ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第12主日(T14)の福音書

2016-08-06 06:21:29 | 説教
断想:聖霊降臨後第12主日(T14)の福音書

再臨信仰  ルカ12:32~40

1. テキストの不自然な切り出し方
本日のテキストの切り方は明らかに不自然である。ルカ福音書の流れとしては22節から34節までは13節から21節までの延長であり、そこまでが一つの塊になっている。21節の「神の前に豊かになる者」として22節以下の文章が続き、その結論として「尽きることのない富を天に積みなさい」と語られるのである。つまりここでのテーマはキリスト者の経済生活に関する指導である。
それに対して35節以下48節までは、終末におけるイエスの再臨を念頭に置いたキリスト者の生き方を語っている。つまり遅延している終末に対して「目を覚ましていること」、今はここにいない主人に対して忠実に待つ姿勢について語っている。もちろん、その意味では34節までの部分も35節以下の部分も全く無関係とは言えないが、語ろうとしているメッセージは全然異なる。従って32節から40節までを一つの塊として読むのはかなり無理である。なぜ、こういう変な切り出し方をしているのか理由は明確ではない。従って本日のテキストから説教をするとしたら、2つの部分に分けて考える必要があるであろう。本日は34節までの部分については、キリスト者の経済感覚として先週の断想で取り上げているので、今週は35節以下だけを取り上げることとする。

2. 構成
35節から48節までは明らかに一つのテーマによって結びつけられている。終末に向けてのキリスト者の在り方に対する注意事項である。詳細に見ていくと、この部分は4つの部分に分けられる。
      第1は「主人を待つ下僕たちの譬え」(35-38)
      第2は「泥棒に警戒する主人の譬え」(39-40)
      41節にペトロの質問がつなぎとして挿入
      第3は「忠実な下僕と不忠実な下僕の譬え」(42-46)
      第4は「鞭打たれる者の譬え」(47-48)
      このうち第2と第3はほとんどそのまま、マタイにも見られる。
      第1の譬えはマタイでは10人の乙女の譬え(マタイ25:1-13―――共通点「ともし火をもって」、「花婿(主人)を」待つ、)に置き換えられている。
      第4の譬えは、おそらくルカによる結論的な譬えであろう。
     
3. 再臨信仰について――遅延した再臨――
これら4つの譬えは、いずれもイエスの再臨、あるいは再臨信仰を前提にしている。それなしにはほとんど意味をなさないと言っても言いすぎではないであろう。それはこれらの譬えだけではなく、新約聖書全体についても言えることである。新約聖書だけではない。使徒信経でも「そこから主は生きている人と死んだ人とを裁くために来られます」と告白し、聖餐式においてもクライマックスで「キリストは死に、キリストはよみがえり、キリストは再び来られます」と唱える。再臨信仰は教会が成立した当初から現代に至るまで一貫して流れている主要な信仰箇条である。特に原始教団においてはキリスト教信仰の情熱の源泉であり、キリストを待ち、迎えるということがキリスト者の生き方そのものであった。パウロは自分が生きている間にキリストが再臨するということを確信していたようである(1テサロニケ4:15)。その意味では、「自分の死」と「キリストの再臨」とで、どちらが先かということが当時のキリスト者の関心事であったものとも思われる。しかしパウロが死んでも未だ再臨はなかった。時間だけがどんどん過ぎていく。これを「再臨の遅延」という。マタイやルカの時代においての最大の関心事は、再臨の遅延ということをどう理解するかということで、特にそれがルカ福音書のテーマでもあった。言い換えると、再臨の遅延ということがキリスト教神学を形成したとも言える。
さて、今日ほとんどの教会で再臨について語らなくなっている。というよりも、語れなくなっているという方が正確であろう。もし語るとしたらオウム真理教のような語り方になってしまう。まともな常識を持っている人間にとって聖書が語る再臨は「神話」か、あるいは「古代の信仰」に過ぎなくなっている。
それでは、いったい再臨信仰の源泉は何処にあったのだろうか。福音書ではイエスの口から再臨信仰と思われる言葉も語られている。しかし、それらの言葉は原始教団における再臨信仰をイエスに語らせているのであろう。再臨信仰が成立する前提はイエスが今も生きているという信仰であり、それは復活信仰に基づくものであろう。新約聖書においてイエスの再臨について明確に語っているのは、イエスの昇天の記事の中で、天使を思わせる「白い服を着た二人」の次の言葉である。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1:10-11)。ヨハネ福音書14:2の言葉は具体性に欠けている。つまり昇天という信仰と同様に、再臨という信仰も復活という信仰に基づき、それのいわば論理的展開として生まれてきたものであろう。従って復活信仰とユダヤ教におけるメシヤ待望信仰とは同じ構造を持っている。現代における再臨信仰の問題点は「再臨の遅延」ではなく「再臨の虚無化」である。もはや現代人は再臨信仰を持てない。そこで私たちはキリスト教の歴史において再臨信仰が担い、再臨信仰によって形成されてきた全てを否定してしまうのか。ただ、もう再臨について語らないということは消極的な全否定である。むしろ再臨信仰についての私たちの課題は「希望」についての問いであろう。再臨信仰なしのキリスト者の希望とは何か。この問題はキリスト教だけの問題ではなく現代人の最も内奥における不安の問題でもある。
この点について、私の好きなサミュエル・ベケットの名作戯曲『ゴドーを待ちながら』が鋭く問題提起している。ベケットはこの作品で、「目的格のない『待つ』は成り立つのか」と問う。この問題意識は、再臨信仰の内容が限りなく無意味化している状況において、なおキリスト教信仰は有意義であるのかという問題と呼応している。それはまた「存在しない神に祈る」というシモーヌ・ヴェイユの姿勢にもつながる。

