この15年。つまり2002年以降。新しい曲が聴けない、聴く気がしない、覚えられない。何曲かは覚えたけど、別に好きで覚えたわけでもない。
もともと歌は好きだった。特技が歌詞の暗記。サザンとユーミンと井上陽水なら、今でもかなり暗唱で言えると思う。フォークギターだって弾くことができる。コードだけだけど。
最後に本当に好きで聴いたのは、鬼束ちひろさん、シャインとか月光、流星群とか。月光はドラマ「トリック」の主題歌。仲間さんもまだ20歳ぐらいだった。
映画「トリックラスト」では、トリックの第一話のシーンが再現されていた、馬鹿な話だが、思わず泣きそうになった。懐かしさだ。
柴田淳さんの歌、久々に聴いていられる。しかもなんとも心地いい。ちょっとだけ「発音がふんわりして抜ける」感じもいい。声もいい。
歌詞はよく分析してはいない。でも明るくない。明るいはずもない。聴いていられる。
育ちのいい鬼束ちひろさん、みたいな感じだ。むろん鬼束さんだって育ちはいいだろうが。
だけど、その後鬼束さんはちょっと違う路線になってしまった。残念だが今は昔の歌しか聴けない。中島みゆきさんの歌も「怨歌性」が強くて、安心して聴くことができない。結構疲れる。
柴田淳さんの歌は、静かで寂しくて、いい。
柴田淳さんの歌は70年代カバーアルバムから入った。選曲が「まっとう」だった。マイペースの「東京」まで入っていた。まっとうだ。
22才の別れも歌っていた。まっとうだ。ちゃんと弦を指ではじく、ピチカートかな、編曲にも忠実だった。むろん私が未だに大ファンである久保田早紀さんの異邦人も入っていた。まっとうだ。
それからオリジナルも聴くようになった。
さっきまで「それでも来た道」を聴いていた。ユーチューブ。
今は「月光浴」を聴いている。鬼束さんの「月光」のような破壊力はない。「月光浴」なのだ。「月光浴」のように、静かに、癒される感じ。月光浴したことないけれど。
自分も年をとったせいか、こういう曲の良さが少しは分かるようになったきたのかもしれない。「子供向けの使い捨てのような抒情なき歌詞」しかないようなこの世界にあって、非常に貴重なアーティストだと思う。
蛇足
今は「ひこうき雲」のカバーを聴いている。「海をみていた午後」のカバーも歌っている。「ユーミンは本当は暗くて抒情性があるのだぞ」ってことが分かっている。まっとうだ。
中年まで生きてきて、本物の超常現象とか体験したことはありません。
浪人時代は馬鹿なのに勉強しすぎて、精神不安定になって、よく「金縛り」に遭いました。脳の現象です。ほぼ解明されています。
「金縛り」は発展するのです。体が宙に浮いて、天井にぶつかったこともありました。天上の灯りを突き抜けて天井に当たり、ドスンと落ちます。ドスンという音も聞こえます。
昼間、世界史の勉強をしていて、ちょっと横になったら金縛り、男の声で戸の向こうから「まだ生きているか?」という声がしました。
全部脳の現象です。大学に入ってからは一度もありません。ついでに言うと「幽霊が枕もと」もあります。全然怖くなくて「あ、幽霊だな」と思いました。それぐらい浪人中は勉強に疲れていたのです。幽霊を見ても、幽霊だな、としか感じないぐらい、感情が変な動きをしてました。太宰の小説で、石ころが歩いていたが何も感じなかった、という風なのがありますが、ちょっとだけ似た感覚です。
それより不思議なのは「小学校時代の火の玉」です。
公園で野球をして、帰りに「お墓のそばの階段」を降りているときにみました。
その階段は危険なので、小学校で使用禁止になっていたのですが、近道なので通ったら、火の玉が浮いています。
4名で見たのですが、転がり落ちるようにして逃げました。でも使用禁止の道ですから、4人で「内緒にしよう」となりました。
