ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 09/14

2012-09-15 10:53:26 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。十戒、特に姦淫禁止を考える。姦淫とは何か。姦淫禁止の背景にあるべき結婚の現実が姿が見えてくる。説教の第1原稿を8割ほど書き上げた。後はどこにクライマックスを置くか。10時就寝、今朝は4時頃一旦起きたが二度寝をして6時に起床。体調快調。チュン、チュン。
posted at 06:30:05

#losungenj 09.14(fri)
主を畏れる人に救いは近く、慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけします。(Ps85:10,11)
posted at 06:46:59
#losungenj このことを待ち望みながら、すべて主と共にあるあなたがたの教会が、きずや汚れが何一つなく立っていると神に認めていただけるように励みなさい。(2Pet3:14)
posted at 06:47:29
#losungenj 私の黙想:
正義と平和」が口づけする。こういう思想が古代ユダヤ社会において堂々と語れていたということは凄いことだ。これは国際関係において翻弄され苦悩する民族から出て来た驚くべき発想であろう。基本的には正義と平和は対立までは言えないが、反対方向への運動だと思われている。正義を貫けば平和が犠牲にされ、平和を追求すると正義が曖昧にされる。すべての平和運動は内に「正義の追求」が含まれていなければならない。今、中近東で起こっている出来事の中で、ぜひこの祈りを思い起こして欲しい。
posted at 06:51:58

文屋 善明 一言書き落としていたので本文に次の言葉を補います。<正義の行動には常に平和が支配していなければならない。爆撃によって正義は実現しないし、平和が破壊される。>
昨日 8:02 · いいね! · 3

門叶 国泰 アモス5:24を覚えます。ただし口語訳で(新共同訳は?)「公道(ミシュパト)を水のように、正義(ツェダカー)をつきない川のように流れさせよ。」

ご心配をおかけしました。RT @Facata_Romance: @ybunya  二度寝でしたか…(^^ゞ 安心しました…(^_-) 
posted at 07:04:31

「昨日のツイート 09/13」をブログにアップしました。 http://t.co/5FhhCl1F
posted at 08:58:10

<FBより>
FB『もしニーチェが短歌を詠んだら』011(155頁)
沈黙の海を前にし人々は騒ぐ 出航前に一層
『悦ばしき知識』第4書「聖なる1月」第278節

文屋 善明 「出航前に 一層騒ぐ」とすると、下の句は7+7で落ち着くが、平板な散文になってしまう。切り方としては「騒ぐ出航」一息入れて「前に一層」と詠むとリズム感が出てくる。

午後から博多3大祭の一つ筥崎宮の放生会に出かけ、帰りにIKEAでチョコレートを買い、イオン福津で眼鏡を修繕し、本屋に立ち寄り、ニーチェの『この人を見よ』(岩波文庫)と山形孝夫の『聖書物語』(岩波ジュニア新書)を買い、只今帰宅。写真等は後でアップします。
posted at 17:06:44

筥崎宮の放生会についてこの祭は筥崎宮の境内で、次のように説明されています。

<毎年9月に筥崎宮で行われる放生会は『万物の生命を慈しみ、殺生を戒める』神事です。京都・建仁寺の記録に中に『延喜19年(919年)筥崎宮放生始』とあり、千年以上も前から行われていることが分かります。
江戸時代頃から筥崎宮の放生会は盛んに行われるようになり、宝暦7年(1757年)ころには、祭りの期間中は地域住民の漁や煮物の売買さえ禁じて認めなったという記録が残っています。
明治時代に入ると神仏分離で、放生会は『中秋祭』と改められましたが、人々は以前通り「ほうじょうや」と呼び続け、これに応えて戦後、再び『放生会」の名が復活しました。
お祭りの期間中には各種神事や神にぎわいが連日予定されています。昭和31年に復活した鯉・鳩の放生は例年通り18日の午後、境内にて行われます。>

なお、この祭では筥崎宮の氏子たちによって手作りされる「放生会おはじき」が人気で、初日で売り切れてしまいます。また参道にはところ狭しと様々な露店が軒を並べ賑わいを盛り上げています。特に、昔からこの地方でこの時期に収穫される新しょうが参宮者たちのお土産として売り出されています。

FB<閑暇閑話(かんかかんわ)>011

今日の午後、私は家内と一緒に、博多3大祭の一つ筥崎宮の放生会(ほうじょうや)に出かけたため、今日の閑暇閑話は夕食後の一時になってしまいました。申し訳ありません。
ということで、今夕は刺激的なお話を一つ。

600年前に、開いた口が閉まらないほど、あきれたことを考えていた日本人がいたことは驚きです。現実主義もここまで徹するとかえってスカッといたします。ただ、ご本人の現実の生活はこうではなかったであろう、と思うことがなんとか救いです。でも、現在ではまさにこの通りに生きている人間が、私たちの目の前におり、時々マスコミにも発言している。金持ちがもっと金持ちになるためなら、貧乏人は死んでもいいと考えている人です。そうです、あいつのことです。

徒然草第217段
ある大金持ちが言うには、「人は何を後回しにしても、ひたすら金儲けに徹するしかない。貧乏人は生きていても仕方がないからだ。金持ち以外は人間ではない。富豪になりたいと思ったら、何はさておき、金持ちの心構えを修行しよう。その心構えは、何も難しいことではない。人生は長く、間違っても、「世界は刻々と変化している」なんて、つまらん事を考えるな。これが第一のポイントだ。次に、いつでも欲求を満たすな。生きていれば、自分にも他人にも欲求は果てしない。欲望の赴くまま生きれば、百億円あっても、手元には少しも残らない。欲望は無限にあり、貯金は底を尽きる。限度のある貯金で、無限の欲望に振り回されるのは不可能だ。ということで、心に欲望が芽生えだしたら、自分を滅ぼす悪魔が来たのだと注意して、爪に火を灯せ。その次は、お金を奴隷か何かと勘違いしていたら、貧乏を一生辞められないと思え。お金は、主人や神のように恐れ敬うもので、思い通りに使うものではない。その次に、恥をかいてもプライドを捨てろ。そして、正直に生きて約束を守ることだ。この心がけで金を稼ごうと思えば、乾いた物がすぐ燃えて、水が低いところに流れるように、ジャブジャブ金が転がってくる。金が貯まって増え出すと、宴会や女遊びなどはくだらなくなり、住む場所も簡素になる。欲望を追求することなく、心穏やかで、毎日がバラ色だ」と宣わった。
そもそも、人は欲望を満たすために金を欲しがるのだ。金に執着するのは、あると願いが叶うからだ。欲望を我慢し、金があっても使わないのなら、これは貧乏人と同じである。いったい何が楽しいのだろうか。しかし、この大金持ちの教えは、欲望を捨て去り、貧乏を恐れるなという戒めに置き換えられそうだ。金で「願い」を叶えて満足するよりも、むしろ「願い」がない方が優れている。インキンの人が、水で洗って「気持ちいい」と思うより、もともとそんな病気にかからない方がよいのと一緒である。こうやって考えれば、貧乏人と金持ちは同じ人間で、悟りと迷いも一緒で、強欲は無欲なのと似ている。


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