スピリチュアリズムに出会い
生き方が180度かわりました
シルバーバーチの霊訓を人生の指針としています
地上生活に何一つ怖いものはありません。
取り越し苦労は大敵です。
生命力を枯渇させ、霊性の発現を妨げます。
不安の念を追い払いなさい。
真実の愛は恐れることを知りません。
その愛が宇宙を支配しているのです。
そこに恐怖心の入る余地はないのです。
それは無知の産物に他なりません。
つまり知らないから怖がるのです。
ですから知識を携えて霊的理解の中に生きることです。
取り越し苦労の絶えない人は心のどこかにその無知という名の暗闇があることを示しています。
そこから恐怖心が湧くのです。
人間が恐るべきものは恐怖心それ自体です。
恐怖心は闇の産物です。
霊力に不動の信念をもつ魂は恐れることを知りません。
あなた方の〝呼吸する〟というなんでもない動作一つでも、それを可能にしているのは、宇宙を創造し惑星や恒星の運行を司り、太陽に無尽蔵のエネルギーを与え、大海の干満を司り、あらゆる植物の種子に芽を出させ、地上に千変万化の彩りを添えさせているところの根源的生命力と同じものです。
その力はかつて一度たりとも働きを狂わせたことはありません。
海の干満が止まったことが一度でもあったでしょうか。
地球が回転を止めたことがあったでしょうか。
自然法則が機能しなかったことがあったでしょうか。
物質界は生活の一側面にすぎません。
あなたの生活の全体ではないのです。
人間の多くが悩みが絶えないのは、無意識の内に物質の世界にのみ生きていると思い込んでいるからです。
本当はあなた方と私とは同じ宇宙の中に存在するのです。
霊界と地上とが水も漏らさぬように区別されているのではありません。
互いに融合し合い調和し合っています。
死ぬということは物的身体による認識をやめて霊的身体によって魂の別の側面を表現し始めるということに過ぎません。
あなた方が直面する悩みごとは私にもよく分かっております。
しかし霊的知識を有する者はそれを正しく運用して、物的要素に偏らないようにならなければなりません。
霊的要素の方に比重を置かなければいけないということです。
正しい視野に立って考察すれば、焦点を正しく定めれば、日常生活での心の姿勢さえ正しければ、物的要素に対して最小限度の考慮を払い、決して偏ることはないでしょう。
そうなれば霊的自我が意のままに働いてあなたを支配し、生活全体を変革せしめるほどの霊力が漲り、ついには物的要素に絶対に動かされない段階にまで到達することでしょう。
永遠なるものを日常の出来ごとを基準にして判断しても駄目です。
あなた方はとかく日常の精神によって色づけされた判断、つまり自分を取りまく環境によって判断を下しがちです。
そして、それまで成就してきた成果の方は忘れがちですが、これは物質の中に閉じ込められ、朝目を覚ました瞬間から夜寝るまで日常的問題に追いまくられているからです。
霊的真理を学んでいると
時に落ち込む事もあるけれど
怖いものはない
昔は幽霊なんか怖い存在だった
人は死んで終わりでないことがわかると
霊が怖いことは何もない
あちこちにいて当たり前
私は霊媒体質ではないので
見えたりしないけれど
さっき家の中で出た
10㎝くらいのムカデのほうがよっぽど怖い・・
みずからも霊媒である人が招かれて、シルバーバーチと語り合った中で 「人生は目まぐるしく過ぎていくのに、やりたいことは山ほどあります」 と述べると、シルバーバーチがこう語った。
「人生を達観することが大切です。
あなたが生まれるずっと以前から質実剛健な先輩がいて道を切り開いてくれていたこと、その人たちもその仕事の大変さを痛感して、自分たちの地上生活が終わったあとはどうなるのだろうかと案じていたことを知らなくてはいけません。
しかし、その人たちが巨木や巨石を取り除いてくれていたからこそ、その道をあなた方はその人たちよりラクに通れるのです。
そこであなたがさらに幾つかを取り除けば、それがあなたとしての貢献をしたことになります。
あなたのあとにさらに次の人材が用意されてることでしょう。
そしてその人たちがさらに多くのものを取り除いていけば、やがてきれいな道ができあがります。
地上は体験学校のようなものです。その地上世界は完全ではありません。
あなた自身も完全ではありません。
あなたはその不完全な世界で少しでも多くの完全性を発揮しようとしている不完全な存在です。
ですから、自分なりの最善を尽くしておれば、それでいいのです。
それ以上のものは要求されません。
縁あってあなたのもとを訪れた人に真の自分というものに目覚めるきっかけを与えてあげることは重大な意味のあることです。
つまり人間が神に似せて作られていること、言い変えれば神と本質的に同じものが内在していること、その資質を発揮することによって生活に美と愛と光輝をもたらすことができ、それがすべての体験を価値あるものにするということを理解させてあげることです。
