博文(ひろぶみ)通信

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15代目窯元

2014-07-22 21:43:52 | 日記

<河北新報オンラインニュースより>

フクシマ 造る/避難先で窯を再建、浪江の伝統守り抜く/近藤京子さん=福島市                                  

 2011年4月下旬、福島第1原発事故で福島市に避難した。原発事故から1カ月余り。6畳二間のアパートは窮屈だった。炊事と洗濯くらいしかやることがない。気がめいった。
 「もう一度、窯を持ちたい。何としても」
 先行きは見通せない。家族は反対したが、じっとしていられなかった。
 福島県浪江町に伝わる大堀相馬焼の窯元「京月窯」の一人娘として生まれた。父が14代目。江戸時代から350年続く。若いころ、その歴史がやけに重く感じられた。陶芸にも興味は持てなかった。
 「実家にいたら継がされる」
 高校卒業後、実家を抜け出すように愛知県の専門学校に進んだが、卒業と同時に呼び戻された。窯で陶器のうわぐすりを塗る作業を任された。
 遊びたい。おしゃれもしたい。何より父と同じ空間にいつも一緒にいるのが嫌だった。逃げ出す方便ばかり探していた。
 町の宿泊施設に就職。出会った男性と結婚したのは26歳のとき。だが、夫と同じ職場で働くのははばかられた。家業を継いだのは、そんな理由からだった。
 大堀相馬焼は器全体に広がる青いひびと、走り馬が特徴だ。
 「やるなら自分の色を出したい」。淡いピンクにブルー、グリーン。うわぐすりの調合を独自に学んだ。
 「どうしたら若い人に手に取ってもらえるだろうか」。自問を繰り返す。自分しか出せない色合いに挑戦した。いつの間にか、陶芸にのめり込んでいた。
 父が00年、脳梗塞で倒れ、第一線から退いた。窯を仕切るのは自分だけ。四季折々の風景や草木をモチーフにした女性らしい作品造りに没頭した。「15代目」を自覚し、軌道に乗っていた。原発事故さえなければ。
 放射能は窯の里にも降り注いだ。窯も、土の匂いも、常連客が集う空間も一変した。避難生活で募るのは、むなしさばかり…。
 11年8月、福島市に空き家を見つけた。すぐ窯の再建に取りかかった。年末、火入れにこぎ着けた。
 「京子ちゃんはいいよね、再開できて」
 25ある窯元のうち、再開は最も早かった。仲間の一部はうらやんだ。大堀地区は放射能の通り道。長期間、帰還できない。どこの窯も跡継ぎに困っていた。必死だ。
 「みんなの気持ちは分かるから…」。そうしか言えなかった。人目を忍んで、一人泣いた。
 作品を棚に並べ、ギャラリーを開くと、浪江のなじみ客が訪ねてきた。
 「この器懐かしいね」
 「浪江を思い出すね」
 町民の憩いの場になると、父も店に顔を出すようになった。避難直後、一日中押し黙っていることが多かった父。最近は口数も増えた。
 「もう、お父さんは引退してよ」。馬の絵付けを手伝う父に、軽口も言えるようになった。
 「親の敷いたレールには乗りたくない」が若いころの口癖だった。いま歩く道は自分で選んだと思っている。(桐生薫子)

 

福島市に再建した窯で大堀相馬焼の作品造りに没頭する近藤さん。
ブルーやピンクの鮮やかな陶器が並ぶ