ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

現代語版イミタチオ・クリスチ第2巻第2部(13章〜34章)

2017-05-27 09:12:33 | 現代語版イミタチオ・...
現代語版イミタチオ・クリスチ第2巻第2部(13章〜34章)

第2部 キリストは修道者の心に語りかける

第2巻の第2部は、岩波訳(トマス版)では第3巻になっている。この部分について、「現代における『イミタチオ』研究の権威ヴァン・ヒンネケンは、この第2部が第2巻中の圧巻である、と評している」(由木康、解説p.262)。
この部分は、Dominus(主)とServus(奴隷)との対話という形式になっている。これを由木訳では「イエス・キリスト」と「弟子」と訳し、岩波版では「キリスト」と「信者」と訳している。この対話はあくまでも心の内部(interna)でも対話であり、要するに修道者の「内面対話」である。ということで、私は「キリストと修道者」という言葉を使うこととする。その上で、全体が対話という形をとっているので、全面的に会話体に改めました。なお、キリストが修道者に呼びかける「わが子よ」という言葉は、基本的には「愛する者よ」に書き改めました。

第13章 内面対話への準備

この章のタイトル、由木訳では「わたしたちのうちで話されるキリストに聞くための魂の備えをなすべきこと」、岩波訳では「信実な魂とキリストとの内面的な対話」と訳している。私はあえて、その内容から考えて、「内面対話への準備」とした。
ここでは、無駄な繰り返しや、聖書の引用個所を省く。

修道者:
私は主なる神が語られることを耳を澄まして聞きます。私の心の中で主が語られることを聞き、その言葉によって慰められることは幸いです。この世の騒がしい言葉に耳を奪われことなく、神のささやきを霊の耳で聞けたら幸いです。心の中で語られる真理を聞けることは幸いです。
外界に煩わされることなく内面の世界を見る目を持てることは幸いです。天の秘儀を悟るために、日頃から自分の内面を探り、待つことは幸いです。常に神を見上げ、上を目指して励み、それ以外のことを全て棄てることができれば幸いです。
ですから私は全ての肉欲を封印し、ただ主なる神が心の内で語られる言葉に集中いたします。(2:13:1~8)

キリスト:
私は君たちを救います。私は君たちの平安となり、生命となります。私の中にとどまっていなさい。そうすれば安心が与えられます。全ての過ぎゆくものを捨てて、永遠であるものを求めなさい。この世のものは全て虚しく、過ぎ去るのです。造り主から見離されたら、全ての造られたものは、無となります。だから、そのようなものをすべて捨てて君たち自身を造られた者として自覚し、造られた目的を悟りなさい。それは君たち自身の永遠の救いのためなのです。(2:13:9~14)

第14章 真理は内面に語りかける

修道者:
主なる神よ、お話しください、あなたの下僕は聞いています。あなたの言葉を理解させてください。私の耳を鋭くして、あなたの言葉を一言も聞き漏らさないようにしてください。
昔、イスラエルの民はモーセに「あなたが私たちに話してください。そうすればその通りに従います。神が直接私たちに語りかけないように。もしそんなことになったら、私たちは生きておれないでしょう」と頼みました。
しかし、私はそのような祈りはいたしません。むしろ預言者サムエルと同じように、へりくだって、「あなたの下僕は聞いています。主よ、お話しください」とお願いいたします。私の望みはモーセでもなく他の預言者たちでもありません。ただ、あなた御自身の言葉です。あなたが全ての預言者たちに霊感と光とをもって語られたように、私にもお語りください。
あなたは預言者たちを通さなくても私に直接語ることができます。しかし彼らはあなたによらなければ何事も成しとげることができません。彼らは立派な言葉を述ベるかも知れませんが、霊を与えることはできません。彼らは美しいことを語りますが、あなたによらなければ、心を燃やすことはできません。彼らは私たちに文字を教えますが、あなたはその意味を解き明かしてくださいます。彼らは霊的な奥義を差し出してくれますが、あなたはその秘義を悟らせてくださいます。彼らは戒めを教えますが、あなたはそれを守る恵みと力とをお与えになります。彼らは道を示しますが、あなたはそこを歩く力をお与えになります。彼らは外面的な働きをするだけですが、あなたは内心を教え照らしてくださいます。彼らは外から木に水を注ぎますが、あなたは実を結ばせてくださいます。彼らは言葉をもって叫びますが、あなたは聞く者に悟りをお与えになります。(2:14:1~15)

修行者:
主なる神よ、永遠の真理よ、モーセに語らせず、あなたご自身が語ってください。もし外から教えられるだけで内から燃やされなかったら、私は実を結ぶことができないまま、朽ちてしまうでしょう。もしあなたの言葉を聞いてそれを行なわず、あなたの言葉を知ってそれを愛せず、あなたの言葉を信じてそれを守らなかったならば、それはかえって私の罪となるでしょう。ですから、主よ、お話しください、あなたの下僕は聞いています。永遠の命の言葉はあなたにあります。 私の内で語ってください、私の魂が慰められ、私の生活が全く改善され、あなたが永遠に誉め称えられますように。アーメン(2:14:16~19)

第15章 神の言葉を聞く

キリスト:
愛する者よ、私の言葉を聞きなさい。私の言葉は楽しく、この世の誰の言葉よりもいいものだよ。私の言葉は霊であり、命なのだ。だから人間の頭で理解できるようなものじゃないよ。だから恭しい姿勢で謙遜に愛をもって受け止めなければなりません。(2:15:1~3)

修道者:
主なる神よ、あなたが仰る通りです。あなたから諭され、あなたの掟を教えて頂くことは幸いです。危険なとき、それを避ける道を教えてくださいます。あなたに聞き従う者が不幸な目に遭わないように配慮してくださいます。(2:15:4)

