散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

私の好きな時代劇番組は

2017年03月09日 | ドラマ
私の好きな時代劇番組は、という「課題に参加しては」という項目を目にしたので、参加することにしました。

まず大河ドラマでは
1、「花神」 2、「国盗り物語」 3、「翔ぶが如く」

このうち、全部が残っているのは「翔ぶが如く」だけです。あとは総集編だけですが、総集編でもぐっときます。

大河で名作だと思うのは
「草燃える」「新平家物語」「風と雲と虹と」「元禄太平記」「黄金の日々」「徳川家康」「太平記」「信長」「花の乱」「功名が辻」

逆に駄作というか見直す気がしないのは

「江」「篤姫」「新選組」「義経」「利家とまつ」です。特に最初の3つはダメですね。生理的に無理です。

大河を離れると

昔、大昔では「木枯らし紋次郎」

TBSの「関ケ原」

渋いところではテレビ東京の正月長時間時代劇「徳川武芸帳 柳生三代の剣」です。松本幸四郎さんが主役です。

本当は「理由」を書くべきでしょうが、これは「課題参加」だけなので、長い文章はやめておきます。


江戸城無血開城、ドラマでの扱い

2017年03月09日 | ドラマ

江戸城無血開城というのは、「事前準備」があって成り立ちました。西郷と海舟がいきなり会って、いきなり開城となったわけではありません。

でも余程細部にこだわるドラマ以外では、「準備段階」での山岡鉄舟等の活躍を描くことはありません。パークスの幕府温存論なんかも描かれることは少ないようです。

大河「翔ぶが如く」では天璋院(篤姫)の請願と海舟と西郷の会見が描かれました。

天璋院は長い書状で西郷に請願したわけです、ドラマの方では篤姫付きのお女中「幾島」が伝えたことになっています。

天璋院曰く、というか幾島の「伝達内容は」

「徳川の民もまたお国の民であり、今は上も下も諸外国の圧迫に備える時と心得ている。それゆえに徳川慶喜以下、謹慎恭順して事態を収拾しようとしている。それでも尚、官軍は江戸を攻めるか」

江戸を攻めてもいたずらに憎悪と混乱を増大させるだけであり、喜ぶのは諸外国だけだというまっとうな意見です。

幾島と西郷は旧知の仲で、もともとは幾島の方が上席でしたから、西郷はかしこまってこの言葉を聴きます。

が、それで江戸攻めを急にやめたりはしません。西郷の独断でやめることなどできません。

海舟との会談では

「城内の家臣は謹慎する」「徳川慶喜を助けたものは謝罪させる」「武器一切、官軍に譲り渡す」「江戸の人心は徳川が鎮撫する」等の条件が出され、海舟は即答で承諾します。

ただ「徳川慶喜は備前藩にて謹慎」という条件だけは、海舟は即刻拒否します。

「それだけは幕臣として断じて承諾はできない。せめて謹慎は水戸藩に変更してくれないか。それはすべていたずらに騒乱を招かないための処置である」

西郷はこの最後の言葉に痛く感銘を受け(ドラマの話です)、京都に帰って相談すると言い、ただちに帰京。結果徳川慶喜の謹慎地は「水戸」になります。慶喜は水戸で謹慎、その後、静岡に転居、さらに江戸に転居。明治の中ごろ天皇から勲章を授けられます。ひそかに「維新最大の功労者は徳川慶喜ではないか」という意見が明治政府にはありましたから、当然の受勲でしょう。

大河ドラマ「翔ぶが如く」では、西郷はその後、天璋院を訪ねます。天璋院は殿「島津斉彬」の養女ですから、本来は主筋です。

西郷は天璋院にわびをします。「島津斉彬公は私に公武合体に尽力せよといってお亡くなりになった。しかし、このような仕儀になった。本当に申し訳ない」

という西郷に対し天璋院はこう対応します。

「よい、時代は動いているのです。吉之助は立派に世直しをしたのです」

島津斉彬という「殿」は西郷吉之助にとっては「全て」です。島津斉彬が下級家臣であった西郷を見出し、教育しました。安政の大獄の中、島津斉彬は罹病で急死しますが、この急死がなければ、「幕末」は随分と変わっていたことでしょう。

天璋院がここまで立派な人物であったかは分かりませんが、というか篤姫はそんなに立派でもなかったのですが、あくまでドラマですから許されるでしょう。

その天璋院、西郷の会談の最後、幾島が次のような歌を歌います。

世の中は、みな仏なり、おしなべて。いづれの者と分くぞ哀しき。

世の中の人間は、みなその中に仏性を持っている。官軍だ、幕府側だ、いずれの者と分けるのは哀しいことだ。