ですから、仕事上の厄介なできごとを、神が与えてくれた挑戦のチャンスとして感謝して受け止めることです。
それを処理していくことで結果的にあなたがそれだけ霊的に成長するのです。
もしも仕事仲間の中にあなたの信念についていけないという人がいたら、もしもその人の信念に迷いが見えはじめたら、その時は構わず見棄てることです。
果たすべき大目的についての荘厳な洞察力を抱き続けている人とのみ仕事をなさることです」
───人間の寿命は前もって決められているのでしょうか。
それとも肉体の強健さ、そのほかの要因の問題でしょうか。
「肉体の強健さなども寿命を決定づける要因の中に入っております。
物的身体構造すなわち肉体は、魂が成長するための地上的体験を得る上で無くてはならないものです。
霊と肉体とは一体不離です。
そして地上生活の期間、いわゆる寿命が切れる時期は大方の場合あらかじめ分かっております。
肉体を霊から切り離して考えることはできません。
肉体は霊に制約を加え、霊は肉体に生命を与えるという具合に、両者は切っても切れない関係にあります。
一個の存在を構成している二つの要素を分離して考えてはいけません。
あなたという存在は数々の要素が互いに反応し合いながら一個の総合体を構成しているのです。
すべての側面が融合し結合し混ざり合って、あなたという一つの統一体すなわち霊魂を構成しているのです」
───寿命が定まっているということから出る疑問ですが、もしも、たとえば千人の乗客が一度に溺死した場合、その人たちは皆その特殊な時期に死ぬことになっていたということになるのでしょうか。
つまり彼らの魂の成長のために定められた寿命は同じだったのでしょうか。
「問題は用語です。
あなたは今〝定められた〟という言い方をされましたが、そういう言い方をすると、では一体だれが何を基準に、という疑問が生じます。
そして多分その裏には神によって摩訶不思議な方法でそう仕組まれるのだという漠然とした考えがあるはずです。
が、そういうものではありません。
生命現象の広大なパノラマの一つ一つが自然法則によって支配されているのです。
地上の科学者がいかなる説を立てようと、いつかは必ず肉体に死が訪れます。それは霊を解放するという役目を果たすことになるのです。
つまり肉体の死は肉体の誕生と同じです。
前者は霊の〝退場〟であり、後者は〝入場〟です。
地上では死を悲劇と考えますが、私たち霊の立場からすれば悲劇ではありません。解放です。
なぜなら、魂の霊的誕生を意味するからです。
地上のあらゆる悩みごとからの解放です。よくよくの場合を除いて、死は苦労への褒賞であって罰ではありません。
死は何を犠牲にしてでも避けるべきものという考え方は改めなくてはいけません。
生命現象に不可欠の要素であり、魂が自我を見出すための手段と見なすべきです」
「真の信仰を身につける好機はすべてのことが順調に行っている時ではありません。そんな時に信仰を口にするのは誰にでもできることです。暗黒の時に身につけたものこそ本当の信念と言えます。
太陽がさんさんと輝き、何の苦労もなく、前途に何の心配もない生活を送っている時に私は神を信じますと言うのは容易なことです。
しかし、そんな呑気な生活の中での信仰の告白には何の価値もありません。
困難の中にあって怖(お)じけず、いかなる緊張の中にあっても動ぜずに次のように宣言できる人の信念にこそ本当の価値があります───風が吹こうが嵐が狂おうが、世界がいかに混乱し全てが暗黒に包まれ絶望的になろうと、宇宙の全生命を創造し神性を賦与(ふよ)した力は決して自分をお見捨てにならないと信じる。
知識と経験による不動の基盤の上に築いた完璧な信念に安住して、私は絶対に動じない、と。
宇宙の大霊すなわち神の力はあなた方人間を通して流れるのです。
もし人間が確固たる不動の冷静さを保ち得ずに怖じけづいてしまえば、その力は発揮されません。
あなた方一人ひとりが神なのです。
神はあなた方から切り離された何か別の存在ではないのです。
宇宙の大霊というのは何か形のない、遠い宇宙の果てにふわふわと浮いている靄(もや)のような存在ではありません。
人間の内奥に宿された霊的な資質を発揮すればするほど、それだけ宇宙の大霊をこの世に顕現(けんげん)させていることになります。
これはぜひ学んでいただきたい教訓です。
霊が進化するということはそのことを言うのです。
そうやって個性が築かれていくのです。
成長するということはそういうことなのです。
まだまだ地上の人類は、悲しみ、苦しみ、艱難、辛苦が存在することの理由を理解しておりません。
その一つひとつが霊的進化の上で大切な機能を果たしているのです。
ご自分の人生を振り返ってごらんなさい。
最大の危機、最大の困難、お先まっ暗の時期が、より大きな悟りを開く踏み台になっていることを知るはずです。
