ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

現代語版イミタチオ・クリスチ第2巻第3部(第35章~第60章)

2017-10-15 15:00:21 | 現代語版イミタチオ・...
現代語版イミタチオ・クリスチ第2巻
第3部 内的慰めについて

由木康先生によると、本来の『イミタチオ・クリスチ』は第2巻第2部で完了する筈であったが、実は著者のホロートの生涯に思いがけない悲劇的な事情が起こった。そのために第3部が付加されることになった、とのことです。
1383年秋、ユトレヒトの司教によって「司祭でない者の説教停止令」が出されたのである。何故、このようなことになったのか、もう少し前から事情を説明する。
ホロートは1340年、オランダで生まれ、そこで基礎的な教育を受けた後、ヨーロッパ各地の大学で研鑽した。その才能はずば抜けており、26歳の時にはユトレヒトとアーヒェンの2つの大学の教授になっていた。その頃の彼はかなり世俗的な享楽に耽っていたようである。30歳の頃にはそのような生活の空しさに気付き、友人の勧めで修道士としての生活に入った。3年間の修道生活において霊的にもかなり成長したがその修道院の院長カルカルはホロートが説教の才能に秀でていることをみて、修道生活を続けて修道士になるよりも、世間に出て民衆の教化に携わる方が適当だと考えた。ホロートはその勧めに従って郷里デーヴェンテルに帰り、自宅を開放していわゆる伝道活動を始めた。それが大変な評判になり、1378年にはパリを初めユトレヒト等でも説教活動が展開された。彼の宣教活動には多くの協力者が集まり、この活動は彼の死後にも継承された。
彼自身の宣教活動は沢山の協力者もいたが、同時に彼を敵視する者たちも少なくなかった。とくにホロートの説教は聖職者たちの畜妾(聖職者の独身性を補完する内縁の女性たち)を激しく批判しため、それらの人々がホロートの説教許可証を取り上げよと司教に迫ったのである。その結果が、1383年秋の「説教停止令」であった。そのため、ホロートは再び修道院に戻り修道生活を再開し、第3部が執筆された。

第35章 この世での地位の向上について

キリスト:
愛する者よ、他の人の地位が上がり、君が軽蔑されたとしても、そんなことを気にしないようにしなさい。ただ、君の心を私に向けなさい。そうすれば、この世で軽蔑されても、何も悲しむ必要はありません。

修道者:
主なる神よ、私たちは自己中心であるため、自分自身の虚栄心に引き込まれてしまいます。もし自分の姿をはっきり見ることができたら、私はすべてのことで苦しめられているのも当然なことだと思うでしょう。そうすれば造り主であるあなたに訴えるべき不満などないはずです。
ところが、あなたに対する罪の故に、全ての造られたものが私の敵となりました。だから、私が恥ずべき存在であり、軽蔑されるのも、私に相応しいことなのです。
讃美と誉れと栄光とはあなたに帰すベきです。またすべての人から軽侮され無視される心の備えを進んでしないかぎり、私の心は落ち着かず、平和であることも、 霊的にも成長して、あなたに喜ばれることも出来ません。(2:35:1~8)

第36章 他人の評価

キリスト:
愛する者よ、もし君が自らすすんで誰かと人生を共に過ごそうと願っているなら、穏やかな日々を過ごすことは諦めなさい。君が古びることのない真理を土台にして生きているなら、愛する者や友人が離れたり、死別しても絶対に悲嘆にくれることはありません。君が友人を愛するなら、その愛を私に基礎付けなければなりません。言い換えると、君がこの世で尊敬し大切に思っている人々を、私のためにのみ愛さなければなりません。私を離れて人と人との友情は長続きするはずがありません。私が取り結ぶ絆だけが真実で純粋な愛だからです。(2:36:1~4)

キリスト:
愛する者よ、だから君は私に基礎づけられないようなすべての人間関係を断ち切りなさい。もしそれができないなら、すべての人間関係が君から取り上げられることになるでしょう。人はこの地におけるしがらみから外れれば外れるほど神に近づくのです。ますますへりくだって、君自身に失望すればするほど、より高く神の居られる所へ登ることができるのです。自分自身の中にも何か良い点があると思っている間は、神の恵みの域に至るのは非常に難しいことです。
聖霊の恵みはへりくだる心を求めています。もし君が君自分に全く絶望し、この世への執着を完全に捨てきれたときにのみ、さらに大きな恵みが与えられるのです。君の心がこの世の何かに向いているとき、君は造り主を見失なうのです。だから君の造り主のために、何事においても自分に打ち勝つことを学びなさい。そうすれば君は神を知るに至るでしょう。どんな小さいものでも過度に愛するならば、それは君を至上の善から引き離し、神のみ旨を痛ましめるようになるのです。(2:36:5~12)

第37章 世俗の知恵の空しさ

キリスト:
愛する者よ、人の美しい巧みな言葉に惑わされてはなりません。神の国は言葉ではなく力なのです。だから心を燃やし、目を覚まして私の言葉に耳を傾けなさい。私の言葉だけが君を懺悔に導き、君の慰めとなるのです。私の言葉を学者や知識人たちの言葉と同じレベルで読んではなりません。むしろ君の生き方を変える言葉として学びなさい。それはいろいろ難しい問題を解決するレベルの言葉ではなく、根本的なところで重要なことを教える言葉なのです。
君はいろいろなことを学んだ後に一つの本源に帰らねばなりません。人に知恵を授けるのは私であり、私が誰よりも明確な理解をヘりくだる者に与えるのです。私の言葉を注意深く聞けば、君は悟りを開き、霊的に大きく成長します。
人々は珍しい話を聞くために努力をしますが、私のことに関心のない人は愚かです。そのうちに人々の心を調べる調査官たちが来て一人一人の心の状態を詳しく調べるでしょう。調査官たちは灯火をもって世界中を調査し、暗い所に隠れていることを見つけ出し、明るみに引き出します。また喧嘩好きな人たちを見つけ出して舌を引き抜くことでしょう。
私は人の頭の程度を見抜き、長い期間学校で学ぶ以上のことを分からせることができます。私は大声を出さず、理屈をこね回すこともなく、興奮させることなく教えます。私が人々に教えるのは、この世の財産が値打ちがないこと、この世で重要だと思われていることがいかにつまらないか、天にある一つ一つの貴さを教えます。この世で有名になることを避けて、世の中のことに疎くなり、すベての希望を私にかけて、何事にもまさって真に私を愛することの大切さを教えます。
かつて私を深く愛した人がいました。私はその人には奥義を語り、神秘を教えました。その人は神秘を学ぶことによって、すべてを棄てることを学び大きく成長しました。私はある人には普通のことを教え、他の人には特殊な知識を授けます。ある人には図形や模型を用いて私のことを優しく教えますが、他の人には幻の中で密かに私自身を現わします。聖書の言葉は同じですが、一人一人に同じようには教えません。私は真理の内容を教える教師であり、人の心の探る学者であり、人の思いを見分ける評論家であり、人の行動を評価するものであり、一人一人に異なった顔を示すのです。(2:37:1~16)

第38章 外面的なことと内面的なこと

キリスト:
愛する者よ、君は多くのことに無知となり、君自身を地上では死んだ者、君にとって全世界は十字架につけられたものと思うベきです。君はこの世の雑音を聞き流し、ただ君の平安に有益なことだけを考えなさい。不快なことを見ないことにして、いろいろな意見を持っている人はそのままほっておきなさい。その方が、彼らの争論に引き込まれるよりもはるかに有益なことです。君が私との関係を保ち、私の判断を大切に思うなら、たとえ議論で負けても心が乱されることはないでしょう。(2:38:1~4)

修道者:
主なる神よ、私たちはどうなったら合格なのでしょうか。私たちはこの世での損失を嘆き、僅かな損得にやきもきしてしまいます。そのくせ霊的な損失についてはつい忘れてしまい、最後になってからやっと気が付きます。わずかの価値しかないものや、何の値打ちもないものに注意を払い、この世の外的な事物に囚われてしまい、最も重大なことをなおざりにします。だから大急ぎで、自分に立ち返らないかぎり、この世の雑事におぼれてしまいます。(2:38:5~7)

