散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

桶狭間の戦い 変化する史実

2017年03月07日 | ドラマ
前のブログで「史実ってなんだ、難しい」と書きました。

根源は日本が中国風でなかったことです。ご存知のように中国や中国の影響を強く受けた朝鮮では「歴史の記録」が重大事です。「正史」ですね。基本的には皇帝すら内容に口を出せません。管理も厳密。

だからかなり正確に歴史を叙述できるのです。

日本にはそういうものがほぼない。特に戦国時代にはほとんどない。だから「記録」「日記」「手紙」「感状」等が重要視されますが、私なんて手紙(メール)なんかではよく嘘をつきます。元気でもないのに、元気ですと書いたりする。「元気じゃないです」とは書きにくい。「日記」だって自分で自分に嘘をつくことが多いと思います。

桶狭間の今川軍の人数は2万5千人とされていますが、当時の記録「信長公記」では4万越えです。2万5千というのは戦前の「陸軍の推定」なんです。数からして「分からない」わけです。

時代によって「桶狭間の戦い」も色々と変化してきました。

例えば今川義元の目的。昔は「上洛して将軍を補佐、または将軍の実権を奪う天下取り」が定説でした。

今は単なる「尾張侵攻」です。「おんな城主」でもそうなっています。

義元は昔は「軟弱貴族大名」でしたが、見直してみると30年前の「大河武田信玄」の時点で、既に「立派な太守」として描かれています。

場所すらわからない、桶狭間の位置がわからない。だいいち場所は本当は「田楽はざまだ」ってことに一時なっていたはずですが、今はやっぱり「桶狭間」みたいです。でも正確な位置はわからない。

で、「激論」なのが「奇襲なのか」「正面攻撃なのか」です。

昔は「奇襲」でした。でもその後「正面攻撃説」がでて、「大河信長」では「正面攻撃」です。「おんな城主」ではどうやらまた「奇襲説」みたいです。

史実を追及する学者さんたちの努力を貶める気持ちはありませんが、「資料がないのだから分からない」が実は一番正解だし、真面目な歴史との向き合い方だと私は思います。

その一方、ドラマでは違います。ドラマはドラマですから、どっちかというと「信長公記」の「奇襲」の方が絵になります。

ドラマは「定番」では次のように進展します。

1、義元の侵攻を知った織田家中は大騒ぎになる。柴田などは籠城を主張するが、信長は何もいわない。

2、信長は寝ころがって考えている、傍らには濃姫がいる。信長は考える。「2万5千の軍勢でも、それを横から突くならば、相手は300人程度か」

3、「お濃舞うぞ」と言って「敦盛」を二度か三度舞う。敦盛は「人間五十年」です。濃姫は「ヨー」と言います。ドラマに吉乃が配役されていても、このシーンは濃姫です。

4、いきなり馬に乗り一騎で駆け出す。慌てて家臣がそれを追う。

ここで徒歩でつき従うのはたいてい藤吉郎です。汚い恰好。でも「潔癖症の信長が、あんな汚い家臣を許すわけない」っていう文句が出てるので、最近は藤吉郎もそれなりの格好をしています。

5、軍勢はいつの間にか2000名程度になっているが、TVの都合でまあ300名程度にしか見えない。ひたすら駆けます。だいたいの位置は分かっている前提です。

6、ここで大雨になります。大雨の記述は「信長公記」にあります。「天が信長に味方した。大雨が信長隊の馬音をかき消した」っていうナレーションが入ります。

7、そこに梁田という家臣から「義元は桶狭間にて休息中」の知らせが入ります。梁田って誰?というのは時々話題になります。この後どうなったかよく分からない人です。沓掛城主?

8、信長は言います。「義元に向かってただただ駆けよ。目指すは義元の首ひとつ。勝負は二度ない。」

で桶狭間の奇襲となります。奇襲方法は定番では急な坂を馬で下ります。義経の逆落としのパターンです。義元は死にます。死ぬ前に織田家臣の指を食いちぎります。

なお信長が主人公ではない場合、梁田に義元の位置を教えるのは、ほぼ武田の山本勘助です。


なんだか馬鹿にしているように思う方もいるかも知れません。違います。「これ」が見たいのです。「これ」もしくは「これのバリエーション」。

同じシーンでも、俳優、演出、ナレーション、音楽等によって「全く違った桶狭間」になるのです。

この「定番」をどうアレンジするか。人間五十年は信長本人の役者の声か、それともプロの幸若舞師によるものか。

桶狭間を何度みても飽きないのは、定番を知りつつ、さまざまなアレンジがある。それを楽しむからです。でも「おんな城主」でも大河「風林火山」でも全く描かなかった。だから、腹が立つのです。

