ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

現代語版イミタチオ・クリスチ第2巻第1部(第1章~第12章)

2017-03-24 11:16:41 | 現代語版イミタチオ・...
現代語版イミタチオ・クリステチ第2巻(第1章~第12章)

第2巻 内的なものについての勧め
 第1部 内的対話について(第1章〜第12章)
 第2部 忠実な魂へのキリストの内的な語りかけについて(第13章〜第34章)
 第3部 内的慰めについて(第35章〜第60章)

第1章 人間の内面性について

(1)「神の国は実にあなたがたのただ中にあるのだ」と、主は言われた。だから主の下僕は御言葉に従って、神の国を外の世界に求めるのではなく、私の内なる世界に求める。そうすれば、あなたの魂は平安を見いだすであろう。2:1:1~2
(2) 衣食住等外なる必要以上に内面を大切にしなさい。そうすればあなたの内に神の国が来る。「神の国は平和と聖霊における喜びとである」(ルカ17:21)。2:1:3~4
(3) あなたが心の中に、神の住まいを準備すれば、神はあなたの中に住まい、あなたに平安を与えられる。それが栄光と美しさに輝く神の国だ。キリストは私の内なる神の国を訪れ、親しく交わり、美しい言葉が語られ、また必要に応じて慰めと安らぎとを与えてくださる。2:1:5~7
(4) キリストを迎え、あなたのうちに住まわれるように準備をしなさい。キリストは「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そしてわたしの父はその人を愛し、またわたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう(ヨハネ14:23)と約束なさった。その言葉を信じよう。2:1:8~9
(5) あなたの心の中にキリストの居場所を作りなさい。そして、そこをあなたの家の中心にしなさい。キリストがあなたの家の家長になれば、間違いなくあなたの家は繁栄する。2:1:10~11
(6) キリストがあなたの家の家長になれば、家族内のゴタゴタはすべて解決し、他人に相談することもなくなる。他の誰かが家長になると、家の在り様が一貫せず、家族内が分裂する。キリストは昨日も、今日も、明日も変わらず一貫しているので、落ち着いた生活が出来る。2:1:12~13
(7) たとえどんなに親しい人であっても、はかない死ぬべき人間を頼りにし過ぎてはならない。また時には誰かと対立し、争うようなことになっても、落胆しすぎる必要はない。今日の友は明日の敵ということもある。ともかく人間は天候のように変りやすいのだ。2:1:14~15
(8) 完全に信頼できるのは神だけであり、神を畏れ、神の愛をあなたのものとしなさい。そうすれば、神はあなたに応えて、すべてのことを最善に取計らわれる。2:1:16~17
(9) この世にはあなたにとっての永遠の都はない。あなたはこの世では異邦人あり、旅人である。また内的にキリストと結びつかないかぎり、あなたは平安を得ることができない。2:1:18
(10) あなたにとって、ここはあなたの安住の地ではないのに、なぜここに立ってあたりを見まわすのだ。あなたの住まいは天にある。そこから地上のあらゆる事物を過ぎゆくものとして見るがよい。2:1:19~20
(11) 地上の万物は過ぎ去り、あなたもそれらのものと共に過ぎ去るのだ。だからこの世のものに執着しないように注意しなさい。それらと一緒に巻き込まれて処理場に運び込まれないように。2:1:21~22
(12) もしあなたが天を仰ぎ見て神と共に生きることを黙想することが出来ないなら、地上でのイエスの苦難を思いおこし、そこに憩い、そのみ傷のうちに住むことを願うベきである。2:1:23~24
(13) 愛するイエスのみ傷と苦難の尊いみしるしとに助けを求めるならば、あなたは患難の中で大きな力を覚え、人の侮辱をさほど気にとめず、そしる者の言葉をたやすく耐え忍ぶに至るであろう。2:1:25
(14) キリストもこの世においては人々から辱かしめられ、その苦しみのクライマックスでは、知人と友人からさえ見放されて、そしる者、罵るものただ中に置き去りにされた。それでもキリストは進んで苦しみと辱かめめとをお受けになったのに、あなたは同様な取扱いを受けて不平を言おうとするのか。キリストのまわりには敵と誹謗する者しかいなかったのに、あなたはすべての人から愛され、万人を友としたいのだろうか。2:1:26~28
(15) もし信仰生活において闘いがなかったら、あなたの忍耐は何によって証明されるのだろうか。あなたの信仰が誰からも抵抗を受けないなら、キリストの友と呼ばれる根拠は何だろうか。キリスト共に勝利の冠を受けたいなら、キリスト共に、またキリストのために、その苦闘も分担しなければならない。2:1:29~31
(16) もしあなたがキリストの燃えるような自分自身のことを捨ててでも、その愛に応えようとするであろう。その時にはへりくだることが喜びになる。2:1:32
(17) あなたの愛がキリストに向けられているならば、必要以上の人情から解き放たれ、人間関係の煩わしさを克服できる。2:1:33
(18) すべてのことにおいて、世間の評判や他人の思惑など気にせず、そのこと自体の価値を見る人が、本当の賢さである。その知恵は学習の結果というよりも神から与えられるのである。2:1:34
(19) 内面性を大切にして、この世的なものの価値を認めない人にとって、外面的な事情に妨げられることがないので、どこででも修行できる。2:1:35~36
(20) 自分の内面が整えられておれば、何か事が起これば自由に対応する心に余裕がある。そうすれば、人の行為や性格がどんなに奇異でも平静に対応することが出来る。人はくよくよして、他人の行動に気を遣いすぎると、疲れる。2:1:37~38
(21) すべてはあなたの心次第。内面が清められていたら、すべてのことは善に変り、あなたに益となる。自我に死に切れていないから、この世に縛られ、この世のしがらみがあなたを悩ますのだ。2:1:40
(22) この世の物への不純な愛 ( impure love) ほど人間の心を汚し、乱すものはない。あなたがこの世への執着を捨て天に向けたら、内面的な喜びに溢れるであろう。2:1:41~42

