ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 04/02

2016-04-04 16:04:00 | ツイッター
お早うございます。主の平和。新約聖書外典におけるイエスの復活物語を読む。ホンダライフの1年定期検査をして貰う。エンジンオイルの交換とタイヤのローテーション。これでマイカーのラスト・ロング・ドライブの準備OK。夜、しらゆきひめ殺人事件、「現代」過ぎて筋が良く解らないので途中で止めて10時半に就寝。5時半に起床。血圧(142:79,76)・体調・快調。チュン、チュン。
いいね!他のリアクションを見るコメントするシェアする
21播 稔さん、森田 美芽さん、他19人
コメント

藤木 冨士子 おはようございます。

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪ロング・ドライブのご予定が?  凄いですね!
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

村田 多鶴子 ドライブの道中が守られ、穏やかな祝された時間を!とお祈り致しますm(__)m

文屋 善明 私の自動車免許証は昭和31年5月取得で、60年近く乗り続けてきたので、自動車に乗らない人生がどういうものか、楽しみです。


文屋 善明
4月2日 6:11 ·
お目覚めの花。「さぁ、今日は復活後土曜日、そろそろ日常に戻らなければ」「そうですね。もう、新年度も2日目ですからね」「テレビの番組も大幅に新しくなったことだし」「そう言えば『アサが来た』も今日までですね」。
文屋 善明さんの写真
いいね!他のリアクションを見るコメントするシェアする


文屋 善明
4月2日 6:27 ·
2016 日々の聖句 04月02日(土)
力を捨てよ、知れわたしは神。(Ps.46:11)
さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。(Mk.6:31)
私の黙想:
今日の聖句、いきなりこの言葉が目の前に現れると、もう文脈も何もなくなる。日本語的に言うと「力を抜け」とか「自然体で行け」という感じでしょうか。現代風に言うと「リラックス、リラックス」かな?
日本の武道の奥義は、柔道であれ、剣道であれ、空手であれ、合気道であれ、肩から力を抜いてダラーンと自然体になることだという。信仰の奥義も(私はまだまだそこまで達していないが)、自然体になることだと思う。そこで初めて「知れ、わたしは神」という神に出会う。「ダラーンとすること」、いいね。

29播 稔さん、北村 良輔さん、他27人
コメント

西堀 俊和 詩編46編は明日の説教する箇所です。ありがとうございます。丸写しします。


文屋 善明
4月2日 6:48 ·
今日の名言:@Nietzschebotjp
脱皮しない蛇は破滅する。人間もまったく同じだ。常に新しく生きていくために、わたしたちは考えを新陳代謝させていかなくてはならないのだ。(『超訳 ニーチェの言葉』43、『曙光』より)
<一言>
人もしキリストに在らば新に造られたる者なり、古きは既に過ぎ去り、視よ、新しくなりたり。(コリント後書5:17)

26播 稔さん、北村 良輔さん、他24人
コメント

村田 多鶴子 文語の聖書、口に出して言ってみると、響きの良さがいいですね~♪(^^♪

文屋 善明 でしょう。

川染 三郎 文語訳はいいですね。

文屋 善明 ニーチェの方が「超訳」なので聖書の方は「古典」でいきました。


文屋 善明
4月2日 8:28 ·
今日の「折々のことば」。今日はまさにそのことを考えていました。経験が言葉になるということ、それは一種の「翻訳」であること、そしてその翻訳が肉付けられて原典になること。それはイエスの弟子たちの「復活のイエスの顕現経験」が「イエスの復活」という原典(原点)へのプロセスである。「経験に浸っているだけではいつまでもその経験の意味は明らかにならない」(鷲田精一)。その通りでしょう。だから復活日の経験は復活節第2主日(明日)で復活信仰となる。
文屋 善明さんの写真

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1000195233391271&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater

26安部 勉さん、小貫 ツマさん、他24人
コメント

樋口 貞三 perceptionとconceptionとによる経験、後者について経験はあまり意識されないようです。


文屋 善明
4月2日 9:45 ·
断想:復活後土曜日の福音書
四福音書成立以後の諸史料
復活後土曜日の福音書は、マルコ16:9~15,20である。マルコ福音書がもともと、8節で終わっていたのか、それとも9節以下が何らかの理由で紛失されたのかが問われるところであるが、それこそ、それは「ナイナイねだり」に類する疑問であろう。それにしてもマルコ福音書の終わり方はいかにも唐突であることは否めない。それに、マルコ福音書には復活のイエスの顕現物語がないということが、問題にされたらしい。その結果、いろいろな試みがなされたことであろう。それがマルコ福音書の付録としての「短い結び」と「長い結び」とがある原因であろう。「短い結び」は新共同訳では「結び二」である。いかにも取って付けたような結びになっている。婦人たちは「手短に伝えた」という。これではいかにも「手短すぎる」と思って付け加えられたのが「長い結び」である。こちらの方もほとんどネタバレで、9~11節はヨハネ20:11~18、12~13節はルカ24:13~35、14~18節は主にマタイ28:16~20、19~20節はルカ24:50~53を少々加工して並べただけである。重要なことはその加工部分にこの加筆に時代的影響を受けていることであろう。
先ず、本論に入る前に、もう一点、マグダラのマリアについて「七つの霊を追い出していただいた婦人」と記されていることについて。マグダラのマリアについてこういうのはルカ8:2による。これはここでだけしか述べられていないので確証は出来ない。そうかも知れないが、そうでないかも知れない。ただ、次の点については、ハッキリと否定しておかねばならない。それはルカ福音書のこの記述のすぐ前に「罪深い女」のことが記されている。ルカ福音書ではこの女性のことについてそれ以外のことは何も記されていない。この出来事、つまりイエスの足に接吻し、涙を流し、高価な香油を注ぐという出来事について、ヨハネ福音書はラザロの姉たちマルタとマリアのマリアであるとしている。この「罪深い女」をマグダラのマリアであるとするキリスト教会の伝統的な解釈はまったく根拠がない。七つの悪霊と罪深い女、姦淫の罪と短絡的に結び付けるのは、あまりにも無責任である。
イエスの復活と顕現物語は教会の成立当初からキリスト教信仰の根幹にかかわる出来事とされ、いろいろな解釈がなされたであろうことは十分に推測できる。その一つの例として、2世紀後半頃の作とされる「外典・ペテロ福音書」を紹介する。この写本は1886年から翌年にかけてエジプトで発見されたものである。おそらく8~9世紀のものとされる。
外典・ペテロ福音書(『聖書外典・偽典』6、教文館)
第12章
50 さて、主の日の朝早く、主の女弟子マグダラのマリアが——彼女は、ユダヤ人たちが怒りに燃えていたため、彼らを恐れ、婦人たちが死者のため、自分の愛する人々に対して行なうことになっていることを(埋葬の際)主の墓でしなかった——51 自分といっしょに友人たちを連れて、彼が安置されていた墓にやってきた。51 彼らはユダヤ人が自分たちを見ないだろうかと恐れ、そして言っていた。「あのかたが十字架につけられたあの日には、泣いたり、(胸を)打ったりすることができませんでしたが、せめて今、あのかたのお墓でそれをしましょう。53 けれども、はいってあのかたのおそばにすわり、なすべきことを行なえるよう、いったいだれがわたしたちのために、お墓の入口に置くかれている石を転がしてくださるでしょう。54 石は大きく、わたしたちはだれかが自分たちを見ないかと恐れているのですから。もしできなければ、あのかたの記念として持ってきたものをせめて入口にでも納めて、自分の家に帰り着くまで(の道すがら)、泣いて(胸を)打ちましょう」と。
第13章
55 彼女らが行くと、墓所の開かれているのがわかった。そこで、彼らが近づいてそこにかがんでみると、墓所のまん中に、ひとりの美しい若者が光り輝く衣服を着てすわっているのが、そこに見えた。彼は言った。56 「なんのために来たのですか。だれを探しているのです。十字架にかけられたあのかたではないでしょうね。彼は復活して去ってゆきました。信じないのなら、かがんで、彼のいた場所に、彼がいないことをごらんなさい。彼は復活しました。そして、(ご自分が)送られてきたその(もとの)ところヘ去っていったのです」と。57 その時、婦人たちはこわくなって逃げ去った。
第14章
58 さて、 除酵祭の最後の日のことだった。祭りが終わって、多くの人々が自分の家に帰ろうと、 出てゆくところだった。 59 ところで、 われわれ、主の12人の弟子たちは泣き悲しんでいた。 そして、おのおのは起こったことの故に悲しみつつ、自分の家に帰っていった。60 さて、わたしシモン・ペテロとわたしの兄弟アンデレは、自分たちの網を取って海へ出て行った。そしてアルパヨの子レビがわたしたちといっしょにいた。この人を主は(かつて)・・・・・<史料はここで切れている>
※ハルナックはマルコ2:14の記事が挿入されるのであろうと予想している。
この史料を読むといろいろなことが想像される。それについては専門家に任せよう。
私はマルコ福音書の「結び」はこれよりは多少早い段階であろうが、同系統のものだと思う。ただ、マグダラのマリアの件であれ、エマオの途上の件であれ、共通する面白い点は、彼女、彼らの報告を聞いて、「弟子たちは信じなかった」と明記している点である。彼らは信じなかったのである。ヨハネでは彼女の報告を聞いて弟子たちは「信じた」とも「信じなかった」とも明記されていない。エマオの途上での主の顕現についても、その報告とは別に、その報告の前に「本当に主は復活してシモンに現れた」と言っている。14節以下の記述では「11人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからである」という。マタイでこの部分を読むと「しかし、疑う者もいた」(Mt.28:17b)とまるで人ごとのように記されている。人ごとではない。11弟子たちは全員、彼女および彼らの言葉を信じていなかったのである。外典・ペテロ福音書14:59~60によると、彼らはおのおの泣き悲しみつつ「自分の家に帰っていった」のであり、そこで漁に出かけているのである。
正規の福音書の記録とはかなり違う。2世紀の教会では使徒団の権威も固まり、教会の内部でも聖職者と一般信徒との身分差も明確になっていたが、その足元では、このような史料が出回っていたのである。
いいね!他のリアクションを見るコメントするシェアする

