ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

読書記録:田川建三『原始キリスト教とアフリカ』

2015-03-05 11:12:57 | 雑文
読書記録:田川建三『原始キリスト教とアフリカ━━帝国主義の宗教思想』
(「歴史的類比の思想」勁草書房に収録、1976年6月発行)

スタークの『キリスト教とローマ帝国』を読みながら、これと同じテーマを取り扱っている田川建三氏の上掲の書を思い起こし、これを読み終えたら、もう一度読み直そうと考えていた。田川氏のこの論文は氏がアフリカ滞在中の1975年10月に書かれたものである。初出は月刊誌『伝統と現代』37号、(76年1月号)である。
田川氏は次のように問題提起をしている。

<何故原始キリスト教があれ程の速度と伝搬力を持って、当時の地中海世界全体を風靡したのか、という問いである。これはむろんイエスのせいではない。原始キリスト教のせいである。イエスのあの絶望的な生き方が世界史的規模ではやるはずはない。それはむしろ、そのイエスを救済者としてうまうまとかつぎあげた原始キリスト教がやってのけた仕事である。ただし、イエスをメシアとしてかつぎあげる、というだけのことで、これほどの世界史的からくりに成功するわけはない。原始キリスト教が狭義の原始キリスト教に、つまり最初期のパレスチナのキリスト教の水準にとどまっていたとすれば、万が一今日まで生き残ったとしても、(中略)世界史の片隅に忘れ去られて、奇妙な古代の遺物といった感じで辛うじて生き残っているにすぎなかっただろう。>(4頁)
問題はその原始キリスト教がなぜ、どのようにしてローマ世界を席巻したのかというメカニズムである。答は簡単で、古代的な帝国主義の状況がそれを可能にしたということに尽きる。その点について田川氏は「(キリスト教はその本性からして帝国主義の宗教である」という。もちろんここで田川氏は、「その点イエスとキリスト教との間は明瞭に区別しなければならない」と注釈を加えることを忘れない。
ごく最初の一定期間、ローマ帝国によって弾圧されたので、帝国主義に抵抗する宗教であったが、コンスタンチヌスによって帝国に奉仕する宗教に変えられた、と言うはあまりにも単純すぎる。皇帝が一人改宗したぐらいで、帝国主義に抵抗していた宗教が帝国に奉仕する宗教に変容することにはならないであろう。もともとキリスト教がそれにふさわしい本性を持っていることに気付いたローマ帝国が利用することを考えたのである。
ここで田川氏もスターク氏と同様、ローマ帝国内においてキリスト教を受け入れた人々の分析から始める。ところが、すぐに問題になるのは帝国内において、どういう人々が、どういう動機でキリスト教を受け入れたのだろうかということを考える際の基礎的資料の少なさである。ローマ帝国においては、少数者が「例外的に」信徒になったのではない。その増加ぶりは「驚異的な勢い」である。それには必然的な理由があるはずである。この信徒の増加率と社会状況との関係については、社会学者としてのスターク氏の功績は大きい。スタークス氏はその謎を、一種の共時的な社会理論を援用する。つまり、ローマ時代の資料の少なさを、現在のカルト集団の増加率や社会層との関連に関する社会学的分析から得られた「社会理論」によって補うということである。
田川氏は「歴史的想像力(類似の歴史的状況をよく捉えることから、類比により資料の背景に突き進む)」によって補う。この類比が成り立つのは歴史家が己の生きている世界の歴史的社会構造をどこまで捉えているのか、ということによるという。社会学と歴史学(新約聖書学)とで表現はかなり異なるが、ほぼ同じようなスタンスである。

