ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

現代語版イミタチオ・クリスチ第1巻下(第18章〜第25章)

2016-12-01 09:40:04 | 現代語版イミタチオ・...
現代語版イミタチオ・クリスチ第1巻下(第18章〜第25章)

第18章 修道者の生活

(1) 信仰者としての完全を目ざして励んだ修道者たちを見上げよ。そうすれば、私たちが一体何者なのか、私たちが拘っていることがいかにつまらないことかを悟るであろう。1:18:1~2
(2) 修道者たちは、飢えと渇き、寒さと裸、労働と疲労、徹夜と断食、祈りと黙想、迫害と嘲笑の中で信仰を貫いたのだ。彼らは想像を絶する艱難を乗り越えてキリストの足跡に従ったのだ。1:18:3~4
(3) 修道者たちは、この世での生活を捨て、永遠の命の中で生きようとした。そのために、何と厳しい生活をしたことだろう。この世への誘惑を熱い祈りによって克服し、霊的進歩のために厳しい禁欲を実践し、自分の短所を根絶するために闘い、ただひたすらに神に思いの一切を向けたのである。1:18:5~7
(4) 修道者たちは、昼間は労働に励み、夜は祈りに専念した。また日に何度かの沈黙の行を行った。彼らは一日のすべての時間を神への時間として献げたのである。そして、それらのすべての時間が彼らの喜びであった。1:18:8~9
(5) 修道者たちは、富と地位、名誉と慰め、友人と親戚との関係をすべて断ち切り、この世に属するものは一切、所有しないと決断したのである。1:18:10
(6) 修道者たちは、生きるために必要なものでも、それを最小限に抑えた。この世のレベルでは貧しかったが神との関係においては豊かであった。1:18:11~12
(7) 修道者たちは、この世では異邦人であったが、神とは親しい友であった。彼らはこの世においては憐れむべき取るに足らない存在であったが、神の目には大切な存在であった。1:18:13~14
(8) 修道者たちは、日々謙遜を学び、従順であること、愛と忍耐とを実践したので、霊的に日々進歩した。1:1815~16
(9) 私たちは彼らの生き方に学ぶべきであって、多くの怠惰な修道者を見倣うべきではない。1:18:17
(10) 修道会の創設当時の修道者たちの熱意は非常に大きかったことを思う。彼らの祈りの熱かったこと、霊的成長のための真剣な努力、その規則を大切にし、厳格に守ったこと、それが創設当時の原動力であった。1:18:18~19
(11) 創設当時の修道者たちが残してくれた記録は、聖徒とはどういう生き方をするべきなのか、私たちにとって大切な模範となっている。今では一人でも聖徒らしい修道者が居ると、大騒ぎする。1:18:20~21
(12) 私たちの時代の軽薄さには呆れてしまう。こんなにも簡単に堕落してしまうものだろうか。私たちの魂はぬるま湯に浸かって、怠けてぐせが付き、そのため生きることが退屈になり、当然の結果として、少しの進歩もない。1:18:22
(13) 私は心から願う。あなた方にはこれらの優れた先達が居るのだから、彼らを模範として怠惰な眠りから目を覚まし、聖徒の道において前進して欲しい。1:18:23

