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ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第24主日(特定28)(2017.11.19)

2017-11-17 06:58:41 | 説教
断想:聖霊降臨後第24主日(特定28)(2017.11.19)

憤りの日 ゼファニヤ1:7,12-18

<テキスト>
7 主なる神の御前に沈黙せよ。主の日は近づいている。主はいけにえを用意し、
呼び集められた者を屠るために聖別された。
8 主のいけにえの日が来れば、わたしは、高官たちと王の子らをまた、
異邦人の服を着たすべての者を罰する。
9 その日、わたしは敷居を跳び越える者すべてを、主君の家を不法と偽りで満たす者らを罰する。
10 その日が来れば、と主は言われる。魚の門からは、助けを求める声が、ミシュネ地区からは、
泣き叫ぶ声が、もろもろの丘からは、大きな崩壊の音が起こる。
11 マクテシュ地区の住民よ、泣き叫べ。商人たちはすべて滅ぼされ、銀を量る者は皆、絶たれるからだ。
12 そのときが来れば、わたしはともし火をかざしてエルサレムを捜し、酒のおりの上に凝り固まり、
心の中で「主は幸いをも、災いをもくだされない」と言っている者を罰する。
13 彼らの財産は略奪され、家は荒れ果てる。彼らは家を建てても、住むことができず、
ぶどう畑を植えても、その酒を飲むことができない。
14 主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがる声を。
その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。
15 その日は憤りの日、苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。
16 城壁に囲まれた町、城壁の角の高い塔に向かい、角笛が鳴り、鬨の声があがる日である。
17 わたしは人々を苦しみに遭わせ、目が見えない者のように歩かせる。
彼らが主に対して罪を犯したからだ。彼らの血は塵のように、はらわたは糞のようにまき散らされる。
18 金も銀も彼らを救い出すことはできない。
主の憤りの日に、地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる。
主は恐るべき破滅を、地上に住むすべての者に臨ませられる。

<以上>

1. 「終わりの日」
さて、先週も触れたように、聖霊降臨節の最後の3つの主日(11月12日、19日、26日)は1年を締めくくる主日ということで「終わりの日」について考えることになっている。特に、この主日では「主の憤り」ということが主題となっている。
聖書における「この世の終わり」についての記述を読むと、何か現在の私たちが考えている、あるいは理解している「この世の終わり」ということとの間にズレというか違和感がある。私たちが「この世の終わり」というとき、それは世界あるいは地球に何らかの「形」で「終わり」がきて、すべてが完全に消滅することと思っている。ところが、聖書においては「この世の終わり」の後に新たな「後の世」が始まる。「この世の終わり」は「地球規模の終わり」とか、「世界の終わり」ではなく、天地創造以来の世界の秩序の終わりであり、それはまた同時にまったく新しい世界の始まりを意味しているようである。神においては「始まり」もなければ「終わり」もない。従って人間が考える「始まり」と「終わり」とは、一つの時代の始まりであり、終わりである。その一つの時代を「世」である。この世がチェーンの輪のように、その輪が次から次への繋がっている。人間の営み、知りうる「世」とはこの一つの輪にすぎない。まぁ、単純化して言うとそういう構造を想定している。
新約聖書では、ここで用いられている「世」という言葉には「アイオーン」という言葉が用いられている。マタイによる福音書12:32では「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」という言葉がある。これが「アイオーン」である。日本人の言語感覚からいうと「この世」と「あの世」とは平行して現在しているが、聖書では前後関係にある。「この世」での価値観と「あの世」での価値観は異なる。全くの逆転というよりも「更新」である。しかし、聖霊に対する侮辱はどちらのアイオーンでも赦されない、というのがこのテキストの意味であろう。
話しを元に戻して、「この世の終わり」という場合に、何が「終わり」なのかということがはっきりしないと、語る者と聞く者とを間に大きな誤解が生じる。聖書における「この世の終わり」とか再臨論とはこういう壮大な神話的終末論の枠内の話しである。それをいきなり単純に現代の私たちの終末観と結びつけようと思ってもそれは土台無理な話である。