キリスト:
愛する者よ、私はずーっと昔から預言者たちに語りかけ、教えてきました。そして今もなお全ての人に語りかけています。しかし多くの人は私の言葉には無関心で聞こうとしていません。彼らは私の言葉よりもこの世の人々の声を聞きたいと思っているようです。彼らは私のことよりもこの世のことに興味があるのでしょうね。この世が約束することは些細なこと、過ぎ去ることに過ぎません。それなのに多くの人たちはそのことに必死になっています。私は最高永遠のことを約束していますのに、人々の心は冷ややかです。多くの人たちはこの世とこの世の支配者たちに仕えていて、私に仕えようと思っている人はほとんど居ないようです。(2:15:5~10)

キリスト:
愛する者よ、預言者イザヤも言っているじゃありませんか。「海が言う。『恥よ、シドン』と」。ここでのシドンとは信仰者を指し、海はこの世の人々を意味している。この世の人々が世俗的な利益のためにいかに苦労しているのかを見て、信仰者たちは恥ずかしいと思わないのか。彼らはわずかな利益のために、長い旅もいとわない。しかしあなたたちは永遠の生命のために一歩も動こうとはしない。彼らは些細な利益をあさり求め、少しの金銭のために身を削って戦い、わずかな報酬のために日夜汗を流している。それに比べ、君たちは恥ずかしいことに、朽ちることのない善いことのため、測り知れない永遠の報酬のために、絶えることのない至上の栄誉のために、わずかな労苦さえ堪えないほど無精者である。(2:15:11~14)

キリスト:
愛する者よ、怠け者で愚痴ばっかり言っている下僕たちよ、君たちのために準備されている天国行きの切符の枚数よりも、地獄行きの切符の方がはるかに多いことを恥ずかしいと思わないのか。真理を喜んでいる者よりも、虚しいものを喜んでいる者の数の方が多いということは一体どういうことなんだ。彼らは期侍していることが裏切られてばっかりいるのに、それでもなお望みをかけている。しかし私が君たちに約束したことで裏切ったことがあるか。いつでも、期待以上の結果になり、失望した人は一人も居ないのだ。私の愛のうちにとどまっている限り、私は約束したことは必ず果たすのだ。私があらゆる良い行いに報いる者であり、敬虔な人たちの敬虔さを認める者なのだ。
私は君たちの心に私の言葉を書き込みます。だからその言葉を真剣に考えなさい。その言葉は君が誘惑されそうになったとき、必ず役に立ちます。
私は二つの道を君たちに示します。一つは魅力的な道、そしてもう一つは平凡な道です。どちらの道を選ぶかは君自身が考えることです。最初の道は君自身の欠点を露わにするだろう。もう一つの道は、君のその欠点を克服するために苦しむ道です。私が今、君たちに話していることを注意深く考えなさい。その結果は必ず終わりの日に審査され、判定されます。(2:15:15~23)

第16章 私の心を燃やして下さい

修道者:
主なる神よ、私がもっている良いものはすべてあなたから与えられたものです。なのに、私はあなたに、これ以上何を願えばいいのでしょうか。私は貧相な虫けらにすぎません。だから、口を開けば、つまらなさがよりいっそうばれてしまいます。私には誇るべきことは何一つありません。
主よ、そのことだけは覚えておいてください。あなたは絶対に清く、正しく、全てにおいて良いことで満ちておられます。しかし、あなたは厳しい方で、罪人にはお目を止められません。
主なる神よ、私を忘れないでください。あなたのみ業が無駄にならないように。あなたから見離されたら、私はこの世において生きることもできません。だから私から目を離さないでください。あなたのご配慮を速やかに実行してください。あなたのご配慮がなくなると、私の魂は干涸らび、土の塊のようになってしまいます。
主よ、私があなたのみ旨を行なうことができますように。御前を正しく、へりくだって歩くことができますように。全知全能の神よ、あなたは私が生まれる前から、私のことをすべてご存じです。 (2:16:1~10)

第17章 神の御前で謙遜であるように

キリスト:
愛する者よ、素直な心で真面目に生き、常に私を求めなさい。真面目さが悪い者たちの悪だくみを見破り、真面目であることがあなたを自由にし、他人の嘘を見破り、君を守ります。
自分の罪を大したことがないなどと考えず、想像以上に大きいのだと思いなさい。だからといって、罪の大きさを誇るなんていうバカなことを考えてはいけませんよ。おかしなことに罪人は自慢することが他にないとき、罪の大きさを誇るようになるのです。結局、罪人というのは我利我利亡者に過ぎないのです。その人たちは常に空しいものを求め、うまくいかないと落ち込みます。だから、罪人が自分の罪を自慢すればするほど、実は自分の弱さを宣伝しているようなものだ。だから君には何一つ自慢することがなくていいのです。そんなバカなことを考えず、永遠の真理だけを大切にしなさい。ただ、本当の値打ち、大切なものは永遠に残るものなのです。だから君自身を取るに足らない者、誇るべきものは何一つないものと見なしなさい。(2:17:1~10)

キリスト:
愛する者よ、君がもっとも嫌悪し、責め、憎むべきものは君の罪以外にはありません。ある人々は私のことを無視し、真理をわきまえようともせず、自分自身の救いをなおざりにして、気ままに、好奇心を追い求めて生きている。そういう人たちはやがて自分自身の好奇心と欲望によって滅びるでしょう。
しかし君はただ私の父である神の怒りと裁きとを怖れなさい。ある人たちは神を素直に求めず、生意気にも神について、ああだのこうだのと議論したり、神の御業の欠陥を探し出したりして、正しく生きることを怠けています。ある人たちは書物を読んだり、ある人たちは絵を描いたり、ある人たちは目に見える印や形によって修行しようとしています。ある人たちは口先だけで私の名を唱えますが、心を整えようといたしません。
しかし、君は私の光で内面を照らし、全ての感情を清め、すベての思いと願いとを永遠なるもの、聖なるものに向けて、地上の事がらには耳を貸さないように。この世の財宝やこの世の知識を求めるよりも、ただ私を愛することに専念しなさい。(2:17:11~18)