コメント

Satoshi Mizota 私のfacebookの『福音書解読』の部屋で、福音書の書かれた順番について投稿した際、『(私の出した福音書の順番の説がありえるなら)、マルコより先にペトロ福音書が最古でもいい、という仮説はなりたつのでは?』という指摘を京大の院生から受けましたが、なるほど、事実はともかく、なりたち得るな、と考えた次第です。。。


文屋 善明
4月2日 10:48 ·
「昨日のツイート 03/31」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

7文屋 知明さん、川染 三郎さん、他5人


文屋 善明
4月2日 11:01 ·
断想:復活節第2主日の福音書をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

7文屋 知明さん、松井 守さん、他5人


文屋 善明
4月2日 11:56 ·
FBでの友達(まだお会いしたことがありません)三浦三千春さんが、『あさが来た、広岡浅子と満喜子とヴォーリス』を出版されました。Kindleでも出ているので、昨晩注文し、一寸だけ読んで、今日の午前中読み上げました。とっても、良い本です。いろいろなことが繫がってきて当時のキリスト教界のこともよく分かりました。日本キリスト教団大阪教会の宮川経輝牧師の指導、山室軍平牧師との出会いなど、懐かしい名前が出て来ます。
これが170円、安すぎる。Kindleはともかく紙の方はもっと高くしていいのではないかと思うが、それは三浦牧師の生き方の問題でもあり口出しはしませんが、非常に良い本なので、お薦めします。
文屋 善明さんの写真

37鈴木 くるみさん、清水 晴好さん、他35人
コメント

牛島 幹夫 これは、おもしろそうですね。でも、キンドルを持ってないです。。。
せっかくなのでリンクを貼りますね!
http://www.amazon.co.jp/・・・/B01DO4Z0JE/ref=sr_1_fkmr0_1・・・

