ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 10/26

2015-10-28 09:40:05 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。聖書を読むこと、説教の準備、過去の説教の整理。昼寝1時間。釣川堤防散策。夜、「下町ロケット」「林先生の初耳学」を途中まで見て11時に就寝。6時起床。体調・快調。チュン、チュン。
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村田 多鶴子 おはようございます~♪ 今日も、守られて、ご夫妻共々穏やかなよい時間をお過ごしになられますようにm(__)m

藤木 冨士子 おはようございます。

播 稔 下町ロケットは、面白い。
posted at 06:16:17


文屋 善明
10月26日 7:00 ·
今日の名言:@gorohani
戦争は、今の君の心が起こすのだ。多くの人が平和を望んでいるに違いない。戦争はいやだ、あんな悲惨な思いをするのはもうたくさんだ、と思っているのだろう。それでも、戦争は君の心から起こるのだ。(羽仁五郎)
<一言>この人は天才的なアジテーターで同時に冷徹な人だ。
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植村 光郎 懐かしい名前を聞きます。羽仁五郎は、前大戦中、獄中にありながら、検事・取調官に明治維新評価について講義をしたというう伝説があります。60年安保の思想的な柱の一人であり、日本共産党からもとっも嫌われた革新派歴史学者の一人でした。懐かしい名前です。

文屋 善明 私は70年安保の頃、確か『都市の論理』だったかを読みました。「婦人の友」、自由学園の創立者、羽仁もと子の息子で、元参議院議員。妻は婦人運動家、仁説子、羽仁進は息子です。

中野 芳夫 私も「都市の論理」を大学生の時に読んで感銘を受けましたが、入社試験で愛読書を聴かれて「都市の論理」とは言えなかった苦い思い出があります。

高橋 徹 今の面接では愛読書を聞いてはいけないと言われます。

文屋 善明 馬鹿げていますね。その人のことを知る最善の方法だと思いますのにね。

堀 俊明 京大バリケードの中に乗り込んできた時を思い出しました。
posted at 07:00:15


「昨日のツイート 10/24 グリーンパークのバラ園」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/d6dcdd69c3dc8a604dd3ec283a516e1…
posted at 08:43:12


文屋 善明
10月26日 6:55 ·
お目覚めの花。「さぁ、新しい週が始まりました」「今週は何かがはじける予感がします」。
文屋 善明さんの写真
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文屋 善明
10月26日 6:53 ·
2015日々の聖句 10月26日(月)
神は、わたしの労苦と悩みを目に留められました。(創世記31:42)
マリアの言葉「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」(ルカ1:46~48)
私の黙想:
今日の聖句のポイントは「神は目を留められました」である。この言葉口語訳では「顧み」である。この言葉一見平凡に思うが、実は旧約聖書では「カギ」とも言うべき重要な言葉である。口語訳で数えると、102回も用いられている。ところが新共同訳では約半分の61回。特に重要な箇所は、例えば、創世記4章のアベルとカインの供え物について、神はアベルの供え物を顧みたが、カインの供え物は顧みられなかった。これを新共同訳では「目に留められ」という言葉に変えている。創世記におけるヨセフ物語の最後でヨセフの言葉として「神は必ずあなたがたを顧みられる」(50:25)と言う。出エジプト記2:25「神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」。これがあの出エジプトという大事件の始まりである。
フランシスコ会訳ではこの言葉を単に「見て」と訳しているが、新改訳ではちゃんと「顧み」と訳している。私はこの言葉がヘブル語原文でどうなっているのか分からないが、日本語聖書を通して同じ言葉が繰り返し用いられていることを大切にしなければならないと思う。勿論「目に留める」という言葉も悪くはないが。本日の新約聖書の言葉でも、文語訳では「顧み」という言葉が使われているが、口語訳では「心に掛ける」という訳語が用いられている。
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清水 行雄 おはようございます。先生の黙想を読んでいると、共同訳は口語訳より後退したかの印象を受けます。単なる感想に過ぎませんが。