第18章 神の恵みを思うこと

修道者:
主なる神よ、私の心をあなたの掟に向かわせ、私をあなたの戒めを歩ませてください。あなたの日常的な恵みも、特別な恵みも、感謝いたします。そのためにあなたの御心を私にお示しください。
私はあなたが与えてくださった全ての恵みを受けるに値いしない者です。むしろ、あなたの寛容さに私は呆然としてしまいます。私が持っているものは全て、霊的なものも、肉的なものも、内的なものも、外的なものも、自然のものも、超自然のものも、すべてあなたから与えられたものです。 たとえ他の人と比べて、与えられたものに多い、少ないがあったとしても、それは全てあなたからのプレゼントでることには違いがありません。だから多いからとして自慢することでもないし、少ないからといって不平を言うこともありません。ただ、頂いたことを神に感謝するだけです。自分自身を最も小さい者、最も足らない者であると考える人が、本来最も大きな賜物を受けるにふさわしいのです。だから与えられたものが少ないということで悲しむこともないし、多く与えられている人を羨ましく思うこともありません。(2:18:1~9)

修行者:
主なる神よ、すベての良いものはあなたから与えられます。だから私たちは何でもあなたを賛美いたします。あなたは誰に何が適当かをよくご存じです。だから沢山与えられ者も、少ししか与えられていない者でも、それが最適なのです。ただそれが私たちには分からないのです。
主よ、私には他の人に誇るべきものが何もなくても、考えてみると大きな恵みなんですよね。自分の貧しさや足りなさを自覚している人は、そのことを嘆くことも落胆することもありません。なぜなら、あなたはこの世で軽蔑されている者、へりくだっている者を選び、あなたの友と呼び、家族としてくださいました。その代表が使徒たちです。彼らはつぶやかず、悪意を抱かず、疑問を持たず、謙遜で、純粋で、あなたのみ名のために迫害される者とされたことを喜び、この世で軽蔑されている人たちを喜んで仲間といたしました。(2:18:10~15)

修行者:
主なる神よ、あなたを愛する者たちにとっては、あなたの御心が自分のうちに成しとげられること以上に、大きな喜びはありません。その人は、他の人が人生で成功者となることを願い、自分自身が落ちぶれても気にしません。また、人生において最低の地位であっても、最高の地位にあるかのように生きます。人々から軽蔑され、拒否され、名もなく誉れもなく、忘れ去られても、なお人生における最高の成功者のように喜び、そうなることがその人の願いでさえもあるのです。その人にとっては、あなたのみ旨と栄光を愛することとが全てのことの上位にあります。またあなたを愛する者にとって、あなたがお与えくださったこと、また将来お与えになる一切の恵みが、最高の慰めであり、楽しみなのです。(2:18:16~18)

第19章 穏やかな生活への4つの道

キリスト:
愛する者よ、穏やかで自由な生き方に至る4つの道を教えてあげよう。
まず第1に、常に君の意志よりも他人の意志を尊重しなさい。
第2に、常に多くを求めず、与えられているだけで満足しなさい。
第3に、いかなる状況においても高い地位を求めず、全ての人に仕えることを求めなさい。
第4に、常に神の御心の実現を願いなさい。
そうすれば君は穏やかで自由に生きることができる。(2:19:1~6)

修道者:
主なる神よ、お勧めの言葉を感謝いたします。これらは非常に簡潔ですが、その意味と内容は完璧で大いに役立ちます。これらの言葉を実践すれば、簡単には誘惑されないでしょう。少しでも私が不安になり困ったことになったときにも、この教えによってあるべき道から外れていることに気づかせてくれることでしょう。(2:19:7~10)

第20章 隣人への好奇心について

キリスト:
愛する者よ、隣人を好奇心をもって見てはいけません。また隣人と比較して悩むことはありません。なぜ君は隣人のことをそんなに気にするのですか。ただ君がどう生きているのかということを隣人に示せばそれで十分なのです。隣人は隣人、君は君です。ただ君は私に従いなさい。
いいですか、私は全ての人間を知り尽くし、すべての出来事を見ています。そして、その出来事に、それぞれの個人がどう関わり、何をしようとしているのか、彼らの心中をも見通しています。だから、全てのことを私に任せ、君自身は平静しておればそれでよろしい。騒ぎたい人には騒がしておきなさい。各個人の言葉と行為はその人自身が負わなければなりません。誰も私の目を誤魔化すことはできないからです。
多くの人たちは社会的に地位の高い人の友だちになろうと、あるいは一人でも多くの人を友だちにしようと苦労しています。友人が多いからといって何か良いことでもあるのでしょうか。そういう努力が心の闇の原因となるのです。そんなことに気を使うぐらいなら、ただ、私が再び訪れる日に備えて、心を開いて待っていなさい。私は喜んで君に語りかけ、私の奥義を教えます。だから、常に目を覚まして祈り、全てのことで謙遜になりなさい。(2:20:1~12)

