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「エドガー・スノウが見た日本」(下)

2016-07-07 06:47:54 | 雑文
「エドガー・スノウが見た日本」(下)

ここで、著者は「近代化から始めて満州進出にいたる日本の歴史」を国際的な視点(特にアメリカのジャーナリストとしての視点から、詳論する。全体は、以下の4章に分けて論じられている。
第1章 日本の近代化
第2章 明治政府の成立
第3章 日本帝国の海外進出
第4章 朝鮮併合から満州への進出
非常に重要な部分なので、全文を2回に分けてブログに投稿する。 なお、これらのサブタイトルは分野によって付加された。

第3章 日本帝国の海外進出
1890年代になると日本精神は領土拡大への国民的興奮をつくり出した。日本人は一気に呑み込んだ栄養物を消化し、身につけて、その小さな国土を狭苦しく感じ出していた。 新秩序を支配し、文民側からわずかの抵抗を受けるにすぎなかった軍部は、1894年に中国と戦争する必要を公然と口にするようになった。彼らは日本の隣国であり、大陸への前進基地となるはずの朝鮮をめぐって、清国の宗主権に挑戦した。
日清戦争(1894.6~1895.6)に勝った日本は、衰退する満州王朝のもとで軍事的に弱体化していた中国に対して、きわめて重要な意味をもつ領士割譲を要求した。下関条約によって中国は台湾と膨湖島を日本に引き渡した。また南満州にある遼東半島の1万平方マイル余りの地域を日本へ割譲する羽目になった。その上の端に現在の大連市がある。
しかし日本が満州に足がかりをきずくことはそう容易ではなかった。日本が突如として軍事能力を示したことに驚き心配した西欧列強は、それを彼らの中国分割の野望に対する重大な脅威とみてとった。もっとも関心をもったのは北の方でアムール川とウスリー川を境に満州と隣接するシベリアをもつロシアだった。ロシアはさらに南進する計画に乗り出していた。遼東半島における日本の存在は、太平洋沿岸のアジアを支配しようとするロシアの野望にとって、これからずっと障害になるおそれがあった。
鉄道建設を財政援助することによってツアー帝国の前進を大いに支持していたフランスとともに、ロシアは遼東半島の還付を「なごやかな友好精神にもとづいて」日本に「勧告」した。ドイツもよびかけられてこの勧告に加わった。ドイツは日本の勃興によって、華北の自国椎益が侵されたと思っていた。三国の艦隊が日本水域に集結しはじめた。(註:著者は革命以前のロシアを「ツアー帝国」とよぶ)
日本の食欲はきわめて旺盛になった。のちに陽気な大隈伯が「日本人は白色人種に劣るものではなく、まったく同等だ。白色人種こそ運命に逆らうものであり、彼らの上に災いあれだ」とまくしたてたが、当時の日本国民は皆そう思っていた。しかし天皇としては選択の道がなかった。彼はこのように強大な国々を相手に戦うことはできなかったので~、「友好国の勧告」 をのんだ~。遼東半島は返還され、その代わりに賠償金を受けとった。日本軍は10年以内に必ずもどってくると誓って満州から引きあげた。
この挫折のあと、日本はとくに警戒心を強めた。闘争は日本が想像した以上に困難なものだった。中国と戦うだけではなくヨーロッパ諸国とアメリカを相手に戦わねばならなかった。イギリスの阿片商人が北京の皇帝に、インドからの阿片輸入を認めさせるために引きおこした1840年代の阿片戦争以来、ヨーロッパの列強も中国の主権を着々と侵害していたのだった。
イギリス人はずっと前にビルマと中国の属領だったシャン州を奪った。また香港を手にしたのちに上海、漢口、厦門(アモイ)、威海衛、牛荘に租借地をもち、内陸全体に通商権を得ていた。さらに中国の沿岸貿易をおさえ、揚子江流城の取引きでも今日にいたるまで優勢を占めている。