第19章 修道者の修行について

(1) 修道者とは、その品性において、外面と内面に差があってはならない。むしろ人の目に付く外面よりも内面が天使のように純真であれ。何故なら、神は人の内面を見られるからだ。1:19:1~2
(2) 修道者は毎朝思いを新たにして、修道の初日のような初々しさを保ち、「神よ、私の新しい決意を受け入れ、聖なる努めに励まさせてください。今までは何も出来なかった私を赦し、全く新しい出発をお許しください」と祈る。1:19:3~4
(3) あなたの進歩はあなた自身の決意に対応している。大いに進歩したいと願うなら、それだけ熱心に学べ。時にはあなたの固い決意も失敗することがある。ましてあやふやな決断しかしていない人に何が出来るだろうか。1:19:5~6
(4) 修行を怠けたら、ろくなことは無い。しかし何らかの事情により、修行を止めなければならないこともある。だから賢明な修行者は修行を続けるために、自分の考えではなく神の導きに期待している。事情を支配しておられるのは神であり、私たちの道は私たちの手にはない。他の人のために修行を中断しなければならないようなときには、神は必ず修行を再開できる道を開いてください。1:19:7~10
(5) 怠け癖とか、疲れたといって、修行を怠ったら、厳しく反省しなさい。それでもなお、その怠慢の報いはあるものだ。1:19:11
(6) 一生懸命励んだとしても、修行に失敗する場合もあるのだ。1:19:12
(7) 常に決意を新たにしなければならない。修行を妨げる理由は、いつでも、どこにでもある。1:19:13
(8) 衣食住に関わる日常生活においても、あるいは修行生活においても、細かく具体的に検証すべきで、そのことによって私たちの霊的成長が妨げられることが多い。少なくとも、朝と夜、1日に2度は、振り返りなさい。朝はその日に為すべきことについて決意し、夜にはその日の言葉と行動がどうであったか振り返りなさい。あなたは神と隣人とに何らかの罪を犯したかも知れないのだ。1:19:14~16
(9) 備えよ、常に。あなたたちは悪魔に対する兵士である。まず、不節性を征服せよ。そうすればあらゆる肉欲に抵抗できる。決してボヤッと時を過ごすな。本を読め、何か書け、祈れ、黙想せよ。常に人びとの必要に応えられるように、心を整えよ。1:19:17~18
(10) 健康には個人差があるのだから、肉体に関わる修行は、慎重でなければならない。1:19:19
(11) 能力、体力、知力には個人差がある。従って、特殊な修行は個人的になすべきである。だからと言って、個人的な修行のために、共通の修行を怠ってはならない。個人的な、特殊な修行は、共同の修行の合間にすべきである。1:19:20~22
(12) 修行の形式、方法は一人ひとり異なるものである。あなたに適している修行は他の人には相応しくないかも知れない。だから他の人の修行を真似する必要は無い。1:19:23
(13) 修行は季節によって変化するものであり、苦しいときに相応しい修行もあれば、穏やかな日々に適した修行もある。悲しみの中での修行もあれば、喜ばしいときに適した修行もある。1:19:24~26
(14) 教会暦に従って、敬虔を学ぶべき修行もあれば、聖人の日にはその聖人の執り成しを求める修行もある。あるいは、思いをこの世から離れて永遠に思いを馳せる修行もある。教会暦の祝日と齋日に合わせて真剣に自分自身を整え、現在における自分自身の責任を顧みることも重要である。1:19:27~29
(15) すべての修行は、自分自身の不十分さを自覚し、終わりの日に祝福を受けるに相応しい者となることを目指すべきである。主は言われた、「主人が真夜中に帰っても、夜中に帰っても、目を覚ましているのを見られる下僕たちは幸いだ」(ルカ12:37)。また、こうも言われている。「主人が帰ってきたとき、言われた通りにしているのを見られる主もベは幸いである。確かにいっておくが、主人は全財産を管理させるに違いない」(ルカ12:43~44)。