第21章 心の進歩のために

キリスト:
愛する者よ、私はかつて言いました。「私は平安をあなたがたに残す。私の平安をあなたがたに与える。私の与えるのは、世が与えるようなものではない」と。誰でも平安を願っていますが、真の平安をもたらすことについては心を用いていないようです。私が与える平安は心の謙遜・柔和な人にもたらされます。私の声を聞き、私の声に従えば、君は大きな平安が与えられます。君は語ること、行うことにおいて、君自身をよく注意し、私だけを喜ばせ、私以外の何ものも願わないという、だたその一点に注意しなさい。
他人の行動を軽率に批判せず、あなた自身の任務以外のことには関わり合わないようにしなさい。そうすれば、あなたはほとんどの煩わしさから解放されます。
とはいえ、生きている以上は身体的なことなどで完全に煩わしさから逃れることはあり得ません。それは永遠の安息に属することだからです。しかし、僅かに煩わしさが減ったからといって、全てのことがうまくいくという保証ではありません。多少の敬虔や喜びを感じたからといって、それを過大に評価して、それだけ神から特別な愛を受けていると思ってはいけません。人間の進歩には完成ということはないのです。(2:21:1~10)

修道者:
主なる神よ、人間の完成、完全な人間になれますか。(2:21:11)

キリスト:
愛する者よ、大丈夫、君はただ全身全霊をもって主の御心を行うことに専心しなさい。大きなことでも小さなことでも、その場限りのことでも、永遠に残ることでも、私利私欲を求めず、どんなことでも我を主張しないこと。そうすれば、どんな状況になっても落ち着いて対処し、逆境でも順境でも同じように感謝することができるようになります。あとは忍耐さえすれば、全てのことを主の御旨に従って生きることができます。
たとえあなたの希望がどんなに難しいことであっても、たとえ心の慰めが取り去られても、さら大きな苦難に対する心備えをし、自分はそんな苦難を受ける覚えがないなどと、言い張らず、愛と感謝の心で、私のすることなら何でも、私を神だと信じるならば、その時あなたは平安への一路を真に歩んでおり、またあなたは喜びに満ちた心をもって私の顔を見上げることができると信じなさい。
そうしてあなたが全く自分をさげすむ状態に達したならば、その時あなたはこのみじめな世において味わい得る最大の豊かな平安をうけることができると確信しなさい。(2:21:12~14)

第22章 自分を愛すること

キリスト:
愛する者よ、先ず君の心を私に明け渡しなさい。すベてを得ようと願うなら、先ず君が持っているものをすベて献げなさい。何はともあれ、君自身を愛することがこの世におけるもっとも有害なことなのです。君の物欲が君の歩みを妨げているのです。君の物欲を抑制しさえすれば、この世の物の奴隷状態から解放されます。所有すべきでない物を欲しがってはいけません。その欲望が君自身の心の自由を奪っているのです。君が、何故君自身のすべてを捨てて、私に対して心を開かないのか理解できません。なぜ君は無駄なことに気を遣い、意味のない苦労を繰り返すのでしょうかね。(2:22:1~8)

キリスト:
愛する者よ、私は君にとって最善のことを考えているのだから、私の言う通りに行動しなさい。そうすれば間違えることはない。君が自分自身の考えを通そうとして、あれやこれや工夫し、ああでもない、こうでもないと画策するかぎり、穏やかな気分にはなれないでしょう。どのような計画にも欠陥があるもので、必ず不満が残るものです。だから、君自身の幸福とか物質的な欲望を願っているとしたら、すべてが水泡に帰することでしょう。これは必ずしも金銭や財宝についてだけでなく、また名声や栄誉を望む場合でも同じことです。なぜなら、この世に属することはすベてこの世と共に過ぎ去るからです。(2:22:9~12)

第23章 中傷者の悪口に対して

キリスト:
愛する者よ、誰かが君の悪口を言ったり、それを聞かされたりしても、そんなことで落ちこむことはありません。連中が言っているよりももっと君自身を悪い人間だと思っておればいい。君が自省的な人間であるならば、過去の言葉や行為によってびくびくすることはありません。
答えに窮したときには黙っちゃいなさい。人々の言葉に振り回されないようにして、君の思いを私に向けなさい。また、優しい言葉を受けてもそれで安心してしまってはいけません。他人が良く言っても、悪く言っても君は君であり、君自身がそれによって変わるわけではありません。君の心の安らぎと喜びは私以外のところからは来ません。他人が君のことをどう評価しようと気にする必要な全くありません。他人の評価を過剰に気にすることから不安と興奮とが生じます。(2:23:1~9)

第24章 どうして神の助けを祈り求めるベきか

キリスト:
愛する者よ、私は君が悩んでいるとき、励まし力づける者です。だから困ったときには、私のところに来なさい。君の最大の欠点は君の祈りがあまりにも遅いことです。恐らく君は祈る前にいろいろなことを考えて、何とかして祈らないで、自力で解決しようとするからでしょう。だから私は君が私以外に助けてくれ者、有効な解決の道を示してくれる者がないことを実感するまでほっておくのです。さて、いよいよ他には救いの道がないことを悟ったなら、勇気を出して私に祈りなさい。私には不可能はないのです。君は私が君を助けないとでも思っているのですか。君の信仰はどこにあるのです。
信仰に固く立って、忍耐しなさい。君の助けは必ずもっともいいタイミングで与えられるのです。私は必ず君を助け、君の傷を癒やします。
君の悩みは一時的なものに過ぎず、君を脅かしている問題は気の迷いに過ぎないのです。将来について心配して何になるのです。悲しみは悲しめば、それで終わりなのです。一日の苦労は、その日だけで十分なのです。だから、どうなるか分からない未来のことを悩んだり喜んだりして何になります。確かに人間たちは悩める存在なのです。そのために敵の惑わしに簡単に騙されてしまいます。それが人間の弱さなのです。(2:24:1~15)

