スピリチュアリズムに出会い
生き方が180度かわりました
シルバーバーチの霊訓を人生の指針としています
15. 原因と結果の法則
私達が日常する行為や心に思う事、すべてに原因と結果の法則が絡んできます。
「自分で蒔いた種を自分が刈り取る」という事で他人に刈り取ってもらうことは出来ません。
人生は自己責任、これが鉄則です。
良い事をすれば良い結果を招き、悪い事をすれば悪い結果を招きます。
これは実はこの世に生きている間だけでなく死後の世界も永遠に続きます。
この原因と結果の法則は我々がした事を何一つ見逃してはくれないのです。
その働きは電子計算機のように正確で絶対に間違う事はありません。
人間の目はごまかせても神は絶対に見逃してはくれません。
ある人の犯した過ちの清算が生きている内に来なかったとしたら、必ず死後清算しなくてはならなくなります。
逆に善行を積めば必ずそのご褒美を授かります。
この世にいる間になければ死後に授かります。
このように人生の全てにわたって神の法則が支配していることを知るならば悪い事は出来るものではありません。
悪い事をすれば必ず罰せられることが分かるからです。
自分が今体験していることは何と理不尽なことだろうと思う事が誰でもあるはずです。
世の中不公平じゃないかと文句を言いたくなるものです。
しかし物事を長期でみれば完璧な公平が保たれているのです。
私たちはごく短期的な視野からしか物事を見ることができません。
現在苦しみの真っただ中にいるなら必ずいつか幸せに浸れる時が来ます。
長期でみれば完璧にバランスが取れているのです。
私は聖書はあまり読みませんが確か次のようなイエスの言葉があったと思います。
「悲しむ者たちは幸いです。その人たちは後で慰められるから」
この言葉は法則の働きを表現したものではないかと思います。
神は人間だけでなく宇宙の全てのものをこの原因と結果の法則で支配、統制しているのです。
原因があればその結果が生まれ、それが新たな原因となって次の結果が生まれるという営みが永遠に続いていきます。
法則の働きが神の働きなのです。
私たちはどうあがいてもこの法則に逆らうことは出来ないのです。
この原因と結果の法則を根底にして私たちの人生は展開していきます。
家族や団体や国家にもこの法則が働きます。
そしてそれは機械的かつ自動的に作動するので昔から「結局この世には神も仏もいないではないか」という嘆きが繰り返されてきたと思います。
それは当たっていると思います。
人間が考えるようは神様や仏様は実際にはいないのです。
実際にあるのは この正確無比で、すべてに渡って公正が保たれた法則であり、ある時はそれを無慈悲に感じるかもしれません。
しかしそれが無限の叡智によって考えられた宇宙発展のためのルールであり、人間の理解をはるかに超えたものです。
神とは何かと表現するならばそのルール(法則)を創造した無限の叡智ということになるでしょう。
14. 何故苦しみがあるのか
誰の人生も苦しみの多いものです。
楽しい事や嬉しい事ばかりの人生であればいいのにと思うのが人情ですが そうはいきません。
人は神の配慮によって苦しみを体験し それを乗り越えて行くことによって成長するようになっているのです。
何の苦しみもない人生はあり得ないのです。
本当はこの世に誕生する前からどういう苦しみを体験するかということを自分で決めて承知の上でこの世に生まれてくるのです。
そういう人生のコースを辿ることを指導霊のもとで決め、その人生を送るにふさわしい両親のもとで生まれてきます。
生まれる国や場所も当然考慮に入れられています。
日本人であったから再び日本人として誕生してくるということはありません。
過去世において何か神の法則に逆らう事をしていた場合、そのカルマの解消がこの世でしか精算できないことが分かると自発的に再生を望むようになるのです。
勿論その事は今この世で生きている間は記憶に上がって来ないので、何故自分はこういう事で苦しまなければならないのだろうと思うのです。
今地球上で生活している人の中でカルマの解消を必要としていない人はいないでしょう。
何のカルマもなければわざわざこの地上世界には誕生してくることはないでしょう。
このように私達には苦しみの原因は容易には わかりませんが何の意味もなく苦しみが生まれてくることはありません。
もちろん最近の自らの行為が招いたものであれば分かるものもあるでしょう。
深遠な神の法則が働いた結果、さらなる成長の為に苦しみを体験する必要があるから今の苦しみがあると捉えるしかないでしょう。