第20章 孤独と沈黙の修行

(1) 時には立ち止まり、これまでの自分自身を振り返り、神の恵みを数えるが良い。あなた自身の興味に従って自分本位の読書をしていないか。その場だけの面白いものを読むより、心を豊かにするような読書をしなさい。1:20:1~3
(2) つまらないお喋りや、ただ徒に街を歩き回る時間があったら、黙想せよ。多くの聖人は出来るだけ人びととの交際を避けて、神との交わりの時間を多く取ったものだ。他宗教の指導者も、「私は巷を歩きまわるたびに、品性を落として帰宅する」(セネカ『書簡7』)。私自身もこれと同じ経験をしてきた。1:20:4~7
(3) 要らんことを言うよりも、沈黙せよ。外出するよりも、家に留まれ。誰でも内的充実を願うなら、イエスと共に群衆から離れよ。1:20:8~10
(4) この世から離れ完全な隠者にならなければ、公衆の前に出ることには危険が伴う。沈黙の価値を知っている者でなければ、人びとの前で安心して話ができない。20:11~12
(5) 部下として謙遜に上司に対応できた人だけが、有能な上司になれる。自ら進んで服従する人でなければ、その人の命令に安心して従うことは出来ない。20:13~14
(6) 良心に従う人でなければ、安心して人生を託せない1:20:15
(7) 聖人たちは神を畏れることを自分の良心の基準にした。だから多くの才能に恵まれても謙遜さを見失うことはなかった。1:20:16
(8) 悪い奴が威張っておられるのは、高慢とうぬぼれから始まり、自己欺瞞に終わる間だけだ。1:20:17
(9) あなたがいかに善良であるとしても、この世の基準で生きている限り、こころ安らかに過ごすことはできない。1:20:18
(10) 世間から高く評価されている人は、自信過剰になりやすく、最も危ない。だから、時々は自信を失うような経験をすることが必要である。それによって、天狗になったり世間を舐めたりする危険から守られる。20:19~20
(11) 一時的な喜びを追い求めず、この世のものに心を煩わされない人は、バランスの取れた良心をたもち、平和に生きることが出来る。無駄な心遣いをやめて、本当に益のあることをだけを求め、全てのことを神にゆだねて生きる人には、穏やかな生活を味わうことが出来る。1:20:21~22
(12) 人は聖なる悔い改めを励んで行わないかぎり、天の祝福にあずかることはできない。心の悔い改めを望むならば、「床の上で静かに自分の心に語りなさい」(詩4:4)としるされているように、あなたは自分の密室にはいり、世のさわがしさを避けるベきだ。1:20:23~24
(13) 密室での黙想において他のところでは見つからなかったものを発見する。密室の敬虔が習慣になると、楽しくなる。そうでないと、密室は退屈な場所になる。信仰生活の初期にこの習慣を付けて、それを守り続ければ、あなたにとって大きな力になったことでしょう。1:20:25~27
(14) 黙想において魂は成長し、聖書の奥義を学ぶことが出来る。黙想において魂は浄化され、この世の誘惑から離れ、神に近づくことが出来る。1:20:28~29
(15) 修行者の心得、友人や親戚から遠ざかれば遠ざかるほど、神は天使たちと共にあなたに近づく。奇跡を行うことに一生懸命になるよりも隠遁者としての生活を大切にしなさい。出来るだけ人混みを避け、外出せず、人びとから見られない生活は修行者に相応しい。修行者に相応しくないものを欲しがるな。「世と世の欲とは過ぎ行く、されど神の御意を行うものは永遠に留まるなり」(1ヨハネ2:17)。1:20:30~33
(16) 修行者と言えでも、肉体を持った人間だ。時には肉欲に駆られて巷にさまよい出ることもあるだろうが、戻って来て得たものは良心の疲れと取り乱した心以外の何ものでもない。浮き浮きした気持ちで門を出て行った者は、すごすごと戻り、嘆きと悔いだけが残る。すべての肉欲とはそんなものである。さぞ楽しそうに誘うが、終わりは悔いのみである。なぜ、あなたは修道院内で見られないものを、修道院の外で見ようとするのか。結局、天と地の間にあるものは、同じもので作られているのである。1:20:34~38