キリスト:
愛する者よ、本当のことであれ、嘘であれ、あるいはこの世への愛着であれ、将来への不安であれ、君を誘惑しようとする者にとっては、そんなことはどうでもいいことなんだ。要するに彼らは君を堕落させたいのだ。だから君はそんなことで心を騒がしたり、恐れたりすることはありません。ただ、私を信じ、私に寄り頼みなさい。君が私を遠くに感じているときにこそ、私は君のすぐ近くにいるのです。君が万事休すと思う時、私は君の間近にいるのだ。だから君はその時の感情や一時的な判断によって絶望的になってはいけないのです。時には私自身が君に試練を与え、八方塞がりの状況に置くことだってあるのですよ。だから私が見捨てた、などと思ってはいけません。
人生はこういうことが繰り返されて天国に至るものなのです。だからすべてのことが君の思うようにならなくても、そういう場合にこそ、これも益になるのだと信じて前に進みなさい。
私は君の密かな願いを知っています。君が時には私から忘れられたと思うようなこともあるでしょうが、それは君が傲慢にならないために私がしていることなのです。私は与えることもできますし、与えたものを取り上げることだってできます。それを判断するのは私の自由なのです。だから君に与えたものも実は私のものなのです。当たり前のことですが、全てのものは私のものなのです。だから試練が与えられたり、逆境におかれても、そのことで喜んだり、落ち込むことはありません。私はいつでもあなたを救うこともできるし、悲しみを喜びに変えることだってできるのです。
君がどういう境遇に置かれたとしても、私が君を愛していることには変りません。どんなときでも私は正しく情け深いのです。現実を正しく調べてご覧なさい。そうすれば、私のことを信じ感謝するに至ることでしょう。
かつて私は弟子たちに「父がわたしを愛されたように、私もあなたがたを愛した」と言いました。しかも私は彼らを、この世の喜びを受けるためでなく、大きな戦いをするために、栄誉を得るためでなく、侮辱されるために、安楽をむさぼるためでなく、激しく働くために、安息を味わうためでなく、忍耐して多くの実を刈りとるために遣わしたのです。(2:24:16~31)

第25章 造り主を覚えよ

修道者:
主なる神よ、私がこの世の何からも誘惑されない境地に達するためには、今まで以上にお恵みが必要です。この世の何かが私を引っ張って、あなたの元に自由に飛んで行けません。あなたの忠実な下僕ダビデ王でさえ、「どうか鳩のように翼をお与えください。そうすれば、あなたの元に飛んで行き、そこで安らぐことができます」と祈りました。私もあなたの元に飛んでいきたいのです。
世の多くの人たちは、神以外にも多くの良いものがあると言っています。彼らは地面を這いずり回っている虫のようなものです。神以外のものは、すべて無に等しいのです。私の願いは、この世の実態を素直に見て、そこに何も魅力的なものがないことを知りたいのです。そうすれば私はこの世から自由になり、何ものにも囚われず、自我を捨ることができます。しかし、この境地にまで達することは、あなたの恵みによらなければ不可能です。永遠にして無限の善である神よ、この境地に至らせてください。(2:25:1~11)

修道者:
主なる神よ、多くの人たちは、あなたを心の中でただ思い浮かべるだけの生活を望んでいます。ところが、その多くの人はそれを実践しようとしません。修道者の修行の多くは外面的な所作や行事に重きを置きすぎて、自己を無にすることが妨げられています。霊的であることを望みつつ、この世の過ぎゆく事柄のために多くの時間が取られ、自分自身の精神を集中して内的生活を省みることがまれになっています。
ああ、なんと情けないことでしょうか。たまたま静かにあなたのことを思う時をもとうとしても、自分自身の生活を厳しく反省することもなく、すぐに外的なことに思いが散らされてします。しかも、実際的には私たちが何に向かって進んでいるのかも分からず、堕落への道を進み、それを嘆こうともしないのです。
「すベての人がその道をみだした」ので、あの洪水が起こりました。私たちの心の奥底が乱れたとき、その人の行為も乱れるのです。清い心から良い生活を送りたいと願っても、その願いは簡単に刈りとられてしまいます。
私たちはしばしば偉い人たちがやったことの大きさに驚きますが、どこからそれだけの力を得たのかに注意を払いません。また強い人、富んだ人、美しい人、才能ある人、優れた著者、上手な歌手、巧みな職人などを賞賛しますが、その人がどんなに謙遜な心で、辛抱強く、敬虔で霊的であるかは、見過ごしてしまいます。
普段、私たちは人を外から見ていますが、主の恵みを通して見るとき、人の心の中が見えてきます。ボヤッとしていると外見によって騙されますが、神の恵みによって見るときに騙されません。(2:25:12~23)

第26章 己に勝つ

キリスト:
愛する者よ、君は君自身を全く捨て切らないかぎり、完全な自由を得ることは不可能です。誰でも自己中心に生き、自己自身を愛するならば、その人は「内なる鎖」につながれているのです。彼らは貪欲者、好事家、浮気者であり、いつもつまらないものを大事そうに抱え込み、イエス・キリストを求めず、長続きしないものを求めています。神から与えられたもの以外はすベて滅びてしまうのです。
私は君に何も難しいことを求めているわけではありませんよ。ただ、次の短い金言を心にとめなさい。「一切のものを捨てよ。そうすれば一切のものを見いだすであろう。過度の欲望を絶て。そうすれば安息を見いだすであろう」。ただ、このことを心の中で念じなさい。そして、それを実行に移すならば、あなたは万事を理解するでしょう。(2:26:1~5)

修道者:
主なる神よ、確かにこの短い言葉に霊的な人々のすべての徳が含まれていると思います。でも、これは幼子が口移しで歌えるように、実践できることではありません。(2:26:6)