第39章 他人の言葉に注意

修道者:
主なる神よ、悩んでいる私をお助けください。人は頼りになりません。これまでにも、この人こそはと信頼した人が期待外れだったり、逆に少しも期待もしていなかった人が信頼できる人だったということを経験してきました。だから私は私自身の判断を信じることができないのです。私は弱くていい加減で、騙されやすく、移り気です。どんなときにも騙されない、誘惑に負けないような賢い人が存在するのでしょうか。(2:39:1~6)

修道者:
主なる神よ、あなたに寄り頼み、一心にあなたを求める人は簡単には倒れません。たとえ何か難しい問題に直面しても、その問題で悩むことがあっても、あなたに声を上げれば、あなたは助けてくださいます。あなたはあなたを寄り頼む者を決してお見捨てにはなりません。
なぜ私たちはそんなに簡単に他人を信じることが出来るのでしょうか。多くの人たちが私たち人間を天使だと言ったとしても、私たちは弱い人間にすぎません。
主よ、あなたのほかの誰を信じるのだというのでしょう。あなたこそが真理であり、欺くことも欺かれることもありません。しかし、すベての人は偽りやすく、頼りなく、いい加減で、愚かで、特にその言葉は信じるにたりません。たとえその見かけはどんなに真実そうであっても、うかつに信じたら大変なことになります。だからあなたは、私たちに、あなたの敵は身内にあると言われました。ある人はさも重要そうに、「誰にも話さないように」などと言いながら情報を語る。ところがその人自身が、あちらこちらでその情報を喋りまくっている。

修道者:
主なる神よ、すベてのつまらない噂話やいい加減な人々の悪口から私をお守りください。真実で正確で真面目な言葉だけを私の耳に入れ、偽情報を私から遠ざけてください。その他、つまらない噂話などに囚われず、他の人の秘密を守り、自分の心を必要最低限の人にしか打ち明けず、すべてのことがあなたのみ旨に従ってなされますように。売名的な弁舌に騙されず、人びとから誉められることを願わず、ただ信仰の修養と生活の改善に励み、天の恵みを保つことができますように。
その人があまりにも真面目で品行方正なために、多くの人たちから称えられ、それが逆に災いになった人は少なくありません。またすベてが絶えざる誘惑と戦いとの中に過ぎて行きます。このはかない人生において、神の恵みを確保したので、多くの恵みを得た人もいます。(2:39:7~22)

第40章 無責任な中傷に負けるな

キリスト:
愛する者よ、素直に私を信頼しなさい。言葉はしよせん言葉にすぎません。それは宙を飛びますが、岩を割ることなどはできません。もし君に罪があるならすぐに改めなさい。もし罪がないと思うなら、私を愛し、どんなことでも堪え忍びなさい。たとえ君がどんなに大きな攻撃を受けても、私の一言でそれを我慢することができます。
何故そんなつまらないことを苦にするのですか。それは君が今なおあまりに世俗的だからだろうと思います。要するに他の人の思わくを気にし過ぎるからなのです。言い換えると、君は侮辱されることを怖れ、君自身の過失が非難されたくないので常に自己弁護をしようと思っているからなのでしょう。もっと注意深く君自身を反省してご覧ん。そうすれば君の中には世俗的なものが残っており、他の人から気に入られたいという空しい願いが残っていることに気づくでしょう。
もし君が自分の欠点を指摘され恥ずかしい思いをするのがいやだったら、それは君が未だ十分に謙遜でない証拠であり、この世に死に切れていないのです。それは君がまだ十字架で死んでいないことを示しています。しかし私の言葉に耳を傾けるならば、君は人から何を言われても気にしなくなるでしょう。
たといいかなる悪意によって作られた悪口が流されたとしても、君はそれを聞き流し、もみがらと見なすことができるし、君には実害が及ぶことはありません。そんな悪口など君の髪の毛一本でも引き抜くことなどできっこありません。しかし心に落ち着きがなく、神を見つめていない人は、非難の一語で乱されてしまいます。(2:40:1~13)

キリスト:
愛する者よ、自分自身を正当化せず、どんな状況でも私を信頼しなさい。私が審判者であり、一切の秘密を知っているとあなたが信じているならば、人からどのように脅かされても怯えることはありません。事実、私はすべてのことの原因を知っているし、その不正がどこから出てくるのかをも知り、その被害者を知っているからです。時には、君を苦しめるような言葉も、実は私から発したのかも知れませんよ。少なくとも、それは私が許可したものです。ある意味で、それは多くの人の心にある思いを表に出すためなのです。
そのうちに、私は罪のある者と罪のない者とを判別します。そのために、あらかじめ両者を密かに調べているのです。人の証言は誤ることがありますが、私の判断は間違いません。一度判断したことは変更しません。そのことは一部の人たちにだけ示しますが、大多数の人たちには秘密です。そのために、時によっては、愚かな人たちには正しくないように見えることがありますが、私は決して誤ることありません。
だから君は状況がどのように見えても、私を信じ私の助けを待ちなさい。決して君自身の判断で慌てて動いてはなりません。だから賢い人はどんなことがあっても、それは神の許しによって起こっているのだと信じ、惑わさません。たといどんな不当なことが言われても、惑わされません。また、他の人から弁護されても、それを無暗に喜ばないように。なぜならことの真相を徹底的に知っているのは私であり、私は外面的なことで判断はいたしません。私の目の前で非難されるのが当然だと思うことが、人の目には賞賛されるということはいくらでもあるのです。(2:40:14~25)

第41章 試練に耐えること

キリスト:
愛する者よ、君は私のために受けた患難に躓かないように。また、なんらかの患難に直面しても落胆しないように。君がどんな状況におかれても、私との約束を思い起こしなさい。それがどんな状況でも君の力および慰めとなるのだ。私はいろいろな方法で、想像もできないような仕方で君に報いることができる。この世での君の労苦と患難とは、決して長続きはしない。もう暫く待ちなさい。そうすれば君はまもなく君自身の試練が終る。その時が来れば、労苦と不安とは必ず止む。時間内の出来事は時と共に過ぎゆくのであり、長続きはしない。
君はただ君のなすべきことを果たしなさい。私のぶどう園で忠実に働きなさい。私は君の苦労に十分応える。書け、読め、悲しめ、黙れ、祈れ、働け、雄々しく逆境に耐えなさい。永遠の生命は今の戦いと将来の激しい戦いとにふさわしい報いがあるのだ。永遠の光、無限の輝き、永続する平和、不安のない休息が実現する日は必ず訪れる。その時君は「誰がこの死の体から私を救ってくれるだろうか」とはもはや嘆かない。また「災いなるかな、わが世に住んでいた日は長引いた」とも叫ばない。なぜなら、その死は追放され、救いは永続し、もはや窮乏も恐れもなく、甘美な愛の交わりから生じる恵まれた喜びがあるだけなのだから。 (2:41:1~12)

キリスト:
愛する者よ、もし君が天において聖徒たちに授けられる永遠の冠を一目見たら、かつてこの世に生きる資格がないとまで侮られた聖徒たちがいかに大きな栄光を受けるかに驚くことだろう。そうしたら、君は必ず地の塵にまで自分を低くし、衆人の上になるどころかむしろ下になること願うであろう。またこの世において楽しい日を送りたいなどとは思わず、むしろ私のために責められることを喜びとし、人々の間で無視されることをはなはだ有益だと考えるようになる。
ああ、これらの真理が君にとって快く、君の心に深く染みいるならば、どうして君はなおも不平を言うことができるだろうか。君たちは永遠の生命のためにあらゆる苦難を喜んで忍ぶベきではないか。だから君の目を上げて天の私を仰ぎ望み、また私と私の聖徒たち、すなわち世にあって激しく戦った聖徒たちが、今やいかに喜びかつ慰められているかを見るがよい。今や彼らは安全であり、不安のない休息を味わっており、私と共に永遠に私の父の国にとどまるであろう。 (2:41:13~17)