(17) あなたな太陽のもとで「永遠に存在するもの」を見られますか。あなたは何でも知っている人になりたいですか。たとえ、存在するものをすべて見尽くしたとしても、それは空しい幻影に過ぎない(コヘレトの言葉1:14)。1:20:39~41
(18) 天におられる神を見上げなさい。そして、あなたの罪を告白し、赦しを祈りなさい。空しいことは空しいものへ委ねなさい。あなたはただ神からの言葉に耳を傾け、あなたの心をそこに向けなさい。あなたの家のドアを閉め切って、イエスとだけ向かい合いなさい。そこであなたは他では得られない喜びの体験をするでしょう。1:20:42~45
(19) あなたが祈りの坐に留まり、世間の無責任な噂に耳を傾けなければ、さらに平穏な生活を保つことが出来る。ところが、あなたは時おり、新奇なことを聞くとそれに心奪われるので、その結果として心の不安に悩むことになるのです。20:46~47

第21章 修行と悔い改め

(1) 尊敬される人間になりたいなら、神を恐れつつ日々を過ごし、過度の自由を望まず、全ての欲望をコントロールし、むなしい快楽に身を委ねてはなりません。1:21:1
(2) 悔いるときには徹底的に悔いよ。その悔いの底に信仰が見える。1:21:2
(3) 気晴らしによって誤魔化されていた問題が、悔いることによって見えてくる。1:21:3
(4) 自分が置かれている状況が惨めで危ないのに、それを分かっていながら、それでもなおこの世の享楽を得られると思っているとしたら、何とおかしいことであろう。1:21:4
(5) 自分自身が失敗したことについて、その深刻さが分からず、心ある人たちの訴えにも気付かず、本当なら泣くべきところで、高笑いしている人がいる。1:21:5
(6) 素直な心で神を畏れなければ、本当の自由や正しい喜びはあり得ない。1:21:6
(7) 幸福な人とは、あらゆる邪心を捨てて、自分自身の欠点に真っ正面から向かい合うことの出来る人である。1:21:7
(8) 幸福な人とは、自分の良心を鈍らせるもの、自分自身を貶めるものを潔く棄てることの出来る人である。1:21:8
(9) 押忍! 果敢に闘え。習慣は習慣によってのみ打破されるのだ。1:21:9
(10) 友人がしていることを尊重せよ。そうすれば、あなたのしていることを尊重し、お節介をやかないであろう。1:21:10
(11) 相棒のしていることにやきもきして口出したり、上役の仕方に立ち入るな。それよりも、先ず自分がしていることに注意を払い、誰にもまして自分自身に厳しくあれ。1:21:11~12
(12) 人に知られていないことを気にするな。先ずあなたがあなた自身に目を注ぎ、誰よりも何よりもあんた自身を大切にせよ。1:21:13
(13) この世では恵まれず、日常の糧にも事欠くことがあったとしても、それは悪いことばかりではない。必ず良いこともある。1:21:14
(14) 私が神の恵みが少ないと感じるならば、その責任は私の方にある。それは私が悔い改めるべき時に悔い改めず、無責任な連中の慰めの言葉を喜んでいるからである。1:21:15
(15) 私は神から慰められる価値のない者、むしろ苦しみこそ私に相応しいと思いなさい。徹底的に悔いる者にとっては世界は重苦しく、苦いものである。1:21:16~17
(16) 真の義人は、常に悲しみと嘆きとを身に潜めている。自分自身を省みても、また隣人を思っても、この世では、誰一人、心穏やかにやすらぐことは出来ない。1:21:18~19
(17) 徹底的に自分自身を省みれば、悲しみと嘆きはますます大きくなる。義人ほど罪の意識は深い。1:21:20
(18) 私たちは罪と悪との泥沼の中でもがき苦しんでいるので、心の目を上に向ける余裕もない。1:21:21
(19) 残り少ない人生を思えば、悔い改めることグズグズしておれない。地獄の苦しみを思えば、この世での苦行も楽なもんだ。あなたが煮え切らず、この世の楽しみに耽るのは、真剣さに欠け、考え方に甘さがあるからだ。1:21:22~24
(20) 霊性が貧困なために俗なるものを断ち切ることを躊躇し、不満を口にするだけで終わっている。祈れ、謙遜になって霊力を強めて頂くことを願え。「ああ、主よ、涙の糧をもってわたしを養い、涙をあふれるほど与えてわたしに飲ませて下さい」(詩80:5、ラテン語、由木康訳)