キリスト:
愛する者よ、完全ヘの道の厳しさを聞いたからといって、逃げ出したり、挫けたりしてはなりません。むしろそれによって心を燃やし、もっともっと強く完成への道に挑戦しなさい。この姿勢が君の普通の状態となり、自分自身への愛を克服し、私と父なる神の御心を行おうとする心がまえに達するならば、君は間違いなく私の弟子となり、私の愛に相応しい者となり、君の全生活は喜びと平安に満たされます。
君にはなお多くの捨てるベきものがあります。それらをすベてを私の祭壇の上に捧げない限り、君が望んでいる状態には達することはできません。黙示録でも勧められているように、「豊かな者となるために、火で精錬された金を私から買いなさい」ということです。要するに君が地上で持っている財産をすべて処分して目の前にあるがらくたを買いなさい、ということで、そのがらくたこそが天では金銀財宝なのだという教えなのです。そのこころは、天での知恵は、自分を高く評価しないということ、地上は偉大な人とは思われないこと、人々から軽蔑され、忘れられてしまうことを意味します。言わば、天の知恵こそ、多くの人々にとっては隠された高価な真珠なのです。(2:26:7~12)

第27章 心の統一

キリスト:
愛する者よ、君自身を含めて人間というものの愛情に頼よってはなりません。それは一つの物から、何か一寸したことがあるとすぐに他の物に移ってしまいます。君は生きているかぎり、移ろい易いのです。今、笑っていると思ったら、次の瞬間泣き始めます。今、安心していると思っていたら、すぐに悩み始めます。ある時は勤勉で、ある時は怠け者になります。ある事柄では慎重で、また別なことでは軽薄になります。
しかし霊的生活を積んでいる人は、このように移ろい易い人間の本性を超えて、自分の内部で何を感じているので、つむじ風のように方向性のない風に迷わされることなく、自分の心が向いている方向を定めています。すべてのゴチャゴチャした状況においても、自分自身が進むべき方向を見定めしっかりと進むことができるのです。
人間は内的な目が清らかであれば、それだけ確固として嵐の中を通つて行きます。けれども多くの人には、方向を定めるべき目も、鱗に覆われ、現実を朧気にしか見えないのです。それで、どうしても安易な道に進んでしまいます。
自己追求という鎖から全く解き放たれた人はめったにいません。その昔、ユダヤ人たちがベタニヤのマルタとマリヤとの所に集まって来たのは、「イエスのためだけでなく」、甦ったラザロも見ようとしたのであった。だから人間は自分自身の目を清め、すべての障害を乗り越えて、真っ直ぐに私を見なさい。(2:27:1~9)

第28章 神との愛の関係

修道者:
主なる神よ、あなたは「私の父と私自身のすべてを見なさい」とおっしゃいます。ハイ、私はそのようにいたします。私にはそれ以上の幸せはありません。それはみ言葉を愛する者たちにとっては、なんと楽しいこと、うれしい言葉です。しかし、世と世のものとを愛する者には、その喜びを理解できないことでしょう。
「私の父と私自身のすべてを見なさい」。わかる者にとっては、それだけで十分です。あなたを見ることができれば、すべてのことは喜ばしいこととなり、あなたが見えな時には、すべてのことが厭わしくなります。心の中に静けさを、精神の中に平安を、また祭のような喜びをお作りになるのは、あなたです。
すべてのことが善いことだと思い、何事においてもあなたを讃美させていただくのは、あなたによるのです。あなたを離れたら、何ものも長く心を喜ばすことはできません。
何ものでも楽しく心地よく味わおうとすれば、あなたの恵みがそれに加えられ、あなたの知恵の塩が加味されねばなりません。あなたを喜びとする人の幸いをくつがえすことができるものは、何もありません。またあなたを喜びとしない人は、いったい何を喜びとしているのでしょうか。肉的なものを喜びとするこの世の知者は、あなたの知恵をもっていません。そのような喜びは多くはむなしく、そのような楽しみには死が伴っています。
しかし、あなたに従ってこの世を汚れたものとし、肉欲を克服した人こそが真の賢者です。その人は真理のために虚栄を捨て、霊のために情欲を捨てているからです。その人は神を喜びとします。造られたものの中での善きことは、たとえそれがどんな善でも、それらをすべて造り主の栄光に帰するのでしょう。
造り主を喜ぶことと造られたものを喜ぶこと、永遠的なものを喜ぶことと時間的なものを喜ぶこと、造られない光を喜ぶことと造られた光を喜ぶことの間には、無限のヘだたりがあります。(2:28:1~15)

第29章 誘惑に負けないために

キリスト:
愛する者よ、君はこの世では安全でなく、生きている間は霊の武器を必要とします。君は敵のただ中に住んでおり、右からも左からも攻められています。だから忍耐の盾をとって八方を防衛しないかぎり、長く無傷であることはできません。その上、君の心を固く私に結びつけ、万事を私のために忍ぶ覚悟をしないかぎり、誘惑の火に立ち向かい、恵まれた者に授けられる冠を受けることはできない。だから、君はあらゆることを雄々しく立ち向かい、敵する者と勇敢に戦うベきである。天からのご褒美は勝利を得る者に与えられ、怠け者は多くの不幸の中に取り残されるからである。
この世で安定を求める人が、永遠の安らぎ達することができないのは当たり前ではないか。ゆっくりとした休みを期待するよりも、長い忍耐を覚悟するがよい。本当の安らぎは、この地上でなく天においてのみ、人間その他の被造物によってではなく神においてのみ、与えられるのだ。(2:29:1~9)