第2章 心を低くして服従すること

(1) 誰があなたに味方するか、あるいは反対するかを気にするな。ただあなたがすること全てに神が共におられるか、どうかだけを考えよ。2:2:1
(2) 己に恥じない生き方をせよ。そうすれば神は必ずあなたをお守りになる。2:2:2
(3) 神が助けようとしておられる人を、誰も妨げることはできない。2:2:3
(4) 黙って辛抱しなさい。そうしたら必ず神は助けてくださる。神は何時、どのようにしてあなたを助けるべきかをご存じである。だから、安心してすべてを神に任せるなさい。2:2:4~5
(5) あなたの恥を雪ぎ、名誉を挽回するのは、神のなさることだ。2:2:6
(6) あなたが犯した過失を人が非難することは、あなたが傲慢にならないための良い薬です。謙遜になって自分の非を認めれば、相手も心を和らげ、怒りを静める。2:2:7~8
(7) 神はヘりくだる者を愛し、その人に注目しておられる。そして、その最も低いところから、一挙に栄光の座へと引き上げられる。謙遜な者には神も心を開き、その奥義を示される。2:2:9~10
(8) 謙遜な人は軽蔑され、馬鹿にされても、平静で居られる。彼にとって神による評価だけが重要なのだ。
自分をサイテーの人間と思わないかぎり、自分自身を人格者だと思ってはならない。2:2:11~12

第3章 善良で穏やかな人について

(1) 自分自身が足ることを知らなければ、他人に足ることを悟らせることなどできない。2:3:1
(2) 博学な人と呼ばれるよりも、平和を愛する人と言われる人になりなさい。2:3:2
(3) 怒りっぽい人は、人の善意も悪意だと思い込み、悪い噂をすぐに信じる。2:3:3
(4) 平和を愛する人は、あらゆる状況において、善いものを生かす。2:3:4
(5) 心の穏やかな人は誰とでも友だちになる。だが、いつも不満で怒りっぽい人は、隣人を信じることができなくて、自分自身にも自信がなく、従って隣人とも仲良く出来ない。2:3:5
(6) 感情的な人は、言ってはならないことを口にしたり、しなければならないことをしない。そのくせ、隣人については、いろいろ細かいことにこだわり、自分自身がしなければならないことにはおろそかである。2:3:6~7
(7) 何よりも先ず、自分自身に誠実でありなさい。そうすれば隣人にも誠心誠意向かい合うことができる。2:3:8
(8) 自分自身のこととなると、すぐに弁解するのに、隣人の弁解を聞こうともしない。むしろ隣人の弁解にこそ耳を傾け、自分のことは他の人が弁解してくれるのを待つべきである。2:3:9~10
(9) 赦されたいと願うなら、先ず人を赦さなくっちゃ。2:3:11
(10) 腹を立てたり、怒ったりしたとき、本当の愛からも謙虚さからも、遠ざかっている自分に気付くべきだ。2:3:12
(11) 誰だって、正直で温和しい人と友だちになりたいし、その上、その人と気が合ったら、これ以上の幸せはない。2:3:13
(12) 頑固なうえに、だらしない人や、いつも意見が対立する人とでも、仲良く暮らせる人こそ、最も頼りになるホンモノの人格者なのだ。2:3:14
(13) 世の中には、心穏やかで、また周囲の人たちとも仲良くする人もおれば、何時もいらいらして周囲の人びとにも不安のまき散らす人もいる。そういう人は、周囲の人に嫌われるだけではなく、自分自身も生きづらいであろう。2:3:15~16
(14) 心の穏やかな人が本当の「平和をつくり出す人(ピースメイカー)」で、その人の周囲にはつねに平和な風が吹いている。2:3:17
(15) 惨めな現実においては、心の安らぎは、気に食わないことに目をつぶるよりは、ジッと忍耐することによって得られる。2:3:18
(16) 苦難を耐え忍んでこそ、最大の平安が与えられる。その人は自我を克服した者、この世を制服した人、神の友、天国の世継ぎと呼ばれる。2:3:19~20

