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聖霊降臨日に思うこと

2014-06-06 21:38:51 | 説教
聖霊降臨日に思うこと
私がこれまでに行なってきた聖霊降臨日の説教を、並べてみると、実にいろいろなことを語ってきたと思う。
最も新しい聖霊降臨日の説教は2011年6月12日に行なっている。その年は年間を通じて詩編を取り上げており、詩編104編をテキストにして「あなたが息を送られると」と題する説教をしている。聖霊降臨日に何故詩編104篇が取り上げられているのかということから、「神の息」ということを語っている。
その前前年、つまり2009年5月31日には使徒言行録2:1~11をテキストにして、「約束された聖霊」という題で共に喜ぶということを中心としたメッセージを語っている。
2008年5月11日には、ヨハネ福音書20:19~23をテキストにして「教会というところ」と題して話をしている。この時の中心メッセージは2つあって、一つは教会とは癒しのスペースだということ、もう一つは教会は派遣する場だということだった。
2007年5月27日、には旧約聖書のヨエル書3:1~5をテキストにして「聖霊経験とは何か」ということを語っている。これはヨエル書3章の説教ということで、いわば聖霊降臨日の伝統的なメッセージであろう。この年の3月に定年退職し、九州に転居し、九州教区で迎えた最初の聖霊降臨日で、かなり気負った説教をしている。

さて、私の手元に残っている最も古い聖霊降臨日の説教は1985年5月26日に聖アグネス教会で行なった説教の原稿である。その頃からワープロからパソコンに切り替え始めたので原稿が残っている。説教題は「生活の中の神」であった。私自身はこの時の説教が最も想い出深い。その前年の4月に四日市聖アンデレ教会から京都の聖アグネス教会に転勤し、その年の聖霊降臨日は教区主教が司式・説教を担当し、私はその補佐をした。従ってこれが京都での聖霊降臨日の最初の説教ということになる。(当時、私は説教の原稿を「です、ます」調で書いていたようです。ここではそのままにしておきます。)

聖霊降臨日 「生活の中の神」

1.前置き
先主日はアジア・サンデ-ということで、アジアの状況の中での福音理解ということに焦点を合わせ、いわゆるキリスト教世界でのキリスト教の在り方について、批判的なお話をいたしました。福音というものと文化とを無自覚的、無批判的に統合して捉えてしまうと、キリスト教の本質が見えなくなってしまうということが一つのポイントでした。つまり文化というものは周辺を自分の中に取り込み、自己を拡大しょうといたします。この性格と福音の宣教意欲とが一致いたしますと、非常に危険なものとなってしまうということで、欧米のキリスト教はこの落し穴にはまってしまったということを批判いたしました。
とわいえ、やはり本場のキリスト教といいますか、欧米のキリスト教にはかなわないと思うことの方が多いいことも本当です。キリスト教信仰が身についているというか、信仰と生活とが一つになっている姿を見ると、私たち非キリスト教世界に生きる者にとってはかなわないと感じます。
欧米のキリスト教と比べて、日本のキリスト教で最も弱い点は聖霊論だと思います。次の主日は「三位一体主日」ですが、三位一体の神の中での聖霊というようなことを論じても、「父なる神」「子なる神である」については何とか理解できたとしても、聖霊ということになると何かモヤモヤしてわけがわからなくなるのが正直なところでしょう。ですから聖霊降臨日はあまり意識されず、聖霊を強調しますと、すぐに狂信的になったり、カリスマ的になったりいたします。私自身は聖霊とは三位一体論などで難しく議論してわかるというような神ではなく、「生活の中の神」だと思っています。その意味で、次のマザ-グ-スの歌をききますと、聖霊降臨日が生活のなかに溶け込み、クリスマスやイ-スタ-と同じように日常生活の中に生きているということを感じます。
                                                     