フランスはかつて北京への朝貢国であり、現在は仏頒インドシナの一部となっているトンキンと、安南を奪った。またフランスは中国の沿岸と河川流城の諸都市で租惜地を強引に手に入れて、イギリスと覇を争った。ドィツは天津と青島およびのちにドイツの「勢力圏」となった山東省の一部を獲得した。ドイツもまたフランスやイギリスと同じように砲口をつきつけて租借地を得たのである。オーストリア、イタリア、ベルギー、ボルトガルがこれにつづいた。戦争をしかけたり、租惜地をとることに反対だったアメリカも、間もなくイギリスのあとにつづいた。彼らは「最恵国約款」にもとづいて、同じ貿易権を手にした。アメリカの国民は眠れる竜を経済上や貿易上でしぼりとるゲームに大乗り気で参加した。
この情勢をみて日本の天皇は、満州と中国に対する野望を達成するためには、これら列強間に存在する対立感情を利用するにかぎると考えた。まず同盟を結ぶ相手として天皇はイギリスを選んだ。イギリスは英領インドで「人間のように歩く熊」といわれたロシア帝国主義の膨張に面して、不安げに北方をにらんでいた。彼らはまたロシアを満州と華北でイギリスの利益を脅かすものとみた。そこでイギリスは、万一ロシアと戦うことになった場合、ロシアの北の側面に対して大きな脅威となりうる極東の新強国との同盟を歓迎した。
それは大西洋と太平洋の両君王国を結びつけた鮮かな、力強い外交だった。日英同盟は1902年に調印された。それは調印国のどちらかが戦争に巻きこまれた場合、他の国は第三国が敵側につかぬかぎり中立を守ると決められていた。第三国が敵に加わった場合は、日本とイギリスは同盟軍として戦うことになっていた。
日本の軍部は今やいっそうの安全感をもつにいたった。イギリスの後ろだてがあるかぎり、フランスがそうする恐れがあったが、ロシアを助けようという国はあるまい。軍部は中国人が「倭人」とよんだ人間を使って、ツアーの巨大な軍事機構を打ちまかす陸軍をつくりあげる作業にとりかかった。ツァーの軍隊は地上戦闘では敵するものなしと思われたのだった。
ロシアは尊大な態度で満州への侵入をつづけていた。ロシアはまず北満州を横切る鉄道(東支鉄道)の敷設権を中国から獲得した。それは西部国境の町の満州里から900マィル以上南下してハルビンを通り、ポグラニチャナでウスリ-・シベリア鉄道と連絡していた。これが完成されることによって、太平洋のウラジオストックからアジアを通ってべ ルリン、パリにいたる鉄道がはじめて実現した。
日本がさらに中国を侵略した場合には、ロシアが援助するという密約のお返しとして、中国皇帝はさらにロシアに数多くの特権をあたえた。その中には重要な鉱山や森林資源の開発権、ロシアの施政権下にある居留地などが含まれていた。
最後に中国はロシアに対し、ハルピンから南へさがり、満州の首都奉天を通って大連の近くにある旅順にいたる592マイルの鉄道敷設をしぶしぶ認めた。ロシァはついに日本に返還を強制した遼東半島を手に入れ、満州の経済活動を支配するにいたった。また戦略地点に軍事力を確立し、旅順口を難攻不落とみられる要塞と化した。
10年が過ぎた。日本は正当な戦利品だと思っていた遼東半島をロシアに横取りされた恨みを忘れなかった。1904年に日本は報復の準備をととのえた。宣戦の布告もなく日本は朝鮮から突如進撃を開始した。朝鮮の自治権は日本がくり返し世界に誓約していたものだった。
満州が戦場となった。フン族とタタール族が何世紀にわたって戦った平原で、日本軍は必死になってロシアを打ち負かそうと戦った。中立国の庭先を異常な戦争の場に使うことを、両国とも何ら意に介しないようだった。双方によって主権をみとめられていた中国はもちろん抗議した。だが近代戦闘の技術を学んでいなかった中国はそれ以上強い態度に出る実力をもたなかった。
1年半の間に日本はこの戦争に20億円(20万ポンド)を費やし、12万の人命を失った。経済は破産状態に陥り、資源は枯渇し、人力も使い切っていた。ロシアは何度かばかげた敗北をくり返したあとで、やっと北満州で長期戦の構えをたてた。
