散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

「花神」の中の大村益次郎・村田蔵六 序章

2017年03月06日 | ドラマ

小説の方の「花神」(司馬遼太郎さん)は、「あれは恋だったのか」というテーマからはじまります。

あれ、というのは村田蔵六(大村益次郎)とシーボルト稲の関係です。

ここでちょっと村田蔵六(大村益次郎)の高校生向けの解説。

幕末から明治初年まで生きた長州の戦略家、軍略家です。もともとは蘭学者です。百姓(医者)身分の出身です。一言でいうと「彰義隊を滅ぼした人」です。
長州征伐では幕府をしりぞけ、戊辰戦争では旧幕府勢力をしりぞけ、明治維新の実現を軍事面で支えました。「明治維新の仕掛け人が坂本龍馬なら、仕上げ人は大村益次郎」などと言われたりもします。
「花神」とは「花さかじいさん」のことです。明治維新がもし「正義であるとするなら」、その花を咲かせる仕事をした、と司馬さんは言っています。
三谷幸喜さんは「好きだった大河ドラマの主人公の筆頭」として村田蔵六を挙げています。

これから私が書く村田蔵六(大村益次郎)とは「ドラマの中の人物」です。史実とはたぶん少し違うでしょう。まあ「史実って何だ」とわたしはいつも思うのですがね。難しい問題。

司馬さんは明治維新を3段階で考えています。思想家の時代、革命家の時代、技術者の時代です。それぞれの時代の代表者が、思想が吉田松陰、革命は高杉晋作、技術者が村田蔵六です。

坂本龍馬はどうなんでしょう。革命家で技術者かな、私は勝手にそう思ってます。

思想家、革命家、技術者は次のようにも表現できます。アジテーター、ロマンティスト、リアリスト。テクノクラートの本質はリアリズムです。

つまり村田蔵六は技術者テクノクラートであり、リアリストです。そのリアリストを描く長編を書くにあたって、司馬さんは「あれは恋だったのか」というテーマからはじめるのです。

そして物語の展開の中で、蔵六と稲の「不思議な恋」を描いていくのです。

流行作家だから、と言ってしまえばそれまでですが、私が最初に小説を読んだ時は、この「あれは恋だったのか」というテーマが強く心に残りました。

村田蔵六は妻帯者で琴さんという夫人がいます。でもシーボルト稲に命をかけたような恋情を「もたれて」(つまり惚れられて)しまうのです。

彼はブ男です。気合いの入ったブ男です。シーボルト稲さんは大村益次郎という男の「才能」「人間性」「彼の本質」に惚れます。死をみとったのもシーボルト稲です。

「近代的合理主義の権化」のように思われることの多い大村益次郎ですが、少なくとも「花神」の中の彼は「それだけの人間」ではありません。

郷土愛に満ちたパトリオットですし、何より彼もまたシーボルト稲に深い恋情を抱きます。

しかし、「そういう複雑な関係を自分は持てない人間だ」「琴があまりにかわいそうだ」ということで、自制に自制を重ね、シーボルト稲を突き放します。

最後は涙まで流して「今生では無理だ」とあきらめようともがくのです。

むろん彼は村人が「暑いですね」と挨拶すると「夏だから暑いのは当然です」というような人間としても描かれます。

強いロマンティズムを内包しながら、テクノクラート、リアリストであることに徹しようとした「複雑な人間」、それが「花神」の中の大村益次郎、村田蔵六です。

司馬さんが評価するのはリアリストですが、本当のリアリストはあまり描きません。たとえば「峠」の河合継之助。ガトリング砲を買ったりするのはリアリストの行為です。軍事力は増大しますから。

でもそれで長岡藩と言う小藩を「独立勢力にしようとするのは」、「夢」ですね。ロマンティズム。このおかげで随分と長岡藩は犠牲者をだし、死後、彼は長岡では憎しみの対象にもなりました。

こういう変なリアリスト。ロマンティズムを秘めたリアリスト。司馬さんがよく描いたのは、そういう人物です。

二章につづく。


下天のうちを比ぶれば、、または化天のうちを比ぶれば

2017年03月06日 | 織田信長
信長はやはり「中世の破壊者」であって欲しいと思います。中世を破壊し、近世の扉を開いた男であってほしい。

最近は「史実」なるものを持ち出して、信長イメージを変えようという人が多いですが、その「史実」なるものにも、怪しいものが多く、ただ従来のイメージを変えたいがために、小さな史実を拾いあげて「新解釈」に酔っている「学者さんもどき」が多いようにも思えます。

人間五十年下天のうちを比ぶれば
夢幻の如くなり
ひとたび生を受け
滅せぬもののあるべきか

人の世の五十年の歳月(人間の寿命)は、下天という天上世界ではたった一日にすぎず、
夢幻のようにはかないものである。
ひとたびこの世に生まれ、死を迎えないものはいるだろうか、いや、いない。
だからこそ、、、。

