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ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第20主日(特定24)(2017.10.22)

2017-10-20 08:21:41 | 説教
断想:聖霊降臨後第20主日(特定24)(2017.10.22)

日の昇るところから日の沈むところまで イザヤ45:1~7

<テキスト>
1 主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。
わたしは彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。
扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない。
2 わたしはあなたの前を行き、山々を平らにし、青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り、
3 暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。
あなたは知るようになる、わたしは主、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神である、と。
4 わたしの僕ヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、
わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが、あなたは知らなかった。
5 わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。
わたしはあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった。
6 日の昇るところから日の沈むところまで、人々は知るようになる、
わたしのほかは、むなしいものだ、と。
わたしが主、ほかにはいない。
7 光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。
わたしが主、これらのことをするものである。

<以上>

1.この日の福音書
この日の福音書はマタイ22:15~22で、例の税金問題が取り上げられている。「皇帝のものは皇帝に(カイザルのものはカイザルに)、神のものは神に返しなさい」という問答で、神殿に代表される民族的・宗教的義務と皇帝に代表されるこの世の義務との関係が主題である。イエスの主張はこれら二つの権威は対立するように見えるで、実は対立はしてない、というところにメッセージがあるように思われる。さて、このような議論と今日の旧約聖書のテキスト、イザヤ書45:1~7とがどのように関係するのだろうか。

2. キュロス王
ここでは新約聖書における皇帝と対応するのが、ペルシャ王キュロスという人物である。細かい歴史的経過は省くとして、ともかくキュロスはBC537年にバビロンを滅ぼしてペルシア帝国を樹立した。そして、その翌年「キュロスの勅令」と呼ばれる解放令を発表した。これは古代社会では画期的な内容であった。これまでの古代帝国では支配されている民族の自治権はほとんど認められず、宗教も文化も根こそぎにされるのが普通であった。バビロンなどはその典型で、そのために、占領した国を壊滅するために、その民族の指導層や労働力として役に立ちそうな人びとを捕虜として本国に連れ帰ルのである。それがいわゆる「捕囚」ということである。(第2次世界大戦のあと、進駐軍(GHQ) の指令により日本の指導層のかなりの部分がいわゆる公職を追放された。これも、戦勝国の敗戦国に対する一種の「捕囚」であろう。あるいは中国大陸において多くの日本人がシベリアに送られて強制労働させられたうえ、思想教育も何された。これこそまさに「捕囚」であった。)
捕囚ということは何もイスラエルの民だけになされたことではなく、バビロンに支配されたすべての民族に対してなされた筈である。それが、戦勝の証しであった。しかしバビロンを滅ぼしたペルシア帝国ではそれぞれの民族の宗教や文化を認め、一定のルールの下に自治権を認めるという政策がとられた。もちろん、それは何も「人道的見地」からというわけではなく、支配を永続化するための支配の方法に過ぎなかった。しかしペルシャの捕囚民に対する開放政策は古代社会においては画期的なことであった。
キュロスの勅令が歴代史下36:23に記録されている。「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属している者はだれでも、上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように」。この文章がそのままキュロスの勅令そのものとは思えないが、少なくともイスラエルの人々はそういう風に理解した。ともかく、この勅令に基づいて、イスラエルの人々は捕囚から解放されて祖国に帰ることができた。

2. 「油注がれた人」
さて、本日のテキストで先ず注目すべき点は、このペルシアの王キュロスに対して、預言者が「油注がれた人」という称号を付加していることである。この「油注がれた人」とは、「神から選ばれた救済者」を意味する。文脈によっては「王」という意味を示したり、「救い主」という意味になる。つまり旧約聖書においては非常に重要な役割を示す言葉であり、事柄である。イスラエルの歴史において最初の王サウロは預言者サムエルによって選ばれ、王として「油を注がれた」。その次の王ダビデも同様である。「油注ぎ」という儀式は王だけではなく、預言者にも祭司にも適用された。この「油注がれた人」という言葉が救い主を意味する「メシヤ」という言葉の語源である。つまり新約聖書の「キリスト」という言葉はヘブル語の「油注がれた者(メシヤ)」のギリシア語訳である。
さて、こういうイスラエル人にとって重要な言葉を、ペルシアという異国の王キュロスに適用することは、ただごとではない。と、思うのは「キリスト」という称号に異常なほどの尊厳を与えてきたキリスト者のこだわりなのかも知れない。むしろ旧約聖書を残した人々は「メシヤ」という言葉をもっと自由に使っていたのかも知れない。

