ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:顕現後第3主日の旧約聖書

2017-01-20 06:24:31 | 説教
断想:2017A旧約 顕現後第3主日(2017.01.22)
原因と結果 アモス 3:1~8

<テキスト>
1 イスラエルの人々よ、主がお前たちに告げられた言葉を聞け。――わたしがエジプトの地から導き上った全部族に対して――
2 地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを、すべての罪のゆえに罰する。
3 打ち合わせもしないのに、二人の者が共に行くだろうか。
4 獲物もないのに、獅子が森の中でほえるだろうか。獲物を捕らえもせずに、若獅子が穴の中から声をとどろかすだろうか。
5 餌が仕掛けられてもいないのに、鳥が地上に降りて来るだろうか。獲物もかからないのに、罠が地面から跳ね上がるだろうか。
6 町で角笛が吹き鳴らされたなら、人々はおののかないだろうか。町に災いが起こったなら、それは主がなされたことではないか。
7 まことに、主なる神はその定められたことを、僕なる預言者に示さずには、何事もなされない。
8 獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか。

1. 原因と結果
何でも一つのことが起こるのには何らかの原因がある。本日のテキストでいうと、二人の人が一緒に歩いているとしたら、その前に二人の間で打ち合わせがあったに違いない。ライオンが森の中で吠えるのは、近くに獲物がいるからであろうと推測する。近くに獲物がいるということが原因で、その結果としてライオンは吠える。また、こうも考えられる。ライオンが大きな声をあげて吠えるのは、獲物を捕まえたからである。同じようにライオンが吠えても、その原因、あるいは理由は異なる。しかし、その声の響きでその違いは分かる。鳥が地上に舞い降りてくるのは、そこに餌があるからである。また逆に、罠が跳ね上がる音がしたのは、鳥が罠にかかったからである。この辺までの実例は、主に自然界から取り上げられており、非常に分かりやすく、あまり深刻ではない。しかし、だんだんと取り上げられている具体例は深刻になってくる。
町で角笛が吹き鳴らされたら、それは何かの危険が迫っていることを知らせるているのであり、人々はその角笛の音に何らかの反応を示し、その音の方に向かう。あるいは音の反対の方に逃げる。角笛の音は何かが起こったことを示している。何にもないのに角笛は鳴らされないはずである。 最後に、とうとう、言いたいことの本音が語られる。「町に災いが起こったら、それは主がなされたことではないか」(6節)。

2. 未曾有の災害
「町に災いが起こったら」ということについて、まず初めにはっきり述べておかねばならないことがある。今の私たちはこの預言者の言葉の前で困惑する。今までは、この言葉を割合に気安く語り、思っていた。しかし、阪神淡路での大地震(1995年1月17日)、東日本大災害(2011年3月11日)、熊本大地震(2016年4月14日)を経験し、多くの人命が失われたことを思うと、この言葉を気楽に語ることが出来ない。これは主がなされたこと、なのか。
かつて、2004年12月26日、世界中がクリスマス気分の真っ最中に、インドネシア西部、スマトラ島沖で大地震が発生し、巨大な津波で多くの人命が失われた。そのとき、カンタベリーの大主教が異例の声明を発表したという(1月2日、読売新聞)。「(わたしは)こんな災害を認める神の存在そのものを疑う。これはわたしだけではなくほとんどすべてのクリスチャンが神の存在を信じることができなくなって当然であろう」。もちろん、この災害において命を失った人々、深刻な被害を受けた人々と、助かった人々、あるいは災害を受けなかった私たちとを分けて、神の恵みとか、神の審判ということを語ることは明白に間違いである。従ってカンタベリーの大主教は「すべての信徒は生き残った人々と情熱を持ってかかわらないといけない」と語る。この「情熱をもってかかわる」という言葉は、非常に翻訳しにくい言葉で、原文では「passionate engagement with」であり、エンゲイジメントという意味はむしろ苦労を分かち合うという意味であり、「熱い思いを持って被災者たちと苦労を分かち合う」という意味であろう。つまり、カンタベリーの大主教は、すべてのキリスト者たちが被災者と同じ立場に立つことを求めている。先の、非常に「不信仰」な言葉も、被災者の立場に身をおいた発言であろう。災害と神の意志ということについては議論はできない。というよりも、議論しても何にもならないし、むしろ議論そのものが有害である。