2.マザーグースの歌
<聖霊降臨日が晴れると豊年、聖霊降臨日の雨はワインを祝福し、聖霊降臨日がじめじめすると、クリスマスは盛大になる。>
御承知のようにマザ-グ-スの歌は、イギリスの子どもから老人まで全ての人々に親しまれている民俗的な歌で、彼等の歴史、生活等が歌い込まれています。この歌でもイギリス人が一年のうちのこの季節に何を考え、何を心配しているかが、聖霊降臨日に因んで語られています。これは日本でも同じことで、やはり今年の収穫やワインの出来が心配なのでしょう。とくに、農村では天候に支配される要素がおおく、しかも天候は自分たちの能力をこえ、どうしても「あなた任せ」つまり神様次第ということなのでしょう。日本でも梅雨の季節に雨が少ないと心配ですし、昨年などは琵琶湖の水位が異常に低下し私たちをはらはらさせました。ですから新聞などでもこの時期になりますと、天候の長期予報などを発表したりなどいたします。天候が私たちの日常生活を支配している度合いは非常に高いのに、そのことと信仰とを結び付けて祈るということに、私たちは何か抵抗を感じます。天地万物をお創りになった神様は今日の天候などには関わらないのだろうか。
このマザ-グ-スの歌には天候を支配し、その年の収穫を決め、さらには私たちの日常生活を采配する神様として聖霊が歌われています。聖霊とは「生活の中の神」なのです。日常生活の中で最も基本的なことでありながら、しかも私たち自身でどうにもならないことを支配している神、私たちがなにか重要な事を決断しようとする時に、私たちの思いをいろいろと指導する神、それが聖霊なのです。

3.パウロにおける「生活の中の神」
使徒パウロは「生活の中の神」として聖霊の導きということを、非常に重要視いたしました。使徒パウロは第二次伝道旅行の時、前回まわった地域より少し大きく回ろうといたしまして、ルステラという前にも一度来たことのある町までやって来ましたところ、「アジアで御言を語ることを聖霊に禁じられたので」予定を変更して、ガラテヤ地方に向かったとあります。(使徒言行録16:6) 聖霊に禁じられた、ということが具体的にどうゆうことなのか、はっきり分かりませんが、おそらくそちらの方に向かうことを躊躇させる何か具体的な兆候があったのだと思います。同じようなことが次の滞在地でもおこり、とうとうアジアの西端トロアスまでやって来てしまいます。ここで彼はあの有名な「マケドニア人の叫び」という幻を見て、エ-ゲ海を渡り、キリスト教はヨ-ロッパに伝えられます。
使徒パウロは聖霊の導きということ、聖霊の禁止ということを具体的な毎日のスケジュ-ルの中で捉えていました。私たちはややともすると、聖霊の導きということを何か異常な体験のように考え、私はそんな体験をしたことがないなどと思っているのではないでしょうか。それは明らかに間違いです。今日誰かに出会って心が動かされたとか、何かそのことをするのに気がすすまないとか、自分自身の心と状況とを見極める時に、聖霊の導く方向というものが見えてきます。

4.イエスにおける「生活の中の神」
そのことについて、主イエスは面白いことを語っておられます。ある時、パリサイ派とサドカイ派の人々が連れだって主イエスのところにやつてまいりまして、「天からのしるし」を見せてもらいたいといいました。いわば生活の中での神様の働きを、目に見える形で見せてくれ、というわけです。その時、主イエスは「あなた方は夕方になると、『空がまっかだから、明日は晴れだ』といい、また明け方には『空が曇ってまっかだから、今日は荒れる』というではないか。あなた方は空の模様を見分けることが出来るのに、時のしるし、つまり生活の中での神様の働きが見えないのか」とおっしゃいました。
イギリス人は聖霊降臨日にその年の収穫を予想し、ワインの出来を語り合い、さらには聖霊降臨日とクリスマスとを結び合わせ、その年の神様の導きを祈ったのでしょう。それがどれほど本気であったか、おそらくお愛敬であったに違いありません。しかし、そのことの中に見落としてはならない一つの生き方が見えてきます。日常生活の中で最も基本的なことでありながら、しかも私たち自身でどうにもならないことを支配している神、自分の意志を決定しようとする時に、私たちの思いをいろいろと指導する神として、聖霊なる神様が生活の中で働いておられるという信仰です。(1985.5.26)

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