3. 旧約聖書と世界史
個人的なことになるが、子どもの頃から旧約聖書を読んだり、そのお話を聞いて育った私にとって、「ペルシア王キュロス」(歴代誌下36:20)の登場には強烈な思い出がある。旧約聖書の英雄たちのお話しを「歴史」として聞いていた少年にとって、高校生になるまで一つの「ひそかな」疑問があった。「ひそかな」という意味は、ある種の「秘密」、ないしは「恥ずかしさ」を含むものである。それは、私の家庭内で語られる古代史における「世界的な出来事」と学校の世界史で学ぶ古代史とのギャプである。我が家では普通に語られている、アブラハムやヨセフやモーセやダビデやダニエルなど「世界」を揺るがすような英雄たちが、学校での古代史に少しも登場しないのは何故かという疑問であった。旧約聖書で描かれているイスラエルの歴史は、世界史の中でどういう位置づけがなされるのか。そういう幼稚な疑問に対して「ペルシア王キュロス」の登場は、旧約聖書と世界史とを結ぶ接点となった。
私の幼稚な思い出に耽るためにこれを語るのが目的ではない。いろいろな議論があるが、それらをすべて省略して、結論だけを述べるとを、ここにはイスラエル人がペルシアのキュロス王に「メシヤ」という称号を与えることによって、確かに旧約聖書のイスラエル史が当時の地中海世界に結びつけられている。

4. グローバリズムということ
最近、いろいろなところで「グローバル」という言葉を聞く。特に経済の世界ではかなり以前から「資本は国境を越える」ということが語られ、事実「多国籍企業」ということが現実化している。日本の経済などはまさにその恩恵を受け、また同時に被害も受けている。今や、どこの国も民族も単独で何かを決めたり、活動することはできなくなっている。中国だって、北朝鮮だって同じである。それは、単に経済の領域だけではなく、ほとんどすべての領域において「グローバル化」ということは現実化している。この場合の「グローブ」という言葉は「球体」を意味し、「全地球的」という内容を指す。それは、以前なら「国際的」とか「世界的」という言葉を用いていたが、それらの言葉がかなり「制限された全体」を意味していることが明白になってきたので、その「制限」を取っ払う意味で「グローバル」という言葉が用いられるようになってきた。

5. 民族主義と世界観
さて、「旧約聖書の世界」という場合、それはイスラエル民族を中心とし、それとの関わりがある範囲の世界という意味であり、非常に狭い範囲の出来事しか含まない。たとえ、エジプトが出てきても、バビロンが登場しても、それはあくまでもイスラエル民族との関わりの範囲である。その範囲の「世界認識(世界観)」でイスラエル人たちは生きていけた。日本人だって、明治時代までは、さらに厳密に言うならば日露戦争の頃まではそれでやっていけた。ところが、日露戦争に「勝ってしまって」から、国際列強との関係が密になってくると、それではやっていけなくなってしまった。こちらから「見ているだけ」の世界ではなく、世界から「見られている」という関係である。当然、国際的感覚というものが必要になり、大正時代以後の日本人の「世界観」は確かに変わってきた。
イスラエルの場合は、バビロンの捕囚まではイスラエルの民族意識だけで何の不自由もなかった。ところが、民族が根こそぎバビロンに移されると、そうはいかなくなり、だんだんと世界観が変わってくる。言うならば、バビロン世界とイスラエル民族との関係についての明白な意識が必要になってくる。この場合のバビロン世界とは「全世界」を意味する。とりあえず、そこでは、神は「イスラエルを懲らしめる為に用いられる異民族」としてのバビロンという程度の理解で何とか関係づけることができた。この範囲では、「世界」という観念はまだ未熟で、「世界」というよりもむしろ「すべての異民族」という言い方の方がふさわしいであろう。今日のテキストで言うと、6節の「日の昇るところから日の沈むところまで」が全世界であった。つまり「見ている世界」である。

6. 「世界意識」の成立と変化
ともかく、狭いパレスチナという「世界」で生きてきた人々が、突如バビロンという当時の国際社会の中に連れ出されたのである。当然イスラエルの人々の「世界観」は変わる。捕囚の期間は歴代誌下36:21で、わずか「70年間」ということになっているが、実際はBC597年からBC538年までの約60年である。しかしこの期間は当事者たちにとっては決して「わざかな期間」ではない。バビロンで誕生した人々、つまり故郷であるパレスチナの風土を知らない、またイスラエル民族の伝統的な生活習慣から切り離された環境で生まれ、育った人々が、もう60歳台であり、捕囚三世がイスラエル人社会の中心になっている。バビロンに捕囚された人々の意識が大きく変化するには十分な期間である。
捕囚一世の世代の人々は、バビロンという国を「神の刑罰の執行官」として絶対化していた。しかし、捕囚二世の人々にとっては、必ずしもそういう認識ではあり得ない。バビロン人の生活と意識とが、自分たちとは異なるということを認めつつも、それを相対化する視点が育つ。当然、神と世界との関係についても新しい理解が求められる。長い話しをはし折って結論を述べると、「イスラエルにのみ働きかける神」から「世界へ働きかける神」、「われわれの神」から「世界の神」へと発展する。われわれの神は世界に働きかけ、世界を支配する神でもある。このような神と世界との認識の変化が、バビロンを滅ぼしてイスラエルを解放した新興勢力ペルシア王キュロスを「メシヤ」と呼ぶ意識の背景となったものと思われる。

