ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

宗教評論家ひろさちや氏の言葉

2009-08-08 19:11:46 | 雑文
昨日の朝日新聞の企画・制作「朝日新聞社広告局」による広告特集で1頁前面を用いて仏教書の広告がなされていた。前にも一度同じような企画の広告を見たことがあるが、その頁のほぼ中央を右から左まで胴切りにした「随筆」が掲載されている。これを書いているのが「宗教評論家ひろさちや氏」である。彼のことは前にもこのブログで取り上げたことがある(2008.9.17)。彼は昭和11年に大阪で生まれ、府立北野高校を経て東大文学部を卒業し、同大学院でインド哲学を専攻し、博士課程を修了している。
彼が出版した著書は、専門的な宗教書から阪神タイガースの論評まで、幅広く約560編もあるとされる。特に難解な仏教思想を生活に密着した視点から分かり易く説くので一般の人々には非常に受けがいいが、仏教の専門家からはあまり高く評価されていないようである。彼にはそんなことは全く頓着しないようで、その意味だけでも覚者の資格は十分であろう。わたし自身は仏教のこと、特に仏典についての知識は皆無に等しいので、彼の仏教理解について、とやかく論評など出来ないが、ただ、いろいろな仏典の中からその真髄になる言葉を「切り出す」その切り出し方かうまいのであろう。宗教の真理というのはそこに到達するプロセスは難しいが、到達してしまうと非常に単純なものである。
今回の文章も非常に分かり易く、彼の説く仏教ならば、用語さえ言い換えればキリスト教徒にとっても通じる。ただ、残念ながらこれを的確に言い換える用語がキリスト教にはないが・・・・。
今回の文章では「分別智」と「無分別智」という仏教用語を用いて、現代人は分別智ばかりを身に付け、それを唯一の評価の基準にしているので、生きることが苦しく、悩みがつきないのであるとかたり、次のように言う。「そうした世間の分別智に対してアンチを唱えているのが仏教です。何も区別しないですべて「ああ、いいな」とする知恵、あるがままの存在そのものがすばらしいのだとする無分別智を身につければ、もっとずっと楽に生きられるはずです。先々の不安なんか考えても仕方がない、それより今の人生を大事に生きようと。人間は、今の自分をそのままに生きるしかないのですから」と語りかけている。
実は、この文章は編集者の手が加わっており、オリジナルでは「アンチを唱えているのが仏教です」の後に、「じつはキリスト教でも『幸いなるかな貧しき者』といって、同じことを諭している。究極、人は皆そこを求めているんですよ」という文章がある。この文章の中でマタイによる福音書5章のいわゆる「山上の垂訓」の冒頭の言葉に触れているのは興味深い。イエスの生き方をこの一言に凝縮させている。


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