時間の経過とともに何時しか 苦しみを苦しみと感じなくなってくるものです。
そうありたいと思います。
お釈迦様は苦しみの種類を分類し、根本的には それらは人の執着の心から生まれているのだから執着を絶つための方便を考えたようです。
それが仏教の骨格になっているようです。
すべてのものは実体がなく移り変わっていくので そういうものに執着しても仕方がないという論法のように思えます。
しかしあまりにそういう論法にこだわると何か新しいものを生み出していこうという気力が失せてしまうと思います。
新たな発明や発見は飽くなき追求心や情熱なくしては生まれません。
またある程度の競争心も奮発材料として必要でしょう。
13. 良心の声が神の声
私達には一人残らず「良心」という神のモニターが植えつけられています。
人はその良心の声に従って生きるべきなのです。
人生は絶えず右か左かを判断しなければいけません。
その連続ですが、人は誰でも良心の声がこちらが正しいと言っているのにその場を取り繕う為に思わずその逆をやってしまうことがあると思います。
そういうことをすると後で必ず後悔する時が来ます。
最後の審判の場面で自分が為すべきことをしなかったことがわかり、自責の念にかられて苦しまなければなりません。
人は良心の声に従って生きていれば決して罰せられることはありません。
良心の声こそが神の声なのです。
様々な宗教では教義というものがあり何やら難しい事が書かれています。
仏教書を読んでも抽象的で分かりにくく、難解な事がさも高尚な事であるかのように表現されています。
そういうことを知識で知っていても実践しなければ何の意味もありません。
どの宗教でも説いている根本は同じです。
自分以外の誰かの為に自分を生かすこと。
困っている人がいたら自分の出来る範囲で助けること。
エッセンスは単純明解です。
これだけでいいのです。
仏教ではすべての人に仏性が備わっていると説きます。
神性と呼んでも同じです。
この苦しみの多い人生を通じて自分の中の神性に目覚めることが私たちの人生の目的なのです。
具体的には「良心の声に従い自分以外の誰かの為に自分を生かすこと」を日常生活で実践していけばいいのです。
12. 神と宗教
世界にはキリスト教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教など様々な宗教がありますがこれらの大元は同じものです。
それはこの大宇宙を創造、支配している原理であり、言い方を変えれば大自然の摂理なのです。
天地自然の法則、神の法則と言い換えてもいいでしょう。
その法則をインスピレーション(霊示)を通して感じ取ったものをそれぞれの開祖が独自に体系付けたものが今地上にある宗教ということになります。
それはそれぞれに違う事を教えているように見えますが根本は共通です。
民族の気質や気候条件によって宗教の個性というものが出来上がっています。
昔から宗教の対立が戦争に発展してきましたが、本当は違う事を教えているわけではないのです。
仏教が発生したのは 2500 年前、キリスト教は 2000 年前、イスラム教の少し後です。
その時代から比べて人類はどれ程進歩したのでしょうか。
釈迦がいた頃は教えを書き記す紙さえありませんでした。
それよりさらに後の時代でさえ人は地球を中心に他の天体が回っていると思っていたし、船でどこまでも航海を続けていけば地の果てに到着し、そこは滝になっていて落ちてしまうと考えていました。
今や地球人類は宇宙船を使って他の天体にまで到達できるようになりました。
乗り物が発明され人は地球上をどこへでも移動できるようになりました。
インターネットや携帯電話が出来て世界の誰とでも瞬時に情報交換が出来るようになりました。
医療技術も飛躍的に進歩し昔は不治の病と言われたものでも治せるようになりました。
我々は今そういう時代にこの地球上で生活しているのです。
そこで今ある宗教というものを振り返ってみれば仏教にしろキリスト教にせよその当時から進歩というものが止まってしまっているのです。
その宗教が説いているものは今でも間違っているわけではありません。
しかし人類の知識の量と質はその宗教が出来た当時に比べて飛躍的に進歩しています。
今の人類の求めるものははるかに高度なものになっているわけです。
何かの疑問に対し小学生なら満足できるようなレベルの回答でも大人はそれでは満足しません。
いわゆる伝統宗教というものはその伝統と格式にこだわるあまり新しい知識の吸収を拒んできたのです。
死後人間はどうなるのか?