しかしモスクワでの革命に手を焼いていたツァーは和平を欲した。日本が交渉に応じるといったとき、ツァーはただちにそれにのってきた。交渉の場で日本代表はツァーの代表よりもはるかにうまく立ち回った。日本は行結り状態といったものを勝利に変え、資本主義列強の間に確固たる地位を占めるにいたった。
故セオドア・ルーズべルトの調停によるボーツマス条約(1905.9.5)で、日本はロシアが中国との条約で獲得した旅順口および鉄道その他南満州にあるすベての権益、租借地を手に入れた。日本は黄海から大陸の心臓部を通って長春にいたる442マイルの南満州鉄道を譲り受けた。そのうえ中国から安東、奉天間の鉄道施設権をえた。これは満州の首都と朝鮮をつなぐものである。
だが北方ではロシアが依然として、脅威的存在だった。日本の勝利はアジアの指導権争いの中で、もっとも危険な敵を取り除くのにまだ十分でなかった。日本は南満州で行政権を確立するにいたっていなかった。南滞州鉄道の沿線と関東州租借地の外は中国の支配下にあった。しかも日本はこれらの権益を、いかなる場合も中国の主権を侵害するようなこと、あるいは「門戸開放」の名で知られる機会均等の原則に反することに使わないと、条約によって厳粛に誓約しなければならなかった。

第4章 朝鮮併合から満州への進出
次ぎの10年間に日本は戦争の衝撃から徐々に立ち直ったが、その間に軍国主義の悲劇は次第に明白な形をとってあらわれた。日本は列強にくらべあまりにも遅れて出発発していた。植民地征服をなしとげた列強は、今度は弱者に対してもっと寛大な態度をとるつもりになっていた。彼らは中国をお互いの競争相手から「救出」して、新しい経済帝国主義のために温存しようとした。満州を獲得するために2つの戦争(日清、日露)をした日本は、当分の間、足がかりを得ただけで満足しなければならなかった。
しかし軍部はさらに将来の侵略計画を練っていた。彼らはまず朝鮮の自治権を守るというすべての約束を破る道を考えた。領土拡張論者の企てを熱心に支特した三浦子爵(韓国駐在特命大使、三浦梧楼)は大胆な一歩を踏み出し、意志強固な朝鮮の女王(閔妃ビンヒ)の暗殺計画を組織して、そのあと釜として日本に従順な男子を王座につけた。朝鮮併合を決意した日本は、世界の前にそれを正当化する口実を必要とした。伊藤博文公の暗殺によってその口実ができたとき、軍部はすかさず行勧に移った。
日本は朝鮮王を退位させ、その臣下のうちの反抗分子を「除去」し、1910年に朝鮮を日本帝国の領土の一部に合併した。西欧諸国は一言も抗議しなかった。日本とイギリスは依然として同盟国であり、フランスとドイツはその他の地域に関心を奪われていた。アメリカはどの国でも朝鮮を不当に扱うようなことがあれば、外交介入すると条約で誓約していたにもかかわらず、まっ先に植民地としての朝鮮の地位を承認した。ワシントンは日本が中国大陸の北部に進出していることで、ロシアのロシアに対する有効な抑止力になると考えていた。当時、自由貿易に対する「門戸開放」の神聖さを危くするものとして、アメリカがもっとも心配していた相手はロシアだった。
こうした状態に勇気づけられた日本は、さらに西方の満州とモンゴルに目を向け、またロシア領のシベリアに触手を伸ばした。1915年に日本が世界大戦に参加した結果、日本政府は陸軍参謀本部に牛耳られる政府となった。だが当時の首相大隈伯はドイツに宜戦するにあたって、日本は「なんらの領士的野心をもたず、また中国その他諸国の財産を奪うつもリは全くない」と声明した。2、3ヶ月後に日本は中国駐留のドイツ軍を攻撃し、青島を占領し、ドイツが山東に敷設した鉄道を奪い取った。その直接、ヨーロッパ諸国が大戦にかかりきっている隙に、上記の声明を出したその大隅伯が、かの有名な「21カ条要求」を中国につきつけた。この文書は中国からなんらの抵抗もないことを知って、情け容赦なく好機を利用したもので(中国は外国の助けがなければ全く抵抗できず、しかも当時はその助けがくるあてはなかった)、近代の外交文書の中でもっとも非情で人をばかにしたものだった。