本書は5章に分けられている。
1章でパウロ以後のキリスト教は、その本性からして帝国主義の宗教であるということについては、パウロ書簡や使徒言行録を読めばわかることだとして詳細な議論を省略する。むしろ田川氏の関心は「帝国主義のイデオロギーの構造」についての分析に向かう。帝国主義的支配者が支配するためのイデオロギーを教義のイデオロギーとする。つまり「ローマ精神」である。これをそのまま被支配者に押し付けたら、むしろ反抗されるだけで、帝国主義国家を不安定にするだけである。そこで支配者は帝国を安定させるために、狭義の帝国主義理念に普遍的なものにする必要がある。その場愛に帝国自体が作り出すイデオロギーではなく、被支配者の中から自発的に発生するイデオロギーを利用することが最も効果的である。ちょうどその時キリスト教がその役割を担ったのである。

第2章において、本書の方法論としての「歴史的類比」という点が説明される。つまり資料の少ないローマ帝国内の原始キリスト教の驚異的増加の秘密を、田川氏自身が経験しているアフリカにおけるキリスト教の驚異的伝搬との構造と問題点によって解明するという「歴史的類比」という方法が解説される。その際の両者の共通項、つまりキイワードが「帝国主義」である。

第3章では、帝国主義国家におい支配されている人々が支配者の宗教を受容するのか。しかも支配から解放された後にもその宗教を維持するのかということが論じられる。西欧諸国の植民地であったアフリカの過去と現在を実例として述べられる。その答えは要するに帝国主義からの解放後も他に頼るべきイデオロギーを見つけることが難しいからである。アフリカの場合、キリスト教は一種の「所属意識」として機能しているという。ここで言う、「所属意識」とはスタークス氏の言う「ネットワーク」であろう。
これに関連して、日本人キリスト者である私たちにとっても興味深いことを田川市は述べている。ここは田川氏の文章を少し長いがそのまま引用しておく。

<従ってこの場合(注:アフリカのキリスト教の場合)、キリスト教徒になったとは言っても、そのイデオロギーの表出形態としては、キリスト教徒であるということ、つまりキリスト教なる集団に所属するということがほとんど唯一の要件であって、キリスト教徒であるとはどういうことか、という内容はあまり問われない。これはたとえば日本的キリスト教との大きな創意である。日本の牧師の説教は、多くの場合、気味が悪いほどにベたベたと倫理主義的である。ところが、私の聞いた範囲では、アフリカ人の牧師の説教、アフリカ人のキリスト教徒の信仰意識の表白において、その種の倫理主義は稀薄である。その点さっぱりしていて気持がいい。その反面、「キリスト教」なるものへの帰属意識がやたらと強烈なのである。(中略)むろん存在全体をキリスト教に帰属させるなどということは事実としてありえないので、ただ、信仰意識において、そう思っているというにすぎないのだが。たとえば牧師の説教においては、キリスト教の神を信じよう、キリストを信じよう、キリストこそ唯一の真理、キリストの救いを信じよう、キリスト教の聖書のみが唯一の真理、といったせりふが際限もなくくり返される。非常に抽象的な反復なのである。ではその「神」とは何か、「キリスト」とは、「キリストの与える救い」とは、とたずねても、これこそ唯一絶対の真理、これにくみさない者は間違っています、と類語反復的におなじせりふが繰り返されるだけである。よかれ悪しかれ日本的キリスト教の倫理主義が持っている具体性は、ここでは稀薄なのだ。そして、 その「キリスト教」への帰属意識を反面から裏打ちする時には、キリスト教以外を全部並べて否定してしまう。イスラム教はいけません、仏教はいけません (仏教のぶの字だって知りはしないのだが)、まして無神論はいけません、共産主義はだめ、資本主義はだめ、帝国主義はだめ、物質主義はだめ、部族主義もいけません、 アラブもだめならイスラエルもだめ、みんなみんなだめ、神様キリスト様のみ。カトリックなら神様キリスト様にマリア様がつけ加わって、プロテスタントなら「聖書」が加わり、キリスト教的新興宗教なら断平「聖霊」がつけ加わる、という相違はあるにせよ。異教徒とたたかえ。異端者は追い出せ。そして「勢力」としてキリスト教の消長に最大の関心が集る。政治水準であろうと、社会のさまざまな局面であろうと、何だろうと、かんだろうと、「キリスト教」の勢力が伸びることが善であり、それが滅ることが悪である。
これらはすベて、アフリカのキリスト教の平均的な水準が、まさに、世界的になるベく巨大なイデオロギー統一体への帰属意識からなりたっている、 ということの表現なのである。この場合、その表現の一つ一つの理屈をつついてみたとて、何にもならない。その帰属意識を要請する全体的な社会状況が問題なのである。だから、今や白人宣教師はなるベく表に出ず、影の支援者として存在するようになったけれども、いや多くの場合、その白人宣教師に対して果てしもない憎悪を抱きつつも、アフリカ人キリスト教徒はその白人宣教師がもたらしたキリスト教に、イデオロギー的にすっかり身をあずけてしまうのである。それは、自分たちを支配する世界的帝国主義の担い手が白人であることを、意識的もしくは無意識的に感じ取るが故に彼を憎悪しつつも、たとえ米一粒食うにも、その世界的帝国主義の力と離れてはいられない、という生活の現実のイデオロギー的反映なのである。>(30頁)