日向(ひなた)でのんびりと寛(くつろ)ぎ、何の心配も何の気苦労も何の不安もなく、面倒なことが持ち上がりそうになっても自動的に解消されてあなたに何の影響も及ぼさず、足もとに石ころ一つなく、自分でやらねばならないことが何一つ無いような人生を送っていては、向上進化は少しも得られません。
困難に遭遇し、それに正面から立ち向かって自らの力で克服していく中でこそ成長が得られるのです。
知識を広める必要があるのは無知という名の暗闇が生み出す無意味な残虐行為、無駄な苦労を一掃するためです。
自然の摂理に反することをしでかしておいて、それが生み出す結果への対処に無駄なエネルギーを費すという愚かさを無くすために霊的真理の普及が必要なのです。
同じ苦しみにも無くもがなの苦しみがあります。
困難にも無くもがなの困難があります。
が、それも霊的な成長と進化、光明へ向けての歩みにとっての糧(かて)とすることができます。
失敗も災難もみな薬です。
何かを教えてくれます。
結局人間は宇宙という大きな学校の生徒というわけです。
これでよいという段階はけっして来ません。
成長すればするほど、まだまだ開発し磨いていかねばならないものがあることに気づくものだからです」
そうした人生において大切な心掛けとして、シルバーバーチはこれまで繰りかえし注意してきたことを再び説いた。
「絶対に許してならないことは不安の念を心に居座(いす)わらせることです。
取越苦労は魂を朽ちさせ、弱らせ、蝕(むしば)みます。
判断力を鈍らせます。
理性を曇らせます。
事態を明確に見きわめることを妨げます。
いかなる人間も自分で解決できないほどの問題はけっして与えられません。
克服できないほど大きな障害は生じません───内在する神性が発揮されるような心掛けをしておればの話ですが・・・・・・。
地上の人間は、少数の例外を除いて、まだまだ本当の意味で生きているとは言えません。
内在する霊的属性のごくごく一部しか発揮しておりません。
よくよくの危機、よくよくの非常事態において、その霊力が呼び覚まされて勇気と知恵とを与えてくれますが、本来はいつでも引き出せるものです。
病気を治し、迷いの時に指針を与え、悩みの時には指導を与え、疲れた時には力を与え、視野がさえぎられている時には洞察力を与えてくれます。
それを可能にするのはあなた方の心掛け一つにかかっております」
霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部であることを悟らなくてはいけません。
陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、言わば硬貨の表と裏のようなものです。
表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのです。
人間の進化のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。
神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばワンセット(一組)なのです。
そうした法則の全てに通暁することは人間には不可能です。
どうしても知り得ないことは信仰によって補うほかはありません。
盲目的な軽信ではなく、知識を土台とした信仰です。
知識こそ不動の基盤であり、不変の土台です。
宇宙の根源である霊についての永遠の真理は、当然、その霊の力に対する不動の信念を産み出さなくてはいけません。
そういう義務があるのです。
それも一つの法則です。
恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの霊的雰囲気をかき乱します。
私たち霊は信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。
恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念は私ども霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。
太陽が燦々と輝き、全てが順調で、銀行にたっぷり預金があるような時に神に感謝するのは容易でしょう。
しかし真の意味で神に感謝すべき時は、辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ内なる力を発揮すべき絶好のチャンスです。
然るべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広がりかつ高まる時であり、その時こそ神に感謝すべき時です。
霊的マストに帆をかかげる時です。
霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。
実生活の場で真剣に体験して、初めてそれを理解するための魂の準備が出来あがります。
どうもその点がよく分かっていただけないようです。