文屋 善明 明らかに後退しています。失敗作と見てもいいと思います。

門叶 国泰 原文は「見る:主の山に備えあり」です。

文屋 善明 「顧みる」という言葉の原語が、ただ「見る」だとすると、創世記4章の「顧みる」「顧みない」との関係はどうなるのでしょうね。ヤハウェはカインの供え物を「見た」けれど「顧みなかった」。ヘブル語が読めない人間の限界です。

門叶 国泰 創4:4,5には「シャーアー」が使われていて、原意は文字通り「gaze at,regard」です。創50:25は「パーカド」の強調形で原意は「visit,muster」。夫々に思いが込められているのではないでしょうか。BDBは、詩8:5「パーカド」に「ラーアー:見る」という意味を含ませています(with providence)。(詳しく調べたことはありませんので・・・)

文屋 善明 成る程、よく分かりました。原文では異なる単語なのですね。ありがとうございます。


文屋 善明
10月26日 8:12 ·
今朝の「天声人語」はなかなか読ませる。
「政治的」なものの忌避(2015年10月26日)
「政治的」という形容語がある。私たちの日常会話でも、人を評するのに「彼は政治的だ」などと使う。手元の辞書に「かけひきが上手な」という語釈があるが、油断していると丸め込まれそうな人、というニュアンスもにじむ。
「『政治的』という語が、今日ほどわるい意味に用いられる時代もない」。政治学者の故永井陽之助氏がそう書いたのは、半世紀近く前のこと。政治は薄汚い。関わりたくない。人々に巣くう政治不信の深刻さの指摘だ。今はどうだろう。
関わり合うのを避けたいという点では同根か。「安保関連法に反対する学者の会」が、主催するシンポジウムを立教大で開こうとしたところ、講堂の使用が許されなかった。大学側は「会合は政治的意味も持ちうる」と指摘したと報道されている。
「政治的」なものの忌避と見える事例が続く。放送大は、試験問題に含まれていた政権批判の文章を削除した。これらはかつての政治不信というより、安倍政権に対する忖度に由来しているかと思える。
学者の会のシンポは昨日、法政大で催された。政治学者で同大の山口二郎教授は、社会の中の「横からの」同調圧力に注意を促した。それは自由への脅威だ、と。
触らぬ神にたたりなしを決め込んでも、政治の方は私たちを放っておかない。したい放題をされて困るのは私たちだ。立命館大2年で安保法に反対する学生グループの大澤茉実さんが、シンポで鋭く発言した。「空気を読んでいては、空気は変わらないんです」。
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植村 光郎 ノンポリと言う古い言葉がありました。

文屋 善明 三木清は、教養とは政治的教養を意味するといいます。政治的でないのは、教養がないと言うことです。これは大学教授も牧師も同じです。政治について語れないということは無教養という意味です。それは西欧ではギリシャ時代から、アジアでは孟子・孔子の時代からです。

水草 修治 「三木清は、教養とは政治的教養を意味するといいます。」この指摘、はじめて知りました。

文屋 善明 私が先日ブログに挙げた『知識階級と政治』で論じています。「知識階級」という言葉には多少抵抗感がありますが、それも時代の問題でしょう。http://blog.goo.ne.jp/・・・/e/4f67df168e2a514917b699856a4fc566

三木清『知識階級と政治』 - ぶんやさんち
BLOG.GOO.NE.JP

水草 修治 「西欧ではギリシャ時代から、アジアでは孟子・孔子の時代から」というのは確かにその通りですね。
件の文章は、青空文庫にありませんね。全集でしか読めないみたいですね。
三木清で読んだといえば、読書と人生、哲学ノート、パスカルにおける人間の研究、人生論ノートといった文庫だけです。若い日のことです。

文屋 善明 青空文庫にない作品で重要なものを出来るだけテキスト化して、ブログに挙げたいと思っています。これは全集の第15巻に掲載されています。

水草 修治 これはありがたいことです!

文屋 善明 立教大学は朝日の「天声人語」にまで書かれて、自らの「政治性」を暴露してしまいましたね。

播 稔 空気は意識しないで吸ったり吐いたりする。あまり神経質になると木を見て森を見ずになりかねない。

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