ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:大斎節第3主日

2018-03-02 07:52:35 | 説教
断想:大斎節第3主日
暴力   ヨハネ2:13~22 (2018.3.4)

<テキスト、私訳>
語り手:過越の祭が近づいてきましたので、イエスは弟子たちと一緒にエルサレムに向かわれました。神殿は、地方からの参拝者や、その人たちのために奉納用の牛や羊や鳩を売る商売人や通貨を神殿用のお金に交換する両替業者などで大変な賑わいでした。その様子をしばらく眺めていたイエスは腹の底から怒りがこみ上げてきました。それで、その辺りに散らばっている荷造り用の縄で鞭を作り、それを振り回して、牛や羊や鳩を売っている連中を神殿から追い出し、両替業者の小銭をぶちまけ、テーブルをひっくり返し、大暴れいたしました。暴れ回るイエスの姿を見て、弟子たちは、神殿後生大事という連中が黙っていないだろうな、などとのんきなことを考えていました。まさかそのことが後に、本当のことになるとは、思いもしませんでした。

イエス:商売道具を持ってトッと失せろ。私の父の家を商売の家にするな!
ユダヤ人たち:お前は何の資格があって、こんな狼藉を働くんだ。お前の身分証明書を見せろ。
イエス:何の資格だと、そんなもの持ってないよ。でもな、こんなに汚れた神殿なんか壊してしまえ。そうすれば、俺が3日のうちに新しい神殿を建ててみせてやる。
ユダヤ人たち:馬鹿なこと言うな。この神殿はな、建て始めてから46年かかっているんだぜ。それでもまだ完成しないんだぜ。それをお前は3日で建てるとは、呆れた奴だ。

語り手:実はイエスは自分の身体のことを神殿にたとえて言ったのです。後にイエスの弟子たちはイエスが復活したときに、このことを思い出し、聖書とイエスの言葉とを信じた、と言われています。

<以上>

1.今年はB年ということで主日礼拝では、主にマルコ福音書が読まれているが、例外的に大斎節第3主日から第5主日まではヨハネ福音書から読まれる。まず最初は2章13~22節で、ヨハネ福音書ではイエスの初期の活動が取り上げられている。この物語自体は教会福音書でも取り上げられているが、ヨハネ福音書だけはそれをイエスの初期の活動として述べている。少なくともヨハネ福音書によるとこの時がイエスが始めてエルサレムに行った時の一つの事件であった。
第4主日では、5000人を5つのパンと2匹の魚で満足されたという記事(6:4~15)が取り上げられている。この出来事は、いわばイエスのガリラヤ時代のクライマックスである。この出来事を通して、イエスが一般大衆の味方であることが認められたのである。
第5主日では、ギリシャ人の訪問の記事(12:20~33)が取り上げられている。この出来事はヨハネ福音書の独自の記事で、他の3つの共観福音書では取り上げられていない。これはイエスが逮捕され裁判を受け十字架刑に処せられる直前の出来事である。
このように大斎節において取り上げられているヨハネ福音書3つのテキストは選び抜かれたものである。

2.イエスらしくない
本日登場するイエスはイエスらしくない。群集の面前で暴れまわるイエスを弟子たちは押さえることもできず呆然と見ていた。イエスはたちまち群集に取り押さえられ、激しく糾弾された。これが「宮きよめ」と呼ばれる事件である。この事件については4つの福音書がすべて取り上げている(マタイ21:10~13、マルコ11:15~17、ルカ19:45~46)。