人は何のためにこの世に生まれてくるのか?
なぜ人生に苦しみがるあるのか?
それに的確に答えられる宗教はありません。
宗教も人類の進歩とともに進歩していかなければならないのです。
基本は正しい事を言っているのですからその上に新しい知識を付加していかなければ時代から取り残されてしまうのです。
実は20世紀に入ってから霊界から人類の意識改革の為に地上の世界に向けて啓示が降ろされるようになってきました。
それは霊界の上層部で綿密な計画が立てらてた大掛かりなものです。
すでにそれらは書籍として発売されてその気になれば誰でも読むことができます。
「シルバーバーチの霊訓」はその代表的なものです。
その特徴はこれまでと違って一人の教祖が現れて教えを説くのではなく私達一人ひとりに直接もたらされるようになっています。
魂に受け入れ準備が出来た人から一人ずつ真実に目覚めるようになっていきます。
目覚めてくれば自然にそういう書物に巡り合うように導かれていきます。
また霊感のある人には直接啓示が入ってきます。
一人一人が進化向上をしそれが世界規模で広がり全人類が成長、進歩していくように計画を立てられています。
今やその教えは静かに世界中に広まりつつあります。
決して目立つことなく少しずつではありますが確実に人の心の中に育ってきつつあるのです。
この冊子はこの霊界からの教えを基にして私自身の人生体験を通じて実証された誰にも分かり易いものを取り上げて編集してみました。
ここに書かれていることはその教えのほんの一部にすぎません。
生前のお釈迦様や弘法大師の教えは絶対的なものでしょうか?
残念ながらそうではありません。
彼らが活躍した時代においては先鋭的で偉大な人物でした。
しかし彼らが活躍した時代の知識レベルに相応したものでした。
時代が進んで人間が進歩してくるとさらに進んだものが求められるようになります。
すると新しい時代に応じた知識が霊界から啓示されるようになります。
それはその時代の人々の理解力より少し進んだものになります。
進み過ぎたものは人間には理解出来ないのです。
例えば釈迦や弘法大師の霊はこの世に再生していなければ霊界にいるでしょう。
彼らは現在、霊界で当時に比べて飛躍的に進歩しているはずです。
彼らは地上の人達が今も尚、当時の姿の自分を崇拝しているのを見てどう感じるでしょうか?
いい加減で真実に気づいてくれよと思っていないでしょうか。
人類は永遠に進化向上していきます。
それは終着駅のないものです。
これで終わりというものはありません。
宇宙は際限のない進化向上を目指しているからです。
その機構を作ったものが神ということになります。
神とは人間の理解力をはるかに超えた無限の叡智です。
目には見えず触れも出来ず、すべてのものに顕現し、人間の一つの細胞から巨大な天体まで、そして全宇宙のものを支配、統制しているのです。
そして私たちが真に信仰の対象とすべきものは個々の偉人ではなく、ここに表現されている存在であり、それが唯一神と呼べるものなのです。
11. 先祖供養
先祖に対してずっと供養を続けて祀らなければ、祟ったり家の中に悪い事が起こるなどと考える人もいるようですがそんなことはありません。
彼らは法要をするしないに関係なく帰りたければいつでも帰ることが出来ます。
時々帰ってきているはずですが家族は誰も気が付かないだけなのです。
それも家族との間に愛が無ければ帰ってくることはないでしょう。
家や土地にもすでに興味はありません。
私の家を例にとってみると私の祖父は今までに一度も現れたことがありません。
私は子供の頃よく祖父にたてついて叱られたものです。
死んだらお前に取り憑いてやる(今思えば認知症になっていた)とまで言われました。
子供心に取り憑かれたら恐ろしいなと思っていましたが、全くそういうことはありませんでした。
一方祖母はたまに現れますが、無言で唯そこにいるだけという雰囲気です。
前に私の娘はドアのところからこちらを見ていた祖母を目撃しています。
これらの事を考えてみるとその家の先祖がいつまでも家や家族のことにこだわっているということは極めて稀なことではないかと思います。