教育勅語、軍人勅諭と山縣有朋

2017年03月07日 | ドラマ
最近、教育勅語のことが何かと話題になっているので、少し考えてみました。私は学者でもないし、今までの人生で特に考える必要に迫られたこともないので、考えたことはありませんでした。

明治23年ですね。山縣有朋内閣の時です。どっちかというと、「山縣有朋の時」ってことに私は関心がありますが、まずは教育勅語について。

歴的文脈から切り離してしまうと、どってことない道徳の羅列です。

最後の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」は問題ですけどね。

包丁と同じでしょう。普段はただの台所道具に過ぎない。でも「使いよう」によっては人も殺せます。

「使いよう」がつまりは「歴史的文脈」で、戦前の強力な「家制度」「軍事制度」ひいては、いわゆる「国体の護持」を支えるもとになった。

だから戦後国会で「排除」されたわけです。この歴史的文脈を忘れてしまえば、12項以外はどってことない道徳ですから、「現代でも有効だ」なんて意見が出てくるわけです。

物事を歴史からみることの大切さを感じます。

同じく山縣有朋が推し進めた勅諭に「軍人勅諭」があります。

これはいきなり「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」とあって、統帥権の根源となりましたから、一見だけでも大問題を内包しています。

明治天皇は、山縣有朋はなぜわざわざ「天皇はお前たち軍人の大元帥だ」なんて言う必要があったのでしょう。

明治六年政変が原因だと思います。いわゆる西郷下野ですが、問題は「西郷と一緒に多くの軍人が天皇を見捨てて薩摩に帰ってしまった」ことです。

西南戦争の中心人物である桐野(人斬り半次郎)も、この時、薩摩に帰ります。人斬りと言われますが、たぶん人は斬ってません。斬っても一人です。薩摩だから暗殺者である必要がないのです。

とにかく、天皇は見捨てられたわけです。

この苦い経験があったため、山縣有朋は必要以上に天皇の権威を高めることに苦心します。

山縣有朋は「日本軍閥の祖」だそうです。「日本陸軍の祖」ではなく「軍閥の祖」、まあそれが山縣有朋です。

奇兵隊出身ながら、なんと大正11年まで生きます。むろん公爵。元帥。従一位。葬儀は国葬。奇兵隊では一番の出世頭ですが、当時から全く人気がなく、今も全く人気がないというなんとも「残念な」人物です。

「花神」の中の大村益次郎・村田蔵六 序章

2017年03月06日 | ドラマ

小説の方の「花神」(司馬遼太郎さん)は、「あれは恋だったのか」というテーマからはじまります。

あれ、というのは村田蔵六(大村益次郎)とシーボルト稲の関係です。

ここでちょっと村田蔵六(大村益次郎)の高校生向けの解説。

幕末から明治初年まで生きた長州の戦略家、軍略家です。もともとは蘭学者です。百姓(医者)身分の出身です。一言でいうと「彰義隊を滅ぼした人」です。
長州征伐では幕府をしりぞけ、戊辰戦争では旧幕府勢力をしりぞけ、明治維新の実現を軍事面で支えました。「明治維新の仕掛け人が坂本龍馬なら、仕上げ人は大村益次郎」などと言われたりもします。
「花神」とは「花さかじいさん」のことです。明治維新がもし「正義であるとするなら」、その花を咲かせる仕事をした、と司馬さんは言っています。
三谷幸喜さんは「好きだった大河ドラマの主人公の筆頭」として村田蔵六を挙げています。

これから私が書く村田蔵六(大村益次郎)とは「ドラマの中の人物」です。史実とはたぶん少し違うでしょう。まあ「史実って何だ」とわたしはいつも思うのですがね。難しい問題。

司馬さんは明治維新を3段階で考えています。思想家の時代、革命家の時代、技術者の時代です。それぞれの時代の代表者が、思想が吉田松陰、革命は高杉晋作、技術者が村田蔵六です。

