ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ツアー・コンダクターとしての私的報告「西ドイツの印象」

2014-09-10 19:33:37 | 雑文
ヨーロッパ「労使関係視察旅行」
主催:日本クリスチャン・アカデミー
1978年9月9日~9月27日

日本クリスチャンアカデミーによる最初の公式使節団。西ドイツのアカデミーおよびスウェーデンの教会の協力によって行われた。

ツアー・コンダクターとしての私的報告「西ドイツの印象」

Ⅰ 西ドイツ北部地区にて
大阪空港を1978年9月9日にタイ航空によって出発し、バンコックを経由して最初に着陸したのフランクフルト空港であった。10日の早朝(06:10)到着の予定が、故障のため2時間遅れた。お陰でドイツの景色を上空からたっぷり味合わせてもらった。上空から見たドイツは美しかった。寝不足と疲労のため身体は中心を失ったかのようにボヤーッとしていたが、下方に広がるドイツの景色は否応なしに、私の意識を秩序付け鮮明にするのであった。
上空から見たドイツがまさにドイツであった。今、振り返って見ても、労使関係をはじめ、建造物、組織、人間関係等すべてが上空から見たドイツと同じものであった。直線はあくまでも直線でなければならない。町はあくまでも町であって、田園ではない。森は絶対に森である。この明晰性がドイツの最初の印象であった。町がいつの間にか町はずれになったり、一つの街がダラダラと隣の町と繋がっているなどということは禁止されているかのようである。森の木の一本一本までが、タテ・ヨコに計算されて植えられていた。それはもう日本人が考えているような森の概念とは異質なものである。日本人の場合、大都会の公園の森はあくまでも人工の森なのであって森ではない。私などには森といえば出来るだけ人間の手を加えずに残された自然という感が強い。もちろん、ドイツにも人間の手が加えられていない自然もあるに違いないが、上空から見える田園の中に散在する森はそうではない。
今、私は「人間の手が加えられていると」という言い方をしたが、ドイツではそんな表現では不十分な気がする。むしろ「人間の手」ではなく、まさに「理性が貫かれている」という感じなのである。つまり理性によって整理され、秩序付けられたものだけが存在し、存在することが許されているというもの凄さがそこには感じられた。それは単に森の話ではない。村も、町も、畑も、組織も、機構も、人間までもがそうである。理性的ということは単にいろいろなことを考慮に入れているというようなレベルではなく、そうあるべきだから、そうある、ということ、つまりsollenがseinを決めている。まだ、足をドイツの地に着けないうちに、上空から眺めただけで、ドイツ観念論の強力さを垣間見たような気がした。
フランクフルトからデュセルドルフまではルフトハンザ機で乗り継ぎ、いよいよ私たちの身柄はドイツのエヴァンゲーリッシェ・アカデミーの手に渡された。すべてが計画通り、ペーパーに書かれていることを現実化する、という感じで進められた。休むときには休まなければならない。話し合う時には話し合わなければならない。飲むときには飲まねばならない。ワインはワイン、ビールはビール。「自由」は計画の段階で十分に考えられている筈であるから、実行の際には「必然」となる。これは少し大げさであるが、多少気ままをしたい日本人には、それくらいに感じられた。
デュセルドルフ空港には一足先にドイツ入りをしていた伊藤規矩治団長(同志社大学教授、日本クリスチャンアカデミー理事)とエフペンホルスト主事が計画通りに出迎えに来てくれてホッとした。私たちのために準備されていたバスは30人乗り。何故かと言うと、この視察団は計画の段階では30人の参加者が見込まれていたのであったからである。通訳は伊藤団長と野口保子嬢(日本クリスチャン・アカデミー職員)の他2名が準備されており、この地区でのすべてのプログラムに随行してくれた。
ビールと製鉄で有名なドルトムントの近郊にあるカトリック教会が経営する研修所が私たちの宿舎であった。ここでは、西ドイツにおける労使関係の基本的機構と運営、問題点について、それぞれ専門家の方からのレクチャーを伺い、質問し、工場見学をし、夕食後には共にビールを飲み、話し合いの時を持った。それらのことについては、別な方が詳細な報告してくれるので、私は省略するが、ただ一点だけ、現在のドイツの労働界における重要な問題になっている失業問題と外国人労働者の関係についてのドイツ労働組合の考えていることを述べておく。
人の嫌がる仕事の問題やEC内における西ドイツの尊厳等色々な問題があるが、ともかく深刻な失業問題の解決のためには外国人労働者の数を出来るだけ減らせばいいわけで、ドイツ人といえども人間であるからその気持がない訳ではないであろう。それを語る彼らの口ごもり方を見ているとそれが察知される。事実、政策の大綱はそのように進められている。それはそれで当然であろう。しかしそれを当然と考える程度が、日本人とは格段の差がある。そこにドイツ人の責任意識が浮かび上がってくる。つまり、外国人労働者の数を減らすということは、もう、これ以上新しく外国人労働者を入れないということであって、今いる労働者やその家族、たとえその家族が彼らの母国で生活していようと、決して彼らを解雇して追い返すということではない。現在の外国人労働者とその家族との権利は完全に保証されている。外国人労働者の子女はドイツで働く権利をもち、それはドイツ人がドイツで働く権利と全く同程度なのである。従って、労働組合としても失業問題がどれほど深刻であったとしても、そのことのためには彼らの権利を侵害することに対しては強力に擁護をするのである。それはドイツ人の責任感というような感情の問題ではなく、「責任」ということについての理解、つまり理性なのである。「理屈ではそうなるのだが・・・・・」といった理性不信はない。「責任」は理性的判断によって支えられて、Sollen(なすべきこと)となり、Sollenの現実化が課題となるのである。そこでは利害の調整とか感情などは二次的事柄となる。
このような考え方、メカニズムが、西ドイツの労使関係の基礎となっているのではないか。従って、労使関係において双方の(階級的)利害を越えるものがあり、それに支えられて斗争し、協調する。
多少、美化しすぎている点もあると思うが、それは短期滞在の結果であろうが、少なくともこの点は日本人として大いに学ぶべき点ではなかろうか。