第4章 純真な心と素朴な意図とについて

(1) 二つの翼によって人は煩わしい現実を越えて高く昇る。素朴と純真とがこれである。2:4:1
(2) 素直な動機で始め、それを純粋な気持ちで続ける。2:4:2
(3) 素朴な心で神に近づき、清純な心で神を理解し、神と共に歩む。2:4:3
(4) あなたの良い行為を妨げるものは、あなたの内に潜む過度な欲望である。2:4:4
(5) 先ず、神の御心と隣人の幸せを求めなさい。そうすれば、あなたは心の自由を楽しむことが出来る。2:4:5
(6) 小さなものから大きなものまで、すべての被造物は、創造主の御心を映している。だから、あなたの心さえ歪んでいなければ、聖書と同じように、神の御心を読み取ることが出来る。2:4:6~7
(7) 何でも、汚れのない純真な目で見さえすれば、それをありのままに見て、理解することが出来る。純真なまなざしは、天国でも地獄でも、隅から隅までキッチリと見通すことが出来るのだ。2:4:8~9
(8) 人間は自分自身の心の状態に従って、外の世界を判断している。2:4:10
(9) もしこの世になんらかの喜びがあるとすれば、それは心の清い人のものである。また悲しみと不安があるとすれば、それを最もよく知っているのは心の汚れた人である。2:4:11~12
(10) 鉄は火の中で不純物が取り除かれ、鋼鉄になる。人間は神の御手の中で、古き自我が取り除かれ、新しい人間に生まれ変わる。2:4:13
(11) ダラダラ生きていると一寸した苦労でも参ってしまい、人に頼ってしまう。しかし自分自身の足でしっかり歩き出せば、克服できない困難はない。2:4:14~15

第5章 自己省察について

(1) 自信過剰はいけません。まず、自分に欠けている点をはっきりと自覚するところから、始めましょうよ。2:5:1
(2) 私たちにはほのかな光しかないが、このほのかなものすら、怠慢のゆえに失いがちである。2:5:2
(3) 聖職者よ、あなたは霊のことが分かっていない、ということに気付いていない。2:5:3
(4) 人間はしょっちゅう悪いことをしでかす。しかも、もっと悪いことに、それにいい訳をする。人間は時には一つのことに拘る。しかも、もっと悪いことに、それを情熱だと誤解している。2:5:4
(5) 私たちは隣人の小さい欠点を突っ突くが、自分の大きな欠点には気付かないらしい。2:5:5
(6) 人間は人から批判されたり、悪口を言われると、すぐに怒り、反撥するものだ。しかし、他の人が私によってどれ程傷ついているのかということには全く無頓着である。2:5:6
(7) まず、自分の欠点を細かく、正確に吟味してご覧。そうすればそう簡単に人を裁くことができなくなるでしょう。2:5:7
(8) 内省的な人は、何事をするにも、先ず自分自身のことを反省する。そうすれば、周囲の人びとのことにも考えが及び、語るべきことと、語ってはいけないこととを判断する。そういう人は周囲の人びとからも尊敬される。2:5:8~10
(9) 精神を統一して内なる神に目を注げば、世間のことなどどうでもよくなる。2:5:11
(10) 自己中心は良くないが、自己を見失ったあなたは一体どこにいるのでしょうね。世の中の雑事に忙しく働いて、一体何が得られるのだろうか。2:5:12
(11) 何を差し措いても、まず、あなた自身とはっきりと向かい合え。そうすればあなたが望んでいる平安と心のバランスをもつことが出来る。2:5:13
(12) この世の思い煩い、雑事から超然とせよ。そうしたら大物になれる。この世での大物ではないよ。2:5:14
(13) この世のものに魅惑されたら、霊的進歩は停まる。神以外のもに心が奪われてはならない。2:5:15~16
(14) 被造物からくる慰めなんていうものは、それが何であるにせよ、全く虚しいものなのだ。だから本当に神を愛する人は、神以下のすべてのものに惹きつけられはしない。2:5:17~18
(15) ただ神だけが永遠であり、果てしなく、「すべてにおいて、すべてを満たしておられる」(エフェソ1:23)。私たちの心の安らぎも喜びもそこから出てくる。2:5:19

第6章 良心に従うことの喜びについて

(1) 良心に恥じるところがないことは、その人の誇りとなる。自分の良心を清く保て。そうすれば常に喜ぶことが出来る。良心に恥じることがなければ、どのような逆境にも耐え忍び、幸せを失うことはない。2:6:1~3
(2) 良心に従っていないとき、常に恐れ、不安をいだく。良心に恥じるところがなければ、いつでも安心しておられる。もちろん、正しいことをするときには、それを喜ぶことが出来る。2:6:4~6
(3) 悪い人は「幸せだな」と思うときがなく、心から安らぐことはない。たとい彼らが「俺たちには心配事がなく、なんの災いもふりかかることはない」と言っても、彼らの言葉を信じてはならない。神が怒れば、彼らの言葉も行為もすべて消えてしまう。2:6:7~8
(4) 愛を実践しようと思っている人は、苦難の中でもそれを苦難とは思わず、常に輝いている。なぜなら十字架におけるキリストの苦難を知っており、キリストはそれに勝利されたからである。2:6:9
(5) この世の人びとによって与えられたり、与えたりする栄誉などは一時的なものに過ぎない。2:6:10
(6) この世における栄誉には、常に悲哀が伴っているものだ。2:6:11
(7) 正しい人の名誉は人びとの口先ではなく、その人の心の中にある。正直者の喜びは神から与えられ、神によるのであり、正直者の喜びは真理に基づいている。2:6:12~13
(8) 永遠に変わらない喜びを求める人にとっては、この世が与えてくれる喜びなど、どうでもいいことだ。逆に、この世での喜びを求める人にとっては、天のことなどどうでもいいんだろうね。心に平安のある人は、世の中の人びとの不評や誉め言葉など気にしない。2:6:14~16
(9) 心の清い人は、すべてのことに満足し、穏やかである。人から褒められたから清くなる訳でもないし、同じようにそしられたから悪くなる訳でもない。あなたはあなたであり、神はそのままのあなたのことをよくご存じなのだ。だから神の前で良い格好してもあなた以上のもにはなれないのだ。2:6:17~19
(10) 自分の心の中をはっきりと反省できる人は、他人の評価など気にしない。人間はあなたの外見を見るが、神はあなたの心を見る。人は結果を見るが、神は意図を見る。すべてのことについて、自分のためではなく、隣人の益のために行いなさい。それがあなたの謙遜の印である。2:6:20~23
(11) この世での楽しみを求めないことこそ、あなたの心の清さと神への信頼の証しである。2:6:24
(12) 人の推薦を求めず、すべてのこと神に委ねなさい。使徒パウロも言っている。「自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである」(2コリント10:18)。神と共に歩み、人からの称賛に囚われないのが内的な人の姿である。2:6:25~27