第42章 最後まで戦う者

キリスト:
愛する者よ、君は何としてでも永遠の祝福を手に入れたいのだね。それで肉体の束縛から解放されて、私の不変の栄光を仰ぎ見たいと願っているのですね。それならこの世での患難に埋もれてしまわないように、心を広く開いて、聖なる霊感を素直に受け入れなさい。大切なことは、天の恵みは君の努力によって与えられるのではなく、私の配慮によるのです。だから大切なことは、謙遜であること、熱心に私に仕えることです。 (2:42:1~3)

キリスト:
愛する者よ、火が燃えるときは焔と煙が上に昇る。同じように君の祈りも、燃え上がるときは、この地の誘惑から離れて上に向かって燃える。だから君がこの世に縛られている限り、いくら熱心そうに見えても、それは純粋な祈りではない。君の祈りはその程度のものじゃないかな。自己中心的な祈りで純粋完璧なものはあり得ない。君にとって都合の良いことではなく、私の心に適い、私の栄光に役立つことを求めなさい。君の判断が正しければ、君は君自身の願いや君が求めているものにまさって、私の指図を喜ぶはずである。
私は君の願いと嘆きとを確かに聞いた。君は神の子たちの光栄ある自由を求め、永遠の住まいを願い、私の父の国とを求めている。しかし、その時はまだ来ていない。今はまさその時ではなく、戦いと労苦と試練との時なのである。 (2:42:4~10)

キリスト:
愛する者よ、君は永遠の祝福を手に入れたいと願っていますが、それはこの地上で得ることはできません。そのためには、君はまずこの地上で試みを受けなければなりません。それにはいろいろなテストがあります。時々休息の時間があるでしょうが、それも一時のことです。そのテストは人間の本能に反することを耐えねばなりません。そのためには勇敢に、そして我慢強くなければなりません。
君は新しい人間を着て、別人にならねばなりません。君自身が願わないこと実行し、したいと思うことを捨てなければなりません。他の人を喜ばせたいと思うことは成功し、君自身を喜ばせようと思うことは失敗するでしょう。他の人の言うことは聞かれ、君の言うことは無視されるでしょう。他の人は求めて与えられ、君は求めても聞かれない。他の人は賞賛され、君は黙殺されるでしょう。他の人は相応しい地位が与えられ、君は無用の者とされるでしょう。
たとえ君が黙ってそれを我慢しても、君自身の本能は悲しみ、君自身の心の中で大きな葛藤となると思います。だが、これらのことやその他多くの事がらにおいて、私の忠実な下僕は自分自身をどこまで捨てることができるか、君自身の意志を殺せるか試されているです。君の意志に反することを見たり忍んだりする時、ことに不合理とも無用とも思われることを命じられる時ほど、自分に打ち勝つことが難しいでしょう。君は君自身の判断で、上司の権威に服従しようと思うから、自分の判断を他人の意志に従わせ、自分の意見を捨て去ることを難しいと思うのです。 (2:42:11~25)

キリスト:
愛する者よ、君の労苦の結果を見てごらん。苦労の期間は短く、それに比べてその報いはなんと大きいことか。だから君の悲しみを辛抱強く忍びさえすれば、どれほど大きな慰めが与えられることだろう。だから今、君が喜んで犠牲を払えば、天で君は自由になれるのだ。天では君が願うことは何でも叶えられる。天ではすべての良いものを失う恐れなしに手に入れることができる。天では君の願いと私の願いとが完全に一つとなる。天では君の意に反する者は何もなく、君の願いは完全に満たされる。天において君がこれまでに受けた苦しみや悲しみがすべて報いられる。そこでは君の地上での従順さが、そして君の忍耐と謙遜さと栄光の冠となる。
だから、今、ここで、誰がああ言ったとか、こう命じたとかを気にしないで、他人の悪意に負けておきなさい。君の目上か、同輩か、目下の者かが、君に何事かを要求した時には、常に喜んでそれを受けいれ、進んでそれを行ない、好意を示しなさい。他の人たちがあれこれのものを求め、各人がそれぞれの意志を誇り、幾千度となく称賛をかちえたとしても、君自身としては、そのようなことを喜びとせず、むしろ君自身をさげすむことと、私の意にかない、私の誉れをあらわすことのみを喜びとしなさい。ただこの一事、生きるにも死ぬにも常に君よって神が崇められることだけを君の願いとしなさい。 (2:42:26~37)

第43章 孤独な人は

修道者:(信従の祈り)
主なる神よ、今もいつまでも御名が崇められますように。あなたが望まれれば、すべてがその通りになります。あなたの下僕にとって、あなたこそ唯一の望み、喜び、私の冠、私の栄光です。あなたの下僕が持っているものはすべて、私の良き行いによるのではなく、すべてあなたから与えられたものです。
私は貧しく、私の魂は幼い時から労苦し、ひとりで忍ぶ苦しみのために悲しみの涙を流してきました。あなたが平安を与えてくださるので、あなたの下僕の魂は喜び、あなたを高らかに誉め称えます。しかし、あなたがその平安を取り去られると、私の魂はあなたの戒めの道を走ることができません。
愛する父なる神よ、あなたの下僕のために何かをなさるベき時が来ました。しばらくのあいだ。下僕は低くされ、人の目には落ちぶれ、また病気や苦難に悩まねばなりません。それは新しい光の暁にあなたと共に再び起ち、天上において栄光を受けるためです。 (2:43:1~9)

修道者:
主なる神よ、あなたの審きの正しさを知るためにも、私の心からすベての誇りと高ぶりとを追いやるためにも、あなたが私を低くされたことは有益です。
主なる神よ、あなたのみ手に私自身と私の矯正すベき一切のものとをお任せします。この世で罰せられるのは後の世で罰せられるよりもはるかによいからです。私の進歩のために何が有益であり、私の弱点の錆を拭い去るために患難がいかに役に立つかを、あなたはご承知です。あなたのみ旨のままに私をあしらってください。そして、あなたにのみ知られている私の罪深い生涯をお見捨てにならないでください。
主なる神よ、私が知るベきことを知り、愛すべきことを愛し、あなたの最も喜ばれるものをほめたたえ、尊ばれるものを高く見つもり、あなたの目に汚れと見えることを忌み嫌わせててださい。私が肉眼で見たことや愚かな人から聞いたことによって判断せず、かえって見えるものと霊的なものとを見分け、とりわけあなたのみ旨を求めるようにしてください。人は他人からあがめられたからといって、どれほどよくなるでしょうか。
人が他人にヘつらうのは、欺く人が欺く人を、むなしい者がむなしい者を、盲人が盲人を、病者が病者を欺いているのにすぎません。彼らが互にむなしいほめ合いをすればするほど、それは彼らの恥に変るのです。なぜなら、各自はあなたの目に偉大であるだけ偉大であり、それ以上ではないと、謙遜な聖フランチェスコは言っています。 (2:43:10~18)

第44章 自分自身の弱さを知れ

キリスト:
愛する者よ、君は熱しやすく冷えやすい。緊張した黙想を続けることができない。人間本性の弱さのため、必ず挫折して、人間の弱さをしみじみ思うことになる。この死ぬベき肉体をまとっている限り、君は心の悲しみと弱さとを感じるのだ。そこで、霊的な修行や神の黙想に専念しようとするが、肉体の多さに耐えられず、君は魂がうめくのをしばしば経験するであろう。
そのような場合には、なんらかの低い外的な労働に身を委ね、私の来臨と天からの訪れとを確信をもって待ち望みつつ、よい仕事をして気分を変えるのが有効である。また私が君を訪れてもろもろの憂慮から解き放つ時まで、君の心の寂しさに辛抱強く堪えることが必要である。そうすれば、君は一切の労苦を忘れ、内的な平安を味わい得るであろう。その時私は君に聖書を解き明かし、君が朗かな心をもって私の戒めの道を走りゆくようにするであろう。またその時君は言うであろう、「今の時の苦しみは、やがて私たちに現わされようとする栄光に比べるに足りない」。 (2:44:1~7)