キリスト:
愛する者よ、神を愛するならあなたはすべてのことを喜んで堪え忍びなさい。苦労することも、悲しむことも、誘惑されることも、嘲られることも、心配事も、貧しさも、病気も、不正も、矛盾も、叱責も、馬鹿にされることも、辱かしめられることも、非難されることも、軽蔑も。
これらすべては君の精神的向上の助けになるのだ。キリストの兵士たちはこれらの試みを通して鍛えられ、天の冠の飾りとなるのだ。私は君たちの限られた労苦に対して無限の報賞を授け、一時の辱かしめに対して永遠の栄光を与える。
君は何の苦労も無しに霊的慰めが得られるとでも思っているのじゃないだろうね。私の聖徒たちは常にそれらを得ることができず、むしろ多くの患難や、さまざまの誘惑や、深刻な寂しさを得た。彼らはいつでもこのような状況で辛抱強く忍び、自分自身を信頼するより神を信頼したのだ。なぜなら今の時の苦しみが来たるベき栄光にくらベるに足らないことをよく知っていたからだ。君はこれらの多くの人々が長い年月と大きな努力をもって得たものを、一度で得ようと思うのだろうか。だから耐え忍び、主を侍ち望みなさい。雄々しく振舞い、勇ましく、希望を持ち、落胆しないように。むしろ主なる神の栄光のために身体と魂とをしっかりと捧げなさい。私は君の苦労に報い、どんな状況においても君と一緒にいるのです。(2:29:10~18)

第30章 人の批判に対して

キリスト:
愛する者よ、全身全霊をもって主により頼みなさい。君自身が君の潔白と善良とを確信しているのなら、他人の批判などを恐れることはありません。ともあれ、そういうことで、鍛えられることは有益なことはいいことです。しかも、それはへりくだるということよりももっと難しいことです。世の中には、いろいろ言う人はけっこう多いですが、その言葉に振り回されないように。しかし、すベての人を満足させることは不可能です。パウロは主の下僕としてすベての人を満足させようと努め、次のように言っています。
私は「すベての人に対しては、すベての人のように」なりましたし、人の中傷などささいなこととみなしていました。私は人々の救いのために力のかぎり働きました。それでも人々から審かれ、時にはさげすまれることもありました。そういう中でも私はすべてのことをご存じの主に一切を委ねておりました。私のことを悪しざまに言い、事実無根の間違った情報を流す敵に対しても、忍耐し謙懸な心で沈黙を守りました。しかし、そのパウロもちらっとホンネを吐いています。しかし、私が沈黙することによって弱い人々がつまずく恐れのある場合には大胆に反論いたしました。
「君たちは何者なので、死ぬべき人間を恐れるているのだ。今日は存在して、明日ははいなくなってしまう人間を。神を恐れよ。そうすれば、君たちは人のおどしに負けることはありません。悪口雑言によって誰が君たちに危害を加えることができますか」。
そのような人たちは君よりも彼ら自身を害しているのです。人間は誰でも神の審きを免れることはできません。だから神を前にして喧嘩腰で喋ってはなりません。また君は打ち負かされ、不当な辱かしめを受けることがあっても、見苦しい態度を示してはなりません。私の授けようとする報いを君が慌てて、減らすことがないように。むしろ天にいる私を仰ぎ望みなさい。私は君をあらゆる辱しめと不法から救い、すべての人々をその人の仕業に従って報いることができるのです。(2:30:1~5)

第31章 心の自由

キリスト:
愛する者よ、まず君自身を棄てなさい。そうすれば私を見つけることが出来る。君自身の意志と君のすベての持ち物とを捨てなさい。そうすれば君はどこヘ行っても何かを得ることができます。君が君自身を決定的に放棄するや否や、さらに大きな恵みがすぐ君に授けられるのです。(2:31:1~3)

修道者:
主なる神よ、私は幾度、何を棄てるべきなのでしょうか。(2:31:4)

キリスト:
愛する者よ、何時でも、どんな場合にも、大きな事でも、小さな事でも、すべてを棄てて、私に従いなさい。この場合には例外はありません。私は君がすべてのことから解放されることを願っているのです。もし君が内面的な事柄でも、外面的な事柄でも、君自身の考えに従って行動している限り、私は君と一致することなどできません。君が少しでも早く実践すればするほど、また君がそれを誠実にすればするほど、私と君とは思いが同じになり、私は君に何でもしてあげることが出来るのだ。
ある人は自分自身を放棄することに何らかの例外もうけようとします。それは完全な服従ではありません。ある人は自分自身を全く捧げると決断しますが、困難に出会うとすぐにその決断をキャンセルしてしまいます。それでは完全に一致という状態に到達することはできません。これらの人は清らかな心の自由に至ることも、私との楽しい交わりの恵みにも至ることができないのは当然なことでしょう。それは不十分な自己否定であり、不完全な献身だからです。そういう関係では完全な一致和合はあり得ないことです。
私はこれらのことについては既に繰り返し警告してきたことですが、もう一度繰り返しますよ。君自身を完全に捨てなさい。君自身を明け渡しなさい。そうすれば君は大きな内的平安を得ることができます。すベてを得るために、すベてを捧げなさい。そこにはいかなる例外もあり得ません。いったん献げたことを取り返そうとしてはいけません。もし君が断固として純粋に私に信頼するならば、私と一つになることができます。その時にこそ君の心は自由になり、君の魂は心の闇を克服できます。
このことに努め、これを祈り、君が所有し存在している一切のものから離脱することを願いなさい。そして裸のイエスに裸になって従いなさい。君が君自身に死に、私と共に永遠に生きるためなのです。その時にこそ、すベてを空しいと感じ、あらゆる悪い方向への誘惑から解放され、すべての無用な心づかいは消え去るでしょう。そのとき余計な恐れも君から去りゆき、過度の情熱も君のうちで死滅するであろう。(2:31:5~17)