第7章 イエスを一途に愛すること

(1) 幸いな人とは、身の程も顧みずに一途にイエスを愛する人である。イエスは嫉妬深く、二股に掛けた愛を憎む。2:7:1~2
(2) この世に属するものへの愛とは、愛していると思っているだけで実は幻想である。イエスヘの愛のみが真実であり永続する。この世の物への執着は、それがなくなってしまうと共になくなる。しかしイエスとの親密な関係は永遠である。だからイエスと親しくなりなさい。すべての友があなたを見捨てても、イエスだけはあなたを見捨てず、守られる。いずれあなたが望もうと望まないでも、この世の友とは別れなければならないのである。2:7:3~6
(3) 生きるときも、死ぬときも、イエスから離れず、すべてのことをイエスの誠に委ねてしまいなさい。すベての人があなたを見捨てても、イエスはあなたを守る。2:7:7
(4) イエスはあなたの愛を独占し、あなたの心を誰にも引き渡さず、あなたの支配者になる。それがイエスの特質である。2:7:8
(5) あなたがこの世への愛をいっさい断ち切るならば、イエスは喜んであなたと同居なさる。そして一寸でもイエス以外のものに愛を向けたら、あなたにとってそれは大きなマイナスになる。風にそよぐ葦に心を奪われてはならない。2:7:9~11
(6) うわベにだけ見て良き友人だと思っていても、その人の内面が見えてくるとガッカリする。慰められること励まされることを友人に期待するとしばしば裏切られる。2:7:12~13
(7) すべての出来事の中にイエスを求めよ。そうすれば、必ずそこにイエスが居られる。すべての出来事の中にあなた自身を求めたら、そこにあなた自身を発見するだろうが、そこで必ず失望する。もし、そこにイエスを求めなければ、あなた自身にとって、世界中の悪を束ねたような最悪の事態を招くことになる。2:7:14~15


第8章 イエスとの親密さについて

(1) イエスが共におられると、何でも上手くいくが、イエスが共におられないと、すべてのことが難くなる。2:8:1~2
(2) イエスがあなたの心に語りかけると、他の何かに慰めを求める必要ななくなる。イエスの一言が大きな慰めとなる。弟が死んで泣いていたマリアに、姉のマルタが「イエス様が来られてあなたを呼んでいますよ」と声を掛けたとき、マリアは即座に立ち上がりましたよね(ヨハネ11:28)。2:8:3~5
(3) イエスの言葉によって涙が喜びへ転換することは、何という幸いであろう。イエスが共におられないとき、魂はひからびる。イエス以外の何ものかを求めることは、いかに愚かなことか。それは全世界を失うに等しいことだ。2:8:6~8
(4) この世があなたに何を与えてくれるというのだ。イエスから離れてしまったら、そこは地獄である。イエスが共にいれば、どんなところでも、そこは天国だ。2:8:9~10
(5) イエスが共におられるなら、あなたは怖いもの知らずだ。2:8:11
(6) イエスを発見した人は、宝の山を発見したようなものだ。確かに、これ以上に善いものはない。イエスを失った人は、莫大な財産を失ったようなものだ。全世界を天秤に掛けても損失が大きい。2:8:12~13
(7) イエスと親しくなるためには特殊な能力が必要だ。彼を引き留めておくためにはさらに大きな知恵が必要だ。2:8:14
(8) 柔和で謙遜であれ。イエスが一緒に住みたいのは、そんな人だ。2:8:15
(9) あなたの心がこの世のものに傾けば、それだけイエスから遠ざかり、恵みも失われることになる。イエスから離れて誰を頼りにするんだ。誰もあなたを助けてくれないよ。2:8:16~17
(10) 友人のいない人生は寂しいものだろう。イエスが最も親しい友人であったらどんなに幸せなことだろう。イエス以外の者を友人としても、結局は長続きなどしないものだ。2:8:18~19
(11) イエスと仲違いするくらいなら、全世界を敵とせよ。全ての友人の中でイエスを第1の友人とせよ。2:8:20~21
(12) イエスのために、誰とでも仲良くせよ。しかしイエスとの関係は特別に親密でなければならない。2:8:22
(13) イエス・キリストは全ての人びとのために良いことを考え、良い友であるので、全ての人たちから愛されるだけのことはある。2:8:23
(14) キリストのため、またキリストにあって、あなたは敵をも味方をも同様に愛す。それなら、彼らがすべてキリストを知りかつ愛するようにと祈らねばならない。2:8:24
(15) あなたはすべてのことにおいて、すべての人から、褒められること、愛されることを願ってはならない。それは何者とも比較できない神にのみ許されている特権だからである。2:8:25
(16) 誰かがあなたのファンになることを願ったり、逆にあなたが誰かの追っかけになってはいけない。ただあなた自身やあなたの周りにいる人々の心の中にイエスが住むことを願いなさい。2:8:26
(17) あなたの心の中を整理して、自由になりなさい。この世の富に惑わされてはならない。2:8:27
(18) 神のすばらしさを体験しようと思うなら、まずあなたは素直にならなければならない。神は純粋な心にご自分の姿を見せられる。2:8:28
(19) 神の助け、神の許しがなければ、恵みの道を歩むこともできない。この世のすべてのしがらみから解放されたら、あなたは主の属するものとされる。2:8:29
(20) 神の恵みが与えられれば、何にでも挑戦する勇気が与えられる。しかし逆にこの恵みが取り上げられたら、弱虫になりしょんぼりする。しかし、そんな場合で場合でも落ち込んでしまってはならない。むしろそういうときにこそ、落ち着いて神の御心がどこにあるかを考えよ。なぜなら冬のあとには春が来る。夜は必ず明けるし、雨が降りやめば、空は晴れる。2:8:30~32


