乳がんになってスピリチュアリズムに出会うVol.2

スピリチュアリズムに出会い
生き方が180度かわりました
シルバーバーチの霊訓を人生の指針としています

自分を捨てる

2018-06-29 23:05:43 | 地上人類への最高の福音
自分を忘れ、人を思いやる生活を送れば、霊性が発達します。

そういうように摂理ができ上がっているのであり、そこに例外はありません。



喧嘩なんてだいたいが、些細なことが原因である。

昨夜、娘と口喧嘩した。

娘「お母さんメロン買って」

私「そんな高いの無理や」

娘「お母さんが買ってる無駄なもんやめて買ってくれたらええやん」

私「私が働いて買ってるのに、なんであんたに文句言われなあかんの!」

が、エスカレートしてしまった。

私は間違ったことを言ったつもりもなく、正しいことを言ったまでだ。
でも、それではダメなんだ。

たとえ相手が間違ったことを言ったとしても、相手に合わせる広い心が必要である。
それが、自分を捨てるということ。

二者択一をせまられる場面で、正しい方でなく、良いと思うほうを選んでいかなければならない。

自己努力して霊性を上げていこう。



コメント

自分ではなく他人

2018-06-27 23:24:26 | シルバーバーチの霊訓
人のために役立つことをする

これが他のすべてのことに優先しなくてはなりません。

大切なのは“自分”ではなく“他人”です。

魂の奥底から他人のために良いことをしてあげたいという願望を抱いている人は、襲いくる困難がいかに大きく酷しいものであっても、必ずや救いの手が差しのべられます。

道は必ず開けます。                   

コメント

苦手な人

2018-06-25 23:22:34 | 背後霊の不思議 M.H.テスター
我欲というのは恐ろしいものである。

不幸、病気、犯罪の根本原因はことごとくこの我欲にとらわれることである。

この事実に気づかぬ人こそ本当の意味での無知な人、愚かな人と言うべきであり、力こそ善なりと信じ、金こそ全てだと思い込んでいる人こそ真の愚か者というべきである。

悪意、憎悪、嫉妬、怒り等はたしかに一種の暴力である。

いわば精神的暴力である。

しかもその念はかならず自分のところに戻ってくるのである。

それもただ戻ってくるのではない。

はね返える時に勢いを増して戻ってくるというから恐ろしいのである。

では、もしあなたがそういう悪意の対象とされた場合はどうすべきか。

成り行きにまかせておけば、あなた自身の調子が乱されるばかりでなく、あなたがはね返す悪念で当人も傷ついていく。

自業自得だという考え方もできるが、これは神を知った人間の考えとしては落第である。

悪意には善意で返し、憎しみには愛で返してやるのが最高の心掛けである。

そんなわけにはいかない奴もいるョ、とおっしゃりたいのではなかろうか。

その気持ちもわかる。

たしかに愛せない人、好意を向けたくない人がいるものである。

が、そう思っているかぎり、あなたも相手と同じ次元から脱していないことになりはしないだろうか。

憎い相手を愛するのは、確かに難しい。

が、「成らぬ堪忍するが堪忍」という諺と同じで、その難しいことを何とか実践しょうと努力するところに、魂の成長もあるわけである。

相手も神の子である。

何か良いものをもっているはずである。

その良い面を認めて慈しみの心を向けてやることである。

悪意に満ちた人間をなぜ慈しむ必要があるかと思われるかも知れない。

が、よく考えていただきたい。

そういう人は悪感情にとらわれているのである。

自分という小さな心の世界に閉じこもり正常な判断力を失って、低級な悪念のとりこになってしまっているのである。

こういう人こそ気の毒な人であり、外部からその悪念のカベを破ってやらねばならないのである。

あなたが受けた憎しみをそのまま返していたら、また戻ってくる、また返す、また戻ってくる、というふうに、いつまでたっても悪循環は断ち切れない。

お互いの傷つけ合いがいつまでも続くことになる。

これは神を知る人の賢明なやり方とはいえまい。

送られてきた悪感情をそっくり受けとめ、代わりに愛と善意の念を送り返してやることこそ、神の道に叶った心掛けである。

あいつはつまらん人間だという評価を下すのは極めて容易であり、あなたの立場も一応は弁護される。

が、それでは次元が低すぎるといっているのである。

もう一歩高い次元から見つめて、相手も神の子だ、何か良い面を持っているはずだという見方で臨めば、あなたが一段と霊的に高められると同時に、相手も暗い牢獄から救われることになる。




職場に苦手な人がいる。
一歩高い次元から見つめるつもりが、なんだかんだと気にしてしまう。

いかんいかん。

低い、低すぎる。

もがきながらも、努力することが、今の私の必要なところ。

ぼちぼち頑張ります。


(ヒマラヤの青いケシ)

コメント

日向と日陰

2018-06-23 23:51:19 | 霊性進化の道しるべ
人生は日向と日陰、静寂と嵐というふうに二面性から成り立っています。一本調子にはできておりません。

幸せと喜びの生活にも、時には悲しい出来事が生じます。

その極端な差異を味わっているこそ性格が伸びるのです。

かくして悲しみからも、人生の嵐からも、苦痛からも教訓を学び取ることができます。

その必要性が理解できない人は神に不平を言いますが、日陰の生活を味わってこそ日向の生活のありがたさが分かるのです。

人生悩みや、困難な事がないと
人は成長できるのびしろが少ないと思う。

きっと悩みもなく、毎日充実した日々を過ごしていると、物質面だけで、幸せを求め。自分さえ幸せであればと考えてしまうだろう。

自分がつらい思いをすると、それだけ、気づきがあり、ものの見方も変わる。
経験した分だけ成長できる。
人生に無駄なものはない。



(エーデルワイス)
コメント

やり直すチャンス

2018-06-22 00:13:27 | シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q &A
もう一度やり直すチャンスは、だれにでも与えられているのでしょうか?


もちろんです。

やり直すチャンスが与えられないとしたら、宇宙は愛と公正によって支配されていないことになります。

もしも地上人生の物語が墓場で一巻の終わりになるとしたら、地上世界は矛盾だらけで、せっかく送った人生への報奨も罰も与えられない人が無数にいることになります。

地上界の人間にお届けしようと、私たちが奮闘している知識のなかでも最高に輝いているのは、墓場で人生が終わるのではないこと、苦難の生涯を送った人や挫折の人生に終わった人にも、埋め合わせとやり直しのチャンスが与えられ、地上界のために貢献しながら逆賊の汚名を着せられた人にも、悔し涙をぬぐうチャンスが与えられるという知識です。


生命は、死後にも続くのです。

続くからこそ、内部の資質(地上での発現を妨げられた資質)を改めて発現させるチャンスが与えられますし、逆に、愚かにも地上で威張り散らし、自然の摂理も逃れられるのだと思い込んでいた者は、その誤りを矯正するための試練を体験しなければなりません。

そうした事実を知って、少しもおそれを抱く必要はありません。

他人を思いやり、慎み深い生活を送っている人は、何一つ怖がることはありません。

怖がるべきは、利己的な人生を送っている人たちです。



(ヤマアジサイ)
コメント