Ⅱ 西ドイツ南部地区
北部ドイツでの3日間の研修は、デュセルドルフにある西ドイツ労働組合本部でのプログラムで終え、13日夕方の便で私たちは南部ドイツのミュンヘンに飛んだ。南部ドイツの空は実に明るかった。それは空だけではなく、人々の気質そのものも北部の理屈っぽさと違ってイタリア人的な明るさが感じられた。ビールの味も飲み方も南部と北部とでは異なっている。ドルトムントではビールは静かにコップに注ぎ、泡が静かに昇り、消えてから静かに飲むべきだと労働組合のリーダーから教えられた。しかしミュンヘンではビールは出来るだけ大きなジョッキーにドッドッドッとぶち込み、泡を上3分の1ほどに盛り上げて、一気にあおるものであるようだ。人々は陽気に歌い、喋り、ビールを飲む。とくに私たちが訪れたのが十月祭のシーズン(9月18日)でもあった関係でミュンヘンの町は各地からの旅行者であふれていた。
ミュンヘンで私たちの世話をしてくれたフック氏(アカデミー主事)は実に要領よく、私たちのサイズに合わせて(30人ではなく、8人の視察団)、スケヂュールを調整し、ミュンヘン労働組合本部での話し合いとシーメンズでの工場見学とに絞ってくれたので、かなり自由時間があり、ミュンヘンでの観光を十分に楽しむことができた。
いま、眼を閉じて西ドイツでの経験を思い浮かべると、すぐに思い出すのはミュンヘン市役所前にある広場のことである。市役所の建物自体が華麗なる中世期のヨーロッパを思わせる佇まいで、壁の全面にところ狭しと天使や聖人たちの彫刻がゴテゴテとあり、中央には正午にオルゴールが鳴り、窓が開いて人形が踊るという有名な仕掛け時計がある。他の三方には近代建築も見られるが、市役所の建物につり合う大聖堂が見える。広場の中央には大きなマリア像があり、その周りには大勢の人たちが何をするともなく座っている。その多くは老人たちである。かなり広い広場のアチラコチラで大道芸人がパントマイムを披露したり、ギターを弾いて歌っている。またクラシック音楽の演奏する音楽家の卵と思われる人がいたりして、それぞれ黒山だかりの見物客を集めている。夕方にはカトリックの神父までが出てきて、マリア像の前でキャンドルを灯し、まじめに晩祷を捧げている。これもかなりの信徒を集め、ついでに献金も集めているようである。
私たちが広場でフック氏を囲んで「ドイツ人とは何か」とか「ドイツにおけるキリスト教とは」などという難しい会話をしていると、それを横で聞いていた高齢の婦人が突然「ミュンヘンはミュンヘンである(Myunhen ist Myunhen!)」などと叫んだりする一幕もあった。フック氏の解説によると、ミュンヘンはドイツにあって、ドイツではない。中世イタリアの文化を維持する独自の都市なのであり、それがミュンヘンっ子の誇りなのだとのことであった。ともかく、これがヨーロッパの「広場」なのである。街に中心があるということはほんとうに羨ましいことである。そこは賑やかな場所ではあるが、決して商業中心の繁華街ではない。歴史的建造物の前ではあるが、決して観光地ではない。人々はそこで楽しく過ごすが、決してゲームセンターではない。町の中心、それは町のハートである。交通機関のターミナルが町の中心なのではなく、ターミナルはハートのために造られている。そこは歴史を現在化し、現在を生活化する場所である。そのような中心が町にあるということはなんと羨ましいことか。
この広場から少し離れたところにホッフブロイハウスという有名なビヤホールがあり、ミュンヘンに来たからにはここを訪れなければ、わたしたちを送り出してくれた方々に申し訳ないと思って全員で出かけた。5000人が一度に飲めるというほどの大きなビアホールもさすがに十月祭ということで、3階まで超満員であった。ここでひるんでしまったら日本人の面子が立たないと、日本人観光客精神に徹して、1階から3階まで上がったり、下がったりして何とか「日本島」を確保して、飲み始めた。やや私たちも気分が乗ってきて、隣で飲んでいる人々の歌に調子を合わせ始めた。ところがどうもフック氏が気むずかしい顔をしている。何か私たちの態度に気を悪くしたのかと心配していると、突然、とうとう我慢の尾が切れたのか、緊張した顔で立ち上がり、少し離れたところで賑やかにしている一団のテーブルに行き、「歌をやめろ」と言っている様子である。