第45章 懲しめられることを喜べ

修道者:
主なる神よ、私はあなたの慰めと霊的な訪れとを受けるに足りない者です。ですから、あなたが貧しさと寂しさとの中に私を捨て置かれても、あなたの処置は当然なのです。たとい海ほど涙を流しても、私はあなたの慰めを受けるに値いしないでしょう。
主なる神よ、私はただ懲しめられ罰せられるにふさわしい者です。なぜなら、あなたに対して重い罪を犯し、み前に多くの悪を行なったからです。ですから、このことを真剣に考えると、私は少しの慰めを受けるにも値いしないのです。
しかしながら、恵み深く憐れみ深い神よ、あなたはご自身のみ業の滅びるのをお望みにならず、あなたの恵みの富を現わそうとして、あらゆる人間の思いを超え、あなたの下僕をお慰めになります。あなたの慰めは人々がお互いに慰め合うのとは全然違います。人間の慰めは口先だけの空しいものです。 (2:45:1~6)

修道者:
主なる神よ、あなたはなぜ私のような者に天からの慰めをお与えになるのですか。私は何も良いことをした覚えがありません。常に悪に傾き、それを改めるのにものろい者です。このことは、そのとおりであって、これを否定することは出来ません。もし私がこれ以外のことを言ったら、きっとあなたは私を鋭く批判なさることでしょう。
自分の罪のため地獄と永遠の火のほかに、私は何に値いするでしょうか。私はあらゆる嘲笑と侮蔑とを受けるベき者であることを、正直に告白いたします。罪にみち、汚れに覆われた人間である私が、このほか何を言うことができましょう。
私は罪を犯しました、私を憐れみ、赦してくださいというこの一事のほか、私はなんの言うベきこともないのです。あなたは憐れむべき罪人から、その過ちを悔いて自分を低くすることよりほか、何を要求されるのでしょうか? (2:45:7~15)

修道者:独白
心から真に悔いてへりくだるとき、あなたの憐れみに対する希望は再び生まれ、悩める良心は和らげられ、失われた恵みは回復され、人は来たるベき神の怒りから守られるのです。そしてあなたと悔いた魂とは聖なる抱擁をもって相会するのです。
へりくだって罪を悔やむ心は、あなたがお喜びになる供え物で、あなたの前には焼香よりも良い香りです。それこそあなたの清いみ足に注ぐことを許されたあの心地よい香油でもあります。それというのも、謙った悔いた心をあなたは大切になさいます。ここに乱暴な敵からの逃げる場所があります。よそで犯した過ちはここで改められ、ほかで汚されたものはここで清められるのです。 (2:45:16~20)

第46章 神の恵みと世俗の知恵

キリスト:
愛する者よ、私が君に与えた恵みは、この世が与えてくれるいかなる慰めとは比べものになりません。だから私の恵みの妨げとなる一切のものを取り去り、恵みが君のうちに注ぎ込まれることを熱心に求めなさい。
ひとりでおることを選び、人との談話を求めず、熱い祈りを神に注ぎ出し、そうすることによって悔いた心と清らかな良心とを保つようにしなさい。
全世界を無であると思いなさい。あらゆる世俗のものにまさって、君の心を私に向けなさい。君は私と共にいながら、同時に世俗のものを愛することはできません。知人や友人からあなた自身を遠ざけ、世俗の慰めから君の心を解き放たねばなりません。
聖なる使徒ペトロはキリストに忠信な人々に、君たちは異邦人また巡礼者としてこの世に処すベきであると警告している。この世のものに執着しない者は、死に臨んでいかに大きな確信をいだくことであろう。 (2:46:1~9)

キリスト:
愛する者よ、気の弱い人は心が一切の事物から全く離脱しなければならないことを会得し得ず、肉的な人は霊的な人の自由を理解できません。とはいえ真に霊的になろうとする人は、疎遠な人をも親密な人をもすべて放棄し、何ものにもまさつて自分に注意しなければなりません。
もし君が君自身を完全に克服できるならば、他の一切のものにもたやすく打ち勝ち得るでしょう。完全な勝利は君自身に対する勝利です。なぜなら君自身に打ち勝って、肉を理性に服せしめ、理性を万事において私に服せしめ得るほどになった人は、まことに自我の征服者であり、全世界の王者であるから。
もし君が完徳のこの高みに登りたいと思うならば、雄々しくそれに着手し、あらゆる自己追求ともろもろの世俗的事物に対するすベての隠れた執着とを排除し打破するために、根に芹を置かねばならない。過度の自愛という悪徳から、ほとんどすベての他の悪徳は湧き出るのであるから、それは根だやしすベきものだ。従って、この悪が征服され除去されるならば、大きな平和と安静とは、すぐそれに従うであろう。ところが全く自我に死に切り、完全に自我を脱却しようと努める人はまれなので、多くの人は自分について苦慮しつづけ、自分以上に魂を高めることができないのだ。しかし私と共に自由に歩みたいと思う人は、誰でも自分のあらゆる過度の欲望を抑え、どんな被造物に対しても利己的な愛をいだかないようにしなければなりません。 (2:46:1~19)

第47章 人の本性と神の恵み

キリスト:
愛する者よ、神の恵みによる行動と人間の本性に従う行動とを注意深く観察してご覧なさい。両者は互に全く相反しているが、その動き方が微妙で、よほど霊的感性が磨かれていないと見分けることが出来ません。事実、人間は良いものを求め、良い行いに努めているように見えます。そのために人々はその外目の美しさに騙されます。しかしその本性は狡賢くて多くの人々を騙し、常に自分自身の利益を追求しています。しかし神の恵みは単純で、すベて悪く見えることを避け、計略を用いず、すべてのことをただ神のためにのみ行なっています。
人間の本性は死ぬことを避け、屈服することも克服されることも望まず、他に服従することを嫌います。しかし神の恵みは自分の意志と利己心との抑制し、肉欲に抵抗し、服従の状態にあることを求めます。それは克服されることを望み、自分の自由を楽しむことを願いません。規律の下にあることを好み、他人を支配することを求めず、常に神の下に生きかつとどまることを喜びます。そして神のために自分をあらゆる被造物に服従させようとしています。 本性は自分の慰めのために動き、自分の利益を求め、他人からそれを奪おうとします。しかし恵みは自分に有用であるか便宜であるかを思わず、多くの人に有益であることを考えています。 (2:47:1~8)

キリスト:
愛する者よ、人間の本性は名誉や尊敬を受けたがるが、神の恵みは一切の名誉と尊敬とを全能の神にささげよ、と命じる。本性は恥辱や軽侮を恐れるが、恵みはイエスのみ名のために非難や不正を受けることを喜ぶ。本性は閑暇と休息とを好むが、恵みは怠惰であり得ず、進んで苦労する道を選ぶ。本性は珍奇な美麗なものを求め、安価な粗末なものをあざけるが、恵みは単純でみすぼらしさに満足し、不断着を着ることを好む。本性はこの世の富を尊重し、地上の利得を喜び、損失を悲しみ、わずかなことに憤激する。
しかし恵みは永遠のものを思い、世俗のものに執着しない。どんな所有物を失っても悲しまず、苦言を聞いても怒らない。何ものも滅び失せない天国に、その宝と喜びとを置いているからだ。本性は貪欲であって、与えるよりも受けようとする。しかし恵みは寛大自由であって、風変りであることを避け、わずかのものに満足し、受けるよりも与えることを幸いだと思う。 (2:47:9~16)