第9章 世間から見捨てられ、全く孤立してしまったとき

(1) 神の愛を身近に感じている人は、友人による慰めがなくても気にしない。2:9:1
(2) 人からの、そして神からの慰めが聞かれなくても、神の栄光のために寂しさに堪え、無駄な努力をしないでじっと我慢すること素晴らしいことだ。本当に偉大なことである。2:9:2
(3) 神の恵みがくだる時、あなたが喜びと敬虔とに満ちていたとしても、それは大したことではない。そんなことは誰でも望んでいることで当たり前すぎる。2:9:3
(4) 神の恵みに導かれる人は、すべてのことにおいて順調である。すべてのことをご存じの方が先導しているのであるから、道に迷うこともなく、疲れることもない。2:9:4~5
(5) 人間は誰でもこの世への思い克服したいと願っている。しかし自力でそれをすることができないので、つい誰かに依存してしまうことになる。しかし、この世において、愛し、尊敬している人が亡くなったとき、キリストへの愛の故にそれを堪え忍ぶことにより、この世への思いを断ち切ることを学ぶ。2:9:6~7
(6) 修道者とは神への愛によって人への愛に打ち勝ち、人からの慰めよりもむしろ神の御心に従って生きる道を選ぶ。そのために、最も親しい心の友をも神への愛の故に捨てる覚悟が必要である。また、そのことの故に、その友人から捨てられたとしても落胆してはならない。誰でも最後は一人になるものだ。2:9:8~10
(7) 自我を捨て、神にすべてを捧げるまでには、苦しみ嘆く自己との戦いが必要である。自己を頼みとする限り、人間は人間を頼りにし、人々からの慰めを期待する。2:9:11~12
(8) キリストを愛し、キリストを見倣おうとする者は、人間からの慰めや励ましを求めない。むしろ、そのために苦しむことを喜びとする。2:9:13
(9) 神の賜物は、遠慮なく、喜んで、大胆に頂きましょう。ただ、そのとき、この賜物は私の何かに対するご褒美と思ってはならない。それをご褒美だと思った瞬間、あなたは傲慢になる。だから、賜物が立派であれば立派であるほど、ますます謙遜に、要用心。一寸でも油断すると、傲慢になり、その喜びはたちまち消えて、後は不安だけが残る。2:9:14~15
(10) 神から恵みを頂くと、大喜びをして、「わたしはとこしえに揺らぐことはない」(詩30:7)という。しかしその賜物が取り上げられると、「わたしはたちまち恐怖に陥りいました」(同8節)という。これが人間だ。2:9:18~19
(11) 絶望的な状況においてもなお、失望せず、さらに力を込めて「ああ、主よ、私はあなたを信じて祈っています」と言う。そしてその祈りが聞き入れられた時には、「主は私の祈りを聞き、私を憐れんでくださった」と賛美し、「主は私の嘆きを喜びに変え、あふれるばかりの喜びで満たして下さった」と言う。2:9:20~22
(12) 神の目には偉大な聖人も、貧しくて弱い人々も、違いがない。従って偉大な聖人たちになさったことは貧しくて弱い私たちにもなさるのである。聖霊は聖霊自ら良いと思われることを全ての人に対してなさるのである。2:9:23~24
(13) 神の憐れみと恵みのみが私たちの希望や人を信じることの根拠である。たとえ信仰深い善良な人々と交わり、聖書を読み、美しい聖歌を歌ったとしても、神から見離されたら、それらのことは全て泡のように消えてしまう。そういう場合にはひたすら神の御旨に全てをお任せするのが最善の治療である。2:9:25~27
(14) どんなに霊的で信心深い人であつても、魂の渇きを経験するし、情熱が冷めることもある。どれほど高潔な聖人でも、迷ったり、誘惑されないというような人はいない。2:9:28~29
(15) 神への愛ゆえに、悩み苦しんだことのない人は、瞑想をするに値いしない。人にとって、誘惑は、その後に訪れる心の安らぎの先取りである。誘惑を克服した者にのみ、天よりの祝福が約束されている。主は語られた。「勝利を得る者には、わたしは命の木の実を食ベることを許そう(黙示録2:7)」と。2:9:30~32
(16) 人間が逆境に強くなるために、神は試練を与えられる。また、逆境を乗り越えたときにも、人間が自分自身を誇らないように厳しい目を向けられる。悪魔が不眠不休でスキを狙っているからだ。2:9:34~36