後でその理由を聞いて私は吃驚した。何の事はない。彼らが歌っていた歌は「北部ドイツの歌」だからけしからんというのである。ここは南部ドイツであるから南部ドイツの歌を歌うべきであって、北部ドイツの歌をうたうべきではない。しかも彼らはそれを知っていてあえて歌っているのであるから、誰でも彼らにその歌をやめさせる権利がある。私はそのすべての人の権利を代表して、彼らをたしなめたのである、という。私たちは彼らが歌っていた歌が南部のものか北部のものかは知らない。従って、フック氏の忠告後、彼らがそれに対してどういう反応を示したか、細かいことはわからない。しかし、そのことによって少なくとも喧嘩にはならなかったことは確かである。私たちのサイズと状況に合わせてスケヂュールやホテルも変更して柔軟に対応してくれたフック氏に、このような頑固な面があることに驚かされた。
しかし考えてみると、この出来事は私たちにドイツ人における理性主義と民族主義(もちろんここでは北部に対する南部意識)との結合を垣間見せてくれたように思う。しかしこの結合は結合の仕方によっては非常に危険なものになる。理性主義の観念性が民族主義の具体性によって補完されている場合は歴史形成力となる。また、民族主義の偏狭性が理性主義の普遍性よって補完された時には協調世界の形成力になる。しかし、もし、民族主義の偏狭性が、理性主義の観念性によって補強されるとドイツ人の価値観が即世界の価値観となり、ドイツこそ世界の選民というような幻想を生み出すことになる。
ミュンヘンから郊外電車で約1時間半ほど行ったところに、トッツングという小さな村があり、ここの大きな湖のほとりにエヴァンゲーリッシェ・アカデミーがある。フック氏はここの主事である。私たちはフック主事に案内されて、ここを訪問した。おとぎの国のような美しい町、今にも水の精が出てきそうな鮮やかな湖、可愛い王子様が白馬にまたがって飛び出てきても不思議に思わないようなお城がアカデミーハウスである。ここのラッツ所長とは京都で一度お会いしたことがあり、私たちを歓迎してくれた。ここのワインとチーズの味は一生忘れないであろう。
ところでお城がアカデミーハウスになっているということについて考えてみたいと思う。北部ドイツでは先に述べたように私たちはカトリックのアカデミーで宿泊したのであるが、実際に世話をしてくれたのはエスペンホルスト主事が属しているアカデミーもやはり昔はお城であった。また、そこでの最後の夜の晩餐会も元城内のレストランであった。日本のお城とヨーロッパのお城、「城」という社会構造を象徴する建造物を同じ言葉で表現することの方が無理なのであろう。また、同じドイツでも地形、城主の政策、領民との関係、隣接諸侯tpの関係等によって自ずから城というものは異なってくる。ただ、決定的に日本と異なるのは、日本の城は、城として用いいる以外にはせいぜい博物館として用いる以外に役に立たないということであろう。ところがヨーロッパの城は領主が実際にそこに住んでいたのであり、そこには生活があった。だからヨーロッパでは多くの城が城としての役目を終えても、多少の改造をしてホテル、レストラン、博物館として用いられているのである。
お城のこともそうであるが、今度の旅行を通して強く感じたことの一つは、「歴史」ということであった。権力者や諸階級の栄枯盛衰はさることながら、現代が歴史とともに生きているということを強く感じた。それは現在が過去の連続であるということではなく、また単に歴史的遺産を大切にしているということでもない。教会堂の内外に有名無名の諸聖徒の画像を飾り、その中で日常的な信仰生活を営むことによってつねに彼らとの交わりを保っているということが、普通の生活の中にもある、ということである。お城を生活の中に活かすことによって、単にそれを再利用しているというだけではなく、そのお城がもっている過去の歴史と共に現代を生きているのである。そこから逆に、歴史遺産を大切にする心も生まれ、さらに重要なことはそこに生き働いている人々が過去・現在・未来へと続く歴史形成に参加しているという意識がうまれてくるのである。
トッツングのアカデミーの佇まいの中で私はそのことに静かなる感動を覚えた。

最新の画像もっと見る