2.ゼファニア書
さてこの日のテキストはゼファニア書からである。ゼファニア書はあまりなじみがない。3年間でもこの主日にしか読まれない。それで少々詳しく解説しておく。ゼファニア書は12小預言書の一つでしかも後ろから3つめということでかなり後期の文書と見られがちであるが、実は預言書としてはかなり早いほうで、南のユダ王国のヨシヤ王の時代の預言者で、エレミヤと同時代かそれより少し前の宮廷預言者であるとされている。北のイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ(BC722)で80年から100年ほど後、南のユダ王国もバビロン帝国によって圧迫されていた頃である。
ヨシヤ王の時代の重要な出来事はいわゆる申命記の発見による宗教改革であった。ヨシヤ王は歴代の王の中でも善王として有名であるが、彼が即位したのは8歳の時で、前任の王、つまりヨシヤ王の父親アモンは即位後わずかに1年で臣下の陰謀によって暗殺されたのであった。その父親マナセ王の時代は、国内にアッシリアの宗教施設を建築するなどアッシリア帝国の忠実な臣下であり、それだけに長期政権を維持していた。経済的には繁栄していたかも知れないが、ヤハウェ宗教は衰退し、一部の心ある人びとは嘆いていたのであった。
そういう状況をわずか8歳で引き継いだヨシヤ王は、やがて成人したとき、国内の異教施設を粛正し、ヤハウェ宗教を復興しようとしていた。ちょうどその頃、荒れ果てていた神殿の改築工事現場で一つの古文書発見された。それが、いわゆる「律法の書」である(列王記下22:3~13)。当時この「律法の書」はモーセ由来のものと考えられたが、実は、マナセ王時代に国内に異教が蔓延し、ヤハウェ宗教が衰退している状況を嘆いていた一部の人たちが、モーセ宗教の復興を目指して書かれた文書であった。実は、この文書はバビロン捕囚時代に増補改訂された。それが現在の申命記であるとされている。これは現代の話、ヨシア王はこの律法の書を国民の前で祭司たちに朗読させ、いわゆるヨシヤの宗教改革が始まったのである。
今日取り上げられているゼファニアはその当時に活躍した預言者である。ヨシヤ王や心ある人たちの努力にも拘わらず、この宗教改革は途中で挫折せざるを得なかった。それは当時、興隆して生きたバビロニア帝国の圧迫によるもので、ユダ王国の運命はハッキリと見えていた。ただ、この国難をどう解釈するのかということがエレミヤやゼファニアの課題で、彼等はこれはヤハウェによる審判、あるいは「罰(裁き)」として受けとめる。そして、ユダ王国は滅ぼされるであろうが、その後に、ヤハウェによる救済があるというのが彼等のメッセージであった。従ってゼファニア書はかなり厳しい裁きが語られる。
くどくど、解説するよりも、10分ほどで読める短い文書なので、ぜひ各自で読んで欲しい。内容はわかりやすい。おそらく、聖書の中にこんなに酷い文書があるということに驚くことでしょう。その中でも今日のテキストはもっとも酷い部分である。誰も救われない。全土が破壊され、そこに住むものは全て死ぬ。しかもその死に方は実に残虐である。これをするのはすべてヤハウェである。主の日とはそういう日だという。

