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断想:聖霊降臨後第5主日(T7) の福音書

2016-06-18 09:38:32 | 説教
断想:聖霊降臨後第5主日(T7) の福音書
「自分の十字架」  ルカ9:18~24

1. 資料問題と段落の切り方
ここで取り上げられているルカ9:18~24の部分は2つの段落に分けられる。先ず、9:18~22ではペトロの信仰告白とイエスの第1回受難予告とがセットになっている。ここまではイエスと弟子たちだけの会話であるが、23節の「皆に言われた」以下は公開された言葉である。23節から27節までが一つのかたまりで、各節がいろいろなところで語られた5つの語録がまとめられた語録集である。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。
確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。

本日のテキストはその内の初めの2つが取り上げられている。

2. 「神からのキリスト」
原文では「神のキリスト」なのに新共同訳はなぜ「神からのメシア」に書き換えなかければならないのか。口語訳では「神のキリスト」である。「神のキリスト」という表現はルカ独自のもの(参照:23:35)で、明らかに教会成立後の表現であることには違いない。ルカだってそのことは承知の上で、あえてここでペトロの口から「神のキリスト」と語らせている。ルカはその他にも「主のキリスト」(2:11,26)という表現を取っているが、これも新共同訳では「主の遣わすメシア」と翻訳している。それは翻訳者としての限界を超えている。原文が「キリスト」ならば「キリスト」、原文が「メシア」なら「メシア」のままにしておくのが翻訳であろう。もちろん、この場面では、「キリスト」という言い方は成立していなかったであろうから、ペトロが言葉に出したのは「メシア」であったと思われるが、ルカはそのいうことは承知の上で、教会成立後の表現をわざわざここで用いているのである。
「することになっている」という表現。ギリシャ語で「デイ」は必然を意味する。しかし、この場面での「デイ」はただ単に文法上の「必然」ではなく、救済史上における「神の必然」を意味する。新約聖書全体で102回、ルカ福音書では19回(マルコから2回、Qから1回)、使徒言行録では25回、ルカは44回。ルカにとって、十字架も復活も世界宣教もすべてが神の計画に基づく必然である。
ルカにおいてはマルコ、マタイに見られるペトロに対するイエスの叱責の場面はない。この叱責の場面での重要性はイエスと弟子たちとの「メシア観」の相異が問題であるが、ルカにとっては、それはユダヤ人の間での問題であって、民族を越えた視点からは、取るに足らない些細な過去のエピソードとして語る必要がないと判断したのであろう。ペトロだけではなく、信徒全体の「メシア観」は日々に深まり、豊かになり、変化する。かつて誤解していた概念が修正されるのは当然のことである。ペトロはかつて「メシア」を信じていたが,今は「キリスト」を信じているのではない。理解の浅かったあの時もペトロにとってイエスは「キリスト」であった。

3. イエスとは誰か
本日の福音書の冒頭にある、「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」(9:18)という表現は、いかにも何か含みがあるように思われる。「共にいる」ということと「祈っている」ということとはどういう関係なのか。専門的に考えると、福音書の資料を分析する上では非常に興味深いことがあるが、本日はそのことには触れない。
ルカにとっての最大の関心事は、イエスがキリストであるということと、キリストとはどういう生き方、あるいはどういう死に方をするかという点である。言い換えると、キリストとして生きることの必然性、キリストであることによって定められている運命が重要である。それを語る言葉が「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(22節)である。ここで重要な言葉は「必ず」と「ことになっている」。これが「キリストの必然性」である。
一寸脇道に逸れると、弟子たちはそういうことを知った上で「あなたはキリストです」などと言ったのだろうか。知っていたら、そんなことは簡単に言えるものではない。私たちにとってはそれは既に過去のことになっているから、簡単に「イエスはキリストである」などと告白できるが、これを他の人に簡単に言えるような事柄ではない。この意味が当時の弟子たちには理解できない。これを本当に理解したのはイエスの復活後であり、教会の成立後である。つまりキリスト教信仰の成立後のことである。

4. イエスの弟子であるとはどういうことか
さて、その視点に立ってキリストの弟子たる者の生き方が述べられる。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(9:23)。単純明快であるが非常に強い言葉である。この「自分の十字架を背負う」という表現に注意したい。イエスの場合もそうであったが、当時最も厳しい処刑の仕方が十字架刑で、その場合、囚人たちはそれぞれ「自分の十字架を背負わされて」処刑場に歩かされたようである。重い十字架を背負って、町の中を通り、処刑場に行くということ自体が刑罰の一部となっていた。ここでイエスが述べようとしていることは、キリストの弟子になるということは、師であるキリストの道に従うのは当然であり、それは文字通り、命がけのことであるということである。このことは当時のキリスト者の共通の理解であったように思う。
マルコはキリスト者になるという状況について、次のように述べている。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなた方はすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(mk.13:9-13)。家族からさえも訴えられる。
マタイは十字架を担うということを次のように言う。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(mt.10:37-38)。マルコにおいては、「十字架を背負う」という意味は文字通り「キリスト者の殉教死」を意味していた。マタイではそれが少し意味に変化がみられる。いわば、そこでは「殉教死」というよりも「出家」が問題である。

5. 日々の十字架
ところがルカにおいては、この言葉に「日々」という言葉が加えられ、十字架を背負うということが「わたしたちの日常生活」のレベルにおいて問題とされる。ここでは「十字架を背負う」ということが「死」ではなく、「生」、「生きる」事柄として、いわば「日常性における十字架」として捉えられている。日常性における十字架とは、いわゆる「生活苦」とか「生きる苦労」、非キリスト者もキリスト者も同じように経験する苦労ではない。キリスト者であるがゆえに背負う苦労、負担、重荷である。それは、その意味では「逃げることが出来る」苦労、「見て見ぬふりをして通り過ぎることができる」負担かも知れない。時にはそれは些細な損得の問題かも知れない。誰でも平気でしているようなことでも、私たちがキリスト者であるが故に、それがどんなに損なことでも、してはならないことをしないという程度のことかも知れない。
十字架の内容については、それぞれの状況により異なる。ときには、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(mt.5:44)ということかもしれない。もっと一般的に、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(mt.7:12)ということで言い表すことでもあるだろう。それが「日々の十字架」である。「日々の十字架」の最もよい例は、善きサマリア人の物語であろう。

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