がいるとしたら、1世紀の信徒たちの信仰はどうなるのだろうか。

2.「おとめが身ごもって男の子を産む」
このイザヤ書からの引用(イザヤ7:14)については、この「おとめ」がただ普通に若い女性を意味しているのか、それとも処女を意味しているのかという点について議論がある。通常は、旧約聖書のヘブライ語原文(マッソラ本文)では「若い女性」であるが、それを70人訳では処女を意味する「parthenos」が用いられており、マタイは70人訳の方を引用しているのだと説明されている。何故かというとマタイは明らかに処女という意味で引用しているのだから、この議論はそれでは済まされない。その意味では旧約聖書の引用とは別な議論である。
処女降誕議論とは別に、むしろその後半の部分「その名はインマヌエルと呼ばれる」ということの方がより重要だと思う。何故なら産まれた子は「インマヌエル」と呼ばれたことは一度もなく、むしろ天使の指示によって「イエス」と名付けられたからである(マタイ1:25)。この点についてはイザヤ書の方で考える。

2. 国際情勢
さて、今日は新約聖書の時代の人の信仰は一応カッコの中に入れておいて、イザヤ書のテキストそのものが語ろうとしているメッセージを考える。
イザヤ書7章はユダの王ウジヤの孫のアハズ王の時代のことだという(1節)。ウジア王が亡くなったのは前740年だと思われる。ウジア王の晩年は病気のため前759年以後は息子のヨタムが摂政の地位にあったが、ヨタムも早死にし、孫のアハズが前744年から摂政の座にあったが前736年ウジア王の逝去により、アハズ王が即位した。イザヤが預言活動を始めたのがウジア王の死の時であり、その意味ではイザヤが預言者になったのとアハズが即位したのとはほとんど同じ時であった。さて問題は、その頃ユダ王国とイスラエル王国とを巻き込む大きな国際紛争が起こっていた。メソポタミア北方の強大なアッシリア王国が進出し、弱小国に圧力を掛けていた。
1節~2節の「アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかしアラムがエフライムと同盟したという知らせがダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も森の木々が風に揺れ動くように動揺した」という言葉はそのような国際情勢を述べている。簡単に説明すると、アラム国とイスラエル国とが同盟を結んでユダ国に同盟への参加を要請したが、ユダ国はそれを拒否した。そこで同盟側も黙っていないで、エフライムという場所に軍事力を結集したというニュースが流れるとユダの王も国民も動揺したということである。これがシリア・エフライム戦争である。
その時、ヤハウェはイザヤに告知があった。恐らく、これがイザヤの最初の預言活動であったと思われる。主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない」(3~4節)。要するに、今すぐアハブ王に会って、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」と言えということであった。これも随分ややこしい言い方ではあるが、要するに、同盟軍には勝ち目はないのだから、何もすることはない。ただ、ヤハウェを信じなさい。信じなければユダ国にも未来はない。今日のテキストはそれに続く部分である。

3.本日のテキスト
10節の言葉はややこしい。ヤハウェが直接アハズ王に述べているように見える。しかもその内容(11節)は、要するに、このヤハウェの言葉が本当かどうか試してご覧ということである。それに対する、アハズ王の答えが、実に信仰的である。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」(12節)。なんと信仰的な言葉であろう。感心する。しかし人間の言葉を信じてはいけない。これはアハブ王の口先だけの返答で、彼はイザヤの言葉を半分だけしが聞いていない。つまり同盟軍は敗れるだろうということ。それでアハズ王は心の中でアッシリアの助けを求めようとしたのである。イザヤはアハズ王の魂胆を見破っている。13節以下の言葉はイザヤの語る言葉である。
「ダビデの家よ、聞け」。直接的にはアハズ王に語っているが、これはアハズ王個人ではなく、ダビデ以来の伝統を担っている、ユダ国、いやユダ国だけではなく、イスラエル国も含む全イスラエルへの預言の言葉である。「あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」。これは凄い言葉、もう「啖呵」である。ヤクザなら「俺を誤魔化すのはいい。だが、俺の親分を誤魔化すとはいい度胸しとるな」とでも訳すべきか。そして次の言葉が発せられるのである。これこそ教会ではクリスマスのメッセージとして尊重されてきた言葉である。「わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。有名な言葉である。マタイはこの言葉をイエスの処女降誕の根拠とした。ここで重要なのは「おとめが身ごもって男の子を産む」ということではなく、「インマヌエルという名の子供を産む」ということであろう。ここでいうヤハウェのしるしとは「インマヌエル」と呼ばれる人が現れるということに他ならない。一口でいって、インマヌエルとは「神われらと共に」ということで、神と人とが一体になった人ということを意味する。
そしてこの子について、こう言われている。「災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる」(15~16節)。この謎のような言葉、前半の部分(15節)を口語訳は次のように訳している。「その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる」。要するに、その男の子が善と悪とを区別出来る年頃には、「凝乳と、蜂蜜とを食べる」。これらの食物は貴重品で、平和な状況でなければ口にできない食品である。善悪の区別ができる頃、とは何歳の頃であろう、早く見て10歳前後、遅くとも15歳頃であろうか。その頃には平和になっている。さらに言う。「その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる」(16節)。要するに、その頃にはあの「二人の王」
の領土は失われる。つまりアッシリアによって滅ぼされるだろう。ここでインマヌエルと呼ばれる男の子が何かをする訳でも無いしたした訳でもない。その男の子は年数を数える目安として述べられているのである。つまり、神が共に住むという現実がそこにあれば、ユダの国は亡びない。預言者イザヤはアハブ王にそのことを告げているのである。そのこと以上でもそのこと以下でもない。同盟に参加しないで、しかもアッシリアの保護にも依存しなければ、ユダの国は安泰だという預言である。そして事実、イスラエルの首都サマリアは前722年に征服された。それはアハズ王が即位してわずか16年目の出来事であった。

4.降臨節第4主日
このテキストが降臨節第4主日の旧約聖書日課として選ばれたのは、単純に言ってこれが処女降誕のテキストだからと思うが、そう思っている人はそれでもいいが、私はむしろ「インマヌエル」のテキストとして受け止めたいと思う。
旧約聖書において「インマヌエル」という言葉は次の3個所だけである(新共同訳)。ここの他イザヤ8:8と8:10。口語訳では8:10は「神がわれらと共におられるからだ」というように普通に訳されている。これを新共同訳ではカッコに入れている。8:8も固有名詞として解するのには無理がある。要するに「インマヌエル」という言葉はイザヤ7:14だけだと思ってもいい。新約聖書の方ではマタイのこの個所の引用の個所だけである。つまり、旧新約聖書全体を通して「インマヌエル」という言葉が固有名詞のように使われているのは、ここだけだと考えてもいい。そうなると、逆にイザヤ書のここも果たして固有名詞なのだろうかと、考えてしまう。関根清三さんはこれを「戦争の危機を脱して男の子を産んだことの喜びと感謝とを象徴する名前」だという。つまり具体的に誰かというように特定できルような名前ではなく、「神が共におられる」という状況の誕生だと解釈するのが最も妥当なのではないだろうか。そうすると、これはまさに降臨節第4主日のテキストとなる。今か今かとその誕生を待ち受けている幼子の誕生とは「神が共におられる」という現実の実現である。つまり、誕生した幼子に「インマヌエル」という名前を付けるか付けないかの問題ではなく、「神が共におられる」という現実が生まれたのである。

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