1915年に提出された「21カ条要求」の原文は5っの群に分かれている。第1群は山東省にあるドイツの全権益を日本に譲渡し、この省に日本が新港湾を開き、新鉄道を敷設することに中国が同意するよう要求した。他の諸国はこの地城の開発からしめ出されることになっていた。第2群は満州および内モンゴル東部を日本の保護領とすることであって、鉄道の支配権と経済開発の独占的特権をもつことを要求した。第3群で揚子江流域の鉱山と鉄鋼工場の独占を要求した。 第4群は中国がその港湾と島を、日本以外の他国に譲与または貸与しないことに同意せよとの要求から成っていた。
もっともきびしいのは第5群で、そこでは中国政府が政治、財政、軍事顧間に日本人を用いるよう要求した。つまり都市の警察は日中合同管理とし、中国は輸入兵器の少なくとも50%を日本から買い入れ、日本に揚子江流城の戦略的な鉄道の敷設権をみとめ、日本がその思想(おそらく神道だろう)を中国全域に宣教する権利をもつというものだった。
これらのささやかな要求を認めないならば戦争だというのである。大隈伯はこの脅迫を裏づけるため、最後通牒を送った。何回かの交渉があって、第5群の要求のうち一部はかなり緩和され、他は取り消された。中国の袁世凱「大統領」は、外務大臣に命じて条件つきでこれをのむように命じたが、当時の中国議会は「条約」の批准を拒否した。したがってそれは法的には効力をもつことはなかったのである。だが大限伯や日本の軍部はそんなことは意に介しなかった。 彼らは袁世凱の署名をとったのであり、それで十分だとした。
21カ条要求に端を発した、この途方もない「1915年条約」によって獲得したという権利にもとづいて、日本は満州における今日の行動と立場を弁護している。1916年に袁世凱が死んで以来、中国ではどの政府もこの条約を承認しなかった。日本軍が首都を占領し、暴力によって中国の自主独立を完全に奪わないかぎり、 将来もそれを承認する政府はないだろう。
ヨーロッパ大戦が終わりに近づくにしたがって、「21カ条要求」の外見上うまくいった成功に満足した日本の参謀本部は、またもや膨張計画にとりかかった。チェコスロパキァ軍の復員を援助し、ロシアに運び込まれた連合軍の軍需品を保護するという名目で、日本はシベリアと満州に出兵した。
日本は1万2千人以上の兵力は決して送らないと中国および西欧諸国にはっきりと約束したにもかかわらず7万2千人を派兵した。あとで分かったことだが、日本は軍事介入の目的を達成するためには、もっと多くの部隊を迭るつもりだった。ウイリァム・S・グレーブス将軍のきわめて公平な著書『シべリアにおけるアメリカの冒険』が指摘しているように、その目的は日本に従属する政府をシベリアに樹立することだった。その政府は名義上は独立だが、事実上日本軍部の傀儡になるはずだった。
ここでもふたたび日本の意図は、列強の共同行動によって阻まれた。日本はシベリアに進出するにあたって、世界大戦の連合国と「協力」するという失敗をおかした。ついに見せかけの介入理由がまったくなくなると、連合軍は撤兵し、同時に日本軍の撤兵を要求してきた。騙されたことに気付いたアメリカは、かなり露骨に報復の意をほのめかしながら撤兵要求の先頭に立った。完全な戦時編制の陸海軍を擁してずらりと並んだ列強を無視することができず、また大戦の結果アジアでかちえたと思っている国際的承認を失うことを恐れた日本は、ボルシェヴイキに対する軍事行動の停止をよぎなくされた。避けられぬ連命の前に屈した日本は、侵略の新しい10年を開始するために、1922年に軍隊を引きあげた。