第4章の冒頭で「これでやっと原始キリスト教につながる」と述べているが、まだ本題には至らない。むしろここでは「ヘレニズム世界における言語事情」が論じられる。なぜ、ユダヤ教を母体とするキリスト教がギリシア語を主なる言語としているのか。ここに帝国主義の宗教としてのキリスト教の本性があると田川氏は言う。この点はヘレニズム世界における原始キリスト教と植民地としてのアフリカの言語事情との共通点がある。(第4章の内容については、後に『書物としての新約聖書』の第2章「新約聖書の言語━━新約聖書のすべての文書がギリシア語で書かれているという事実は何を意味するか━━」で、詳論されている)。

第5章、これが本論である。
田川氏は1世紀のキリスト教を次のように特徴付けている。
<1世紀地中海世界において、キリスト教はかくして、帝国主義状況における世界的なイデオロギーの担い手として、絶好の資格を身につけて登場したのである。ギリシア語の宗教でありながらギリシア産ではなく、ユダヤ産でありながら、断平ユダヤ性を否定克服したことになっており、我らの国籍は天にある、とまさに無国籍的に普遍性を主張する宗教なのだから。>(37頁)
だからこそキリスト教はユダヤ教の聖典たる旧約聖書を聖典一部として受け入れながら、ユダヤ民族を呪われた民として忌み続けるという矛盾する構造が必然であった。それではなぜ、キリスト教はユダヤ教にこだわったのであろうか。
そこで1世紀のローマ世界におけるユダヤ教の位置づけを確認しておく必要があろう。わたしたちは何と無く、1世紀以来、つまり数次にわたるユダヤ戦争のあと、ユダヤ人は祖国を追われた流浪の民、迫書され、弾圧されつづけた悲劇の民というイメージを抱いている。理念が広くひろまってしまっている。しかし、実は当時からユダヤ民族はギリシア人、ローマ人に次いで第3の大きな勢力であったのである。ユダヤ民族がバビロン、ペルシアからヘレニズム時代を通じて常に大国の支配下にあり、ついでローマの支配下に置かれたとしても、またローマ軍との戦いにおいて敗れて徹底的に破壊されたとしても、そのことにより当時の世界において弱小民族になったわけではない。ローマとユダヤの戦争はローマとパレスチナのユダヤ人の戦争であって、ローマ帝国内の諸都市に広くちらばっていたギリシア語を話すユダヤ人は、その間もローマ帝国から与えられた優遇処置を失っていない。他の諸民族がそれぞれの民族性を奪われていく中で、ユダヤ人だけは独自のネットワーク(帰属意識)を持ち、宗教組織を持っていた。中にはパウロのようにローマの市民権を持つこともできたのである。それだけにユダヤ人はローマ人と諸民族との間に挟まれて閉鎖的になっていく。特に「律法」という強固な枠組みを持っている限り他民族との壁は大きかった。
そのような状況の中でパウロは「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)、 「もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」(コロサイ3:11)と叫んだのである。