第22章 悲惨な人生

(1) どこにいても、どちらを向いても、神に心を向けないかぎり、あなたは不幸である。1:22:1
(2) 事態があなたの思い通りにならないからといって、なぜ悩むのだ。そんなこと当たり前ではないか。全てのことが思い通りになるのは誰だ。それは私でもあなたでも、また地上の何人でもない。1:22:2~3
(3) 世の中には、悩みや苦労のない人間などいない、たとえ王様でも教皇様でも。最高の幸運な人とは誰か。それが最も幸福な人間とはだれだろう。1:22:4~5
(4) 愚かな人は言うかも知れない。「あの人の一生は本当に幸せだった、お金もあるし、地位もあるし、能力もあり、やりたいことは何でも出来た」と。1:22:6
(5) あなたの目を天にある宝に向けよ。そうすれば地上の宝がすべて空しく見えてくる。その宝が何であれ、それを持つと失うことを心配し、誰かに襲われることを警戒しなければならない。そんな宝は危なくて大きな重荷となるだけだ。22:7
(6) 人間の幸福は、持ち物の豊かさにはよらない。「ただ衣食あらば足れりとせん」(1Tim.6:8)。この世では生きるだけも大変なことなのだ。その上、なぜ余分なことのために苦労する必要があろうか。1:22:8~9
(7) 人は霊的になろうとすればするほど、この世では生きづらくなる。それは彼が人間本来の弱さと欠陥とに気付き、自分を惨めに思うからである。霊的な人とは人間の惨めさに気付いた人である。1:22:10
(8) すベての罪から解放されることを願う信仰者にとって、生きていくために必要な飲食、起臥、休息、労働など当たり前の要求を罪を犯すことなしに得ることが難しいので苦労する。1:22:11
(9) 人間はいくら霊的に生きようとしても、この世で生きている限り、身体の必要のために苦労する。だから、預言者たちも身体的欲求から解き放たれることを熱心に祈っていた。「ああ主よ、わたしをやむをえない苦しみから救いだしてください」(Ps.25:17)。1:2212~13
(10) 自分の惨めさに気が付いていない人々は災いである。さらに災いなのは、この惨めな腐った人生に執着している人たちである。彼らはただ生存するということだけのために、神も神の国も放棄しているのだ。なんと哀れなことであろう1:22:14~15
(11) この世のこと、身体的な満足感だけを求めて生きる人生とは、何と味気ないことであろう。そういう人生の最期は悲しく、虚しいものであるに違いない。1:22:16~17
(12) 神を愛し、神に愛される聖徒たちは、この世の楽しみには見向きもせず、ただひたすら神と共にいる喜びだけを求め、彼らの目は見えるものではなく見えないものに向けられている。1:22:18~19
(13) 友よ、今の時を大切にせよ。今は、私たちの希望の方向を変えるときなのだ。1:22:20
(14) 友よ、何故、決断を躊躇するのか。即刻、立ち上がって、歩き始めよ。今が絶好のチャンスなのだ。苦難の中こそ、方向転換の最善の時なのだ。1:22:21~23
(15) 昔、イスラエルの民も安息の地に入る前に、濁流に足を踏み入れなければならなかったのだ。自らの心に鞭打たねば、自分自身の中にある悪に打ち克つことはできない。1:22:24~25
(16) 現世的な欲望に従って生きる人は本当に可哀想だ。彼らは肉体の奴隷になっている。1:22:26
(17) 人間は誰でも悩みや苦しみのない平和な生活を望んでいる。しかし残念ながら罪のため純粋さと共に新の幸福も失ってしまった。1:22:27
(18) 私たちが真の自由と平和な生涯を送りたいのなら、先ず神に赦しを乞い、忍耐強く神の憐れみを待つしかない。22:28
(19) 人間っていう奴は、偉そうにしているが、すぐ悪に染まってしまう。情けない奴だ。1:22:29
(20) 何だかんだ言っても、人間が立っている地盤は傾斜面である。一寸でも油断をすると悪へ転げ落ちてしまう。今日、懺悔し、明日また、同じこと繰り返す。今、一つのこと決意する。しかしまたすぐに、決意したことを忘れ、あたかも決意などしなかったかのように、すまして同じことをする。こういうのを元の木阿弥という。1:22:30~31
(21) 私たちは気まぐれで、だらしなくて、いつもいい加減なので、思い上がってはならない理由なら、いくらでもある。人間っていう奴はしょうがない存在だ。せっかく神の恵みと大変な努力の末、与えられたものを、つまらないことのために簡単に棄ててしまう。1:22:32~33
(22) 初めから甘い考えで、いい加減な人の終わりはどうなるのだろうか。いろいろ話し合っても、何の疑問も感じなくて、良くなる見込みがない人にどう対処すべきか。1:22:34~35
(23) もし現在の私と過去の私の全て帳消しにして、人生をやり直すことが出来るならば、人生の新参者として、先ず立ち上がって、歩くことから訓練し直して欲しい。これが私の密かな願い。1:22:36

