散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

令和・万葉集・梁塵秘抄・漢詩

2019年04月02日 | 令和
もう令和のことはなるべく書きません。そういえば万葉集も久しく読んでいないなと思いました。「読む」でいいのだろうか。まあ「詠む」ではないですね。

で代表的な200ばかりの歌を見てみました。有名順というランキングがあって、上位二首はこの歌でした。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る  額田王
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも  天武天皇

これは贈歌と返歌です。「こっそり交わされた恋の歌」ではなく、宴で堂々と交わされた歌です。二人の年齢もそんなに若くはなかったはずです。

ちなみに天武の歌を万葉仮名で表記すると、

紫草能  尓保敝類妹乎  尓苦久有者  人嬬故尓  吾戀目八方 

これが私が前に書いた「全部漢字です」の意味です。全部漢字なんです。
音だけを利用しているわけではないことが分かります。
「紫」「妹」「有」「人嬬故」「吾」などは正確に使っています。
妹は貴女ぐらい意味です。「いも」、「いもうと」とは読みません。

「きれいな歌だな」とは思うのですが、なんかちょっと物足りないとも感じてしまいます。

これが平安末の「梁塵秘抄」となると、凄いことになります。後白河法皇 が好み、そして選んだ今様(流行歌)です。お上品じゃありません。

恋しとよ君恋しとよゆかしとよ
逢はばや見ばや見ばや見えばや

(訳) 恋しいと 君が恋しい 慕わしいと ただそれだけ
    逢いたい 見たい 見たら 逢えたら 

後半部分の過剰な「攻撃」はなるほど「下品」かも知れません。しかし「恋とはこんなものかな」と思わせる説得力を持っています。

もっと凄いのもあります。

われを頼めて来ぬ男
角三つ生いたる鬼になれ さて人に疎まれよ
霜雪霰降る水田の鳥となれ さて足冷たかれ
池の浮草となりねかし と揺りかう揺り揺られ歩け

(訳) 口説いたきりで来なくなった男
    角三本の鬼になれ さあ人に嫌われろ
    霜 雪 霰降る水田の鳥になれ さあ足も冷たかろ
    池の浮き草になればいい 揺り揺られしてふらふら歩け 

12世紀、平清盛、源頼朝と渡り合った後白河法皇 はこういう歌が好きだったわけです。平安末だから凄いわけではなく、後白河法皇 の好みです。まあ詠んだ民衆(または貴族)が凄いのですが。彼のおかげで、残るわけない歌が残っているのです。梁塵秘抄。りょうじんひしょう、と読みます。

それに対して、漢詩で非常に有名なのはこれです。

元二を送る<王維>                        
渭城の朝雨 軽塵を浥す
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む更に尽くせ 一杯の酒
西のかた陽関を出ずれば 故人無からん

げんにをおくる<おうい>

いじょうのちょうう けいじんをうるおす
かくしゃせいせい りゅうしょくあらたなり
きみにすすむさらにつくせ いっぱいのさけ
にしのかたようかんをいずれば こじんなからん

この「書き下し」は「日本語」です。中国では当然中国音で読みます。そして「日本語の美しさ」と「格調」という面から見た場合、この「書き下し」は実に美しい。日本語として美しいという意味です。

わたしは中国びいきじゃないし、行ったこともありません。中国音でどう読むのかも興味ありません。

ただ「日本語としての漢詩の音の美しさ」は素晴らしいと思います。
西のかた陽関を出ずれば 故人無からん、、、美しい。

万葉集のうつくしさ。梁塵秘抄の情熱。漢詩の日本語としての格調の高さ。それぞれ長所があり、あとは個人の感性の問題かなと思います。

映画「空海」・「わたしの空海の風景」

2019年04月02日 | 空海
わけあって「こもる」ことを余儀なくされているので、ブログばかり書いています。「伝えたい」というより「書くことが楽しい」のです。

「空海の風景」は司馬さんの作品ですが、もう十年も読み返していません。だからこの文章は「わたしの空海の風景」です。要するに空海に対する「感想文」です。

小説「空海の風景」では、空海が「ちょっとした業師」として描かれていたと思います。「密教を国に売りつけることがうまかった」というか、「最澄が奈良仏教と戦っているのに、空海はそういう戦いをさけて、うまいこと密教の価値をつりあげた」という感じだったでしょうか。むろん「日本史上最大の巨人」という評価をした上でのことです。なにせ一留学僧として唐に渡り、2年で当時最新だった密教の全てを恵果阿闍梨から「奥義伝授」されて帰ってくるのです。どれだけの才能を持っていたのか。底知れません。

