11. 先祖供養
先祖に対してずっと供養を続けて祀らなければ、祟ったり家の中に悪い事が起こるなどと考える人もいるようですがそんなことはありません。
彼らは法要をするしないに関係なく帰りたければいつでも帰ることが出来ます。
時々帰ってきているはずですが家族は誰も気が付かないだけなのです。
それも家族との間に愛が無ければ帰ってくることはないでしょう。
家や土地にもすでに興味はありません。
私の家を例にとってみると私の祖父は今までに一度も現れたことがありません。
私は子供の頃よく祖父にたてついて叱られたものです。
死んだらお前に取り憑いてやる(今思えば認知症になっていた)とまで言われました。
子供心に取り憑かれたら恐ろしいなと思っていましたが、全くそういうことはありませんでした。
一方祖母はたまに現れますが、無言で唯そこにいるだけという雰囲気です。
前に私の娘はドアのところからこちらを見ていた祖母を目撃しています。
これらの事を考えてみるとその家の先祖がいつまでも家や家族のことにこだわっているということは極めて稀なことではないかと思います。
今そこで生活しているあなた達(私達)が良いと思うようにすればよろしいという雰囲気です。
さらに遠い先祖はすでに価値観の違う世界にいてこの世の事は記憶も薄れ、関心がなくなっているのです。
先祖も私達も一時期を地上の世界で暮らしますがその地上生活が同じ場所であったということで、それは永遠の人生という視点から眺めると極めて短い期間です。
肉体的な家系というものは遺伝していきますが、各個人に宿っている霊は親子といえども実際は別のところから来ているのです。
ですから先祖に対していつまでも法要をしたり供養を続けないと罰が当たるなどと考える必要はないのです。
あちらはあちらで忙しくしているのですからそういう暇があったら自分自身の向上を考えるべきでしょう。
それが本当の先祖供養というものでしょう。
他界した人達は霊界主導であちらのルールで進歩成長していきますから私たちに出来ることは殆どないのです。
考えてみればわかるように霊界に行った人達は我々よりはるかに進歩しているのです。
地上世界は一番低いところです。
高い所にいる世界の人達に対してこちらの世界から指導や導きのようなものが出来るわけはないのです。
小学生に大人の指導は出来ないという事です。
実際は私の父のケースのように(時々私に指導が来る)地上の親族はあちらから指導されているのです。
あまりこういうことを言えば熱心に先祖供養を勤めている人達からお叱りを受けるかもしれませんが霊的事実、生命の進化向上という観点から見ればそういうことになるのです。
仏壇がある家庭が多いと思いますが、そこで手を合わせる場合は先祖に対して感謝の気持ちを表すことで十分だと思います。
読経をするならばその中に感謝の念をこめることでしょう。
我々がもし先祖の誰かを救済出来るとしたら自分の死を自覚出来ない人がいる場合です(それは先祖というより最近他界した人)。
そういう人に愛の念を送ったり、霊的真理を語って聞かせることくらいでしょう。
彼らは一時的にさまよっていたとしても
時期が来れば指導霊に導かれていくようになります。
結局あちらの事がわかっていない私達が出る幕は殆どないのです。
他界した人たちが赴く環境を検証してみましょう。
数々の霊界通信を通じて次の事が明らかになっています。
霊界では新参者(最近死んだ人)を迎える為の様々な施設が整っています。
病院や保養施設がありそこでは かつて医療機関で働いていた人たちがあちらの環境に慣れるまで色々と世話をしてくれます。
例えば事故等で急死した人はそのショックが収まるまで寝かされます。
心にトラウマのある人は手厚いケアーがなされます。
図書館や劇場などの文化施設や娯楽施設もありおよそ地上にあった殆んどのものがあります。
何故ならこの世はあちらの写しでありオリジナルなものは霊界にあるのです。
新参者は落ち着いた後にそういう環境で心ゆくまで楽しむことが出来ます。
9.「霊界の旅立ち」であちらの環境について言及しています。
これらの事を考慮すると私達地上の人間があちらの人を供養するということの意味は何かを考え直してみる必要があるでしょう。
私たちの出る幕は殆んどないという意味はそこにあるのです。
法要を例にとれば家で型通りの儀式をした後、マイクロバスで墓地に移動、墓参りをしてホテルで会食をするのがお決まりのパターンでしょう。
酒を飲んで世間話をして引き出物を下げて帰る。
こんなところでしょうか。
法要の席では居眠りをしている人をよく見かけます。
故人の事はどこかへ忘れ去られています。
当時者(他界者)は嬉しいでしょうか?
