散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

桶狭間の戦い 変化する史実

2017年03月07日 | ドラマ
前のブログで「史実ってなんだ、難しい」と書きました。

根源は日本が中国風でなかったことです。ご存知のように中国や中国の影響を強く受けた朝鮮では「歴史の記録」が重大事です。「正史」ですね。基本的には皇帝すら内容に口を出せません。管理も厳密。

だからかなり正確に歴史を叙述できるのです。

日本にはそういうものがほぼない。特に戦国時代にはほとんどない。だから「記録」「日記」「手紙」「感状」等が重要視されますが、私なんて手紙(メール)なんかではよく嘘をつきます。元気でもないのに、元気ですと書いたりする。「元気じゃないです」とは書きにくい。「日記」だって自分で自分に嘘をつくことが多いと思います。

桶狭間の今川軍の人数は2万5千人とされていますが、当時の記録「信長公記」では4万越えです。2万5千というのは戦前の「陸軍の推定」なんです。数からして「分からない」わけです。

時代によって「桶狭間の戦い」も色々と変化してきました。

例えば今川義元の目的。昔は「上洛して将軍を補佐、または将軍の実権を奪う天下取り」が定説でした。

今は単なる「尾張侵攻」です。「おんな城主」でもそうなっています。

義元は昔は「軟弱貴族大名」でしたが、見直してみると30年前の「大河武田信玄」の時点で、既に「立派な太守」として描かれています。

場所すらわからない、桶狭間の位置がわからない。だいいち場所は本当は「田楽はざまだ」ってことに一時なっていたはずですが、今はやっぱり「桶狭間」みたいです。でも正確な位置はわからない。

で、「激論」なのが「奇襲なのか」「正面攻撃なのか」です。

昔は「奇襲」でした。でもその後「正面攻撃説」がでて、「大河信長」では「正面攻撃」です。「おんな城主」ではどうやらまた「奇襲説」みたいです。

史実を追及する学者さんたちの努力を貶める気持ちはありませんが、「資料がないのだから分からない」が実は一番正解だし、真面目な歴史との向き合い方だと私は思います。

その一方、ドラマでは違います。ドラマはドラマですから、どっちかというと「信長公記」の「奇襲」の方が絵になります。

ドラマは「定番」では次のように進展します。

1、義元の侵攻を知った織田家中は大騒ぎになる。柴田などは籠城を主張するが、信長は何もいわない。

2、信長は寝ころがって考えている、傍らには濃姫がいる。信長は考える。「2万5千の軍勢でも、それを横から突くならば、相手は300人程度か」

3、「お濃舞うぞ」と言って「敦盛」を二度か三度舞う。敦盛は「人間五十年」です。濃姫は「ヨー」と言います。ドラマに吉乃が配役されていても、このシーンは濃姫です。

4、いきなり馬に乗り一騎で駆け出す。慌てて家臣がそれを追う。

ここで徒歩でつき従うのはたいてい藤吉郎です。汚い恰好。でも「潔癖症の信長が、あんな汚い家臣を許すわけない」っていう文句が出てるので、最近は藤吉郎もそれなりの格好をしています。

5、軍勢はいつの間にか2000名程度になっているが、TVの都合でまあ300名程度にしか見えない。ひたすら駆けます。だいたいの位置は分かっている前提です。

6、ここで大雨になります。大雨の記述は「信長公記」にあります。「天が信長に味方した。大雨が信長隊の馬音をかき消した」っていうナレーションが入ります。

7、そこに梁田という家臣から「義元は桶狭間にて休息中」の知らせが入ります。梁田って誰?というのは時々話題になります。この後どうなったかよく分からない人です。沓掛城主?

8、信長は言います。「義元に向かってただただ駆けよ。目指すは義元の首ひとつ。勝負は二度ない。」

で桶狭間の奇襲となります。奇襲方法は定番では急な坂を馬で下ります。義経の逆落としのパターンです。義元は死にます。死ぬ前に織田家臣の指を食いちぎります。

なお信長が主人公ではない場合、梁田に義元の位置を教えるのは、ほぼ武田の山本勘助です。


なんだか馬鹿にしているように思う方もいるかも知れません。違います。「これ」が見たいのです。「これ」もしくは「これのバリエーション」。

同じシーンでも、俳優、演出、ナレーション、音楽等によって「全く違った桶狭間」になるのです。

この「定番」をどうアレンジするか。人間五十年は信長本人の役者の声か、それともプロの幸若舞師によるものか。

桶狭間を何度みても飽きないのは、定番を知りつつ、さまざまなアレンジがある。それを楽しむからです。でも「おんな城主」でも大河「風林火山」でも全く描かなかった。だから、腹が立つのです。

教育勅語、軍人勅諭と山縣有朋

2017年03月07日 | ドラマ
最近、教育勅語のことが何かと話題になっているので、少し考えてみました。私は学者でもないし、今までの人生で特に考える必要に迫られたこともないので、考えたことはありませんでした。

明治23年ですね。山縣有朋内閣の時です。どっちかというと、「山縣有朋の時」ってことに私は関心がありますが、まずは教育勅語について。

歴的文脈から切り離してしまうと、どってことない道徳の羅列です。

最後の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」は問題ですけどね。

包丁と同じでしょう。普段はただの台所道具に過ぎない。でも「使いよう」によっては人も殺せます。

「使いよう」がつまりは「歴史的文脈」で、戦前の強力な「家制度」「軍事制度」ひいては、いわゆる「国体の護持」を支えるもとになった。

だから戦後国会で「排除」されたわけです。この歴史的文脈を忘れてしまえば、12項以外はどってことない道徳ですから、「現代でも有効だ」なんて意見が出てくるわけです。

物事を歴史からみることの大切さを感じます。

同じく山縣有朋が推し進めた勅諭に「軍人勅諭」があります。

これはいきなり「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」とあって、統帥権の根源となりましたから、一見だけでも大問題を内包しています。

明治天皇は、山縣有朋はなぜわざわざ「天皇はお前たち軍人の大元帥だ」なんて言う必要があったのでしょう。

明治六年政変が原因だと思います。いわゆる西郷下野ですが、問題は「西郷と一緒に多くの軍人が天皇を見捨てて薩摩に帰ってしまった」ことです。

西南戦争の中心人物である桐野(人斬り半次郎)も、この時、薩摩に帰ります。人斬りと言われますが、たぶん人は斬ってません。斬っても一人です。薩摩だから暗殺者である必要がないのです。

とにかく、天皇は見捨てられたわけです。

この苦い経験があったため、山縣有朋は必要以上に天皇の権威を高めることに苦心します。

山縣有朋は「日本軍閥の祖」だそうです。「日本陸軍の祖」ではなく「軍閥の祖」、まあそれが山縣有朋です。

奇兵隊出身ながら、なんと大正11年まで生きます。むろん公爵。元帥。従一位。葬儀は国葬。奇兵隊では一番の出世頭ですが、当時から全く人気がなく、今も全く人気がないというなんとも「残念な」人物です。