そもそも四国の人です。一族の期待を担って上京します。儒教を学んで、官吏として出世することを望まれていましたが、あきたらず、仏教の世界に飛び込み、修験者のような荒修行のあと、唐に渡ります。密教を正統後継者として伝授され、真言宗を開きました。9世紀初頭の話です。

と書きながらも、私は別に密教に詳しいわけでも、まして修行をしたわけでもありません。私が書けるのは密教の「イメージ」だけです。

まず風や嵐といった自然のエネルギーと一体化するというイメージがあります。映画「空海」にそんなシーンがあるのです。唐に渡る途中、空海らの船は大嵐にあって沈没しかけます。橘逸勢らは怯えますが、空海は「本当のことが知りたいか」と言って甲板に飛び出します。「風を恐れるな。己が風になれ。雨を恐れるな。己が雨になれ、人も大地も空も風も、みんな生きているのだ」というセリフがあったと思います。

それから「性のエネルギーを生のエネルギーに」というイメージ。実際これは理趣経という経典に書かれています。例えば「男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である 」と書かれています。これは「単に性を肯定したわけではない」とされ、「小難しい解釈」がなされます。

私はそういう「小難しい解釈をして、欲望の肯定だけではないのだ」とする必要があるのかなと思います。

ただしこれ以上深く書いてしまうと、いかにも道徳に欠けた人間と誤解されるので、これ以上は書きません。

密教なんだから、世俗の道徳は超えて真理を示してくれないと、ぐらいは思っています。

宗教のことは、本当に「何も知らない」人間です。だからイメージだけで書いています。高野山のお坊さんに怒られるかも知れませんが、高野山のお坊さんはたぶん「読まない」ので大丈夫だろうと思います。



小学生の時の不思議な体験・火の玉

2019年04月02日 | 日記
私には「霊感めいたもの」はありません。昔は「怪談」が好きでしたが、今はそうでもありません。「不思議な体験」なんて「ほぼない」と言っていいでしょう。

ただ小学生の時に、というより最終的には中学生の時に、一つだけ不思議な体験があります。

「お墓で火の玉を見た」から始まる話なんですが、そんなもの不思議でもなんでもありません。燐光だったかも知れないし、「見間違い」かも知れません。

本当の不思議は「後日談」なのです。

でもまずは火の玉の話から。

近くのお寺には広大な「公園」があって、その頃は野球もできました。小学5年だと思います。その「公園」から自宅に帰る場合、「お墓の横の急な階段」を利用すると便利なんですが、薄暗くて物騒なので、学校から「使用禁止」とされていました。

でもまあ無視です。私を含め4人の友人と、夕方、その階段を降りていたわけです。すると墓の向こうで、明らかに不自然な光が光っています。「火の玉だ」(人だまだ)、誰かが言い、私たちは「転げ落ちるように階段を降り」、走って逃げました。やっと明るい所に出て、相談しました。火の玉の話をすると、「使用禁止の階段を使った」ことがばれる。これは秘密にしておこうと。

次の日、学校でまた4人が集まり、家族にも話していないことを確認しました。私は家に帰り、自宅の壁の下のほうに、えんぴつで、凄く小さな字で「火、ひみつ」と書きました。

4年が経ち、中学3年生です。「火の玉」のことなんかすっかり忘れていました。「火、ひみつ」の文字も見返したことなんかありませんでした。

卒業も迫り、廊下で他のクラスの生徒と話していました。ふと気がつくと「例の4人」になっているのです。それぞれ別のクラスです。私は「あっ」と思いました。火の玉を見た4人だなと思ったのです。

