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ぶんやさんの記録

読書記録:宮田光雄『カール・バルト』

2017-04-10 11:10:38 | 雑文
2016年8月2日

<昨日の読書から>(宮田光雄『カール・バルト』読了)
バルト神学におけるユーモア(226~228頁)
バーゼル大学の教室で
これらの章を読み進むにつれて、私には、バーゼル大学の教室の雰囲気がまざまざと思い出され、バルトの肉声や表情までよみがえってきた。とくに「地霊たち」を論じたくだりは忘れがたい。
政治・経済・思想の権力についで何が出てくるか——聴講者の意表をついて、『地霊」具体例として「流行(モード)」があげられたとき、教室中には軽いざわめきが起こった。やがて女性の衣装から男性のひげ——「カイゼルひげは、なかんずく威厳にみちています」——にいたるまで「自由世界においては」流行遅れになることは不可能である、といった諧謔まじりの講義に、教室はしばしば爆笑に包まれた。さらに「特別な地霊の遊び場」としてスボーツがあげられ、スウェーデンで開かれたサッカーのワールドカップをめぐる国際的な熱狂ぶりが詳細に説明される。 「大神学者」とすぐには結びつき難い蘊蓄の程に聴講者一同が感心していると「これは、最近、小さなサッカーの本で読んだのです」と種明かしをして、その悪戯っぽい微笑が一同の笑いをさそうという調子。
ちなみに、これらの引用は、残念ながら講義の遣稿には載っていないアドリブのユーモアであった。
バルト神学におけるユーモアの重要性に改めて注目させられる思いがした。実際、「御国を来たらせたまえ」の祈りをめぐって、バルトが再三にわたり「神の笑い」(詩2:4、註:「天に座するものは笑い、主は彼らを嘲られる」)について言及しているのは偶然ではない。バルトが「相対的可能性」の領域において、われわれ人間が「まったくの安らぎと晴朗さにおいて、自分たちのことを行なうように解放されている」というとき、バルトのユーモアのもつ政治的射程の大きさを、あらためて考えさせられるだろう。
バルトの諭文や著書を読んだだけでは、彼の活き活きした表情(ミミーク)に表われる発想の豊かさやその魅力は、十分に伝わってこないのかもしれない。これは、若き日にボンヘッファーやハインツ・E・テート教授がバルトの講義やゼミに参加したときに、すでに感知されていたものだ。「バルト本人は、その著書を超えている」と。
『和解論』の最終講義でも、全体としてみたとき、バルトが、じっに自由に、のびのびと語っているという印象を受ける。あたかも福音の喜びを語る説教のように。ここには、教義学という言葉にたいして抱かされる固さや謹厳すぎる悲壮惑といったものが、まったく認められない。それは、彼が別のところで語っている通りではなかろうか。「キリスト者は、根本的に言って、彼が喜びをもち、じっさい、自分の仕事にユーモアをもつときにのみ、よい神学を営むことができるのです。ただ不機嫌でない神学者が! ただ退屈でない神学を!」と(『公開書簡1945~1968年)。(宮田光雄『カール・バルト』228頁)
『カール・バルト』しめくくり
私の友人ゴットホルト・ミューラー(ヴュルツブルグ大学教授・故人)から、かつてバルト最晩年の面白いユーモア話を伝える手紙を貰ったことがある。彼は、当時、バーゼル大学神学部の若手講師として、いわばバルトの同僚になっていたのだ。それは、バルトが亡くなる2、3週間前のこと、ブルーダーホルツのバルト邸を最後に訪問した際に聞かされた話だという。
「私は、もうまもなくこの世を去ることになるだろうと思う。私は、いまから、こんな場面を想像できるのです。私が干し草を運搬する荷車を引いて天国の門に到着すると、例のペトロが笑いながらこう問いかけてくる。『カールさん、あなたのその荷車の上に何を載せているのかね』。私が自分の書いた『教会教義学』ですと答えると、ぺトロは腹をかかえて大笑いする。そのときの様子が今からわかるのですよ」。
これは、むろん、バルト特有の自巳アイロニーにほかならない。10数巻に及ぶ彼の「神学大全(スンマ)」の中で、バルトが心を砕いてきたのは、いっさいの人間の側からの自己主張的言説を——むろん バルト自身のものもふくめて——断固として退け、ただ神の恵みと栄光をのみ賛美するということではなかったのか。バルトは、未完こ終わったこのライフワークに打ち込んできた自分の生涯全体を笑いとばしているのだ。
すでに引いた『教会教義学』の『創造諭』の中で、「摂理」について論じた冒頭には、こう記されていた。 「信じると言うことは、福音書の意味では、疑いもなく、徹頭徹尾、まったくの子どもらしさと直接性の中で、神の摂理を堅く保持して手放すことなく、神の摂理を喜び、神の摂理に従うことを意味している」と。
神学者および同時代人としてのバルトの生涯を支えていたのは、この「子どもらしい」素直な神信頼にほかならなかったと言うことができるだろう。(宮田光雄『カール・バルト』、265頁)

 「 http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/bd367d4a5191770f203d5f51b43cc5da 」より転写

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