過去10年問にアジアではいろいろな事件が起こった。日本の好戦的な国民性はますますひどくなり、その世界に対する負い目も重くなった。 朝鮮合併、山東省の獲得、21カ条要求、シべリア出兵その他さまざまの軍部による実力行使がつもりつもって、日本は不信の眼でみられるようになっていた。だが伊藤公の後継者で、自由主義者思想をもっていた幣原外相の慎重な政治的手腕によって、アジアにおける日本の動機から、国際的疑念と警戒の念を取りのぞくことができた。
日本人が次第に国際外交に対する感覚を身につけたことと、友好と改善の行為を積み重ねたおかげで、失われた信頼を回復するようになった。日本は中国への内政不干渉をうたった9カ国条約に調印した。また国際連盟に加入することによって、戦力に訴えないことを誓った。
1922年に開かれたワシントン会議の結果、日本は山東省を中国に返還するにいたった。1915年条約のうち論議の的になった条項を放棄することに同意した。もっとも中国代表はその全条項を否認していたのである。世界平和のためとして、日本はイギリスとの同盟を施棄した上に、ケロッグ・ブリアン不戦条約に調印した。日本も他国に戦争をしかける国を国際的無法者とみなすことに賛成したのである。
しかしワシントン軍縮会騰で日本は一つの大きな外交的勝利をかちとった。懐柔的手段を使って、日本がアジアの平和に主として責任をもつことを列強にみとめさせた。「10対6の海軍比率」その他の海軍力制限の中で、日本ははじめて、太平洋の支配者となった。今はどの列強も一国だけでは日本に挑戦できなかった。このことはイギリスとの同盟にまさるものだった。確かに戦争は不法とされた。初めのうち主戦論者たちは、折角かちえたものが、日本の手から奪い去られて行くように感じていた。だが国民を実際に指導していた陸軍参謀本部は彼らの地位の有利をはっきりと認識していた。その背後に軍国主義者たちは500万の既教育兵(うち22万は常備軍)の支持を集め、大部分の「平和条約」を締結した責任をもつ民政党内閣をくつがえずことに成功した。より軍国主義的な政友会の総裁で、軍部の代弁者だった田中「鉄血」男爵が、日本の政治を支配するにいたった。彼はただちに中国に対して「強硬策」をとる意思を表明し、その後の行動でそれを示した。まず彼が最初にやったことは「日本人の生命と財産を守る」ため山東省ヘ占領部隊を送ることだった。だが大きな冒険をやるにはまだ時機が熟していなかった。数カ月後にその部隊は引きあげた。

最近数年間に日本でおこった最も重要な傾向のひとつは、反米感情がよみがえり、強くなったことである。元陸軍参謀総長の佐藤清勝中将はつぎのように述ベている。「われわれは優柔不断であり、無力なるが故に(合衆国)の悔辱と悪罵に耐えてきた日本政府を憎悪する。しかしそれにも増して遥かに合衆国政府を憎悪しなければならない。われわれは日本民族に対してあらゆる犯罪と暴力を揮った合衆国国民を憎悪し、軽蔑せざるをえない」。日本の一般大衆は日本に対しておかされた犯罪の長い目録の責任は、すベてアメリカにあると思っている。日本国民がそう思いこんでいることのうち、いくつかは耳を傾ける価値がある。もともと中国人に共和国樹立の思想を吹きこんで、満州王朝を日本に従属させる企図を阻んだのはアメリカだった。東洋人の移民を締め出したのもアメリカだった。門戸開放政策に反するとして「21ヵ条要求」にもとづく条約を承認せず、また中国にそれを無視するようそそのかしたのもアメリカだった。日本がシベリアから撤兵するよう仕向けたのもアメリカだった。ワシントン会議で日本が山東省を放棄するよう圧力をかけたのもアメリカだった。またいろいろな場合に、列強の植民地として中国分割を妨害したのもアメリカだった。
国民大衆の怒りは田中首相の時に、天皇に上奏されたと思われる一通の注目すべき文書に、その不吉なはけ口を見いだした。これは「田中覚書」とよばれた。この文書は1927年6月、日本の文武高官を集めて開かれた、将来のアジア政策についての会譲ののちに作成されたもようである。
この会議はうわべは他の政策を審議する形をとっていた。会議は秘密のうちに開かれ、その「覚書(メモランダム)」も発表されなかった。日本外務省の一政務官がその写しを盗み出したといわれ、その翻訳が諸外国の大使館の手に、やがて外国の新聞の手にわたった。