第23章 死についての黙想

(1) 今日は元気でも、明日も元気だとは限らない。あなたが死んだら、人びとの心から消えるのも時間はかからない。だからこそ、あなた自身があなたの魂の行方を考えておきなさい。1:23:1~3
(2) 目先のことに囚われて、将来のことを考えない人は、どうしても頑固になってしまう。今日、死んでもいいように、身辺、思想などを整えて、毎日を過ごしなさい。1:23:4~5
(3) 心の清い人は死を恐れない。だから、死を恐れる前に罪を恐れなさい。誰も死を免れることは出来ないが、罪を避けることは出来る。1:23:6~7
(4) 決断するのは、今日でしょう。今日できなくて、どうして明日できますか。あなたが明日まで生き延びられるとはかぎらな。1:23:8~9
(5) 決断できない人は長生きしても無意味だ。長生きしたって善くなるわけではなく、かえって罪が増えるだけだ。むしろ一日でもいいから、この世でよい日をすごしたいものだ。1:23:10~12
(6) 回心以後の自分を考えてみると、ほとんど変わっていない自分にガッカリする。1:23:13
(7) 死ぬことは確かに恐ろしい。しかし、長生きすることはもっと危険なことである。死ぬこと、そして死後のことを考えて生きている人は幸いである。そして誰かの死に逢ったら、私も同じ道が待っていると思うべきである。1:23:14~16
(8) 朝、起きたら、夕方まで生きられるのかと考え、夜、寝る前には、翌朝があるということを誰も保証してくれない。だから、死がいつ死んでも悔いのないように備えよ、常に。1:23:17~18
(9) 最期の時には、過ぎ去った一生を全く別な思いをもって見ることになる。そして自分があまりにも怠慢で無謀であったと反省しても、もう間に合わない。1:23:20
(10) こういう死に方をしたいと思っていたように、今を生きている人は幸いである。1:23:21
(11) 死の宣告を平常心で受け入れるためには、この世のあらゆる誘惑を退け、苦難を神による訓練として耐え、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛し、人に仕えて生きることである。1:23:22
(12) 健康であればこそ沢山の善いが出来るが、病気になったら、そうしたくてもほとんど何も出来ないだろうし、高齢になったら善人になるとか、巡礼したので聖人になったという、なんていう話はほとんど聞いたことがない。1:23:23~24
(13) あなたの死後に、友人や親戚の者があなたのために祈ってくれたら、救われるなどと考えちゃいけないよ。人々は案外早くあなたのことなど忘れてしまうものなんだ。1:23:25
(14) 他人の助けに頼るよりも、今のうちに備えをし、なんらかの善行をあなたが逝く前に天国に届けておくがよい。自分のことは自分自身で準備しておきなさい。だから、今が大切なのだ。1:23:26~28
(15) 永遠の生命のためには、今が大切なのに、それを有効に生かしている人は少ない。グズグズしている中に一日でも一時間でも欲しい時が来るが、果たしてそのような時間があなたに与えられているかどうか、誰も保証してくれない。1:23:29~30
(16) 死の懼れを取り除けば、現実の恐怖など怖れるに足らない。臨終の時、それを懼れるよりも喜べるような生き方せよ。1:23:31~32
(17) 今、この世に対して死ぬことを学ぶならば、かの時、キリストと共に生き始めるであろう。今、すベてのものへの執着を捨てるならば、かの時、キリストのみもとへ自由に行き得るであろう。この世で、苦行し、肉体を痛めつけておけば、来世では楽が出来る。1:23:33~34
(18) ああ愚かな人よ、あなたの寿命を一日も延ばせないのに、どうして長く生きしたいと思うのだ。1:23:35
(19) 死は、予期しない時に、予期しない方法で訪れる。ある者は殺害され、ある者は溺死し、ある者は高い所から落ちて、ある者は食事中に、ある者は酒を飲みながら死んだ。時には、焼き殺され、刺殺され、謀殺されている。1:23:36~37
(20) 死はすべての人に訪れる終末なのだ。人間の生命は影のように消えていく。(The life of men swiftly passeth away like a shadow.)1:23:38
(21) 死んだらもう誰もあなたのことなど覚えていない。誰があなたのために祈ってくれるというのだ。1:23:39
(23) あなたがしたいこと、出来ることを、今のうちにしときなさい。あなたはいつ死ぬか、死んだ後、どんなことになるのか、あなたは知ることが出来ないのだ。1:23:40~41
(24) あなたが生きているうちに、自分自身のために永遠に残る財産を天に積んでおきなさい。あなたな、あなた自身の救いと、神のこと以外に配慮する必要はない。1:23:42~43
(25)  聖人たちを敬い、彼らを模範にして、彼らと友だちになっておきなさい。そうすれば、あなたがこの世を去るとき、彼らはあなたを快く迎えてくれるであろう。1:23:44
(26) この世においては、異邦人また旅人であると自覚し、この世のことに煩わされないよう。あなたの心を思い煩いから自由になって高く天に向けなさい。ここには永遠の都はない。1:23:45~46
(27) あなたの霊がこの世を去ったのち、主のみもとに喜ばしく昇るに足る者とせられるよう、神に嘆きと涙とをもって祈りなさい。1:23:47