第10章 神の恵みを感謝すベきこと

(1) 人間が創造された目的は、働くことの喜びのためである。それなのに、なぜあなたはさぼろうとするのか。2:10:1
(2) 慰められることよりも、我慢することを、楽しむことよりも、苦労することを求めよ。この世の人々でも、慰められ、楽しめるならば、どんな苦労もいとわず、我慢するものだ。2:10:2~3
(3) 心の安らぎは、この世のどんな遊びや娯楽よりも勝っている。この世の楽しみは、すぐに消えてしまうし、何かいかがわしさが伴うものである。しかし心の安らぎは天来ものである。 2:10:4~6
(4) しかし人はこの神からの慰めを自分の思うままにいつでも受けるわけにはいかない。誘惑されない期間というものは短く滅多にないことだからである。2:10:7
(5) わがままと自信過剰とは天からの恵みの通路をふさぐ。神は私たちを通して善を行われようとするが、私たちの心がゆがんでいるために悪になってしまう。2:10:8~9
(6) 神は受けた恵みを謙遜に感謝する者には、さらに恵みを与え、高慢にもその恵みを感謝せず、自分の力に帰し独占しようとする者からは、その恵みさえ取り上げらられる。2:10:10~11
(7) 私はざんげする心がなくなるような平安は望まないし、高慢になるような瞑想も望まない。なぜなら、高められたものがすベて聖なのではなく、楽しいものがすべて善なのではないから。またあらゆる情愛が清いわけではなく、すべての愛すべきものが神を喜ばせはしない。2:10:12~13
(8) もっと謙遜になり、もっと慎重になり、自から喜んで自分を捨てたくなるような恵みを待ち望む。2:10:14
(9) せっかく与えられた賜物を取り上げられたときの悲しみを味わった人は、心の目が開かれ、どんなに良いものを得たとしても自分自身を誇らないものだ。なぜならその人は自分自身の貧しさを悟ったからだ。2:10:15
(10) 「神のものは神に返しなさい」。そしたら、あなたのものはあなたに返してもよい。言い換えると、神の恵みについては賛美を捧げ、あなた自身のことについては罪を反省し、それに相応する罰が少なくなったことを思い起こしなさい。2:10:16
(12) どんなところであっても、自分をそこで最も低い者と考えよ。そうすれば、最も高い地位が与えられる(ルカ14:10)。最低の者がいなければ、最高の者の立場はない。神のみ前において最高の地位に立っ聖人たちは、この世においては、彼自身を最低の者と見なしていたのである。2:10:17~19
(13) 教会において高い地位に置かれた者は、ますますへりくだらなければならない。彼らにとってこの世の栄誉など、むなしいものであったはずだ。2:10:20
(14) 教会の中で高い地位に就くような人は、神によって人格が鍛えられているので、高ぶるというようなことはあり得ないことだ。高位聖職者たちは全ての才能を神から与えられたものと認め、自己の栄誉を求めない。ただ、人々から聖人として尊敬されることを願い、日々に励んでいる筈だ。2:10:21~22
(15) 高位聖職者はどんなに些細なことにであっても感謝を忘れてはならない。感謝すればさらに大きな恵みが与えられ、多くの人々を祝福することができる。大きなことにでも小さなことにでも、同じように感謝し、普段の恵みも特別な恵みとして味わう。2:10:23~24
(16) 賜物の与え主の貴さを思えば、どんなにつまらなそうに見えるものでも、ありがたいはずだ。それには名誉という勲章がついている。2:10:25
(17)
主が与えられるのなら、どんな罰でも鞭でも、私は受け取る。それは必ず私のためになると信じるからだ。2:10:26
(18) 神の恵みのうちにとどまるためなら、どんなことでも恵みとして受け止め、感謝する。また、その恵みが取り上げられたときにも我慢し、再びそれが与えられることを祈る。2:10:27~28