そんなの不思議でも何でもありません。火の玉なんて怪談世界では冗談みたいなもんです。
不思議なのはこっから。
それが小学校3年の出来事。それから4人みんな同じ中学に行きました。
なにかの折、本当に偶然に廊下でその4人で話したことがありました。中学2年ぐらい。私は「あ、火の玉の4人だ」と気が付き、「あの時は怖かったなあ」と言いました。
ところが「他の3人は」は「そんな話全く覚えてないし、そんな記憶はない。お前の夢だ」というのです。
私は帰ってからお祓いのため、自分のグローブに手製の「お守り」まで貼ったのです。そのグローブでずっと遊んでいたのです。私は夢をみて、その夢のお祓いのために、わざわざお守りを作ったのでしょうか。
でも「外の3名は」、全く記憶にない。夢だと言います。私はぞっとしました。現実とはなんだ、正常なのはこっちなのか、あっちなのか。現実めぐってあんな不思議な感覚になったのは、あれが初めてですし、あれ以降も一回もありません。
火の玉より、3人の記憶がなくなったことの方がずっと不思議です。あれが私の夢だったとした、さらに不思議です。
浪人時代は馬鹿なのに勉強しすぎて、精神不安定になって、よく「金縛り」に遭いました。脳の現象です。ほぼ解明されています。
「金縛り」は発展するのです。体が宙に浮いて、天井にぶつかったこともありました。天上の灯りを突き抜けて天井に当たり、ドスンと落ちます。ドスンという音も聞こえます。
昼間、世界史の勉強をしていて、ちょっと横になったら金縛り、男の声で戸の向こうから「まだ生きているか?」という声がしました。
全部脳の現象です。大学に入ってからは一度もありません。ついでに言うと「幽霊が枕もと」もあります。全然怖くなくて「あ、幽霊だな」と思いました。それぐらい浪人中は勉強に疲れていたのです。幽霊を見ても、幽霊だな、としか感じないぐらい、感情が変な動きをしてました。太宰の小説で、石ころが歩いていたが何も感じなかった、という風なのがありますが、ちょっとだけ似た感覚です。
それより不思議なのは「小学校時代の火の玉」です。
公園で野球をして、帰りに「お墓のそばの階段」を降りているときにみました。
その階段は危険なので、小学校で使用禁止になっていたのですが、近道なので通ったら、火の玉が浮いています。
4名で見たのですが、転がり落ちるようにして逃げました。でも使用禁止の道ですから、4人で「内緒にしよう」となりました。
そんなの不思議でも何でもありません。火の玉なんて怪談世界では冗談みたいなもんです。
不思議なのはこっから。
それが小学校3年の出来事。それから4人みんな同じ中学に行きました。
なにかの折、本当に偶然に廊下でその4人で話したことがありました。中学2年ぐらい。私は「あ、火の玉の4人だ」と気が付き、「あの時は怖かったなあ」と言いました。
ところが「他の3人は」は「そんな話全く覚えてないし、そんな記憶はない。お前の夢だ」というのです。
私は帰ってからお祓いのため、自分のグローブに手製の「お守り」まで貼ったのです。そのグローブでずっと遊んでいたのです。私は夢をみて、その夢のお祓いのために、わざわざお守りを作ったのでしょうか。
でも「外の3名は」、全く記憶にない。夢だと言います。私はぞっとしました。現実とはなんだ、正常なのはこっちなのか、あっちなのか。現実めぐってあんな不思議な感覚になったのは、あれが初めてですし、あれ以降も一回もありません。
火の玉より、3人の記憶がなくなったことの方がずっと不思議です。あれが私の夢だったとした、さらに不思議です。
気が付くと家に「スピーカー」がない。昔は「家具のように大きなスピーカー」があったのだが、今の「小さな家」を建てた時、捨ててしまった。