もう4年も経っています。それで「あの時は怖かったな」と話を切り出しました。すると3人は「きょとん」としています。

「そんな経験はしていない」というのです。「夢と現実を混同しているのだ」と笑われました。わたしはぞっとしました。

家に帰って壁を確かめると、薄くはなっていますが確かに「火、ひみつ」の文字があります。

可能性は2つです。
すべて私の夢で、夢をもとにして「火、ひみつ」の文字まで書いた。
現実だったのだが、何故か3名が完全に忘れている。

前者なのかも知れませんが、その時の私は後者だと思いました。あれだけの体験を、なぜか3人が完全に忘れているのです。

今でも、これだけは不思議です。

司馬遼太郎さん「覇王の家」再読・ノストラダムスの大予言

2019年04月02日 | 徳川家康
「覇王の家」司馬遼太郎さん作。徳川家康が主人公です。久々に再読しました。ノストラダムスの大予言は最後の最後に触れます。

 書きたくないって感じが伝わってくる本です。司馬さんは、豊臣秀吉「新史太閤記」は喜んで書いているように思います。でも信長と家康はそうではない。信長に関しては「書く気がなかった」とはっきり言っています。「国盗り物語、後編」です。前編の斎藤道三で終了させるつもりが、諸事情で信長編を書いたと書いています。「後編」は信長単独主人公ではなく、明智光秀も主人公です。小説「功名が辻」にも信長は一切登場しません。

 家康は「関が原」にも登場しますが、あくまで主人公は石田光成です。大阪の陣を描いた「城塞」は主人公がいない小説ですが、家康について多量の叙述があります。がまあ批判的叙述の方が多いかなと思います。 

さて「覇王の家」

 徳川家康を「ただ一点においてのみ」評価しています。 

「徳川家康というのは虚空の中にいる。地上にいるなまの人間と思えないほど、この男は自分の存在を抽象的なものにしようとしていた。中略。この男のこの精神をあらわす適当な既成の言葉がなさそうで、無私といえば哲学的でありすぎる。かれは俗流の人物で、とうてい無私という透明度の高いことばはあてはまらない。」 

ほめているのか、けなしているのか分かりません。

「自分の存在を抽象的なものとする」「でも俗な人間」、、読み終わっても司馬さんの言いたいことは私には3割も理解できなかったような気がします。 

どこまでも自分を客観視し、「自分の怒りも悲しみも喜び」も政治に利用した。自分を平凡な人間ととらえ、「殿様」「天下様」である自分を「まるで他人を教育するように」作り上げていった。 たぶんこの理解では駄目かなと思いますが、わたしはそんな風に受け取りました。

 司馬さんは「例」を挙げています。自分が天才ではないと分かっていた家康は、武田を滅ぼすや、それまでの自分の「軍法」をすべて捨て、「武田家の軍法」を「まるまる採用」した。史実かはまだ調べていません。そういう風に「今までの自分を平気で切り捨てられる」「そうして天下様の自分を作り上げていく」ことなどを「例」としてあげています。 

さて話題転換。 

「書きたくないのでは」と私は書きました。前に読んだ時も不思議に感じたのですが、ほぼ秀吉との「小牧長久手の戦い時点」で終わっているのです。関が原も大阪の陣もなし。小田原攻めもなし。いきなり「家康の最期」に移行します。 

司馬さんは秀吉の家康臣従後の歴史を描きません。これは「新史太閤記」も同じで、「家康の上洛・臣従」時点で終わっています。「覇王の家」は「さらにその前」で終わりです。 四国征伐、九州征伐、小田原攻め、そして無論朝鮮の役も描きません。「播磨灘物語」(黒田如水)はどうであったか。今手元にないので、この作品がどこまで描いていたかは記憶にありません。 そして「関が原」「城塞」(大阪の陣)に「飛ぶ」のです。 

「覇王の家」は意外にも「アクが強い作品」で、どっちかというと家康を批判している感じすら受けます。「三河武士」もほめているのか、けなしているのか、わからない作品です。 

まとまりなく書いてきましたが、最後に「ノストラダムスの大予言」

 ノストラダムスは1999年に世界が滅びるなんて予言してません。その解釈は五島勉氏のもので日本だけの解釈です。紀元後3000年以上まで予言すると本人は言っているのです。 勝手に「予言したこと」にされ、勝手に「当たらなかった」と言われては、ノストラダムスも迷惑でしょう。わたし自身はもう予言を信じるほど純粋ではないですが。 

信長は「中世の破壊者だ」と司馬さんは書いたことにされています。実際書いてはいます。でも最初に書いたように、「信長のことはほとんど書いていない」のです。「国盗り物語」信長編があるのみです。これは編集部に要請されて書いたもので、さほど積極的ではなかったことは本人も言っている通りです。 

それが「司馬は中世の破壊者だと書いたが、あれはウソだ」と言われ「本当はこうだった本」が量産されています。

ノストラダムスと違って「書いてはいる」ので仕方ない面もありますが。 そもそも「虚構」でありましょう。

だって「小説だから」です。編集部に要請され小説を書いたらウソつき扱い。「国民作家」とはつらいものです。