つづいて、田川氏はローマ帝国内の主要都市でのキリスト教の伝播状況を述べている。

シリアのアンティオキア(使徒言行録11:19~21)
ここでは最初は(ギリシャ語を話す)ユダヤ人だけの教会であったが、ある時期から急遠に「ギリシア人」すなわちギリシア語を母国語とする非ユダヤの間にひろまっていったことが短く語れている。きっかけは、キプロス島の出身者やキレネの出身者がアンティオキのユダヤ人キリスト教徒たちに加わり、彼らを通して一般のギリシア人にも急速にキリスト教が伝わっていったらしい。この話はパウロの回心後に位置づけられている(使徒言行録11章)が、実はアンティオキア教会のかなり初期の話であろう。そしてこの教会がギリシア語世界全体ヘのキリスト教伝揺の出発拠点になったのである。この話に登場するキプロス島やキレネという地名は注目すべきである。
最初はユダヤ人の宗教にとどまっていた原始キリスト教が成立後十数年以内(パウロがアンティオキア教会の陣容に加わる前)のある時点から急速に「異邦人」の宗教としての爆発的に拡大し始めたのである。その時、キプロス人とキレネ人がきっかけを作ったのである。ここからユダヤ教の一派としてのキリスト教がユダヤ民族から分離したのである。おそらく彼らはギリシア人ではなく無国籍的に世界をうろうろしているギリシア語が堪能な人々であったのでろう。つまり、キプロス島のキプロス人、キレネのキレネ人ではなく、アンティオキアで商業的に成功したキプロス人、キレネ人である。それはこの場合だけでなく、ユダヤ教とギリシア語世界の接点、特にキリスト教の転換点にはキプロス人、キレネ人がよく登場している。イエスに代わって十字架をかついだと言われているシモンという男もキレネ人であり、おそらくその2人の息子のアレクサンドロとルフォス(マルコ15:21)がキリスト教徒になったので、その伝承が教会内に伝わったのであろう。しかもその時彼らはエルサレムに住んでいた。ステパノがユダヤ教批判を展開した時に、彼と論争したギリシア語を話す文化人の中には、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、つまりユダヤ人たちとキリキア州(パウロの故郷、)とアジア州出身の人々が混じっていた(使徒言行録6:9)。これもエルサレムでの話である。ちなみにパウロの故郷はキリキア州であり(使徒言行録21:39)、その同僚バルナバはキブロス島出身(使徒言行録4:36)である。おそらくは、このバルナばを通じて、キプロス島出身のユダヤ系でない者にもキリスト教が伝えられたのかも知れない。パウロが最後にエルサレムに出かけた時に、市内の拠点としたのが、これまたキプロス島出身者のムナソンという名のキリスト教徒である(使徒言行録21:16)。注目すべきことは、初期キリスト教における以上のキプロス人、キレネ人の活躍にもかかわらず、キプロス島にもキレネにも、キリスト教は根をはっていない。少なくとも1〜2世紀を通じてキリスト教の中心的拠点とはなっていない。キプロス島出身のパルナバは、パウロがキプロス島で伝道をあきらめた後も、 おそらくは執拗にそこで の伝道活動をくり返してい る(使徒言行録15:39)。にも関わらず、その後の資料にもキプロス島がキリスト教の拠点になったという資料はない。つまり、ここで活躍しているキプロス人、キレネ人はキプロス島やキレネの土地に根をおろしていた人々ではなく、ローマ帝国内で国際化の波に乗って浮動していた人々であったものと思われる。