第24章 最後の審判について

(1) 何をするにも終末のことを思い、最後の審判者の前に立つ自分を思え。神の前ではすべてのことが白日のもとに曝され、弁解は一切出来ないし、賄賂も通じないし、正しい審判が行われる。あなたはバカだね。すべてのことお見通しの神の前で何んと言い分けするつもりなんだ。ただ、想像するだけで震え上がっているではないか。まぁ、せいぜい弁護人もなく自分でいい訳をしなければならないことを肝に銘じて準備しておくことですね。1:24:1~3
(2) あなたの労苦と涙とが神に受け入れられ、報われるのは、あなたが生きているうちですよ。1:24:4
(3) 被害を受けた場合、その被害以上の愛の心で加害者のために赦しのために祈る人、あるいは誰から弾圧された場合、その人の救いのために熱心に祈る人、自分自身が加害者になった場合、すぐに被害者に赦しを願う人、その人は神によって浄められる。1:24:5
(4) 来世で浄められることを期待するよりも、今ここで罪を断ち切り、悪に克つことの方が良いに決まっている。ところが、実際、私たちは自分自身の欲のために、私たち自身を欺いているのだ。1:24:6~7 
(5) 地獄の火はあなたの罪を焼き尽くす。そのとき、生前に自分を甘やかしていた分の「ツケ」が請求され、薪が増やされる。1:24:8~9
(6) 人は犯した罪の性質に応じて、罰せられる。怠惰な者は焔(ほのお)の槍で追い立てられ、貪欲な者は飢餓に苦しめられる。1: 24:10~11
(7) 汚れた者や罪の快楽を愛する者は、ドロドロのコールタールと臭い硫黄とをあびせかけられ、嫉妬深い者は苦痛のあまり狂暴な犬のように吠えたけるであろう。1:24:12
(8) 地獄では一つの罪も容赦されない。傲慢な者はその鼻がへし折られ、貪欲な者はすべてを剥奪される。 1:24:13~14
(9) 地獄における苦痛の一時は、この世における厳しい苦行の百年よりも厳しい。そこでは罰せられる者にはなんの休息も慰めもない。 が、 ここでは時おり労苦と悲しみから解かれることも、友人から慰められることもあり得る。1:24:15~16
(10) 最後の審判の時、正しい者とされた人々の側に入るために、今、罪を悲しみ、悔い改めておきなさい。1:24:17
(11) その日、あなた方を虐げた人々に対して堂々と立つことが出来る。1:24:18
(12) その日、人を裁くものとして立つのは、今、へりくだって人の審きに服している人である。1:24:19
(13) その日、謙遜なだった人は誰からも責められないが、高慢だった人は四方八方から責められる。1:24:20
(14) その日、神のために馬鹿者と呼ばれ、真の賢者であったことが明らかになる。1:24:21
(15) その日、この世において甘んじて受けたすべての苦悩は反転し、喜びに変わる。1:24:22
(16) その日、すベての信仰深い人は喜び、不信仰な者は嘆く。1:24:23
(17) その日、節制していた人は、贅沢三昧な生活をしていた人よりも満足する。1:24:24
(18) その日、流行遅れだったファッションが輝き、超豪華だった衣服はみすぼらしくなる。1:24:25
(19) その日、みすぼらしいバラックは、いかなる豪邸よりも輝く。1:24:26
(20) その日、忍耐力こそが、大きな力であることが証明される。1:24:27
(21) その日、素直さが、この世のあらゆる知謀よりも良い結果を産むことが明らかになる。1:24:28
(22) その日、素直で良心的な直観は学ばれた哲学よりも大きな喜びをもたらす。1:24:29
(23) その日、この世の富を重んじなかったことが、この世の子らの全財産の合計よりも重い。1:24:30
(24) その日、敬虔な祈りは豪華な料理よりも慰めと喜びとを与えてくれる。1:24:31
(25) その日、今ここで沈黙を守ったことが、長いお喋りよりも楽しかったと思う。1:24:32
(26) その日、美しい言葉よりも、清らかな行為が認められる。1:24:33
(27) その日、ここでの厳しい修行生活が、最高の楽しみであったことを悟る。1:24:34
(28) この世で多少の苦しみがあっても、最後の審判での厳しい裁きを免れたい。1:24:35
(29) あの世でどれほど耐え得るかを、まずこの世で試してみたらいかがですか。今この程度のことに耐えられなくて、死後の永遠の苦しみに堪え得られるだろうか。1:24:36~37
(30) 今のわずかな不自由にすらイライラするとしたら、地獄の苦痛はもっと厳しいぞ。1:24:38
(31) この世で気楽に暮らすことと、あの世でキリストと共に支配することとは両立できないのだ。1:24:39
(32) あなたは今日まで贅沢三昧に過ごしてきたかも知れないが、この瞬間に死んだら、ハイ、それまでよ。だから一切は空なのだ。神を愛し、神にのみ仕えること、それしかない。1:24:40~41
(33) 心を尽して神を愛する者は死も地獄も刑罰も恐れない。全き愛は誤りなく神に近づかせるからだ。逆に罪の快楽にふける者が、死と神の審きとを恐れるのは、不思議ではない。24:42~43
(34) 神ヘの愛が悪への誘惑からあなたを守らないとしたら、少なくとも地獄への恐れがあなたを制するのは、よいことである。1:24:44 
(35) しかし神を恐れることをなおざりにする者は、よい生活をを長く続けることができず、たちまち悪魔のわなに陥ってしまうであろう。 24:45