3. 私の終末観
さて、それでは私たちは「終わりのこと」をどういう風に理解したらいいのだろうか。まだ、起こっていない「世の終わり」のことについて、確実なことを何一つ言えないのは当然である。何も難しいことを考える必要はない。それぞれが自分の考えで「終わりのこと」を考えればいい。ただ、このことを考えるに当たって、真剣であって欲しい。なぜなら、その考えがその人の人生観になるからである。そのために、私は私自身の終末観をまとめたいと思う。それが皆さん方にとって少しでも参考になれば満足である。
先ず第1のポイントは、この世のすべての物、すべての事には必ず「終わり」があるということである。始まりがあるものには必ず終わりもある。そこは極小さなものから宇宙大のものまで、同様である。ただ宇宙の「終わり」ということになると、それが私が生きている間に起こらないかぎり、現実的ではないので、そのことについては宇宙物理学者にでも任せておこうと思う。具体的に私に関係があるだろう最大のものの終わりは「地球の終わり」ということだろうと思う。これも実際に私が生きている間に起こるかどうか分からないが、たとえ生きている間に起こったとしても、それが起こった時には、それが起こったということを考える人間は、宇宙船に乗っている人間以外には分からないので、悲劇ということも言えない。悲劇というなら、それが本当に起こったときに生き残った人間こそ、本当の意味での被害者であろう。
しかし、私の人生という視点から考えるならば、地球規模の「終わり」も、私個人の「終わり=死」も大きな差はない。
次ぎに、第2のポイントとして考えていることは、地球規模の「世の終わり」は、信仰のあるなしは関係ない、ということである。「関係ない」というと少し誤解が生じるかも知れないが、要するに「信仰があれば、世の終わりの悲劇から免れる」という終末観を否定するということである。まさに、世の終わりということにも次の言葉があてはまる。「(天の)父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)。
第3に、世の終わりは何時来るのか、ということで、この点についてはイエスご自身も(マルコ13:32)、パウロも(1テサロニケ5:1)も同じように「何時かということはわからない」という。ここでのパウロの答えは厳密に言うと、「その時と時期についてあなたがたに書き記す必要はありません」とある。つまり、「わからない」というよりも、「知る必要がない」であり、非常に強い否定である。次の瞬間かも知れないし、何十年、何百年先のことかも知れない。それはともかく、私個人としては「この世の終わり」は遅ければ遅いほどいいと思っている。(「再臨待望祈祷会」などと称して、再臨が早くなるように祈っている人たちもいるが、私はそれには同意できない。
最後に、「この世の終わり」に対する私たちの心構えということについて述べたい。この点にこそ、私たちの信仰は深く関係する。問題は「終わりに向かってどう生きるのか」ということであり、この意味では世界の終わりも、地球最後の日も、私の最後の日も同じことである。やはり、ここで私はイエスの言葉に耳を傾けたい。それはルカによる福音書17:20-21である。
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのか尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがあたの間にあるのだ」。
神の国についての論議は、再臨論にせよ、千年王国論にせよ、最後の審判についての議論にせよ、ハルマケドンにせよ、いつに時代でも宗教的熱狂主義の温床であり、危険思想のアジトである。人々は「これが神の国だ」「あれが神の国だ」「わたしの国は神の国である」「神の国に逆らう連中を皆殺しにしてしまえ」とかまびすしい。
それはともかく、ここでの「神の国」の到来とは「この世の終わり」を意味している。「この世が終わって」「神の国」が来る、あるいは実現する。そのように信じている人々は、常に「それは何時なのか」と質問をする。イエスのここでの第1の態度は、「何時」という質問には答えようともしない。たとえ「分からない」という答えであったとしても、その質問に答えること自体がこの神話的終末論を承認することになるからであろう。「何時」という質問自体が私たちを惑わす。
そして、次ぎに注目すべき答えは、「神の国」あるいは「この世の終わり」は「あれではなく、これだ」とか「これではなく、あれだ」というような「見える形」であることを完全に否定している点である。それら2つの点を明らかにした上で、決定的なことを宣言される。「神の国はあなたがたの間にあるのだ」。目の前にいる人々を指さして、「ほれ、そこにあるではないか」、というのがイエスのメッセージであった。この「ほれ、そこに」という言葉は強烈である。「ここにある」「あそこにある」というような観念的な議論など吹っ飛んでしまう。ついでに、神話的神国論も神話的終末論もともにむなしくなる。今、ここで生きている私たちの足下に「神の国」がある。ここが「神の国」である。ここを大切にして生きること、今の生活を十全にすることが「神の国」の実現である。しかし、それを妨げる力、破壊する力はかなり強いし、執拗である。それらの力には対抗せざるを得ないのが現実である。イエスの私たちに対する呼びかけは、ここにある。

《我々の知りうる世界この世とは神においては一つのリング》
《輪と輪とが一つに繋がる神の時、この世とあの世縦に繋がる》

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