キリスト:
愛する者よ、人間の本性はこの世の物と、自分の肉欲と、虚栄と、散策とに傾むいている。しかし神の恵みは神と徳とに向かい、この世界から離れ、肉の願いを憎み、無用の旅や時間つぶしを差し控え、公衆の前に出るのをはずかしく思うのだ。
本性は自分を楽しますような目に見える慰めを求めますが、恵みはただ神にのみ慰めを求め、一切の喜びを最高善に置いています。
本性は万事を自分の利益とそれを手に入れることに必死になりますが、報酬なしには何もしようとは思いません。またその仕事や才能が高く評価されることを願い、賞賛や恩顧を期待できるときにだけ良き行いをいたします。しかし恵みは世俗の報酬をも、神以外からくる賞賛をも求めません。
本性の腰求に悲しみつつ仕える者は、真理の御霊が自分の内で語る言葉に耳を傾けます。この御霊はそのような人に、世俗のものをさげすんで、天上のものを愛し、この世を軽んじて、日夜天国を待ち望むベきことを教えます。 (2:47:1~23)

第48章 神の愛についての黙想

修道者:独白
愛は偉大なものであり、偉大な祝福である。普通なら重いものでも、愛があれば軽くなり、どんな苦労でも平気で耐え忍ぶ力が出てくるものだ。愛は重さを感ぜずに重荷を運び、にがいものをも甘い味のものにするからだ。
イエスへの愛は高貴であって、偉大な行為ヘ人を押しやり、より高い完徳を求める心を常に呼び覚ます。イエスへの愛は他のあらゆる愛を排除し、地上のものに引きもどされない。キリストを愛する者は自由になり、世のもろもろの情愛から遠ざかることを願う。それは内なる霊がどんな世俗的関心にも妨げられ煩わされず、どんな逆境にも負けないたからである。
天にも地にも愛ほど美しい、強い、高い、尊いものは何ひとつ存在しない。なぜなら愛は神から生れるものであり、愛はよろずの被造物の上にあって、神以外のものには安んじ得ないものであるからである。愛は走り、飛び、幸福で、自由であり、何ものにも引きもどされない。愛はその目を賜物にとめず、あらゆるよいものの与え主に向ける。愛はしばしば限度を知らず、いっさいの限度をこえて燃えあがる。 (2:48:1~9)

修道者:独白
愛は重荷を感ぜず、労苦を厭わず、なし得る以上のことをなそうとする。愛は何事をも不可能と思わず、すベてのことを同等に感じる。愛は目覚めていて眠らず、他の者が疲れても決して疲れず、窮乏の中にあっても断念せず、燃えさかる焔のように常に上昇し、すベての障害を突破してその道を確実に開いていく。愛は敏捷で、明朗で、温和で、幸福で、快活で、勇敢で、辛抱強く、物堅く、慎み深く、雄々しく、決して私利を追求しない。
なぜなら、私利を追求するとき、人は愛から落ちるからだ。愛は慎重で、謙遜で、公正であり、柔弱でも軽薄でもない。むなしいことを思わず、沈着で、貞潔で、堅実である。
主の御旨ならば、どんなことでも我慢できる。主のみ旨に従おうとする覚悟の無い者は、愛の人といゎれる資格がない。
愛の人は愛する主のためにあらゆる艱難辛苦をも甘受し、どんなに不快な事件が起こっても、主から離れ去らない者でなければならない。 (2:48:10~17)

第49章 真の愛ある人とは

キリスト:
愛する者よ、君が「愛の人」と呼ばれるには、まだ足りないものがある。君は些細な困難にも意気阻喪し、他人からの慰めを求め過ぎる。
強い愛の人は、誘惑にも堅く立ち、敵の狡猾な甘言をも気にとめない。
真の愛の人の心は私に対して真実であること、逆境の時も順境の時と変らない。
強い愛の人は、愛する主の賜物を、与え主の愛以上には思わない。
真の愛の人は主の貴重な賜物よりもはるかに多く主の愛情を思う。なぜなら、愛する主をもろもろの賜物にまさって尊ぶからである。
誇り高い愛の人は、与えられたもので満足せず、すべての賜物をこえて私との関係に満ち足りている。だから、あなたは、自分で願っているほど深い愛を私と私の弟子たちとに対して感じ得ない時も、万事休すと思ってはならない。 (2:49:1~8)

キリスト:
愛する者よ、君が時おり感じるこの快適さ、甘美な愛情は、現実の恵みの結果であって、天父の国の祝福の前菜ではあるが、 君はそれにあまり満足してしまってはいけない。前菜は軽く終わる。もし、それで終わってしまったら、メインディッシュを食べ損なってしまう。前菜はその後に続くより大きな楽しみのための準備なのだ。だから、それがどんなに珍味であったとしても、それで満足してはならない。むしろ、それに続く大きな恵みを期待しなさい。
君の決意を堅持し、神ヘの正しい思いを持ち続けなさい。そうしたら時々君は崇高な観想の高みにのぼり、昇ったと思ったらたちまち普通の無用な思想に再び引き降ろされることもあるが、それは決して錯覚ではない。そのような思いは君にとってやむをえないものであり、君がそれに反抗し、抵抗しているかぎり、それは無害であって、かえってあなたの功徳の機会となるのだ。
君の知るベきことは、敵が君のよい決意の結果を破壊し、すベての霊的修行と、聖徒たちヘの請願と、私の苦難の瞑想と、君の罪の有益な吟味と、君の心の警戒と、徳に進もうとする堅固な決意とから、君を引き離そうとしてあらゆる悪だくみをしているということだ。 (2:49:9~15)

キリスト:
愛する者よ、敵は君の心に多くの悪念を注入して、君を悲哀と倦怠とに陥らしめ、そうして祈祷と霊的読書とから君を引き離そうとしている。謙遜な聖体拝受のためのざんげは敵がもっとも嫌っていることなので、奴は君が聖餐にあずかることをなんとか妨げようとしている。奴が君にどんな計略を用いても、奴を信じることなく、むしろバカにしてやれ。奴が悪念邪情を君に吹き込むなら、奴を突き飛ばし、言ってやれ。
「去れ、汚れた霊よ!  恥を知れ、悪魔よ! 私の心にそんなものを吹き込むお前は、汚れそのものにほかならない」。
「私から去れ、極悪の偽り者よ! お前は私となんの係りがあるのだ。イエスは勇ましい戦士として私と共においでになるから、お前はあわてるにきまっている」。
「お前の言うことを聞くくらいなら、むしろ死んで刑罰を受ける方がましだ」。
「だまれ! 言うな! これ以上私を悩まそうとしても、お前の言うことはもう聞こえない」。
「主は私の光、私の救いだ。私は誰を恐れよう。私の心は恐れない。主は私の助け主、私のあがない主である」。
愛する者よ、雄々しい騎士のように勇敢に戦え。時々弱さのため倒れることがあっても、前よりもいっそう大きな力をもって起ち上り、さらに大きな恵みにより頼め。ただ努めて空しい自惚れと傲慢さとだけには気を付けなさい。多くの人たちは傲慢さのために道を過っているのです。高慢ちきな人を見て反面教師にして、自分自身への警告としなさい。 (2:49:16~29)

第50章 神の恵みと謙遜とを持続すベきこと

キリスト:
愛する者よ、誰でも信仰に進むということは神の恵みによるのです。それなのに、一寸ばかり信仰が進んだからといって自慢したりする人がいます。君はそうであってはいけません。
むしろ、そういうときにこそ、それを誇らず、自慢せず、大ごとだと思わないように。むしろ君自身を駄目な人間だと思いなさい。君はこの恵み受けるに足りないと信じることは、君にとってさらに成長する道なのですよ。君は、そのとき与えられた敬虔な感情にのめり込んではいけません。むしろ、そういうときには恵みがなければ自分はどんなにみじめな者であったかを思い返しなさい。
霊的生活の進歩は、内的な慰めの恵みを与えられたときよりも、むしろそれを奪われたときに、それを謙遜と忍耐とをもって忍び得るところにあるのです。そういうときにこそ、君は君自分の良い習慣に従って普段通りに祈り、その他の修行をなおざりにしたりすることなく、かえって君の最善を尽して行ないなさい。
孤独さや悲しさのためにそれらを省略しないように気を付けなさい。重要なことが思うようにならないからといって、短気になったり、投げやりになる人が実に多いことは悲しむべきことです。(2:50:1~5)