初めて解釈を考えてみました。「だからこそ」以下は例えば「悔いなく生を燃やし切ろう」となりますが、そこは各人の解釈にまかせたほうがいいと思います。

中学生のために書くと、人間は「人の世」です。それから下天は正確には「化天」です。でも信長公記では「下天」と書いてある。だから下天を天の下の人間世界と間違えることがありますが、下天でも天上世界の一つです。一般にはもっとも下の方の天上世界と解釈されます。でもそうすると一番下のレベルだから「四大王衆天」ということになる。「化天」ってのは上から二番目で、結構レベルが高い。あ、どうやら僕もよくわかっていないようです。あとは学者さんの説を検索してください。

この人間五十年と並んで信長関係で有名な歌は、

死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすのよ。でしょう。一定は「いちじょう」です。「死のう」は「死なむ」のウ音便化でしょう。

死ぬべき定めは決まっている。私が生きていたことを後世の人がしのぶものとして、生きている間に何をするべきだろうか。とにかく何かをなすことだ、そうすれば人は語り伝えてくれるだろう。

かなりテキトーですが、こんな感じでとらえています。

死のうは一定、の方はあまりドラマに出てこないので、今回の大河では採用してくれないかなと思います。


「うぬがことごとく有難たがる、古き世の化け物どもを、ことごとく叩き壊し、すりつぶして、新しき世を招きいれるこそ、この信長の大仕事よ、その為には仏も死ね。」


これは比叡山焼き討ちのシーンで信長が「よく言っていた」セリフで、私は大好きなんですが、最近はこの言葉をなかなか言ってくれません。

仏も死ね、がいけないのでしょうか。それともあまりに定番になりすぎたため、演出家が「ためらう」のでしょうか。

話はちょっとそれますが、「親に会っては親を殺し、仏に会うては仏を殺し」

時代劇の中で不退転の決意を表明するときの名セリフですが、これも最近は聞きません。親殺し、仏殺しがいけないのでしょう。ドラマの世界の話なのに。

さて、信長のお話。

最近は、演出家や脚本家が司馬さんに縛られすぎて、なんとか司馬さんの信長とは「違う信長」を描こうとするあまり、かえって凡庸な信長に堕ちてしまっている気がします。

「おんな城主」では歌舞伎役者の海老蔵さんが信長を演じるようです。全体に少女漫画風なので、期待はしませんが、歌舞伎役者起用なのだから、せめて人間五十年の「舞」ぐらいはしっかりと舞ってほしいと願っています。

おんな城主直虎関係  今川義元さま、さらばでござりまする。

2017年03月06日 | ドラマ

BSで大河「武田信玄」を放映しています。

おんな城主、の方では今川義元の死を描いてくれなかったので、「武田信玄」の方の録画を観てみました。第24回です。30年前ですね。主演は中井貴一さん。

今川義元さんは中村勘三郎さん。外見こそ貴族そのものですが、軟弱貴族ではなく、なかなか「したたかなる武将」として描かれています。

だいいち、軟弱貴族武将として描くのであれば、中村勘三郎という名俳優を起用したりしません。

桶狭間の「死に様」が素晴らしいのですが、それは後で書きます。

おんな城主直虎、義元ナレ死へのヤフコメなどみると、どうやら自分の見方がズレていたらしいと思います。

親族、家庭内の人間関係そして愛憎劇。それが「おんな城主直虎」の本質のらしいのです。それもまた「歴史」でしょう。

わたしはどうしても古い大河の感覚で観ようとしてしまいますから、ヤフコメのコメントをみて、やっとこのドラマの見方が分かりました。

さて、武田信玄。山本勘助が西田敏行さんです。重厚な演技のほうを見せています。コミカルな方ではなく。

山本勘助は最初は今川の間者、のち武田信玄の家臣ってことになっています。

こんなセリフを今川義元(中村勘三郎)は言います。なかなか「したたかな武将」の一面をみせているのです。

「わしが盃などをとらせれば、そこでと信玄言わなかったか、わしの首持ち帰れと」

「冗談じゃよ。たとえ親兄弟と言えども、5分疑い、5分は信じる。これが生き残るすべというものじゃ。人は何でもするものだ、のう、山本勘助」

また甲斐から預かっている武田信虎が失礼なことを言った時は、それまでの表情をがらりと変えて「さがれ、信虎」と威厳を持って言ったりもします。

山本勘助は、信玄の密命を受けて、「桶狭間での休息」を信長に伝えます。しかし旧主ですから今川義元にも「信長に気をつけよ」と伝えます。それを相手にしないで信長を軽くみる義元のもとから下がって、

「今川義元さま、さらばでござりまする」、このセリフは印象的で、昔見た時も心に残りました。

今川義元の死も「しっかりと」描かれます。最初は義元の視線で、稲妻の閃光の中に信長の軍勢が浮かびあがります。

カメラは俯瞰になって、

歌舞伎で鍛えた芸をもって、口から「血のり」を赤々と流しながら、変な言い方ですが「堂々と」、そして見事に今川義元は死にます。

大河の「桶狭間シーン」ではこれが一番。だと私は思います。

蛇足ですが「国盗り物語」だと、義元の最期のセリフは「し、信じられん。わ、わしが信長ずれに討たれるとは」です。