7. イザヤ書45:1~7
本日のテキストは、伝統的にイスラエルの民が持っていた信仰が、この新しい状況にぶっつかった時に発する火花である。「主が油を注がれた人キュロス」(1節)なんと大胆な言葉であろう。これまでのイスラエルでは考えられないような発言である。ここには狭い伝統的な民族主義は吹っ飛んでしまっている。そして、今、強大な力で地中海世界、彼等の言葉でいうと「日の昇るところから日の沈むところまで」に君臨するペルシャ王キュロスを「(われわれの)メシヤ」と呼ぶ。イスラエルの神が彼を救済者にした。しかしキュロスはそのことを「知らない」という。4節、5節の「あなたは知らなかった」の「あなた」とはキュロス王を指す。彼がそれを知っているか、知らないか、そんなことは関係ない。ここでは2回もキュロスはそれを知らないという言葉が繰り返されてる。キュロス自身はそれを知らなくても、イスラエルの神はキュロスを王とした。イスラエルを回復するためにキュロスをメシヤとした。やがて、キュロス自身もそれを「知るようになる」、という。実際、キュロスがそれを「知るようになった」とは思えない。しかし、それも問題ではない。重要なことは、イスラエルの民はすべて、「それを知るようになる」という点である。

8.グローバリズムということ
旧約聖書のこのテキストの中に、現代の私たちが抱えている問題のすべてを解決するメッセージを読み取ることは無理であろう。しかし、その問題意識と方向性とを解読することぐらいは可能である。今、私たちが抱えている問題、それは「グローバリズム」という名前の「新装民族主義」である。「我ら地球人」と言い換えたらわかるであろう。私たちは「地球人」という一つの民族主義がグローバリズムの実態である。そこでは、「神」は「私たちの神」であっても、「彼らの神」ではない。「私たちの世界」の中に「彼らの居場所」はない。もっとはっきり言うと、グローバリズムの中には「彼等」はいない。全人類がすべて「私たち」である。昔、笹川良一という右翼の大物政治家が居て、彼が日本中に「人類は皆、兄弟」という看板を出しまくっていたが、これこそ「彼等の居ないグローバリズム」である。また「新自由主義経済」という言葉があり、資本は国境を越えるということで、世界の経済支配が浸透している。それも、そこには「あなたの国」もなければ「彼等の国」もなく、すべてが「私たちの国」である。一見すると、美しい国際主義、世界は一つという理想のように見えるが、実は国籍を超えた一部の金持ちたちが、地球世界を支配するという構造になっている。このところ静かになっているがTPP(環太平洋パートナシップ)がかなり騒がれた。これこそ自由貿易という名による、強大国が弱小国の経済を丸呑みする新自由主義経済の典型である。事実、それが利益にならないと知ったとき、アメリカはさっさとTPPから身を引いてしまったではないか。これがいわゆるグローバリズムの実態である。
しかし、真のグローバリズムとは、そんなものではないであろう。もし、これが強大国ペルシャが打ち出したならば、強大国による弱小国の支配であるが、弱小国の典型であるイスラエルにおける思想である。キュロス王は「それを知らない」という。いわば、滅ぼされたユダヤ人社会から出て来たグローバリズム、それは「私たちの神」が、「彼等に働きかけている」ということの告白である。私たちの神がキュロス王やペルシャ帝国を支配し、彼等の神になるというわけではない。彼等は彼等としてそこに厳然と生きている。その彼等に「私たちの神」が働きかけているという認識である。
真のグローバリズムは原初的な民族主義を跳躍板(スプリングボード)として、それぞれの民族を相対化する視点から生まれる。それぞれの民族が一つの全体を構成する部分であることを認識し、民族性を1人称の民族性(私たち)を大切にすると同じように、3人称の民族(彼等)も大切にすることによって、初めて真のグローバリズムは生まれる。そのとき初めて私たちは、私たちに語りかける神は同時に「日の昇るところから日の沈むところまで」(6節)、すべての民族へと働きかけている神が見えてくる。

《我は知る昔も今も永久(とこしえ)まで、我らの神は世界の希望》

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