キリスト:
愛する者よ、人の道はその人の手中にはないのです。それは神に属しているので、神がよしとされる時に、その御心に従って慰めをお与えになるだけです。
信仰に進む恵みを無思慮に使用したため、自分の破滅を招いた人がいます。それは自分の弱さを考慮せず、健全な理性よりも心の欲望に従って、自分の能力以上のことをしようとしたからです。神のみ旨にかなう以上のことを、あえてしようとして、たちまち神の恵みを失ったのです。
自分の力で天上に居場所を作ろうとした人は、貧しいみじめな者に落とされます。それは自分の翼では高く飛ベないということを悟り、私の翼の下により頼むようになるためなのです。主の道にまだ新参未熟でありながら、賢明な人の忠言に従おうとしない人は、いとも簡単に倒されます。神の老練な下僕たちの勧めよりも、自分の思いを通そうとする人は、自分の考えを押さえないかぎり、その終りは危険にさらされます。(2:50:6~11)

キリスト:
愛する者よ、君自身の目で見て賢そうに思う人は、おそらく他人の忠告に従う謙遜さがないでしょう。本当のことをいうと、それ程賢くなくても謙遜に友人たちの忠告を聞き、それを理解できる程度の知恵がある人のほうが、自分に欺きつつ知識の宝庫を持つ人よりもはるかに賢いのです。才能が君を誇らせるなら、才能は少ない方が多く持っている人よりも有能なのです。
与えられた恵みを喜びすぎて、自分が貧しかったときのことを忘れ、恵みが失われることを心配するあまりに、主に対するあの清らかな畏れを忘れる人は決して賢い人ではありません。また逆境や困難に際して失望落胆し、私に対する信頼の欠如を示すような思いを募らせる人も賢いとは言えません。(2:50:12~16)

キリスト:
愛する者よ、平和な時に自由と安全とを味わいすぎる人は、試練に遭うと、簡単に落ち込み、心を閉ざしてしまう。もし君が常に謙遜であり、君の目に小さく見え、君の精神を抑制し統御するならば、そんなにたやすく危険と罪とに陥ることはないのだ。霊的に絶好調の時に、主の恵みの光が取り去られたならば、君はどんなに感じるであろうかと、想像してご覧なさい。その時にこそ、この恵みが君から取り去られても、すぐに君に帰ってくると信じなさい。そのような試練は、君が君自身の思いのままいつも栄えているよりも、君にとっていっそう有益なのだ。なぜなら、功徳は、人のうける幻示や慰めによっても、聖書の知識によっても、高い地位によっても測られない。ただその人が真の謙遜の上に堅く立ち、神の愛に満たされ、一意専心神の栄光を求め、たえず自分を無視し、真剣に自分をさげすみ、要するに他人からほめられるよりもむしる辱かしめられることを喜びとするかどうかによってのみ知られるからである。 (2:50:17~23)

第51章 神を究極的目的とせよ

キリスト:
愛する者よ、もし君が本気で成長したいと思うなら、君の人生の究極目的を私に置くべきです。そうすれば、君自身の情熱をどこに注ぐべきかがはっきりするでしょう。現実的なレベルに君の人生の目標を置けば、君の魂は寂しさにうちひしがれるでしょう。
だからすべての目標を私に置きなさい。そもそもそれらのすベてを与えたのは私なのだから。すべての良きものは私から流れ出ると思いなさい。だから、君はその源である私に目標を定めるべきです。小さいものも大きなものも、貧しいものも富むものも、すベてのものは一様に、生ける泉から汲み上げるように、私から直接に生ける水を汲むのです。また進んで私に仕える者は恵みに恵みを加えられるでしょう。 (2:51:1~6)

キリスト:
愛する者よ、私以外の何ものかを自慢したり、何か特殊な事物に喜びを求めたりする人は、誰でも真の永続的な喜びを得ることができません。むしろ心の楽しさの代りに多くの点で悩みと窮乏とを味わうことになるでしょう。だから一つの善をも君自身や他の何物かに帰することなく、ただ私にのみ帰すベきです。
私によらなければ、人は何物をも所有することはできません。私は一切の祝福を君に与えました。だから一切の祝福が私に帰せられることを私は期待しています。また厳格にいうと、感謝することを要求します。これこそが、すべての虚栄を追放する真の道なのです。
天来の恵みと真の愛とが君の心にはいり込むならば、そこにはもはや羨望や偏った心や利己心などの入り込む余地はないはずである。それというのも私の愛が万事を征服して、魂のあらゆる力を増し加えるからです。もし君が真に賢明であるならば、君はただ私にだけ喜びと望みとを見いだすでしょう。私ひとりの外によい者はないのですから。 (2:51:7~13)

第52章 心の願いを再検討すること

キリスト:
愛する者よ、君にはもっと学ぶベきことがたくさんあります。そのことを君はまだ知らないらしい。 その中の二つはとくに重要です。一つは、君のすべての願いを私の意志に一致させること、もう一つは、君自身を愛する者になってはいけないということです。
一つの願いが沸き上がると、君はたちまち感情的になり、それがなければ駄目だと思ってしまいます。しかし冷静になって考えてご覧なさい。その君の願いとやらは、君自身の損得よりも、私からの栄誉を求める行動なのかどうか。もし君が神である私の意向のみを求めているのであれば、私のやりかたを十分に納得するでしょう。しかし何か利己心がひそんでいたならば、それが君の重荷になり、君自身が苦しむことになることは確かです。
君自身の願いにこだわって、私に祈ることを忘れてはなりません。初めは君を喜ばせるかも知れませんが、それは必ず後になってそれを悔やむことになります。人間というものは目先の値打ちに囚われて、ことの真実が見えないものです。だから、すぐに他人の思惑に支配されて、君自身の願いのとおりにはならないのです。もし、今そういう状態にあるのなら、すぐにそこから手を引きなさい。
よい願いやそのための君の努力さえも、自制することが大切です。慌てて、よく考えもせずに行動することが精神を混乱させ、時には隣人を困らせたり、時には友人から反対されて、本末転倒する始末です。だから君自身の欲望に駆られた願いを静かに押さえて、良きときの到来を待ちなさい。(2:52:1~9)

第53章 忍耐力を得て肉欲と戦うベきこと

修道者:
主なる神よ、私には忍耐が必要であることを感じています。この世界で私は多大の反抗に出会うからです。どんなに平和を熱望しても、私の生活は戦いと悲しみとから免れないからです。(2:53:1~2)

キリスト:
愛する者よ、その通りである。しかし、君が誘惑や反抗から免れた平安を求めるのは、私の意志ではないのだ。むしろ君が誘惑にためされ、多大の反抗に出会いながら、なおかつ平安を見いだすことこそ、私の意志なのだよ。もし君がこの程度の苦労に耐えられないとしたら、どうして煉獄の火を忍ぶことができるでしょうか。
二つの災いのうち、常により小さい方を選びなさい。未来の呵責を逃れるために、現在の災いと悲しみとを辛抱強く耐え忍ぶように努めなさい。
君は世間の人々がほとんど、または全く苦しんでいないとでも思っているのだろうか。健康で富裕な人々でさえ、それ相応の苦しみがある者なのだ。そういう人に、今まで出会ったことがないのかな。それでも君は言うかも知れない。
彼らにはそれなりの快楽や楽しみがあり、彼ら自身で事柄を決定できるではないでしょうか。それで、彼らは彼らの苦労もそれ程のことはないと感じているのではないでしょうか。
そうか、君はそんなことを考えているのか。それじゃ言おう。彼らの願いが全部叶えられたとしても、それはいつまで続くのだろうか。 (2:53:3~11)

