スピリチュアリズムに出会い
生き方が180度かわりました
シルバーバーチの霊訓を人生の指針としています
魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。
失意も落胆も魂のこやしです。
魂がその秘められた力を発揮するにはいかなるこやしを摂取すればよいかを知る必要があります。
それが地上生活の目的なのです。
失意のどん底にある時は、もう全てが終わったかの感じを抱くものですが、実はそこから始まるのです。
あなた方にはまだまだ発揮されていない力―それまで発揮されたものより遥かに大きな力が宿されているのです。
それは楽な人生の中では決して発揮されません。
苦痛と困難の中にあってこそ発揮されるのです。
金塊もハンマーで砕かないと、その純金の姿を拝むことができないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出てこないのです。
それ以外に方法がないのです。
ほかにもあると言う人がもしいるとしても、私は知りません。
人間の生活に過ちはつきものです。
その過ちを改めることによって魂が成長するのです。
苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。
何もかもがうまくいき、日なたばかりを歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。
何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということです。
困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂のこやしです。
むろん困難の最中にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。
辛いのですから。
しかしあとでその時を振り返った時、それがあなたの魂の目を開かせるこのうえない肥やしであったことを知って神に感謝するに相違ありません。
この世に生まれくる霊魂がみな楽な暮しを送っていては、そこには進歩も開発も個性も成就もありません。
これは厳しい辛い教訓ではありますが、何事も価値あるものほど、その成就には困難がつきまとうものです。
魂の懸賞はそうやすやすと手に入るものではありません。
神は一瞬たりとも休むことなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。
神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日も神の働きです。
有限なる人間に神を裁く資格もありません。
宇宙を裁く資格もありません。
地球を裁く資格もありません。
あなた方自身さえも裁く資格はありません。
物的尺度があまりに小さすぎるのです。
物的尺度で見るかぎり世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真理の敗北しか見えないでしょう。
当然かもしれません。
しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。
運命の十字路にさしかかるごとに右か左かの選択を迫られます。
つまり苦難に厳然と立ち向かうか、それとも回避するかの選択を迫られるわけですが、その判断はあなたの自由意志に任されています。
もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。
その時点において取りまかれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。
地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するチャンスを前にして積極姿勢を取るか消極姿勢を取るか、滅私の態度に出るか自己中心の態度に出るかは、あなた自身の判断によって決まるということです。
地上生活はその選択の連続と言ってもよいでしょう。
選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時にまた、寿命つきて霊界へ来た時に待ち受けている生活、新しい仕事に対する準備が十分に出来ているか否か、能力的に十分か不十分か、霊的に成熟しているか否か、といったこともそれによって決まります。
単純なようで実に複雑なのです。
そのことに関連して忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということです。
地上へ再生するに際して各自は、地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。
才能がありながらそれを使用しない者は、才能の無い人より大きい責任を取らされます。
当然のことでしょう。
悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。
悲しみはそれが魂の琴線にふれた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。
魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。
悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。
もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それはたいした価値のないものということになります。
悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。
繰り返し述べてきたことですが、真理は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べるのです。
霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。
こちらからいくら援助の手を差しのべても、それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません。
霊的知識を理解する時機を決するのは魂の発達程度です。魂の進化の程度が決するのです。