4. 本日のテキスト
本日のテキストの内の2つの譬えを考える。最初の譬えで特に目を惹く言葉は、主の再臨を待つ者の基本的な姿勢としての「腰に帯を締め」である。「腰に帯を締め」という表現は、列王下4:29列王下9:1、エレミヤ1:17、エゼキエル23:15等に出てくる表現である。しかし、それら以上に重要な言葉は出エジプト記12:11の「それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である」という言葉で、これは全てのユダヤ人が過ぎ越の祭に実際に行う習慣的な行事である。つまり「腰に帯を締め」という言葉を聞けば、非常に緊迫した過ぎ越の祭の食事を思い出す。と同時に、それは下僕が主人の命令を待っている姿勢でもある。命令は必ずしも言葉で発せられるだけではなく、仕草で表現されることもある。従って下僕は非常な緊張感を持って主人の動きを見ている。その辺の事情がルカ17:8に表現されている。外出から帰ってきた主人は「『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか」。これが主人対する下僕の当然の態度である。ここでは主人は留守である。留守の主人に対して「腰に帯を締め」て待つ。主人は待っている姿を見ていない。しかし主人が帰ってきたとき、その時の態度で下僕の忠実さは分かる。むしろ、その一点で、その一瞬で留守であったときの全てが判断される。だから、その一瞬のために全てがかけられている。ここに再臨信仰が終末論的倫理を形成する根拠となる。

5. 主の来臨による反転
ところが、第1の譬えでは、婚宴から帰宅した主人は「帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」という。主人が帰宅することによってもたらされることは「あべこべ社会」である。主人がその家の戸口から中に入った瞬間、その同じ家の風景が反転する。下僕が主人になり、主人が下僕になる。それは陰画が陽画に変わるような反転である。白い部分が黒くなり、明るい部分が暗くなる。家の外はそれまでと同じなのに、家の中だけは反転した世界となる。その反転した社会は既にこの世に存在している。それが教会である。教会はイエスの再臨によってもたらされるであろう世界を先取りしている。
もし、主人が帰ってきたとき、眠りこけていたら、この反転の世界を経験できない。目を覚ましていて、主人が帰ってきたとき、すぐに戸を開けて迎え入れた家だけが、これを経験する。だから、目を覚ましているのを見られる下僕は幸いだといわれる。
 第2の譬えでは、家の中で待っているのは主人である。この譬えの主旨はよく分からない。ただ、「人の子は思いがけないときに来る」(40節)ということだけで、第1の譬えを補強している。強いて意味を読み取ろうとすると、目を覚ましているということの内容として外部からの侵入者が主人なのか、泥棒なのかを見分けるということも含んでいるという意味であろうか。だとすると、主の再臨を装って、信徒を惑わす者に対する警戒せよということを意味しているのだろう。
この点について、原始教会では「主の日は盗人のようにやってくる」ということがかなり広く流布していたようで(1テサロニケ5:2、2ペトロ3:10、黙示録16:15)ある。
ところで、パウロは主の日は盗人が夜にやっているということをめぐって興味深いことを述べている。少し長いが引用する。1テサロニケ5:1-8
<兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。>
この言葉は再臨論を考える場合に非常に重要な意味を示している。主の再臨によってこの世の秩序が徹底的に破壊される。人々は驚き、慌てふためく。それは妊婦の産みの苦しみに似ている。しかしキリスト者は全然大丈夫だという。再臨という出来事は夜の出来事であり、キリスト者は既に光の子であり、昼の子だからという。読みようによっては、すごく独善的で、自己中心的である。その意味では信仰者の悪い面が前面に押し出されたような言葉である。しかし、それは再臨信仰の持っている特徴である。

最新の画像もっと見る