この文書によると、モンゴルと満州の利点は、日本の3倍の広さをもつ国士、日本の3分の1の人口しかないという人口の稀薄さだけではなく、他の土地にくらべて、より大きな鉱業、農業、林業の未開発資源を擁していることにある。覚書はつづけて述べている。「わが国の永遠の繁栄のためにこれらの資源を利用すべく、われわれは南満州鉄道を建設した。日中両国双方の利用をもたらす計画のもとに鉄道、海運、鉱業、林業、鉄鋼業、農業、牧畜に投下された総資本は4億4千万円に上っている。これはまさに一個の事業として最大の投資であり、わが国の防波堤となるものである。これらの事業は半官半民の形態をとっているが、実際は政府が完全に実権をにぎっている。南満州鉄道は朝鮮総督と同じく特別の権限、外交、警察その他日常の行政機能を行い、それによってわが帝国の政策を実行に移す立場にある。この事実だけでもわれわれが満州と蒙古にもっている利益の大きさを示すに十分である。したがって明治時代以来、歴代政府のこの国に対する政策は、明治天皇の御指示にもとづくものであり、新しい大陸国家を建設してその発展に努め、さらに末来永遠にわたってわが国の繁栄と栄光を増進しょうとするものである」。
覚書は約5千語からなり、ここにその全文を引用するにはあまりに膨大である。だがそのうちのしかるべき数章だけでも、今日の日本の軍部と軍人たちが持っている考えをはっきり示している。
「東3省は政治的にいってわが国と他の諸国を防衛する未完成な地点である。日本が断固たる政策をとらないかぎり、東アジアに横たわる諸困難を除去することはできない。その攻策の逐行にあたって、われわれは毒を制するに毒を以てする中国の方針にのせられ、わが国と対立しているアメリカに直面しなければならない。将来わが国が中国を支配しようとするならば、ちょうど過去に日露戦争を遂行する必要があったように、まずアメリカをつぶさなければならない。だが中国を征服するためにはまず満州と蒙古を獲得する必要がある。わが国がその他のアジア諸国を征服した暁には、南方の国々は恐れをなして屈服するであろう。そうなれば東アジアはわが国のものであることを世界がみとめ、われわれの権益をあえて侵害しようとはしなくなるだろう。これが明治天皇がわれわれに残された方策であり、わが国の存続は一にこの方策の成否にかかっている」。
この文書は満州とモンゴルに対する経済的、軍事的侵略のきわめてくわしい勧告であり、実行可能となればただちに始められるはずの積極的行動の基礎方針を示したものと思われる。それは国際的な論議の的となった。日本政府はこの文書は偽造だといい、「古ギツネ」といわれた故犬養首相もそれをデツチあげだときめつけた。田中首相はこの文書を否定する前に死んでしまった。
この覚書が示す考え方とほんど同じ考え方をもっていた右翼の手によって暗殺された「古ギツネ」の悲劇的な死は、たとえ覚書自体が偽物であったとしても、その背後にある精神の実体を最もよく証明するものだと思われる。
もし偽物づくりがこの覚書をデッチあげたのだとすれば、彼はすベてを知りつくしていたことになる。この文書がはじめて世界に出たのは1928年だったが、それは最近数年間の日本帝国主義の進出にとって間違いない手引き書となったのである。というのは東京では天皇が統帥権をもち、その天皇にだけ仕えている陸軍と海軍が、この覚書が簡潔に示した計画を具体化すベく準備していたからである。そして決行の機が熟したとき、彼らはすでに万全の準備をととのえていた。今度は9ヵ国条約も、国際連盟も、不戦条約も、スチムソン大佐(アメリカの国務長官、侵略による領土として満州国の不承認を声明)からの覚書も彼らを阻止することができなかった。


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