ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

親爺のこと(6) 「瀧口入道」上

2008-05-25 19:37:37 | ぶんやんち
高山樗牛は早熟の作家であった。早熟も早熟、あまりにも早すぎた。東大在学中の明治27年に、匿名で読売新聞の懸賞小説に応募し、それが入選し一躍有名になってしまった。その年は優秀作品がなく、入選作「滝口入道」が読売新聞に連載されることになり、多くの人々に注目されたという。樗牛23歳の時のことである。東大卒偉業後は、博文館に入社し雑誌「太陽」の編集主幹となり、文学、哲学、美学など多岐にわたる評論を発表した。1900年頃、夏目漱石と共に英国に留学する予定であったが、肺結核が悪化したため留学は断念し、その翌年、多くの人々に惜しまれつつ、帰らぬ人となった。享年31歳。
東大の在学中に書いた「瀧口入道」が、樗牛が残したたった一つの小説である。歴史に、「もし」は禁物であるが、あえて推測すると、予定通り漱石と英国留学を果たしていれば、おそらく日本の文学界は漱石レベルの文学者をもう一人持つことになったであろう。しかし、それは「ないないねだり」に類する願いで、31歳でこの世から姿を消すという予感が、「瀧口入道」という名作を生み出したとも言える。そのことについては、いずれ論じるべき時が来ると思うが、ここでは先ず、その「瀧口入道」という作品を読んでおこう。以下、3回に分けて、ダイジェスト版を掲載する。これはあくまでもわたしのダイジェスト(消化)であり、文責はわたしにある。

ダイジェスト版「瀧口入道」(上)  原作:高山樗牛 編:文屋善明
註1:原文では三十三に節分されているが、このダイジェスト版では、十段に改め、読みやすいようにそれぞれに「~~の巻」というタイトルを付けた。
註2:樗牛の名調子と息づかいとに触れていただくために、ところどころ原文のまま引用している。その文章のはじめに「<」、終わりに「>」の印を付けている。ただし、声を出して読めるように、古い書体や送りがなを現代文風に改めている。
註3:原文はインターネット図書館青空文庫による。( http://www.aozora.gr.jp/ )