キリスト:
愛する者よ、この世の富はやがて煙のように消え去り、その後では思い出すこともない。それはすでに生きている間でも、辛苦や悲しみや心配なしに、その富を楽しむことはできないものだ。なぜなら、それを楽しんでいるということそれ自体が、苦痛の種、不安の原因になるからだ。
だから、必要以上に、快楽を求めることは、少しも益にならないばかりか、多くの悔いを残すことが落ちである。富も快楽も過度に求めることは、最後にはそれに見合う、欠乏感をもたらすものでなのだ。
バカな連中だなぁ、すベてこの世の快楽は、いかにはかなく、偽り多く、放縦で、恥ずべきものであることに気付いていない連中は。それにもかかわらず、人はそれに酔いしれ、目を塞がれて、このこと危険に気付いていない。さながら物言わぬ獣のように、この朽ちゆく人生の小さい快楽を漁り続け、遂には自分の魂の死ヘと突入して行くのである。 (2:53:12~17)

キリスト:
愛する者よ、はっきり言いますよ。君は君自身の情欲に従ってはいけません。君自身の意志からも離れなさい。むしろ、私が何を望んでいるかを考えてそれに従いなさい。私は必ず君の心の真実の願いを叶える。
もし君が心の底から私から出てくる豊かな恵みと慰めを望むなら、この世に属するすべてのものを価値のないものと見なし、その場限りの快楽を捨てることです。そうすればあふれる慰めを手に入れることが出来る。またこの世による楽しみごとから身をひけが、天来の楽しみが与えられます。
しかしまず悲しみと激しい戦いとを経ないで、この慰めに達することはできないということをわきまえておきなさい。なぜなら君の内に潜む古い習慣が君を妨害しているからだのだ。しかし、問題はありません。それらは新しく身につける良い習慣によって打ち勝つことができます。その時に、君の肉体は反抗するだろうが、例の血kらによって勝つことが出来る。古い蛇 (悪魔)は君を誘い惑わすであろうが、祈りによって追い出すことができる。また有益な労働に勤勉にたずさわるならば、彼のあらゆる通路をふさぐことができるであろう。(2:53:18~24)

第54章 イエスを模範とする

キリスト:
愛する者よ、素直な心のない者は神の恵みから遠く離れていることを意味するのだ。また自分自身の利益にのみ拘る人間は、普遍的な善を見失うことになる。だから目上に従わない反抗的な人間は、自分自身の欲望を十分にコントロールできていない証拠である。そういう人はどうしても不平を呟くことっが多くなる。
だから、君自身の欲望をコントロールしたいと願うならば、まず謙遜さを身につけて目上、先輩の言葉に従うように努力しなさい。先ず自分自身の欲望と上手く調和して生きることが出来れば、他人との関係も上手く調整できるようになる。君の内なる霊と肉体的欲望とのバランスをとれたら、君自身にとっての宿命的な敵などは存在する場を失うだろう。肉体的欲求を抑えるためには、君自身が君自身を軽蔑できなければならない。(2:54:1~7)

キリスト:
愛する者よ、君は今でもなお君自身を中心にして生きている。そのため、隣人からいろいろ忠告されることを異常に嫌い、拒否している。君は一体君自身のことをそんなに偉くて重要だと思っているのだろうか。神のために隣人に従うことを、そんなに大したことだと思っているのだろうか。すべてのものを無から創造した全能で完全である私は、君のためヘりくだって人間に服従したではないか。私が万人のうち最も低い最も小さい者になったのは、君が私の卑下によって君の高慢に打ち勝つことを学ぶためであった。
ちっぽけな人間よ、服従することを倣いなさい。元をただせば土くれにすぎない路傍の塵よ、へりくだることを学ベ。そして自分をすべての人々の足もとに跪け。君の意志を砕き、君自身をすベての権威に服従することを学ベ。君の怒りを君自身に振り向け、誇りの大波にさらわれることなく、万人をして君の上を歩ませ、彼らの足で君を巷の泥のように踏ませ、君自身が謙遜従順であることを示せ。
むなしい人間よ、君は何が不満なのか。汚れた罪人よ、しばしば神のみ旨を痛め当然地獄に落されるベき君は、君を訴える者になんと言い訳するのだ。
ああ、しかし君の魂は私の目からは貴重な宝石のような者だ。だから私の目は君をおおめに見てきたのだ。それは君が私の愛を認め、私の恵みを常に感謝し、君自身が軽侮されるのを辛抱強く耐え忍び、また君が絶えず従順と謙遜とを保つようになるためでなのだ。(2:54:8~16)

第55章 いかに祈るべきか

キリスト:
愛する者よ、どんな場合でも君はこう祈るべきだ。
「主よ、み旨にかなうならば、このこと(〜〜〜〜)を実現してください。主よ、そのことを通してあなたの御名が崇められますように。主よ、私のために役に立ち、意味があると思われますならば、それを実現してあなたの栄光のために用いてください。しかし、それが私に有害であり、私の魂の救いに不都合であるならば、そのような願いを私から取り去ってください」。
すベての願いは、人の目には良くかつ正しいと思われるときでも、必ずしもそれが聖霊から出ているとは限りません。君自身の内から出てくる一つ一つの願いが、果たして善い霊によるのか、悪い霊によるのか、あるいは君自身の霊によるのか、よく吟味しなさい。それを正しく見分けるのは非常に難しいことです。 (2:55:1~6)

キリスト:
愛する者よ、初めは善い霊に導かれているように見えていたことが、後になって惑わされたものだと気付くことは決して少なくありません。だからその願いが実現したときに、もう一度神の御前で謙遜に反省して次のように祈るべきです。
「主よ、あなたは何が最善であるかをご承知です。どうかこのことでも、あのことでもみ旨のままに成らせてください。あなたのみ旨に適うことを、適うだけ、適うときに、お与えください。み旨のままに私をお取り扱い、あなたを最も喜ばせ、あなたのより大きな栄光を現わさせてください。あなたが良いと思われるところに私を置き、何事にもみ旨のまま自由に私を取り扱ってください。私はみ手の中にあります、あなたが良いと思われる方向に向かてせてください。どうか私自身があなたを正しく完全に誉め称えることができますように」。 (2:55:7~14)

第56章 真の慰めは神にのみ求めるベきこと

修道者の独り言:
自分の慰めについて何を求め何を考えるにしても、私はそれを現世でなく来世に期待する。なぜなら私がこの世の慰めをすベて得たとしても、富の与え得る快楽をことごとく受けたしても、それらは決して長続きしないことは確かであるから。
だから、私は私の心に言う。貧しい者の慰め主であり、へりくだる者の保護者である神以外のものから、完全な慰めと休息とを得ることはできないのだ。
だから、私の心に言う。「暫く待て、神の約束を待て」と。そうすれば、やがて溢れるほどの良いものを天上において受ける。
しかし、あくまでもこの世の物に固執するなら、天上のものを諦めなければならない。この世のものを楽しみつつ、永遠のものを望むなんて言うことは無理な願いだ。しかし私はこの世の富によって満足することは出来ない。人間はそのようには造られていないからだ。(2:56:1~7)

修道者の独り言:
世界にあるものを全部私のものにしたって、私は決して幸せにはなれない。私の幸せは神に、神のみにある。この幸せは、この世のバカどもが持っている類いのものではない。キリストの善かつ忠なる下僕たちが期侍している祝福であり、それは「私の国籍は天にある」 という幸せであり、今も既にその前菜を味わっている。
すベての人間的な慰めはむなしく、瞬間的である。けれども私に与えられている恵み、あるいは心の平安は永遠の真理によるものだ。私の内なる人はその慰め主であるイエスと常に共にあり、私たちは楽しい語り合いの時を持つ。
「私のイエスさま、いつでも、私から離れないで、私と共にいてください」。
「どうかすべての人間的な慰めを捨て去ることが、私の慰めになりますように」。 (2:56:8~14)