肉体に包まれているあなた方人間が物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来ごとを物的モノサシで測り、考え、評価するのは無理もないことですが、それは長い物語のほんの些細なエピソード(小話)にすぎません。
この交霊会に出席される方々がもしも私の説く真理を聞くことによって楽な人生を送れるようになったとしたら、それは私が神から授かった使命に背いたことになります。
私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。
それに敢然と立ち向かい、それを克服し、そしていっそう力強い人間となって下さることが私どもの真の目的なのです。
霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。
それはいったん身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。
苦難から何かを学び取るように努めることです。
耐え切れないほどの苦難を背負わされることは絶対にありません。
何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。
それはもちろん楽なことではありません。
しかし魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。
もしも楽に手に入るものであれば、なにも、苦労する必要などないでしょう。
痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとっていちばんの薬なのです。
私どもは、いくらあなた方のことを思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿をあえて手をこまねいて傍観するほかない場合がよくあります。
そこから教訓を学び取り霊的に成長してもらいたいと願い祈りながらです。
知識には必ず責任が伴うものです。その責任を取ってもらうわけです。
霊はいったん視野が開かれれば、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔むことはないはずです。
燦々と太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身に沁みません。
魂が目を覚まし、それまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲垂れこめる暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。
地上の人生はしょせんは一つの長い闘いであり試練です。
魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもよいでしょう。
魂にはありとあらゆる種類の長所と欠点が秘められております。
すなわち動物的進化の段階の名残である下等な欲望や感情もあれば、あなたがたの個的存在の源泉である神的属性も秘められております。
そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。
地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。
人間は完全なる神の分霊を享けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには、是非とも厳しい試練が必要なのです。
かつて私は、ガンで死の宣告を受けた若者と一時間ばかり話をしたことがある。
自分の病状についてすでに全部を知らされ、あと二か月の命であるとも言われた。
私は彼に、残された道は二つしかないと説いた。
私の治療によって治るか治らないかである。
もし治らなかったら、二か月先の死という大冒険の準備に取りかからねばならない。
いずれにしてもあと二か月すればその病気とは縁が切れる、と私は述べた。
もしあなたがこの青年と同じように余命いくばくもないと知らされたらどうされるだろうか。
かりに今夜死ぬとわかったらどうされるだろうか。
物的準備は簡単である。
財産家なら遺言状を整理することだ。
財産という財産を残らず記録し、執行者が間違いを犯さないよう、出来るだけ多くの情報を用意しておくことだろう。
もし財産がなければ、そんなつまらぬ面倒の手間も省けるというものである。
が霊的な準備はそう簡単にはいかない。
死ぬということは大変な冒険だ。
この世からあの世への旅立ちをあなたはどう準備するか。
仮りに火星へ旅行することになったとしよう。
まず誰もがするであろうことは火星について出来るだけ多くの知識を集めることだ。
図書館へ行って本を借りてくるかも知れない。
ガイドブック、天体写真集、専門書などで火星の状態を勉強するだろう。
あるいは火星へ行ったことのある人を探し出して、火星とは一体どんなところかを聞きたいと思うだろう。
が、火星へ行ったら二度と地球へ戻ってこれないと知ったらどうだろう。
多分その勉強にいっそうの熱がこもるであろう。
さらに、火星に着いた時から火星人になってしまうと知ったら、火星人とはいかなる人種かについても知ろうとするだろう。
実は、人間の全てが、こうした火星旅行など近くの海岸への日帰り旅行にしか匹敵しないほどの大旅行に向かって日一日と近づきつつあるのだ。
霊界への旅立ちである。
われわれはその旅行への準備をしなければならない。
ではどう準備をしたらいいのか。
一体何が準備なのか。
実は「死」と呼ばれている旅立ちまでの「人生」こそが準備なのだ。
その人生についてのガイドがほかならぬ霊的真理(スピリチュアリズム)だ。
これについては多くの本が出ている。
霊界旅行から一時的に地上に戻って、霊媒を通じて、霊界とはどんなところか、死後どんなコースを辿るのか、どういう心がけで生きれば良いかについて語ってくれたことが本になってたくさん出ている。
但し一つだけ分らないことがある。
いつ死ぬかということである。
実際には寿命は決まっている。
霊的にはそれがわかっている。
が脳を通じての意識(顕在意識)にはそれが分らないようになっている。
百歳まで生きるかもしれないし、今日中に事故で死ぬかもしれない。
霊界への旅立ちはいつ始まるか、誰にもわからない。