これで空しさを覚えることがないとしたら悲しい事です。
日本では仏教と言えば先祖供養ということになっています。
本来の釈迦の仏教は人の生きる道を教えるものでしたが中国や韓国を渡って日本に伝来する間に儒教の影響を受けて独特なものになりました。
日本に古来からあった祖霊信仰とも結びついて奇形的な仏教になってしまったのです。
大半の人は仏教について深く考える事もなく、昔から続いてきた因襲を守り続け、それが仏教だと思っているようです。
先祖に対してずっと供養を続けて祀らなければ、祟ったり家の中に悪い事が起こるなどと考える人もいるようですがそんなことはありません。
彼らは法要をするしないに関係なく帰りたければいつでも帰ることが出来ます。
時々帰ってきているはずですが家族は誰も気が付かないだけなのです。
それも家族との間に愛が無ければ帰ってくることはないでしょう。
家や土地にもすでに興味はありません。
私の家を例にとってみると私の祖父は今までに一度も現れたことがありません。
私は子供の頃よく祖父にたてついて叱られたものです。
死んだらお前に取り憑いてやる(今思えば認知症になっていた)とまで言われました。
子供心に取り憑かれたら恐ろしいなと思っていましたが、全くそういうことはありませんでした。
一方祖母はたまに現れますが、無言で唯そこにいるだけという雰囲気です。
前に私の娘はドアのところからこちらを見ていた祖母を目撃しています。
これらの事を考えてみるとその家の先祖がいつまでも家や家族のことにこだわっているということは極めて稀なことではないかと思います。
今そこで生活しているあなた達(私達)が良いと思うようにすればよろしいという雰囲気です。
さらに遠い先祖はすでに価値観の違う世界にいてこの世の事は記憶も薄れ、関心がなくなっているのです。
先祖も私達も一時期を地上の世界で暮らしますがその地上生活が同じ場所であったということで、それは永遠の人生という視点から眺めると極めて短い期間です。
肉体的な家系というものは遺伝していきますが、各個人に宿っている霊は親子といえども実際は別のところから来ているのです。
ですから先祖に対していつまでも法要をしたり供養を続けないと罰が当たるなどと考える必要はないのです。
あちらはあちらで忙しくしているのですからそういう暇があったら自分自身の向上を考えるべきでしょう。
それが本当の先祖供養というものでしょう。
他界した人達は霊界主導であちらのルールで進歩成長していきますから私たちに出来ることは殆どないのです。
考えてみればわかるように霊界に行った人達は我々よりはるかに進歩しているのです。
地上世界は一番低いところです。
高い所にいる世界の人達に対してこちらの世界から指導や導きのようなものが出来るわけはないのです。
小学生に大人の指導は出来ないという事です。
実際は私の父のケースのように(時々私に指導が来る)地上の親族はあちらから指導されているのです。
あまりこういうことを言えば熱心に先祖供養を勤めている人達からお叱りを受けるかもしれませんが霊的事実、生命の進化向上という観点から見ればそういうことになるのです。
仏壇がある家庭が多いと思いますが、そこで手を合わせる場合は先祖に対して感謝の気持ちを表すことで十分だと思います。
読経をするならばその中に感謝の念をこめることでしょう。
我々がもし先祖の誰かを救済出来るとしたら自分の死を自覚出来ない人がいる場合です(それは先祖というより最近他界した人)。
そういう人に愛の念を送ったり、霊的真理を語って聞かせることくらいでしょう。
彼らは一時的にさまよっていたとしても
時期が来れば指導霊に導かれていくようになります。
結局あちらの事がわかっていない私達が出る幕は殆どないのです。
他界した人たちが赴く環境を検証してみましょう。
数々の霊界通信を通じて次の事が明らかになっています。
霊界では新参者(最近死んだ人)を迎える為の様々な施設が整っています。
病院や保養施設がありそこでは かつて医療機関で働いていた人たちがあちらの環境に慣れるまで色々と世話をしてくれます。
例えば事故等で急死した人はそのショックが収まるまで寝かされます。
心にトラウマのある人は手厚いケアーがなされます。
図書館や劇場などの文化施設や娯楽施設もありおよそ地上にあった殆んどのものがあります。
何故ならこの世はあちらの写しでありオリジナルなものは霊界にあるのです。
新参者は落ち着いた後にそういう環境で心ゆくまで楽しむことが出来ます。
9.「霊界の旅立ち」であちらの環境について言及しています。
これらの事を考慮すると私達地上の人間があちらの人を供養するということの意味は何かを考え直してみる必要があるでしょう。
私たちの出る幕は殆んどないという意味はそこにあるのです。
法要を例にとれば家で型通りの儀式をした後、マイクロバスで墓地に移動、墓参りをしてホテルで会食をするのがお決まりのパターンでしょう。
酒を飲んで世間話をして引き出物を下げて帰る。
こんなところでしょうか。
法要の席では居眠りをしている人をよく見かけます。
故人の事はどこかへ忘れ去られています。
当時者(他界者)は嬉しいでしょうか?
これで空しさを覚えることがないとしたら悲しい事です。
日本では仏教と言えば先祖供養ということになっています。
本来の釈迦の仏教は人の生きる道を教えるものでしたが中国や韓国を渡って日本に伝来する間に儒教の影響を受けて独特なものになりました。
日本に古来からあった祖霊信仰とも結びついて奇形的な仏教になってしまったのです。
大半の人は仏教について深く考える事もなく、昔から続いてきた因襲を守り続け、それが仏教だと思っているようです。