種を蒔(ま)きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。
芽を出させるだけの養分がそろわなくてはなりますまい。
養分がそろっていても太陽と水がなくてはなりますまい。
そうした条件が全部うまくでそろった時にようやく種が芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。
人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験です。
何もかもがうまくいき、鼻歌まじりののん気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。
そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。
そうしたものを体験して初めて霊的知識を理解する素地が出来上がります。
そしていったん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、そして厳しさを発揮しはじめることになるのです。
そしていったん身につけたら、もう二度と失うことはありません。
それを機に霊界との磁気にも似た強力なつながりが生じ、必要に応じて霊界から力なり影響なり、インスピレイーションなり、真理なり、美なりを引き出せるようになります。
魂が進化しただけ、その分だけ自由意志が与えられます。
霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの自由意志を行使することを許されます。
あなたはしょせん、現在のあなたを超えることは出来ません。
そこがあなたの限界と言えます。
が同時にあなたは神の一部であることを忘れてはなりません。
いかなる困難、いかなる障害もきっと克服するだけの力を秘めているのです。
霊は物質に勝ります。
霊は何ものにも勝ります。
霊こそ全てを造り出すエッセンスです。
なぜなら、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだからです。
あなた方はいったい何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。
宇宙を支配する全能なる神になぜ身を委(ゆだ)ねないのです。
あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って神の御胸に飛び込むのです。
神の心をわが心とするのです。
心の奥を平静に、そして穏やかに保ち、しかも自信を持って生きることです。
そうすれば自然に神の心があなたを通して発揮されます。
愛の心と叡知をもって臨めば、何事もきっと成就します。
聞く耳をもつ者のみが神の御声を聞くことができるのです。
愛が全ての根源です。
愛──人間的愛──はそのほんのささやかな表現にすぎませんが、愛こそ神の摂理の遂行者です。
霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも必ずや神の御加護があることを一片の疑いもなく信じることができなければいけません。
苦難にも悲しみにも挫(くじ)けてはなりません。
なぜなら霊的な力はいかなる物的な力にも勝るからです。
恐怖心こそ人類最大の敵です。
恐怖心は人の心を蝕(むしば)みます。
恐怖心は理性を挫き、枯渇させ、マヒさせます。
あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、寄せつけません。
心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこします。
つとめて恐れの念を打ち消すことです。
真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信に溢れ、決して取り乱すことがあってはなりません。
霊の力はすなわち神の力であり、宇宙を絶対的に支配しています。
ただ単に力が絶対というだけではありません。
絶対的な叡知であり、絶対的な愛でもあります。
生命の全存在の背後に神の絶対的影響力が控えているのです。
はがねは火によってこそ鍛えられます。
魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは、苦難の中においてこそです。
苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証です。
夜明け前に暗黒があるように、魂が輝くには暗闇の体験がなくてはなりません。
そんな時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善を尽くし、自分を見守ってくれる神の力に全幅の信頼を置くことです。