3. 預言者アモスと地震
さて、アモス書は12小預言書の1つで3番目に出てくるのであまり読まれない。しかし、アモスという預言者は、いわゆる記述預言者(文書が残っている預言者)としては最初の預言者で、イザヤやエレミヤよりも前に活動している(BC.750頃)。1:1によると、もともとは「テコアの牧者」、要するに羊飼いであったとされる。いわば一般人の一人であったが、「あの地震の2年前」に預言者として活動を始めたらしい。何が動機であったのかは明確ではないが、この預言者を紹介する文章で「あの地震の2年前」というのであるから、地震とはかなり関係があったのであろうと推測される。彼の預言の主なメッセージは神の怒りであった。
パレスチナ地方は地震の多い地域であるが、「あの地震」と言われテいることを見ると、かなりの大地震であったのだと思う。アモスより200年以上後の預言者ゼカリア(BC.515頃)が、この地震について「ユダの王ウジヤの時代に地震を避けて逃れたように逃げるがよい」(ゼカリヤ14:5) というほど人々の記憶に残っていた地震らしい。当時の人々は地震のような大災害は神の意志の現れだとだと考えていたようである。

4.パッショネイト エンゲイジメント
本日のテキストにおいてただ一つだけ注目すべき言葉がある。2節の言葉である。「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべて罪のゆえに罰する」。この言葉を災害と結びつけてはならない。この言葉を一般化したり、論理化したり、この言葉をめぐって理屈を言い合ってはならない。ただ、この言葉は愛している者に対する愛の言葉として、預言者は語っている。それは災いの予告でもなければ、脅しの言葉でさえもない。ここで「罰する」と訳されている単語をほとんどの日本語訳では「罰する」と訳している。旧約聖書において「神の怒りと罰」というテーマはかなり複雑で難しい。この言葉を新改訳と岩波訳だけは「報いる」と訳している。「それゆえわたしは、あなたがたの罪を、あなたがたの上に報いる」(岩波訳)。直訳臭くって日本語としてすっきりしていない。岩波訳の翻訳者は、この言葉について元々の意味は「訪れる」を意味していると解説してる。神が訪れることが「報いること」、さらに「罰すること」というように展開されたらしい。
そこでわたしは旧約聖書の有名なエピソードを思い起こす。アダムとエヴァとが神から禁じられていた木の実を食べたとき、二人の目が開かれて裸であったことに気づいたという。二人は事態の急変に驚き、善後策を相談している最中に、神が二人に会うために来られた。そのとき、彼らは慌てて木の陰に隠れた。今まで、そんなことは一度もなかった。彼らにとって神が訪れるということは喜びであった。ところがこのときは違った。神が訪れるということが恐ろしいことになってしまった。神の訪れが人間の行為に対する反応となった。それが罪に対する罰ということである。そのとき神は惨めな姿をしている彼らに、神自ら「皮の衣」を造って与えたという。何とも言えない変な物語である。
神が被災地を訪れるということは必ずしも罰を与えるためではない。むしろ、神の愛の行為であるかもしれない。
災害は神の裁きだとする思想が支配している状況であるとすると、その思想そのものは間違っているが、そういう思想が支配している状況では、裁き主である神がその場に現れるということは恐ろしいことというように思われるのかもしれない。しかし、ここで神はまず「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ」と宣言しての訪れである。愛している故に「訪れる」。カンタベリーの大主教が、「パッショネイト エンゲイジメント」という言葉を使っておられるのも、非常に重要である。「情熱を持っているがゆえに連帯する」。

5. 神の民の生き方
本日のテキストを、人間が悪いことをしたから、あるいは神との約束を守らなかったから、それが原因で、災いという罰を結果した、と理解してはならない。むしろ、神とのこのような愛の関係が先ずあって、その結果としてのわたしたちの生き方がある。この原因・結果関係が重要である。わたしたちは神から選ばれ、愛されているがゆえに、それが原因あるいは理由、根拠となって、わたしたちが神を愛し、神に従う、という結果を生み出す。わたしたちが神に従って生き、神を愛している生き方を見て、それが、神がわたしを愛し、選ばれたという事実を示す。

最後に顕現節第3主日の特祷を読む。
限りなくいます全能の神、天においても地においても万物を支配しておられる主よ、どうか慈しみをもって主の民の願いを聞き入れ、主による平安をこの時代にお与えください。主イエス・キリストによってお願いいたします。

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