3. ヨハネの主張
この事件についてのヨハネの記述において最も重要な点は、詩編69編からの引用である。大立ち回りをしているイエスを見て、弟子たちは「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という言葉を思い出したという。まるで、弟子たちは傍観者である。イエスと一緒に暴れていない。弟子たちの態度についていろいろ批判したいことがあるが、その気持ちをグっと押さえて、その時の弟子たちの気持ちを推し量ってみると、こういうことだろう。
詩編68編の詩人は、神殿が世俗化し、観光地化している状況を嘆き、批判したが、逆に人々から糾弾され、打ちのめされている。この詩においては、その時の詩人の心境が生々しく述べられている。「理由もなくわたしを憎む者はこの頭の髪よりも数多く、いわれなくわたしに敵意を抱く者、滅ぼそうとする者は力を増していきます。わたしは自分が奪わなかったものすら償わねばなりません」(5節)。この糾弾により親や兄弟まで彼から離れる。
暴れるイエスを見ていた弟子たちはこの言葉を思い出していたのだろう。今、彼らの目の前で、このことがここで現実に起こっている。当時の神殿の状況を「心ある人々」は嘆いていたことだろう。神殿は上から下まで腐敗しきっている。しかし、人々はそれをどうしても止めることができず、ただ嘆くだけである。もし誰かがこれをあからさまに批判すれば、その結末は明白であった。だから、たとえ批判するにしても「もっと賢く振舞わねばならない」と人々は思っていた。
しかし、イエスにはもうこれ以上「黙っていられない」気持ちであった。とうとう、それが爆発したのである。神殿で一日や二日暴れたって高が知れているし、そんなことで神殿の腐敗を一掃し、粛正することなどできるはずがない。しかし、イエスはやってしまった。弟子たちの気持ち「とうとう先生はやってしまった。これが先生の命取りになる」と思ったに違いない。「食い尽くす」とは身を滅ぼすという意味である。

4. 事件の直後──「しるし」
さて、ユダヤ人たちはイエスに対して、こういう行動を取るからにはそれなりの「しるし」を示せと詰め寄る。ユダヤ人のしるし要求に対して、「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」と答える。これは、ユダヤ人たちにとっては大変な冒涜である。イエスの裁判記録を見ると、イエスが極刑を受けた理由は、結局「神殿批判」ということに尽きるようである。彼らにとって「神聖な場所」「聖域」である神殿内部でこれだけの狼藉を働いたのであるか、その結末は仕方がないであろう。しかし、よく考えてみると神殿の神聖性を犯しているのは彼らの方である。むしろ、イエスは神殿が神聖な場所であることを主張しているのである。

5. もう一つの「思い出し」
ところで、本日のテキストではもう一つの「思い出し」がある。はじめの「思い出し」と後の「思い出し」とは明かに響きあっている。はじめの「思い出し」では目の前で暴れまわり糾弾されているイエスを見て、詩人の言葉を思い出し、イエスという人物についての複雑な気持ちを表している。
しかし、後の「思い出し」では、イエスの死後、復活という出来事を弟子たち自身が経験して後、厳密にいうと、教会というものが成立し、「教会はイエスの体である」という信仰に立って、イエスの、「あの時のあの言葉」を思い出している。「この神殿を壊してみよ、わたしは三日で立て直してみせる」とイエスは確かに言った。わたしたちはあの時、あの「無茶な言葉」を聞いた。その時はなんて無茶なことを言うのかと思った。しかし、今考えてみるとあの言葉は本当であった。イエスは「あの時の言葉」が原因となってローマの兵隊によって十字架刑により死刑とされた。イエスの身体は文字どおり破壊された。それと前後して、あの豪壮な神殿もローマの軍隊によって徹底的に破壊された。しかし、イエスはよみがえった。徹底的に壊滅されたイエスの弟子集団は、不思議な力に支えられ、復活し教会を生み出した。教会においてイエスは生きていた。そして、教会こそ「真の神殿」となった。ここで人々は神と出会い、神の言葉に耳を傾け、神を拝んでいる。
イエスを糾弾し、処刑してしまったその出来事が、「真の神殿」を生み出した。弟子たちが「あの日、あの時のこと」を思い出したのは単に「思い出し」ではなく、「宮清め」という一見無謀とも思える、そしてそう思った出来事が、今現在「真の神殿」を生み出したということについての驚きである。ここに人間の思惑を超えた神の不思議な力が働いている。

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