有名な神学者がこんなことを書いています。
キリスト教は「神の支配」を目指したが、現実をみればキリスト教がもたらしたのは「人による人の支配だった」と。
慧眼だと思います。カトリックにおいてその階級制度はことに顕著です。
日本のキリスト教信者人口は、0.5%から多くて2%ぐらいと言われています。心情的にキリスト教に愛着を感じている、ぐらいの人ならもっといるかも知れません。
「少ない」と言えるでしょう。キリスト教は随分と日本の教育に貢献しましたが、その割には信者が増えることはありませんでした。ただ、明治、大正の知識人はキリスト教文化が西洋文化だと思っていましたから、キリスト教への意識はみんな今より「敏感」です。芥川も白樺派も、むろん夏目漱石もそうでした。
西洋科学史、西洋文化史の面からみると、キリスト教は文化抑圧的な役割を果たしてきた、と言えそうな気もします。ローマで国教となって以来、ルネッサンス運動が起きるまで、特に科学技術の発展はキリスト教によって抑圧されてきました。あの「暗い中世」の時代です。「十字軍の時代」でもある。医学も哲学も、その間はイスラム圏が伝承、そして発展させました。その土台の上に咲いた花がルネッサンスです。
みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである。
マタイ福音書です。一世紀後半に「ギリシャ語で」書かれました。もとになったQ資料(キリストの言葉を伝承したとされ、多くの福音書のもとになったと想定されている幻の資料)には、載っているのでしょうか。Q資料は未発見なので、誰にも分かりません。
とにかく、この言葉は随分と明治の青年を悩ませました。志賀も芥川もそうです。日本はもともと「性におおらか」な国ですから、こんなこと言われれも困ります。「見る」ぐらい許してくれてもいいでしょう。でも明治の青年は本気で悩みました。なにしろキリスト教が西洋文化の中心と思っていたのです。実際そういう側面もあったのです。
これは「性の抑圧」ですが、キリスト教全体が持つ「抑圧感」が日本になじまなかったのかな、などと私は考えます。夏目漱石の「こころ」はキリスト教の「告白、懺悔形式」で書かれていますが、あれなども近年は「過度に禁欲的かつ抑圧的だ」なんて批判されることもあります。
原始仏教は煩悩からの解脱を説きます。つまり煩悩(欲)そのものは普通の人間ならみな持つものと認めているのです。それを「罪」とはしません。煩悩(欲)から解放された存在が仏です。
面白いのは、煩悩から解放されたほうが幸せ、とも説かないことです。幸福の希求もまた煩悩、愛情もまた煩悩です。もっと原理的に突き詰めれば「解脱の追及」もまた「煩悩」です。このあたり凄みがあります。
お前は坊主か、と言われそうですが、悲しいかな、宗教的体質がなく、信心というものが私にはない。おかげで未だに煩悩だらけです。
キリスト教は「神の支配」を目指したが、現実をみればキリスト教がもたらしたのは「人による人の支配だった」と。
慧眼だと思います。カトリックにおいてその階級制度はことに顕著です。
日本のキリスト教信者人口は、0.5%から多くて2%ぐらいと言われています。心情的にキリスト教に愛着を感じている、ぐらいの人ならもっといるかも知れません。
「少ない」と言えるでしょう。キリスト教は随分と日本の教育に貢献しましたが、その割には信者が増えることはありませんでした。ただ、明治、大正の知識人はキリスト教文化が西洋文化だと思っていましたから、キリスト教への意識はみんな今より「敏感」です。芥川も白樺派も、むろん夏目漱石もそうでした。
西洋科学史、西洋文化史の面からみると、キリスト教は文化抑圧的な役割を果たしてきた、と言えそうな気もします。ローマで国教となって以来、ルネッサンス運動が起きるまで、特に科学技術の発展はキリスト教によって抑圧されてきました。あの「暗い中世」の時代です。「十字軍の時代」でもある。医学も哲学も、その間はイスラム圏が伝承、そして発展させました。その土台の上に咲いた花がルネッサンスです。
みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである。
マタイ福音書です。一世紀後半に「ギリシャ語で」書かれました。もとになったQ資料(キリストの言葉を伝承したとされ、多くの福音書のもとになったと想定されている幻の資料)には、載っているのでしょうか。Q資料は未発見なので、誰にも分かりません。
とにかく、この言葉は随分と明治の青年を悩ませました。志賀も芥川もそうです。日本はもともと「性におおらか」な国ですから、こんなこと言われれも困ります。「見る」ぐらい許してくれてもいいでしょう。でも明治の青年は本気で悩みました。なにしろキリスト教が西洋文化の中心と思っていたのです。実際そういう側面もあったのです。
これは「性の抑圧」ですが、キリスト教全体が持つ「抑圧感」が日本になじまなかったのかな、などと私は考えます。夏目漱石の「こころ」はキリスト教の「告白、懺悔形式」で書かれていますが、あれなども近年は「過度に禁欲的かつ抑圧的だ」なんて批判されることもあります。
原始仏教は煩悩からの解脱を説きます。つまり煩悩(欲)そのものは普通の人間ならみな持つものと認めているのです。それを「罪」とはしません。煩悩(欲)から解放された存在が仏です。
面白いのは、煩悩から解放されたほうが幸せ、とも説かないことです。幸福の希求もまた煩悩、愛情もまた煩悩です。もっと原理的に突き詰めれば「解脱の追及」もまた「煩悩」です。このあたり凄みがあります。
お前は坊主か、と言われそうですが、悲しいかな、宗教的体質がなく、信心というものが私にはない。おかげで未だに煩悩だらけです。