第11章 イエスと共にいること

(1) 今やイエスの天国を慕う者は少なくない。しかし彼の十字架を負おうとする者は少ない。彼の慰めを求める者は多い。しかし彼の苦しみを分かち合おうとする者はもっと少ない。2:11:1~2
(2) イエスと共に食卓を囲みたいと願う者は多い。しかしイエスと共に断食したいと願う者は少ない。わたしたちはみな彼と共に喜ぶことを願う。しかし彼のために多少でも苦しむことを望む者はまれである。2:11:3~4
(3) 多くの人はパンを裂かれるイエスに従う。しかし彼の苦難の杯を飲む人は少ない。多くの奇跡に驚嘆する人は多い。しかし彼の十字架の辱しめを受ける人は少ない。2:11:5~6
(4) 多くの人は逆境にあわないうちはイエスを愛する。多くの人は彼からなんらかの慰めを受けているあいだは、彼をたたえかつ祝福する。しかし、イエスがみ姿を隠し、わずかひとときでも彼らをお離れになると、彼らはつぶやき始めるか落胆し出すかする。2:11:7~9
(5) イエスを自分の慰めのために愛するのではなく、イエスであるが故に愛する者は、どんなに苦しい時にでも、大きな慰めを受け、彼をあがめることができるのだ。2:11:10
(6) たといイエスが慰めをお与えにならないとしても、私たちは常にイエスをあがめ、イエスに感謝する。もう、すでに決定的な恵みを頂いているのだから。2:11:11
(7) 自己中心的な心と利害意識から解放されるときにのみ、イエスを純粋に愛することができる。自分の損得によって判断するのは雇われ人根性である。そこにはイエスへの愛はない。ただ、ひたすらに神に仕え、神を愛する人はどこにいるのだろうか。2:11:12~15
(8) この世における一切のしがらみから抜け出せるほど霊的な人は、めったにいない。2:11:16
(9) 真に心貧しく、この世における全ての価値あるものから離脱しているような聖人を見たことがない。もし、そのような人が存在していたら、それは遠い外国から運ばれてきた希少価値のある珍獣みたいなものである。2:11:17~18
(10)
自分の財産を全て施したとしても大したことではない。厳しい苦行を経験したとしても、まだ十分ではない。あらゆる学芸に達したとしても、なお目標からはほど遠い。どれほど品行方正にしてあつい信仰を持っていても、なお、最も大切なものが一つ欠けている。それは完全に自己自身を棄てきり、自我からも解放され一点の自己愛も残していないということだ。2:11:19~24
(11) 自我から完全に解放されている人は、自分自身に課せられた義務をすべて果たしたときでも、何事もなさなかったかのように涼しい顔をしているものだ。2:11:25
(12) 真の意味での謙遜な人とは、大きな事をしたときでも、大きな事とは思わないで、「私は無力な人間に過ぎません。なすべき事をしただけです」(ルカ17:10)と告白できる人のことである。2:11:26
(13) 真に自分の無力さを知っている人間は、預言者と共に「御顔を向けて、私を憐れんでください。私は貧しく、孤独です」(詩25:16)と言い得るであろう。しかし本当に豊かな人とはそういう人のことである。全てを棄てて自分自身を最低のところにおける人ほど自由な人はいない。2:11:27~29