第一段 出会いの巻(第1~第3)
平家全盛の時代、時の権力者平清盛は、わが世の春を謳歌していた。3月の終わり頃、清盛は、西八条殿で花見の宴を開催した。広い庭園は華やかに設営され、正面の座敷には清盛を中心に重盛、宗盛、知盛をはじめ、平家一族が並んでいる。もちろん、清盛の四女、後に建礼門院と呼ばれるようになった中宮も盛装し、多くの女房たちにかしずかれて座している。
宴もたけなわ、清盛の孫、重盛の長男、当時22歳の維盛が2歳年下の供の者、二郎重景と一緒に舞った。そのあでやかな姿は、同席する女性たちの注目を浴びた。二人とも大変な美男であったからである。清盛も目を細めて孫の舞う姿を満足そうに眺めていた。しかし、維盛の父重盛だけはその姿を心配そうに見ていた。
維盛と重景の舞も終わり、宴の舞納めに歳の頃17~8歳くらいの一人の少女が登場し、舞い始めた。その舞の素晴らしさに、そこに居合わせた人々はみんな驚いた。
その夜、中宮の邸の周りをうろうろする男がいた。骨格逞しい武者であった。彼は、少し遅れて邸に入ろうとする老女に声をかけ、今晩の宴で最後に舞をまった女性は誰かと尋ねた。老女は男の容姿をジッと眺め、微笑みながら「あれは中宮の女官で横笛といいます」と答えた。彼は、「横笛、横笛」と独り言を言いながら去っていった。
彼は重盛が最も信頼していた家来、斎藤瀧口時頼で、23歳の今日まで、色恋の話しなど一切なく武道一筋の男で、「六波羅武士の模範」と呼ばれており、重盛もゆくゆくは彼を長男維盛の付き人にしようと考えていたほどであった。
時頼も花見の宴に参加していた。その晩は、なかなか寝付かれず、その翌朝、朝日が窓に差込む頃になってようやく床を出たが、顏色も少し悪かった。時頼は、その晩も御所のあたりの人影も少なくなった頃、中宮の御殿の前をうろついていた。
 第二段 恋慕の巻(第4~第7)
恋というものは不思議なもので、人間は恋を知ることによって人生の哀れさを知る。
時頼は、いつも快活で、落ち込むというようなことはめったにない男であったが、その性格もいつの間にか変わり、何かと弱気になり、とくに朝夕はもの思いに耽っている様子。顔色もさえない。今までの時頼を知っている人々には信じられないことであった。
初めて恋文というものを出した人は、その返事が来るまでは、とても気がかりなものである。その返事がないと、届いたのかどうか心配になり、また出す。それでもまったく音沙汰がないと、三度出す。そういうことが繰り返されると、ますます深みに陥り、狂ったようになり、ついには十通、二十通と繰り返すようになる。とうとう、返事がないまま、秋になってしまった。
時頼の心は、ある時は怨み、ある時は疑い、惑い、慰め、行ったり来たり、まるで大海原を行く小舟のように揺れ動き、留まるところ知らなかった。しかし、結局最後は恋慕の淵に行きつくのであった。迷いの縄目は目に見えないもの、勇士の刃によっても切ることができず、哀れ六波羅一の豪傑も手の施しようがないまま、恋の奴隷となってしまった。ある夜、寝付けないまま、幻想を見て、大声で「間違っていた、間違っていた」と叫んだりするようになってしまった。
時頼は、床を抜け出すと、いきなり剣を取り、白刃を抜くと振り回し、目の前に現れる幻を切ろうとするが、所詮は幻、剣で切れるものではない。思わず「あぁ」と大きなため息をつく。当代一と言われた剣豪の剣も、煙のような横笛の舞姿を切り捨てることができない。行灯で映し出される影は惨めな己の姿のみ。今までの自分の剣の道は何だったのか。祖先の苦勞を忘れて風流三昧にうつつを抜かす連中を尻目に、修行を重ねていた半年前の己は、今どこにいるのか。もぬけの殻のようになった斎藤時頼、もはや武士の魂は残っていないのか。
<あぁ、あぁ、六尺の身体に人並みの胆は有りながら、さりとは腑甲斐なき我身かな。影も形もなき妄念に惱まされて、しらで過ぎし日はまだしもなれ、迷ひの夢の醒め果てし、今はのきわに、めめしき未練は、あはれ武士ぞと言ひ得べきか。>
第三段 出家の巻(第8~第10)
時頼は意を決して、父左衛門に「妻にしたい娘がおり、結婚の段取りをして欲しい」と相談をする。父親も、もうそろそろ息子を結婚させようと、心がけていたとのこと。その妻にしたい娘とはどういう人なのか、と聞く。息子は横笛のことを打ち明ける。
「時頼、それは正気か」。「はい、わたしの一生のお願いです」。「時頼、結婚は一生の大事。相手はそれなりに相応しい娘でなくてはならない。その横笛という娘のことは噂には聞いていたが、本気にはしなかった」。「わたしは、神に誓って申し上げますが、うわついた気持ちからではなく、真剣です」。
老の一徹で、声を荒げて罵る父親の前で、時頼は沈黙するだけであった。しばらく、怒鳴り続けていた父親も、落ち着きを取り戻し、優しく語り出した。「人間というものは若いときには、誰でも過ちを犯すものだ。芽生えのときの美しさには、霜枯れの時の哀れさを感じさせないが、いずれ秋が来る。花の盛りはわずか2、3日のこと、その後に続く青葉はどの花でも同じ色、あでやかな女性の美しさも十年は続かない。年取ってから若い日のことを思い返すと、若いときのときめきはまったく忘れてしまうものだ。「過ちは改むるに憚る勿れ」という古哲の金言があるが、父親であるわたしの言葉を納得したのか。横笛のことは思い切るか。時頼、返事がないのは不承知か」。
今まで眼を閉ぢ、うなだれて、黙って聞いていた時頼は、ようやく首をあげ、父親の顔を見上げた。その兩眼は涙で濡れ、全身で感情を抑え、顔はまったく無表情で、揺るがぬ決心を示していた。おもむろに、両手をついて、「仰ることはすべて、道理があります。横笛のことはわたしの剣にかけて、思い切ります。その代わり、わたしの一生の願いをお聞き入れください」。左衞門はそれはそうであろうと思い、頷いた。「それでこそ茂頼の息子、早速の分別、父も安心した。それで、その願いとは何か」。「今日から永の閑をください」。言い終わると、堰を切ったかのようにはらはらと涙を流した。