結局われわれが為すべきことは、いつ死んでもいいように心の準備をしておくことだ。
毎日を今日が最後かも知れないという覚悟で生きることだ。
過去はもう過ぎ去ってしまった。
過去に起きたことは何一つとして変えられない。
愚かなこともし、バカなことも言い、過ちを犯し、しくじりもした。
が今さらどうしようもない。
出来ることは、そうした体験から教訓を学ぶことだ。
悔んだり残念がったりして、あたら時間を費し心を痛める愚だけはやめることだ。
教訓だけを学んであとは忘れてしまうことだ。
成功から学ぶことなら誰にでも出来る。
難しいのは失敗から学ぶことだ。
過去はいろいろと教えてくれる。
過去の体験によってあなたは道徳的にも霊的にも成長した。
同時にあなたの間違っている点も教えてくれた。
因果律の働きも教えてくれた。
だから過去には大いに感謝しなければならない。
過去がなかったら今のあなたも存在しないのだ。
良いことや楽しいことも為になったが、失敗や不幸も為になっている。
が、その過去の出来ごとは一切忘れて、教訓だけを忘れないようにすることだ。
未来はまだ来ない。
どんなものをもたらしてくれるかは誰にも分らない。
果たして自分に未来があるかどうかも分らない。
未来についてわれわれ人間はどうしようもないのだ。
大いなる未知、すばらしき冒険、それが未来だ。
そのどこかで死が待ち受けている。
人生のどこかの曲り角であなたを待ちうけている。
わかっているのは現在だけだ。
今日は正真正銘の今日だ。
その今日という時を精一杯生きることだ。
明日のことを思い煩ってはいけない。
「神を信じ、一日一日を大切に生きよ」―死に備える現在の生き方の心得はこれしかない。
過去の教訓のもとに現在に最善を尽くすのだ。
一日が終ったら、無事に終った一日を神に感謝する。
二度と同じ日は来ないであろう。
明日はまだ来ない。
もしかしたら、あなたには明日という日はないかも知れない。
今夜でおしまいかも知れない。
それは分らない。
はっきりしていることは、いつかは死ぬということだ。
だから一日一日をこれが最後と思って大事に生きることだ。
悔いなくこの世を後に出来るように。
人生を達観すると、あなたの心身を蝕んできた挫折も蓄財も欲望も嫉妬も後悔も、ことごとく無意味であることに気づく。
今日かぎりそうした低級な感情と決別し、平静と愛と同情心と理解と寛容と笑いの人生に置き替えることだ。
心霊治療家としての経験から私は、永遠の生命に目覚めることこそ人生の万能薬であることを知った。
すべての心身の病を癒すだけでなく、予防にもなる。
全人類がこの事実に目覚めた時、病院のベットはガラガラになり、医者は時間にゆとりが出来、西洋社会の経済問題も解決されるであろう。
所詮、地上は宇宙学校の幼稚園にすぎない、せいぜい気ラクに明るく、心にゆとりをもって生きることだ。
そう悟った今夜から、あなたの霊的成長の旅が始まる。
ある日の交霊会にシルバーバーチのファンが訪れた。
その人の悩みについていろいろと相談に乗ったあと、人間と背後霊との結びつきについてこう語った。
「どうか私のファンの方々、ますます大きくなった私の家族ともいうべき方々によろしく伝えて下さい。
そして目にこそみえませんが私がその家族の一員として常に目を離さずにいると伝えて下さい。
ただの挨拶の言葉として述べているのではありません。
実際の事実を述べているのです。
決して見棄てるようなことは致しません。
援助を必要とする時は精神を統一して私の名を唱えて下さるだけでよろしい。
その瞬間に私はその方の側に来ております。
私は精一杯のことを致しております。
これ以上はムリというぎりぎりのところまで力になっているつもりです。
困難に遭遇しないようにしてあげるわけにはまいりません。
躓かないようにと、石ころを全部取り除いてあげるわけにはいきません。
ただ、たとえ躓いても、転ばないように手を取って支えてあげることはできます。
肩の荷をいっしょに担いであげることによって苦しみを和らげてあげることはできます。
同時に喜びもともに味わって一層大きくしてあげることも出来ます。
いかなる困難も、解決できないほど大きいものは決してありません。
取り除けないほど大きい障害物もありません。
私たち霊界の者からの援助があるからです。
人間の力だけではムリとみた時は別の援助の手があります。
人間としての精一杯の努力をした上での話しですが…」
続いてシルバーバーチは若いゴードン・アダムズ夫妻に結婚生活の意義について語った。
アダムズ婦人は著名な霊媒であるリリアン・ベイリー夫人の令嬢である(アダムズ氏はのちにサイキック・ニューズ社の事務長になっている— 訳者)二人は最近結婚したばかりで、シルバーバーチは以前からこのカップルと語り合う機会をもつ約束をしていた。まずアダムズ氏に向かってこう語る。
「ようこそお出でになりました。
どうか気楽になさって下さい。
こうご挨拶できる機会を得て本当に嬉しく思います。
私があなたを蔭ながら援助しはじめてずいぶんになります。
霊的知識獲得の道を歩まれるよう導いてまいりました。
苦難に遭遇された時はかならず援助の手を差しのべてきました。
その全てが成功したとは言えません。
思うようにならなかった時はまわりの条件が整わなかったときでした」
ここで出席者全員に「今日は本当にうれしい日です」と述べてから、こんどはこの若いカップルに向かってこう語った。
人間生活には三つの側面があります。
まず人間は霊であり、次に精神であり、そして肉体です。
人間としての個性を存分に発揮するようになるのは、この三つの面の存在を認識し、うまく調和させるようになった時です。
物質世界にのみ意識を奪われ、物的感覚にしか反応を示さぬ人間は、精神的ならびに霊的な面においてのみ獲得される、より大きい、より深い、より美しい喜びを味わうことはできません。
反対に、精神的なもの、霊的なものばかりの冥想的生活から生まれる内的満足のみを求め、この世の人間としての責務を疎かにする人間は、一種の利己主義者です。
肉体と精神と霊— この三つは一つの生命が持つ側面です。
神が賦与して下さった才能の全てをその三つの側面を通じて発揮するための正しい知識を授けることが、こうして霊界から地上へ戻ってくる霊の仕事なのです。
男性と女性は互いに補い合うべき存在です。
お互いが相手の足らざるものを具えております。
両者が完全に調和して半分どうしが一体となった時こそ、神の意図が成就されたことになるのです。