坂本龍馬はどうなんでしょう。革命家で技術者かな、私は勝手にそう思ってます。

思想家、革命家、技術者は次のようにも表現できます。アジテーター、ロマンティスト、リアリスト。テクノクラートの本質はリアリズムです。

つまり村田蔵六は技術者テクノクラートであり、リアリストです。そのリアリストを描く長編を書くにあたって、司馬さんは「あれは恋だったのか」というテーマからはじめるのです。

そして物語の展開の中で、蔵六と稲の「不思議な恋」を描いていくのです。

流行作家だから、と言ってしまえばそれまでですが、私が最初に小説を読んだ時は、この「あれは恋だったのか」というテーマが強く心に残りました。

村田蔵六は妻帯者で琴さんという夫人がいます。でもシーボルト稲に命をかけたような恋情を「もたれて」(つまり惚れられて)しまうのです。

彼はブ男です。気合いの入ったブ男です。シーボルト稲さんは大村益次郎という男の「才能」「人間性」「彼の本質」に惚れます。死をみとったのもシーボルト稲です。

「近代的合理主義の権化」のように思われることの多い大村益次郎ですが、少なくとも「花神」の中の彼は「それだけの人間」ではありません。

郷土愛に満ちたパトリオットですし、何より彼もまたシーボルト稲に深い恋情を抱きます。

しかし、「そういう複雑な関係を自分は持てない人間だ」「琴があまりにかわいそうだ」ということで、自制に自制を重ね、シーボルト稲を突き放します。

最後は涙まで流して「今生では無理だ」とあきらめようともがくのです。

むろん彼は村人が「暑いですね」と挨拶すると「夏だから暑いのは当然です」というような人間としても描かれます。

強いロマンティズムを内包しながら、テクノクラート、リアリストであることに徹しようとした「複雑な人間」、それが「花神」の中の大村益次郎、村田蔵六です。

司馬さんが評価するのはリアリストですが、本当のリアリストはあまり描きません。たとえば「峠」の河合継之助。ガトリング砲を買ったりするのはリアリストの行為です。軍事力は増大しますから。

でもそれで長岡藩と言う小藩を「独立勢力にしようとするのは」、「夢」ですね。ロマンティズム。このおかげで随分と長岡藩は犠牲者をだし、死後、彼は長岡では憎しみの対象にもなりました。

こういう変なリアリスト。ロマンティズムを秘めたリアリスト。司馬さんがよく描いたのは、そういう人物です。

二章につづく。


下天のうちを比ぶれば、、または化天のうちを比ぶれば

2017年03月06日 | 織田信長
信長はやはり「中世の破壊者」であって欲しいと思います。中世を破壊し、近世の扉を開いた男であってほしい。

最近は「史実」なるものを持ち出して、信長イメージを変えようという人が多いですが、その「史実」なるものにも、怪しいものが多く、ただ従来のイメージを変えたいがために、小さな史実を拾いあげて「新解釈」に酔っている「学者さんもどき」が多いようにも思えます。

人間五十年下天のうちを比ぶれば
夢幻の如くなり
ひとたび生を受け
滅せぬもののあるべきか

人の世の五十年の歳月(人間の寿命)は、下天という天上世界ではたった一日にすぎず、
夢幻のようにはかないものである。
ひとたびこの世に生まれ、死を迎えないものはいるだろうか、いや、いない。
だからこそ、、、。

初めて解釈を考えてみました。「だからこそ」以下は例えば「悔いなく生を燃やし切ろう」となりますが、そこは各人の解釈にまかせたほうがいいと思います。

中学生のために書くと、人間は「人の世」です。それから下天は正確には「化天」です。でも信長公記では「下天」と書いてある。だから下天を天の下の人間世界と間違えることがありますが、下天でも天上世界の一つです。一般にはもっとも下の方の天上世界と解釈されます。でもそうすると一番下のレベルだから「四大王衆天」ということになる。「化天」ってのは上から二番目で、結構レベルが高い。あ、どうやら僕もよくわかっていないようです。あとは学者さんの説を検索してください。

この人間五十年と並んで信長関係で有名な歌は、

死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすのよ。でしょう。一定は「いちじょう」です。「死のう」は「死なむ」のウ音便化でしょう。

死ぬべき定めは決まっている。私が生きていたことを後世の人がしのぶものとして、生きている間に何をするべきだろうか。とにかく何かをなすことだ、そうすれば人は語り伝えてくれるだろう。