ローマの教会の信徒たち
ローマにおけるキリスト教はパウロ以前から存在した。初期にはユダヤ人キリスト教徒が相当数いたと思われるが、クラウディウス帝のユダヤ人追放令(49年)以降、非ユダヤ人キリスト教徒が主になったと思われる。だがこの非ユダヤ人はローマ市に住んではいただろうがローマ人ではないと思われる。バウロがロマ書をギリシア語で書き、ローマに滞在中もギリシア語で話していたということはローマの信徒がギリシア語を話す人たちであった。つまり彼らはラテン語を話す人たちではなかった。もっとはっきりした証拠は1世紀末に書かれた第1クレメンス書簡はギリシア語で書かれている。また、2世紀の半ばに書かれた第2クレメンス書簡もギリシア語で書かれている。つまり1世紀から2世紀にかけてローマの信徒たちはラテン語を話す人々ではなく、主として商業上の理由から流れこんで来た無国籍的な人たちであったものと思われる。ローマの教会がローマ人の教会になったのは、かなり後のことになる。

コリントでの宣教
コリントはアテネと並ぶギリシアの古典的な都市である。しかしここにはきっすいのギリシア人が 住んでいたとは限らない。紀元前146年にこの町はローマ人によって徹底的に破壊され、同144年にローマ人の植民都市として新しく建設されたのが新約聖書時代のコリントである。ローマの植民都市といっても最上層部をローマ人がしめているだけで、大部分の都市構成員はローマ支配下の諸民族から連れて来られた人々である。コリントで経済的に成功した者も失敗して下層民になった人々も、共に故郷喪失者であったことには違いはなかった。新約聖書時代のコリントの教会は、これはもはや古典的なギリシアの都市ではない。そのコリントでパウロのキリスト教は圧倒的な成功をおさめた。それに対して、まがりなりにもギリシアの古典的伝統を保っていたアテネでは、パウロのキリスト教はもののみごとに失敗している。アテネは長い間キリスト教の中心都市にはならなかった。

パウロが接触したエペソ、テサロニケ、ピリピ等の諸都市の諸教会もほぼ同じような状態であったようである。以上総括すると、初期キリスト教は国籍喪失者的な新興都市の居留民の宗教であったことは明らかである。これが農村部に波及したのは、キリスト教がローマ当局によって承認された後に、「上からの宗教」として進出したのである。

結論
田川氏は結論として次のように述べている。
<帝国主義支配下において、国際的に巨大な軍事的社会的経済的暴力の前に否も応もなく各個人は意識面において不安な流浪を強いられる。その意識面の不安な流浪は、必ずしもすベての個人が現実にその連命に出くわすとは限らないが、現実の生活面、肉体上の存在における流浪を強いられる、もしくは強いられる可能性があることに帰因する意識なのである。そして、その現実状況が変らぬままに、意識面においてともかく安心自足することを求めるところに生れるのが、広義の帝国主義のイデオロギー、特にその宗教的イデオロギーである。この種のイデオロギーとしては、支配者が意図的に操作し、つくり出すよりも「民衆」の間におのずとひろまっていく場合の方がイデオロギーとしてよほど強固に根をはる。だが一度根をはれば、世界的な帝国主義支配者にとって、これほどうまいイデオロギー状況はない。その意味で、キリスト教は世界宗教としておのれを確立しようとした瞬問から、まさに典型的に帝国主義の宗教としての本質を備えていた。これほどはっきりした本質を身につけた宗教はほかにはない。思えば、人類の歴史はとんでもない代物を生み出してしまったものである。自分たちがどういう被支配状況におかれているかに目覚めて、その状況に抗して立ち上るベき人々が、キリスト教のせいで逆に、その状況の中でどうやって少なくとも精神的に安住して生きていくかを求めてしまったのだから。いろいろ波はあり、様相の変化はあったにせよキリスト教は二千年間そういうものとして存在してきた。>(50頁)

最新の画像もっと見る