文屋 善明 紙の本の方は179円ではあまりにも安すぎてアマゾンの水に馴染まないそうです。

牛島 幹夫 そうなのですね。

矢野 寛子 170円なら私も購入したいです、「負けんとき」でヴォーリスさん、真喜子夫人、広岡浅子さんはしりましたが。


文屋 善明
4月2日 15:19 ·
イミタチオ・クリスチ(81):
信仰者としての完全を目ざして励んだ先達たちを見上げよ。そうすれば、今、私たちがしていることが、いかに小さくて、取るに足りないかを悟るであろう。
ああ、あの人たちの生活にくらべる時、私たちは、なんとつまらないことにこだわっていることだろう。18:1~2
いいね!他のリアクションを見るコメントするシェアする

コメント

山本 友美 全くそうです。今も耕之さんと戦闘。食っちゃうぞ。


文屋 善明さんがLife's a Danceさんの写真をシェアしました。
4月2日 15:29 ·
英語のレッスンです。マレーシアの友人Naomiからのしぇあです。
Life's a Danceさんの写真

https://www.facebook.com/lifesadanse/photos/a.171212949659563.35843.162052857242239/954471541333696/?type=3&theater

The Serenity Prayer heart絵文字 Life's a Dance #Lifesadance #Margaret_B_Moss #WUVIP

山城順さん、Hajime Kawamukaiさん、他6人
コメント

村田 多鶴子 ラインホルド・ニーバーのお祈りとしてよく知られているものですよね~♪(^^♪

文屋 善明 それは知りませんでした。ニーバーらしいですね。

清水 行雄 神よ、叶えたまえ。私が変えることのできないことを受け入れる冷静さを、変えられることを変える勇気を、そしてその違いを知る知恵を。

萩原 友子 大好きなニーバーの祈りですね。子どもの頃に母の恩師から小さな小さな額でもらって、デスクの上に置いてあったことを思い出します。まだ英語なんか読めなかったけれど、大人になってよく文章を読み、素晴らしい祈りに感激しました。

文屋 善明 大木英夫先生の訳です。ニーバーの祈り
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

清水 行雄 さすがに、見事な訳ですね。英文解釈云々では、とてもできない訳です。

文屋 善明 あなたの訳も良いですよ。冒頭に「叶えたまえ」という言葉を持ってくるというようなことは、普通のクリスチャンにはない発想です。しかし英文の「grant me」まさにそれで、とても新鮮です。

清水 行雄 日本語訳として体をなしているかどうかは別に、英文の語順を尊重して試訳してみました。(笑)


文屋 善明さんがノートを公開しました。
4月2日 15:53 ·

2016年復活後の週の断想(月〜土)
断想:復活後月曜日の福音書
マタイにおけるイエスの顕現物語
復活後月曜日の福音書はマタイ28:9~15である。マタイ福音書には11弟子に対するイエスのいわゆる顕現物語はない。強いて言うならば、16節以下の派遣記事だけである。このテキストは聖霊降臨後第1主日、いわゆる三位一体主日に読まれる。
それ以外では、マタイにおけるイエスの顕現物語がこの日に読まれるマタイ28:9~15だけである。その意味では非常に重要な記事であるにもかかわらず、この個所は主日の福音書には選ばれていない。その理由はいろいろ考えられるが、確定的なことは何も言えない。

9望月 克仁さん、松井 理直さん、他7人
コメント

鈴木 規夫 「このメッセージを11弟子ではなく、マグダラのマリアに語られマリアを通して弟子に伝えられた」ということは、とどのつまり、復活の目撃者はマグダラのマリアだけであって、その言葉を信じるのかどうかという問題もいろいろ絡みながらもなお、この「復活祭」それ自体が成立流布している不思議が、とても解りにくいところなのであります。つまり、復活は聞こえた、わけにすぎないのですから。

文屋 善明 謎ですね。

Satoshi Mizota 見たのは、別伝承の第一コリント15章のペトロですね。

鈴木 規夫 「マリヤが墓から帰ってきてイエスの体がなくなっている事を告げたとき、ペテロとヨハネがすぐさま墓に走って行きました。墓に入った二人の弟子達を最初に驚かせ、復活を確信させたものは墓が空だった事ではなく、空っぽの亜麻布でした(ヨハネ20:7)。二人は「これを見て信じた」と記録されています(同8)。」というのではないの? 「別伝承」というのは?