第12章 十字架を背負って従う

(1) 多くの人にとって「自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従って来なさい」という命令は厳しい言葉のように思われる。しかし「呪われた者どもよ、私を離れて永遠の火にはいってしまえ」という最後の宣告を聞く方がもっと厳しいであろう。2:12:1~2
(2) 十字架を負えという招きを今、喜んで聞き、それを実行する人は、永遠の刑罰という宣告を聞く恐れはなくなる。2:12:3
(3) 最後の審判の日、十字架のしるしが天に現われるであろう。その時すべて十字架に従った人々、この世にあってキリストにならおうとした人々は、大きな確信をもって彼のもとに集まるであろう。 2:12:4~5
(4) 十字架は天国へのパスポートである。今すぐ、十字架を手にするが良い。十字架には救いがあり、生命がある。十字架こそが敵の攻撃を撃退する最大の防御である。2:12:6~7
(5) 十字架にはこの世ものとは思えない甘さがあり、心の糧であり、霊的な喜びがある。十字架こそが良き行いの宝庫であり、そこにはキリスト者の完全、ホーリネスがある。2:12:8~9
(6) 魂の救いも永遠の生命の希望も十字架以外にはない。だから、あなた自身の十字架を背負ってイエスに従いなさい。そうすればあなたは限りない生命を手に入れることができる。2:12:10~11
(7) イエスはご自身の十字架を負ってあなたの一歩前を歩き、十字架の上であなたのために死なれたのだ。それは、あなたに十字架の背負い方、死に方の模範を示されたということなのだ。2:12:12
(8) あなたがキリストと共に死ぬならば、キリストと共に生きる。あなたがキリストの苦難にあずかるならば、またキリストの栄光にもあずかる。2:12:13~14
(9) 一切は十字架であり、十字架で死ぬことである。聖なる十字架と日々の克己のほかに、生命と真の内的平安への道はない。2:12:15
(10) どこに行っても十字架の道の以上によい道、確実な道はない。全てのことを思うままに整えたとしても、あなたは好むと好まざるとにかかわらず、常になんらかの不満が残る。それがあなたの十字架である。その不満は肉体的な痛みの場合もあるし、あるいは霊的な苦しみの場合もある。2:12:16~18
(11) 時には神から見捨られ、あるいは友人たちからも悪口を言われることもある。それはあなたにとっての大変な苦しみとなる。その苦しみは、神が「もう止めろ」と仰るまで続き、その間、あなたは我慢しなければならない。しかし、そのことを通して、神はあなたに慰めのない心細さと、神の助けを待ち望むことを教え、あなたは、忍耐と謙遜とを学ぶのである。2:12:19~21
(12) キリストの苦難をもっとも深く理解している人とは、それと同じような苦難にあった人だけである。あなたの周りには、そのような苦難がいくらでもある。それを避けようとして逃げ回っても、逃げ切れるものではない。どこまでも追いかけてきて、あなたを苦しめる。上を見て、下を見て、外を見て、内を見て、至る所にあなたの十字架がある。真の心の平安を保ち、永遠の冠を手に入れようと願うなら、あなたの十字架と向かい合い、それに耐えなければならない。2:12:25
(13) あなたが喜んで十字架を担うならば、十字架もあなたを担い、あなたの願いは適う。そこであなたの苦難が終わる。そして、そのような場所はこの地上にはない。2:12:26
(14) あなたがあなたの十字架を渋々担っていると、あなた自身があなたの重荷となり、その重さは日々に増し加わる。それでもあなたの十字架はなくならない。一つの十字架を拒否すれば、さらに重い十字架があなたを待ち受けている。2:12:27~28
(15) あなたは、かつて誰も避けることができなかった道を避けようとしている。優れた聖人たちでさえ、十字架と苦難のない安楽な生き方はできなかったのだ。いいか、私たちの主、イエス・キリストでさえ、地上で生きておられる間、人間としての苦難を避けることはできなかったのだ。聖書にも書いてあるではないか。「キリストは必ず苦しみを受けて、死人の中からよみがえり、その栄光に入るはずではないか」。それなのに、あなたはこの聖なる十字架の道を外して別の道を探しているのか。2:12:29~32
(16) 私たちの主の一生は十字架と殉教とであった。それにもかかわらず、あなたは安楽な道を歩こうとしている。もしあなたが苦難以外の何かを求めているのだとしたら、それは大きな間違いである。人生とは、試練にみち、十字架にみちているものなのだ。2:12:34~35
(17) 人は霊的に向上すればするほど、悲しむ人たちに対する愛が増すので、自己に対する責任を重く感じるものである。その責任を自己の十字架と認識し、それを担う人には、それに応じて神の恵みも与えられる。2:12:36~38
(18) 肉体的な苦痛は、霊的な喜びに転換される。キリストの十字架への愛は、喜んで苦難と逆境とを受けるということである。神のための苦しみを忍ぶということは、神の御旨に従っているという確信を生み出す。2:12:39~41
(19) 普通の人間が恐れ、そこから逃げ出したくなるようなことを、弱い肉体にもかかわらず喜んで挑戦し、それを貫徹するのは神の恵みによる。2:12:42
(20) 十字架をにない、十字架を愛し、自分の肉体を打ちたたいて服従させ、有名になることを避け、進んでそしりに耐え、自分をさげすみ、人にさげすまれることを願い、反対と辱めとを辛抱強く忍び、この世における栄達を望まないというのは人の本来の性質に反することである。2:12:43
(21) 自分の力を頼りにしている限り、不可能なことも、主を信じているならば、天の助けによって可能となる。信仰によって武装し、十字架を旗標とするなら、悪魔も恐れるに足らない。2:12:44~46。
(22) 善かつ忠なる下僕として、主と共に、雄々しく十字架を担え。生きることの苦悩は避けることのできないのが人間の運命であり、逆にそれを克服することによって、主の友となれ。主もあなたの友として、苦難を分け持ってくださる。2:12:47~51
(23) いかなる患難も、それを祝福として受けとめる備えをせよ。今の時の苦しみは、たといそれ全部をあなた一人で引き受けても、なお来たるベき栄光にくらベれば取る足りない。2:12:52
(24) 患難も喜び、キリストへの愛ゆえにそれを楽しむことができるようになれば、その時こそ全てのことはあなたの益になり、この世は天国になる。逆に、苦難があなたを覆い被さり、それから逃げだそうと喘ぐとき、苦難はますます付きまとう。2:12:53~54
(25) 逆境や苦難を人生の当然のこととして受け入れると、不思議に苦難という罠から救出され、穏やかになる。パウロと共に第三の天を見て、有頂天になったとしても、決して逆境から救出される保証にはならない。主もパウロについて「わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」と言っておられる。だからイエスを愛し、彼に永遠まで仕えたいと望むならば、苦難を喜んで受けたらいい。2:12:55~58
(26) あなたがイエスのみ名のために苦しめられるようになったら、それは栄光なことだ。すベての聖人たちはそのために励んでいるのだ。忍耐を勧める者は多いが、実際に喜んで忍耐する者は少ない。この世のことで苦労する者が多いのだから、キリストのために喜んで骨を折るのは当然ではないか。2:12:59~61
(27) 何よりも先ず、あなたの自我を殺して生きるのだ。そうすれば、神が働き始める。その上で、キリストのゆえに逆境をも喜んで受け入れよ。そうしない限り、天のことを理解することはできない。キリストのため喜んで苦しむこと以上に、神をお喜ばせすることはなく、この世においてあなたのために有益なことはない。2:12:62~65
(28) あなたがキリストと多くの聖人たち倣う者になりたいなら、多くの慰めを与えられるよりも、逆境を忍ぶ方を取るベきである。なぜなら、私たちの人格的成長と霊性の進歩とは、楽しみや慰めが多いところにあるのではなく、むしろ大きな試練や患難を忍ぶところにあるのだ。2:12:66~67
(29) 救いのために苦難の十字架以上に有効な方法があれば、キリストは必ずその道をお示しになったに違いない。しかしキリストは弟子たちに「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい」ということを教えになった。私はいろいろ調べ、考えた結果、その結論は、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦難を経なければならない」ということであった。2:12:68~70

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