今そこで生活しているあなた達(私達)が良いと思うようにすればよろしいという雰囲気です。
さらに遠い先祖はすでに価値観の違う世界にいてこの世の事は記憶も薄れ、関心がなくなっているのです。
先祖も私達も一時期を地上の世界で暮らしますがその地上生活が同じ場所であったということで、それは永遠の人生という視点から眺めると極めて短い期間です。
肉体的な家系というものは遺伝していきますが、各個人に宿っている霊は親子といえども実際は別のところから来ているのです。
ですから先祖に対していつまでも法要をしたり供養を続けないと罰が当たるなどと考える必要はないのです。
あちらはあちらで忙しくしているのですからそういう暇があったら自分自身の向上を考えるべきでしょう。
それが本当の先祖供養というものでしょう。
他界した人達は霊界主導であちらのルールで進歩成長していきますから私たちに出来ることは殆どないのです。
考えてみればわかるように霊界に行った人達は我々よりはるかに進歩しているのです。
地上世界は一番低いところです。
高い所にいる世界の人達に対してこちらの世界から指導や導きのようなものが出来るわけはないのです。
小学生に大人の指導は出来ないという事です。
実際は私の父のケースのように(時々私に指導が来る)地上の親族はあちらから指導されているのです。
あまりこういうことを言えば熱心に先祖供養を勤めている人達からお叱りを受けるかもしれませんが霊的事実、生命の進化向上という観点から見ればそういうことになるのです。
仏壇がある家庭が多いと思いますが、そこで手を合わせる場合は先祖に対して感謝の気持ちを表すことで十分だと思います。
読経をするならばその中に感謝の念をこめることでしょう。
我々がもし先祖の誰かを救済出来るとしたら自分の死を自覚出来ない人がいる場合です(それは先祖というより最近他界した人)。
そういう人に愛の念を送ったり、霊的真理を語って聞かせることくらいでしょう。
彼らは一時的にさまよっていたとしても
時期が来れば指導霊に導かれていくようになります。
結局あちらの事がわかっていない私達が出る幕は殆どないのです。
他界した人たちが赴く環境を検証してみましょう。
数々の霊界通信を通じて次の事が明らかになっています。
霊界では新参者(最近死んだ人)を迎える為の様々な施設が整っています。
病院や保養施設がありそこでは かつて医療機関で働いていた人たちがあちらの環境に慣れるまで色々と世話をしてくれます。
例えば事故等で急死した人はそのショックが収まるまで寝かされます。
心にトラウマのある人は手厚いケアーがなされます。
図書館や劇場などの文化施設や娯楽施設もありおよそ地上にあった殆んどのものがあります。
何故ならこの世はあちらの写しでありオリジナルなものは霊界にあるのです。
新参者は落ち着いた後にそういう環境で心ゆくまで楽しむことが出来ます。
9.「霊界の旅立ち」であちらの環境について言及しています。
これらの事を考慮すると私達地上の人間があちらの人を供養するということの意味は何かを考え直してみる必要があるでしょう。
私たちの出る幕は殆んどないという意味はそこにあるのです。
法要を例にとれば家で型通りの儀式をした後、マイクロバスで墓地に移動、墓参りをしてホテルで会食をするのがお決まりのパターンでしょう。
酒を飲んで世間話をして引き出物を下げて帰る。
こんなところでしょうか。
法要の席では居眠りをしている人をよく見かけます。
故人の事はどこかへ忘れ去られています。
当時者(他界者)は嬉しいでしょうか?
これで空しさを覚えることがないとしたら悲しい事です。
日本では仏教と言えば先祖供養ということになっています。
本来の釈迦の仏教は人の生きる道を教えるものでしたが中国や韓国を渡って日本に伝来する間に儒教の影響を受けて独特なものになりました。
日本に古来からあった祖霊信仰とも結びついて奇形的な仏教になってしまったのです。
大半の人は仏教について深く考える事もなく、昔から続いてきた因襲を守り続け、それが仏教だと思っているようです。