Satoshi Mizota 上記のパウロ書簡がイエス復活についての最古の伝承です。。。

文屋 善明 資料的には1コリント15章以前には遡れません。そこで述べられていることはただ単純に生きているイエス」がペトロに現れたということで、パウロはそれはダマスコ途上でパウロに現れた「生きたイエス」と同じ経験だと述べている。

文屋 善明 このパウロの経験を媒介項として私たちの「キリスト経験」とが繫がる。

Satoshi Mizota まあ、そう簡単にも行かないかも。。。

Satoshi Mizota 『月足らず』がしっくり来ません。。。

文屋 善明 それは単純に「生前のイエス」に会ったこともない、ということじゃないですか。

Satoshi Mizota そうなのかなあ。。。ペトロたちに現れたと同じイエスだと、なぜわかったんだろう。。。

鈴木 規夫 どうやらパウロは実に頭の良い戦略家ですね。「マリヤが墓から帰ってきてイエスの体がなくなっている事を告げた」時に、マリヤが復活したイエスを見た(出会った)可能性についての議論にはどのようなものがあるのでしょう?

Satoshi Mizota パウロ書簡にはマリアは出てきません。

鈴木 規夫 それは当然ですね、戦略上。

文屋 善明 パウロが回心した頃には、キリスト教の組織化はかなり進み、復活についての公式見解も発表されており、パウロはあくまでもその枠内でものを考えています。

Satoshi Mizota うーん、パウロ書簡以前にキリスト教の文書は成立しておらず、イエスの言行を記した四福音書文書はパウロ書簡より後の成立だ、というキリスト教全宗派公認の事実に立ち、最も懐疑的な立場を取った場合、福音書の物語はパウロ書簡をネタに「作られたもの」だということは言えなくもないです。

Satoshi Mizota そうした場合に、残るのは、パウロ書簡に登場しない登場人物を、パウロ書簡以降に成立した福音書に登場させた動機のほうだと思うのですが。。。

文屋 善明 この議論、もう少し煮詰めましょう。

Satoshi Mizota 最も懐疑的な立場を取った場合には、パウロ書簡に記されなかった人物以外の、聖母マリア、マグダラのマリアなどの登場人物は、パウロは知らなかったということになりそうですね。洗礼者ヨハネもパウロは知らなかった。。。

鈴木 規夫 あ、パウロ教……

Satoshi Mizota ただ「著者は読者をだます意図」は「全然なかった」と思いますね。壺を売って金を取るカルト宗教ではないんだから。詐欺文書説は消えなければならない。

Satoshi Mizota 「誠実な伝達」も加味しながらならば、当時の教会史をイエスの言行におり混ぜながら書いたものが福音書だろうと思われる。そうすると、パウロに出てこない登場人物の理由も、それなりに付くわけです。パウロが死んだ後の教会の人物だから。。。

Satoshi Mizota ただそこまで「懐疑的な立場」にも立てないなあ、とは思いますが、説明はそれなりにつきますが。イエスの言行が全く入っていないとも思えませんので。。。

鈴木 規夫 「残りの者」の概念とパウロ

Satoshi Mizota 「月足らず」というけれども、「私は本来生まれてはならない人間だ」という言葉の意図があると考えています。あんまり強調すると太宰みたいになるのでしたくないんですけど。。。

鈴木 規夫 「死者でもなく、生き残った者でもなく、死んでしまった者でもなければ、救いあげられた者でもな、かれらのあいだにあって残っているもの」


文屋 善明さんが写真5件を追加しました。
4月2日 16:34 ·
我がホームグランド、釣川の桜(2016/4/2)
文屋 善明さんの写真

45石松 周さん、播 稔さん、他43人
コメント

加藤 治 先程、釣川近くの成田山の桜を見てきました。人と車が多かったけれど、見事でした。

文屋 善明 釣川近くの成田山? どこにあるのでしょう。

最新の画像もっと見る