時頼は父親に、横笛とはまだ言葉も交わしたことがないこと、横笛への恋心を断ち切れない己の弱さ等々を正直に告白し、ついては武士の道を棄てて、「墨染めの衣に一生を送りたい」という決意を語った。
それを聞いた父親は、一度は呆れ、一度は怒り、老の兩眼に溢るゝばかりの涙を浮べ、「それは齋藤時頼の本心か。幼少より体力、胆力が人一倍優れたお前、将来が頼もしく、わたしの生き甲斐でもあり、一人前になることを指折り数えて待っていたのに、あぁ、何という恥辱、わたしは納得できない。主君重盛殿から左衞門は良い子を持ち、幸せ者だと常々言われ、それを誇りに思ってたのに。今更息子は乞食坊主ですと言えるか。時頼、よく聞け。他のことは言わない。先祖代々から齋藤一家が受けた平家の御恩はどれ程のものか、考えたことがあるのか。とくに、若いお前に目をかけてくださる重盛公のご恩に対しても、そんなこと言えた義理か。弓矢の上にこそ武士の譽はある。兩刀を捨て、世を捨て、悟り顏をしている息子をこの左衞門は持っていない」。兩の拳を握り、怒りの眼は鋭いけれど、恩愛の涙は隠せず、両頬を流れ落ちる涙を拭きもせず、最期に一言大声で、「どうぢや、時頼、返答せぬかッ」。
「父上、お願いいたします。この世でのご縁はこれまでと思し召し、時頼は二十三歳の秋、病死したと思い、諦めてください。親不孝はよく承知していますが、お詫びの言葉もありません。ただ、ただ、お許しを請うだけです」。
<「時頼、よく聞け、畜類の犬さへ、一日の飼養に三年の恩を知るというにあらずや。はへば立て、立てば歩めと、我が年の積るをも思はで育て上げし二十三年の親の辛苦、さては重代相恩の主君にも見換へんもの、世に有りと思うそなたは、犬にも劣りしとは知らざるか。不忠とも、不孝とも、乱心とも、狂氣とも、言はんさまなき不届き者、左衞門が眼には、我子の姿に化けし惡魔とより外は見えざるぞ、それにても見事そこに居直りて、齋藤左衞門茂頼が一子ぞと言ひ得るか」。>
第四段 遺言の巻(第11~第13)
平家の権力はますます増大し、清盛の横暴はますます激しくなった。上に立つ者がそのような状態では、それに群がる連中の振る舞いも目を覆うようであった。しかし、中にはそのような状況を憂う人々もいたが、清盛はその諌言には耳を貸さず、むしろ彼らを島流しにしたり、追放したりした。そのことを最も憂えていたのは長男の重盛であった。
ある日、重盛は思うところがあって、熊野参籠に出かけたが、帰ってきてきてからは部屋に閉じこもったままになってしまっていた。そのような折、重盛に面会に来たのが、時頼であった。
「病気と聞いていたが、もう良くなったのか」。時頼は、密かにいとまごいに来たのであるが、それは口にはしなかった。かなり長い時間、世間話をしていたが、突然、重盛は、威を改めて「ぜひ、あなたに頼んでおきたいことがある」と切り出した。
重盛が時頼に頼んだこととは、長男維盛のことであった。「もしも、わたしに何かあったら、気がかりなことは維盛のことである。彼は幼いときから身体も弱く、気も弱い。それもあって、彼は詩歌や舞踊など趣味の世界に生きている。あなたも見たであろう。今年の春の花見の宴での彼の舞踊、多くの人は素晴らしいと言っておだてられ、本人もその気になって気をよくしているが、親としてはただ恥ずかしいだけである。もし、いったん何かがあれば、妻や子への愛情、この世の楽しみに心惹かれて、未練たらしい最期を遂げるかも知れない。世は栄えるときもあれば、衰えるときもある。平家の直系としては卑怯な行動はあってはならないことである。もし、そんなことでもあれば、先祖代々の恥となる。維盛の行く末を守って欲しい。時頼、これがわたしの一生の頼みである」。
「繰言になるが、維盛のことを頼めるのはお前だけだ。もし、何か事あるときには未練たらしい最期にならないように頼む」。
主君からの命をかけた頼み事を聞いて、時頼は何も言えず、黙って主君の家を後にした。時頼は黙々と歩きながら、いつしか御所の裏手あたりに来ていた。そこで、誰かがひそひそ話をしているのに気付いた。「横笛」という言葉が聞こえてきたので、思わず振り向くと、そこには一人の若侍と老女とが、額をあわせてヒソヒソと話し合っていた。
「いいかい。わたしへの志を忘れないでね。この色男、二郎さん」。男は、老女の袖を引き、「時頼がとうとう諦めたというのは本当か」。建礼門院の老女冷泉は二郎重景と横笛との間を取り持っていたのである。老女は声をひそめて「この春からひっきりなしに恋文が寄せられていたのに、ここ20日くらいは、全然音沙汰なしです。心配せんでもいい。わたしに任せておきなさい」。
これを立ち聞きしてしまった時頼は、次のように述懐する。
もう、そんなことどうでもいい。すべてはわたしには再び戻ってこない夢にすぎない。もはや怨みもない。友人を売る人間もおれば、騙す人もいる。誠がないのがこの世だとすれば、少しも腹が立たない。
<千緒萬端の胸の思いを一念「無常」の溶炉にとかし去りて、澄む月に比べん心の明るさ。いずれ終りは同じ紙衣玉席、白骨を抱きて栄枯をはかりし昔の夢、観じ来れば世に秋風の哀れもなし。君も、父も、恋も、情も、さては世に産声あげてより二十三年の旦夕に畳み上げ、折重ねし一切の衆縁、六尺の身体と共に夜半の嵐に吹きこめて、行方も知らぬ雲か煙。後には秋深く夜しずかにして、渡る雁の声のみ高し。>

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