第25章 全生活の再検討

(1) なぜ私は世を捨てて修道院へ来たのか。時々そのことを思い返し、修行の原点に立ち帰れ。神のことだけに意識を集中し、霊的な人間になるためであろう。それなら道徳的な人間を目指し、日毎に励め。そうすればすべての苦労は報われ、死ぬことも恐くなくなる。1:25:1~3
(2) 修道院での苦労など知れたもの、それを辛抱すれば、大きな安息と永遠の喜びが与えられる。神は必ずあなたの努力に応えてくださる。1:25:4~5
(3) あなたが立てた目標に向かって、必ず到達すると信じて励みなさい。ただし、目標の高さを誇ってはならない。未だあなたはその目標には達してはいないのだから。1:25:6
(4) 修行中はしばしば、恐怖と希望との間を彷徨うであろう。主の祭壇の前で、自分は修行を全うできるかどうか恐れる。しかし、その時、主は「何故そんなことを心配するのだ。結果を今から心配してどうすると言うのだ。あなたはただ、今の修行に集中しなさい。そうすれば、あなたの心は安らぐであろう」と語られる。1:25:7~11
(5) 預言者は言った、「主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国で平安に生きることが出来る」と。多くの人の霊的進歩を妨げている一事がある。それは霊の戦いにおいて、自分の出会うであろう困難を恐れることだ。しかし最も困難なそして自分の苦手なことを克服しようとして激しく戦う人こそ、常に信仰生活において最大の進歩をするのである。1:25:12~14
(6) 人が最大に克己し、自分の自我を抑制するところに、最大の改善と豊かな恵みとが勝ち獲ることができる。すべての人が、克服し抑制すべきものを同様に持っているとは限らない。何事にもで熱心で一生懸命な人は、たとえ彼の欠点が大きくても、性格はいいが情熱の足らない人よりも、将来を期待できる。25:15~17
(7) 自己を改善をするための秘訣は二つある。一つは自分にとって非常に魅力的な事柄から強いて自分を引き離すこと、もう一つは自分に欠けているものを得るために熱心に励むこと、これである。1:25:18
(8) 他人の欠点を見て、あなたが不快に思ったら、あなたは同じ欠点を克服するように努めねばならない。1:25:19
(9) 人は誰からでも学ぶことが出来る。もし何か模範とすべき点を見つけたら、それを手本にしなさい。また、他人の中に批判すべき点を見つけたら、先ず自分の中に同様のものがあるかないかを反省し、もし同じ批判すべき点があると思ったら、すぐにそれを改めなさい。1:25:20~21
(10) あなたの目が他人を見ているように、あなたもまた他人から見られているのだ。1:25:22
(11) 熱心な信徒が万事に秩序正しく生きている姿を見ていると、こちらの心まで楽しくなる。逆に、ふしだらな生活をし、信徒としての当然の義務も疎かにしているのを見ると心が痛む。1:25:23
(12) せっかく与えられた尊い使命をなおざりにして、自分の使命でもないことに手を出し心が奪われとは、憐れむべき人だ。1:25:24
(13) あなたの使命を思い、あなたの目前に十字架につけられたイエスのみ姿を思い浮かべるが良い。イエスの生涯を思い返せば、あなたは長い間、修行の道を歩みながら、まだ十分にイエスにまで至っていないことを恥かしく思うだろう。1:25:25~26
(14) イエスに倣おうと熱心に修行している修道者にとって、イエスの生涯とその苦難とを見るならば、そこにすべての大切なものがあることを知る。イエス以上の善い模範はいないのだ。1:25:27
(15) 十字架に磔にされたイエスを私たちの心にお迎えすることが出来たら、私たちは今すぐに完成された修行者になることが出来るであろう。1:25:28
(16) 真面目な修道者は自分に課せられたすべての課題を喜んで受け入れ、励む。しかし怠惰な修道者は、彼自身の中にそれを喜ぶ気持ちがないので、嫌々課題に取り組むのでますます修行自体が苦になる。1:25:29~30
(17) 規律に従わない修道者は、修行が身につかず堕落への道を進むことになる。主体的であることを主張し、規律を無視する修道者はつねに不安にさいなまれる。1:25:31~32
(18) たまには他の修道者がどんな生活をしているのか見るといい。修道院に閉じこもって、規律に従い、自己に厳しく生活しているだろう。あれが本当の修行者の生き方なんだ。ほとんど外出せず、世間離れして、粗食に耐え、貧しい着衣で満足し、よく働き、言葉少なく、早起きで、夜は遅くまで祈りと読書ですごし、厳しく律している。1:25:33~36
(19) 何もしないで、ただ、私たちの心と口で思う存分神をほめ讃えて生きることが出来たらと願う。食べるため、眠るために心配することなく、常に霊のこと、神をほめ讃えることだけに専念できたらと願う。そうなれば、肉体的な要求に従わなければならない現在よりもはるかに幸せだろう。心から、そういうことが実現できたらと願う。1:25:37~39 
(20) 肉の糧ではなく、霊的な御馳走が食べたい。それこそが私のご馳走である。1:25:40
(21) どんな被造物も神によって造られたのだと思うと慰めになる。その時には多く与えられても必要以上に喜ばず、僅かしか与えられても文句を言わず、神が与えられたもので満足し、感謝する。すべてのことは御心のままに。1:25:41~42
(22) 常にあなた自身の終わりの日を思い、失われた時は永久に帰らないことを忘れないように。1:25:43
(23) 努力なしに人格は磨かれない。怠惰は不安を生むが、努力をした者には落ち着きというご褒美が与えられる。1: 25:44~46
(24) 誠実な人は状況がどんなに変化しても十分に対応できる。1:25:47
(25) 生活苦よりも、罪の誘惑に逆らうほうがはるかに難しい。1:25:48
(26) 小さい過失を克服できない人は、大きな過失にはまる。1:25:49
(27) 有益に過ごした日の夕べには喜びがある。1:25:50
(28) 自分をみまもり、自分を励まし、自分を戒めよ。周囲の環境が変わっても自分の生き方を変えてはならない。1:25:51
(29) 自分に厳しくなればなる程、あなたの人格は磨かれる。1:25:52

註:以上で第1巻終わり。 

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