ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

親爺のこと(10) 国民病・結核

2008-05-31 11:10:57 | ぶんやんち
かつて、結核という病気は、「労咳」ともいわれ、非常に怖がられた国民病であった。結核は空気感染によって広がり、治療の方法が転地療法による隔離と休養、栄養補給という消極的な対処法しかなかったことで、一度「喀血」するとほとんど1年以内に死ぬということで恐れられた。
1944年に特効薬としてストレプトマイシンが開発され、もはや不治の病気ではなくなったが、その頃は非常に高く、一般庶民の手には届かない薬であったが、次々と改良され、最終的には1973年にリファピシンが大量に製造されるようになってから、急激に減少し、現在ではもはや「恐ろしい病気」ではなくなったといわれる。しかし、最近また結核の発病が増え始め、問題になってきた。
しかし、考えてみると、結核の牙がなくなってからまだそんなに期間がたっていないのだということをつくづく思わされる。ともかく、その頃の日本人にとって、結核という病気は「罹れば死ぬ」という恐ろしい病気で、現在の癌のように思われていた。ただ、癌と異なる点は、若者が罹り、若死にするという点である。
親爺は子どもの頃から病弱で、しょっちゅう病気をしていたらしく、若死にするのではないかと、本人も思い、また周囲の人たちも思っていたらしい。親爺が実際に結核に罹ったことがあったとは思えないが、という意味は、もし本当に罹っていたとしたら、治癒したということは考えられない。むしろ、親爺の場合は、結核恐怖症に罹っていたというべきだろう。しかし、このことが親爺の少年期、青年前期を決定づけていただろうということは、容易に想像がつく。親爺が文学を文学として読み、楽しむいわゆる「文学青年」とは思えないが、生きるということ、死ぬということに異常なほど感心を持ったのには、そういう背景があったものと思われる。親爺が、どういう切っ掛けで、高山樗牛に触れ、興味を抱いたのか、とうとう聞く機会がなかったが、確かに樗牛の作品には強く惹かれるものがあったらしい。
樗牛も、若い頃から生死の問題には強い関心を持ち、わずか20歳(明治24年6月)の時、「人生終に奈何(じんせいついにいかん)」という1500字足らずの短い文章を書いている。そこでは現代の言葉でいうと「生き甲斐への探求ということが主題で、それから、わずか12年の後、32歳で惜しまれて結核のため帰らぬ人となった。
この間、彼はこの問題を考え抜いた。樗牛の死の翌年、藤村操が「萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く『不可解』」という遺言を残して華厳の滝に飛び込んだ。非常に興味深い点は、樗牛は「殉死」ということについて多く語るが、「自死」の雰囲気はない。樗牛にとって、自死というような無意味な行為は無駄以外の何ものでもなかったのかも知れない。その意味では、死の問題というよりも「死に値する生」がより重大な関心事であったのだろう。
樗牛より数年年長の夏目漱石には鬱的なものを感じるが、樗牛の作品は明るい。たとえば、「瀧口入道」のヒロイン横笛の悲劇的な死には「悲しさ」はあるが、「暗さ」はない。樗牛は死ぬ前に自分の墓地を静岡県の日蓮宗龍華寺に定め、ていねいな遺言によってその意志を伝えている。その文章はまるで観光地に旅館の予約を申し込むようなムードで、そこには悲壮感は全くない。
<もし少生死後に相成り候へば、右龍華寺に埋葬相願い度く候。素より故郷には先祖の墳域も有之候こと乍ら、彼の陰鬱な禅宗寺は私の気には如何にしてもかなわず、是非是非右願いの通りに成し被下度候。龍華寺の宗旨は日蓮宗には候へ共、宗門の異同などはかまいなく御許し被下べく候。>
親爺は、樗牛のこういうところに惹かれたのかも知れない。いや、確かにそうである。そうに違いない。長男がいうのだから間違いない。結局、親爺は、神の恵みにより、96歳まで生き、天寿をまっとうした。

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