ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

降臨節第4主日説教(1988.12.20) ロマ1:1~7

2015-08-02 11:06:23 | 説教
降臨節第4主日(A)(1988.12.20)
力ある神の子 ロマ1:1~7

1.「力ある神の子」
単純に「神の子」でいいではなか。なぜ、「力ある神の子」なのか。「力ある神の子」とはどういう意味か?
先ず、聖書における「力」ということについて、簡単にまとめておく。聖書には、500回以上も「ちから」という言葉が用いられている。それは一つの単語としては頻度で第9位、その定義は「ものを造りだし、動かし、破壊する能力・エネルギー」を意味する。注目すべきことは、あらゆる存在(存在するもの)がそれぞれ分に応じて力を持つ、ということであ、このあらゆる存在の中には物理的存在だけでなく、精神的存在、霊的存在をも含まれる。そしてそれらの力が相互に影響しあっているというのが現実の世界である。
さて、そこまでは普通の哲学でも考えられ、説明がつくことであるが、ここから宗教的な現実理解が入ってくる。それは、この現実そのもの、トータルな現実世界に対して様々な力がかかっているということである。それはあたかも一つの物体が「磁場」に置かれているように、世界そのものが強力な力に支配されている。キリスト者はその力も「神に属している」と信じている。それが主の祈りの頌栄における「国も力も栄光も、世々に限りなく主のものだからです」と祈る意味である。

2.「生きる力」
さて、以上に述べたようないわば宇宙論的な議論にはあまり興味はない。むしろ重要なことは、私たち一人一人の人生である。「私が生きる」ということである。私たちが生きるためには、それぞれ何らかの「力」が必要である。肉体を支えるエネルギーも必要であるが、「人が生きるのはパンだけではない」ので、精神的な力も必要である。逆に言うと、精神的な力があるから私たちは人間なのである。精神的な力があふれているとき、私たちは「生き生き」と生きる。
ところが、私たちの現実を見ると、この「生き生きと生きる」力を妨げる「力」も働いていることを体験する。パウロはコリント第2の手紙の中で、こう述べている。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほど圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」(2コリント1:8,9)。パウロが「アジア州で被った苦難」とは具体的にどういうことなのか特定することは難しいが、それが具体的にパウロの周辺にいた人間から受けたものであることは間違いない。しかしパウロほどの人物がユダヤ人やローマの官憲からの迫害によって「生きる望みを失う」というようなことは考えられない。むしろ彼は迫害に対しては「ますます強くなる」種類の人間である。ここで考えられることは、迫害や妨害を通して働きかける「悪魔の力」というものである。ここで「耐えられないほどひどく圧迫されて」という言葉は、直訳すると「極度の強い力に押しつけられて」という言葉で、荷を積みすぎて沈む船の状態を示す言葉が用いられている。つまり、ここでパウロが体験していることは「生きる力を押さえつける強力なパワー」というものである。このパワーが「生きるパワー」をオーバーすると、人間は「生きる望みを失う」のである。
考えてみると、私たちには常に、このマイナスのパワーもかかっている。むしろ、この方が強力である。この強力なパワーに対抗して「生きる」ために、もっと強力なパワーが必要である。パウロは主イエス・キリストをその様な御方として体験している。この体験が「力ある神の子」という何気ない表現にほとばしり出ている。
本日のロマ書のすぐ後の部分で、パウロはロマ書の主題ともいうべき重要な言葉を述べている。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じるすべてに救いをもたらす神の力だからです」(ロマ1:16)。「福音は神の力である」。人を生かす神の力である。

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