第32章 神の助けを求めよ

キリスト:
愛する者よ、どこで、何をしていても、それがたとえ目に見えるような仕事であっても、ジタバタしないで、落ち着いて、君の思うままに出来るように励みなさい。どんなことでも、君は君の行為の主人公なのだから、奴隷や雇い人のようになってはいけません。君は神の恵みによって奴隷の状態から解放されて神の子とされたのです。だから君は世俗的なものの上に超然と立ち、永遠のものに思い巡らしなさい。
左の目で過ぎゆくものを見ながら、右の目で天上のものを見つめるべきです。君にまとわりついている世俗的なものに引き降ろされないようにして、むしろ君の救いを目指して上を目指しなさい。君の造り主である神はそのためにすべての無駄を省き、君を生かしておられるのだ。君が生きていく中で、いろいろなことで悩んだり、迷ったり、困惑したりすることがあるだろうしかし、どんな場合でも、君はモーセに見倣うがいい。
モーセは、困ったことに直面したり、疑問が生じたり、不審に思うようなことがあると、すぐに神の幕屋に入り、神の御心を尋ねたのです。主は幕屋の中でみ旨を語られるのだ。モーセは、それを聞いたときに、確信を持って民を導き前進できたのだ。だから君も躊躇することなく神の幕屋に入り神の御旨を伺いなさい。旧約聖書が語るように、ヨシュアとイスラエルの子らとは彼らがあらかじめ主の御旨を聞くことをせず、自力で問題を解決しようとしたのでギベオン人に欺かれたのだ。(2:32:1~10)

第33章 落ち着け

キリスト:
愛する者よ、君の問題をすべて私に委ねなさい。私は必ず時機に適った答えを出し、問題を解決します。私が解決するまで、落ち着いて待ちなさい。そうすれば君はその問題そのものが君にとって有益であったことを悟るであろう。
愛する者よ、人はしばしばその願うものを得ようとして熱心に努める。しかしいったんそれを得ると、それについて違った考えを抱き始めます。人間の願いは一つのことに長くとどまらず、次から次ヘと移って行きます。だから、ささいなことに自分を捨てるのも、決して簡単ではありません。
人間の真の進歩はすべて己を捨てることにかかっています。そして己を捨てる人は全く自由であり、安心しておれます。しかし、すベての善なるものに逆らう古い敵は、日夜誘惑の手をゆるめず、不用意な者をその偽りの罠におとしいれようと、危険な計略をめぐらしています。だから主は言われました。「誘惑に陥らぬように、目をさまして祈っていなさい」と。(2:33:1~7)

第34章 神を誉めよ

修道者:
主なる神よ、人間はあなたにとって何者なのですか。何故、あなたは人間にみ心にとめられるのですか。人間に何か良いところがあるというのでしょうか。何か良いことがあるので、あなたの恵みを授けられるのでしょうか?
主なる神よ、たとえあなたから捨てられ、忘れられたとしても、私はそれをつぶやく理由がありません。私は自分としてなんの善も持たず、すベてのものに欠けており、いつもむなしいものに向かっています。あなたに助けられ、内から強められないかぎり、私は心が冷ややかになり、気がゆるみます。
また私の心はいつも同じ状態を保つことができません。時と共に変るからです。しかしながら、あなたがみ旨のままに、み手を伸ばして私をお助けくださるならば、私はすぐ立ち直ります。なぜなら、あなたは誰の助けもなく私を助け、大いに力づけてくださいますので、私の心はもはあれやこれや惑わされることなく、唯一の善であるあなたの中で安心しておられます。(2:34:1~7)

修道者:
主なる神よ、公平に考えても私自身がyっていることからの言っても、あなたの恵みを願い、新しい慰めの賜物を求める資格は私にありません。いろいろな事が都合よく行く時には、あなたに感謝しますが、それだけです。
しかし私はあなたからご覧になれば分かるように、むなしいもの、役立たない者にすぎず、弱くて、気まぐれな人間です。私はに誇るベきものは何もなく、尊敬されるどんな理由もありません。それなのに、何者かのように、尊敬されたちと思っていることは、 まさに愚の骨頂です。もう、私のうぬぼれは悪性の病であり、あらゆる虚無の最大のものです。そのために、本当の光栄を奪い取られ、天来の恵みも手を離れてしまいます。(2:34:8~13)

修道者:
主なる神よ、人間は自分のことで喜ぶ時、あなたを悲しましめ、自分自身の名誉を喜ぶとき、徳をうばい去られます。しかし、あなたを誇りとし、み名を喜びとし、自分自身の力やこの世のことを喜びとしないことは、真の光栄であり、聖なる喜びです。
ですから私の名や私がしたことではなく、ただ、み名が崇められ、みわざがたたえられることをいのります。ただあなたのみ名が崇められ、人びとの称賛が私に向かわないように願っています。
あなたこそ私の光栄、私の心の喜びです。あなたを私は誇りとし、自分の弱さ以外には、誇ることをしません。この世の人たちには互に誉れを求めさせ、賞賛させておきましょう。私は神から来る誉れだけを求めます。あらゆる人間的光栄、すベての一時的名誉、いっさいの世俗的偉大も、あなたの永遠の栄光に比ベるならば、無であり愚かであるに過ぎません。(2:34:14~20)

おお、わたしの真理、わたしのあわれみである主よ、あなたにのみ讃美と誉れと力と栄光とが、永遠から永遠までありますように。アーメン(2:34:21)

※これで『イミタチオ・クリスチ』の第2部を終わります。由木先生によると、本来はここで完了する予定であったが、何かの事情により、第3部が書き加えられたとのことになったようです。明日からは第2巻の第3部に入ります。

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