PC用のスピーカーはある。昔買った。結構高かったので捨ててない。でも使ってもいない。
最近のスピーカーは小さい。昔は小型の冷蔵庫ぐらいの大きさだった。技術改良で、あんなでかくなくても「いい音」を出せるようになったらしい。
でもそれを買ったとしてもアンプがない。
というわけで、音楽はもっぱら車で聴いている。前の燃費の悪い車は頑丈で、大きな音をたてても、外に漏れなかった。今のプリウスは鉄が薄く、大きな音をたてると外に「だだ漏れ」である。でも大きな音をたてている。歩行者は少し迷惑だろう。
CDで聴くわけでもない。SDメモリーで聴いている。32GにMP3。死ぬほど曲が入る。
今日は久保田早紀さんを聴いた。いつも聴く。よく聴く。好きなのだ。
異邦人とかは聴かない。異邦人聴くなら別バージョンの異邦人を聴く。「サウダーデ」に収録のファド?バージョン。サウダーデって郷愁という意味らしい。今知った。30年以上たって今初めて知った。
「真珠諸島」
ハイテンポな曲。ポップ調。でも悲しい詩。「二人づつの一つの影が、次々と去って、私一人が潮騒の中、真珠アイランド」、曲がポップなのにこの悲しい歌詞。好きだ。
「天界」
「運命とは星のめぐり、名も知らぬ同士が引き合い引き寄せられていく。エルムーズファルダ。エルムーズファルダー。」
エルムーズファルダー、はペルシャ語で、「今日と明日」。昔は不思議な呪文だと思っていた。ペルシャではどう使われたのだろう。もしかすると、不思議な呪文なのかも知れない。
声がいい。歌詞がいい。こういう世界観で曲を作る人は現在はたぶんいない。で、いつも聴く。飽きない。
高校時代、凄く好きだったのは、井上陽水さん。久保田早紀さん。松原みきさん。松原みきさんは故人になってしまった。久保田さんも引退して今は音楽宣教師。でも今もこの二人の曲はよく聴いている。むろん陽水さんも。
PC用のスピーカーはある。昔買った。結構高かったので捨ててない。でも使ってもいない。
最近のスピーカーは小さい。昔は小型の冷蔵庫ぐらいの大きさだった。技術改良で、あんなでかくなくても「いい音」を出せるようになったらしい。
でもそれを買ったとしてもアンプがない。
というわけで、音楽はもっぱら車で聴いている。前の燃費の悪い車は頑丈で、大きな音をたてても、外に漏れなかった。今のプリウスは鉄が薄く、大きな音をたてると外に「だだ漏れ」である。でも大きな音をたてている。歩行者は少し迷惑だろう。
CDで聴くわけでもない。SDメモリーで聴いている。32GにMP3。死ぬほど曲が入る。
今日は久保田早紀さんを聴いた。いつも聴く。よく聴く。好きなのだ。
異邦人とかは聴かない。異邦人聴くなら別バージョンの異邦人を聴く。「サウダーデ」に収録のファド?バージョン。サウダーデって郷愁という意味らしい。今知った。30年以上たって今初めて知った。
「真珠諸島」
ハイテンポな曲。ポップ調。でも悲しい詩。「二人づつの一つの影が、次々と去って、私一人が潮騒の中、真珠アイランド」、曲がポップなのにこの悲しい歌詞。好きだ。
「天界」
「運命とは星のめぐり、名も知らぬ同士が引き合い引き寄せられていく。エルムーズファルダ。エルムーズファルダー。」
エルムーズファルダー、はペルシャ語で、「今日と明日」。昔は不思議な呪文だと思っていた。ペルシャではどう使われたのだろう。もしかすると、不思議な呪文なのかも知れない。
声がいい。歌詞がいい。こういう世界観で曲を作る人は現在はたぶんいない。で、いつも聴く。飽きない。
高校時代、凄く好きだったのは、井上陽水さん。久保田早紀さん。松原みきさん。松原みきさんは故人になってしまった。久保田さんも引退して今は音楽宣教師。でも今もこの二人の曲はよく聴いている。むろん陽水さんも。