第57章 不正をも忍んで受けるベきこと

キリスト:
愛する者よ、君はいったい何が不満なのだ。私と私の聖徒たちの苦難とを見て、つぶやくのを止めなさい。君たちはまだ血を流すほどの抵抗をしたことがないではないか。ひどい苦難と強い誘惑と重い圧迫といろいろの試練とを受けた私の聖徒たちの苦しみを思えば、君の苦しみなどは取るに足らない。
だから他人の痛ましい苦難を思い起こしなさい。それは君が君自身の軽い苦難にたやすく堪え得るためだ。君の苦難が小さいにせよ、大きいにせよ、それを辛抱強く堪え忍ぶように努めるがよい。
苦難に対する君の心備えがよければ、それだけ君はより賢く行動し、より多くの功徳を積むことができる。そうすれば、君はいっそうたやすくそれに耐えるに至るであろう。苦難に耐える力は、実習によるほかない。(2:57:1~7)

キリスト:
愛する者よ、「俺はあんな奴からこんなことをされた」とか、「俺がこんなことを我慢せな駄目なのか」とか、「奴は俺にこんなに大きな損害を与えた」とか、「奴は俺のことを好き勝手に言いふらしている」とか、「他の人なら我慢できるが、奴だけには我慢ならない」とかいうようなことを言ってはならない。
そんな考えは馬鹿げている。そういう考えに陥るのは、君の忍耐力とか、徳と力とか、それらに実際に報いてくださる方を無視して、ただ君を害した連中のこと、君が受けた不正のことだけを考えているからだ。
自分に都合のいいことだけを自分の好きな人から受けて、それに甘んじて耐える人は、真に耐え忍ぶ人とは言えない。(2:57:8~10)

キリスト:
愛する者よ、真の忍耐深い人とは、自分を試みる者が目上であると、同輩であると、部下、後輩など、下の者であるかどうかに関係なく、またその人が善人であると、悪者であろうと、取るに足らない人であろうと、そういうことには一切関係なく、自分に降りかかってきたすべての災いを神のみ手からくだるものとして感謝して受ける人である。そのような人は、どのような状況の下で、その苦難を受けようとも、それは神から来たものだと信じて尊重する。
どんなに小さい苦難でも神のために忍ぶならば、神のみ前において大きな功徳として認めあられるのだ。だから神の御前で栄冠を得ようと願うならば、どのような戦いにも、油断なく備えておきなさい。いずれにせよ戦うことなしに、君は忍耐の栄冠をかちえることはできない。苦しむことを拒むならば、君は栄冠を受けることをもまた拒むのでる。(2:57:11~15)

第58章 神の秘密

キリスト:
愛する者よ、くそ難しい哲学問題や、見えない神についての高遠な神学論にうつつを抜かすことは慎みなさい。例えば、なぜこの人はなおざりにされ、あの人には驚くような恵みが与えられているのかとか、なぜあの人にはいろいろ不幸が重なるのに、他の人は賞賛されるのかとか、という議論はどれほど重ねても無駄である。そのようなことは人間の知性を越えていて、どんな推理や論議によってわかるものではありません。何故なら、それらの問題は神の判断によるのですから。
だからそういう種類の疑問が君の心に起こるのは悪魔のしわざである。だからもし君の友人の誰かがそのような問題について君に議論を振り向けてきたら、すぐ預言者の言葉をもって答えなさい。「ああ主よ、あなたは正しく、あなたの裁きは常に正しいのです」。あるいはまた次の言葉でもよい。「主の裁きは真実であって、ことごとく正しい」。私の判断は尊敬して受け入れられるべきもので、論議されるベきものではありません。私の裁きは人間の理性には不可解なものである。(2:58:1~5)

キリスト:
愛する者よ、聖徒たちの功徳についても、彼らのうち誰が他より清いかとか、誰が天国において偉大であるか、とかいうようなことを、穿鑿したり論議したりしてはならない。これは不和と争いとを生じ、何の結果も生みださない。ある聖徒を他の聖徒の上に置くような僭越をあえてする高慢と虚栄とを養うだけである。これはまた聖徒たち自身の好むところでもない。私は分裂の神でなく、平和の神であるから。
神にいっそう喜ばれる人は、聖徒たちのうちどちらが大であり、どちらが小であるかを論ずるよりも、自分の罪の大きいことと、自分の徳の小さいこととを思い、また聖徒たちの完徳から自分がどんなにかけ離れているかを思う人である。聖徒たちの行為を穿鑿して無用な吟味をするよりも、熱い祈りと涙とをもってそのとりなしを請い求める方がはるかにまさっている。もし人が無用なおしやベりを慎しむことができたら、それだけでも聖徒たちはいっそう喜ぶであろう。彼らは自分の功徳を誇らない。なぜなら、何の善をも彼ら自身に帰せないで、一切を私に帰するからだ。一切は私が無限の愛から彼らに与えたものであるら。(2:58:6~12)

第59章 己を捨てろ

キリスト:
愛する者よ、君は君自身から逃げれば逃げるほど深くキリストに属するものになる。また目に見える物を捨てることによって、心の平和が生じるように、自我の放棄は人を神に結ぶのである。
私の願いは、君が素直に喜んで自我を完全に捨てることを学ぶことです。私に従いなさい。私は道であり、真理であり、生命です。私は君が歩くべき道であり、君が信じるべき真理であり、君が希むベき生命です。私は整備された道、間違いのない真理、終わりのない生命なのです。私の道を歩き続けるなら、君は真理に至ります。
永遠の生命を手に入れたいなら、私の戒めを守りなさい。真理が知りたいなら、私を信じなさい。私の弟子になりたいならば、君自身を捨てなさい。神の国を得たいなら、この世を捨てなさい。私と共に王になりたいなら、私と共に十字架を担いなさい。(2:59:1~12)

第60章 逆境の中で忍耐強く謙遜であるベきこと

キリスト:
愛する者よ、逆境の中で忍耐強く謙遜であるのは、順境の時に歓喜し熱心であるよりも、私にはうれしいことだ。なぜ君は一寸非難されたからといって、そんなに落ち込むのだ。そんなことは聞き流してしまえ。それは初めてのことでも、珍しいことでもないし、これからだって、繰り返し起こることなのだ。
君は反対者がいないときには、非常に勇敢であるし、周囲の人々にはなかなか有効な忠言を与えたり、彼らを慰めることもできる。それなのに、患難に出会うと君は言葉を失い能力もなくしてしまう。その時こそ、君は隣人を励ますときに用いた体験を思い起こしなさい。君が一寸した困難に出会ったときに陥る君自身の弱さを省みるがよい。とはいえ、これらのことはすべて君の幸福のために起こるのだ。(2:60:1~8)

キリスト:
愛する者よ、自分自身の弱さを強く感じることが起こったときには、そのことにあまり心を奪われないようにしなさい。またそれがどんなに煩わしくても、それによって落胆してはなりません。もし君がそれをどうしても耐えられないならば、仕方がない我慢しなさい。もし君が口をききたくもないことならほっときなさい。怒り狂って弱い人を躓かせないように、口から出る言葉にはくれぐれも注意深く、慎みなさい。その内、心の嵐は静まり、悲しみは癒やされるでしょう。
私は生きている。君が私に寄り頼み、私に助けを求めるならば、私がいつでも君を助けようとして身構えていることを思い出しなさい。心を静めて、さらに大きなことを耐え忍ぶ備えをしなさい。押えつけられ激しく試みられていると感じても、絶望してはいけません。君は人間であって神ではないし、動物であって天使ではないのだ。天上の天使たちも、エデンの園で君たちの先祖たちでさえ失敗したのに、どうして君は無傷でおれるのか。私は悩んでいる人たちをいやし、自分の弱さに悩んでいる人を神の子にしようとしているのだ。(2:60:9~18)

修道者:
主なる神よ、あなたのみ言葉に祝福りますように。それは私の口に蜜よりも甘い。もしあなたがみ言葉をもって私を力づけてくださらなかったならば、もろもろの患難と不安の海で、ただ漂っていただけだと思います。その時思いました。救いの港にたどり着きさえしたら、そのためにどんなに苦しんでも、それらは皆、スッ飛んでしまうだろうと。
私にはよい最期をお与えください、この世から幸福に船出することを許してください。私の神よ、私を顧みて、あなたの王国へ真っ直ぐに導いてください。アーメン(2:60:19~23)

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