かなりテキトーですが、こんな感じでとらえています。

死のうは一定、の方はあまりドラマに出てこないので、今回の大河では採用してくれないかなと思います。


「うぬがことごとく有難たがる、古き世の化け物どもを、ことごとく叩き壊し、すりつぶして、新しき世を招きいれるこそ、この信長の大仕事よ、その為には仏も死ね。」


これは比叡山焼き討ちのシーンで信長が「よく言っていた」セリフで、私は大好きなんですが、最近はこの言葉をなかなか言ってくれません。

仏も死ね、がいけないのでしょうか。それともあまりに定番になりすぎたため、演出家が「ためらう」のでしょうか。

話はちょっとそれますが、「親に会っては親を殺し、仏に会うては仏を殺し」

時代劇の中で不退転の決意を表明するときの名セリフですが、これも最近は聞きません。親殺し、仏殺しがいけないのでしょう。ドラマの世界の話なのに。

さて、信長のお話。

最近は、演出家や脚本家が司馬さんに縛られすぎて、なんとか司馬さんの信長とは「違う信長」を描こうとするあまり、かえって凡庸な信長に堕ちてしまっている気がします。

「おんな城主」では歌舞伎役者の海老蔵さんが信長を演じるようです。全体に少女漫画風なので、期待はしませんが、歌舞伎役者起用なのだから、せめて人間五十年の「舞」ぐらいはしっかりと舞ってほしいと願っています。

おんな城主直虎関係  今川義元さま、さらばでござりまする。

2017年03月06日 | ドラマ

BSで大河「武田信玄」を放映しています。

おんな城主、の方では今川義元の死を描いてくれなかったので、「武田信玄」の方の録画を観てみました。第24回です。30年前ですね。主演は中井貴一さん。

今川義元さんは中村勘三郎さん。外見こそ貴族そのものですが、軟弱貴族ではなく、なかなか「したたかなる武将」として描かれています。

だいいち、軟弱貴族武将として描くのであれば、中村勘三郎という名俳優を起用したりしません。

桶狭間の「死に様」が素晴らしいのですが、それは後で書きます。

おんな城主直虎、義元ナレ死へのヤフコメなどみると、どうやら自分の見方がズレていたらしいと思います。

親族、家庭内の人間関係そして愛憎劇。それが「おんな城主直虎」の本質のらしいのです。それもまた「歴史」でしょう。

わたしはどうしても古い大河の感覚で観ようとしてしまいますから、ヤフコメのコメントをみて、やっとこのドラマの見方が分かりました。

さて、武田信玄。山本勘助が西田敏行さんです。重厚な演技のほうを見せています。コミカルな方ではなく。

山本勘助は最初は今川の間者、のち武田信玄の家臣ってことになっています。

こんなセリフを今川義元(中村勘三郎)は言います。なかなか「したたかな武将」の一面をみせているのです。

「わしが盃などをとらせれば、そこでと信玄言わなかったか、わしの首持ち帰れと」

「冗談じゃよ。たとえ親兄弟と言えども、5分疑い、5分は信じる。これが生き残るすべというものじゃ。人は何でもするものだ、のう、山本勘助」

また甲斐から預かっている武田信虎が失礼なことを言った時は、それまでの表情をがらりと変えて「さがれ、信虎」と威厳を持って言ったりもします。

山本勘助は、信玄の密命を受けて、「桶狭間での休息」を信長に伝えます。しかし旧主ですから今川義元にも「信長に気をつけよ」と伝えます。それを相手にしないで信長を軽くみる義元のもとから下がって、

「今川義元さま、さらばでござりまする」、このセリフは印象的で、昔見た時も心に残りました。

今川義元の死も「しっかりと」描かれます。最初は義元の視線で、稲妻の閃光の中に信長の軍勢が浮かびあがります。

カメラは俯瞰になって、

歌舞伎で鍛えた芸をもって、口から「血のり」を赤々と流しながら、変な言い方ですが「堂々と」、そして見事に今川義元は死にます。

大河の「桶狭間シーン」ではこれが一番。だと私は思います。

蛇足ですが「国盗り物語」だと、義元の最期のセリフは「し、信じられん。わ、わしが信長ずれに討たれるとは」です。


ようやく…、あ、NASA♪ の為の変奏曲(柴田淳さんのブログとの架空対話)

2017年03月04日 | 日記

柴田淳さんのブログ「ようやく…、あ、NASA♪」。2017年2月28日。が面白かったので「架空対話」をしてみます。自分でもうっすら「気持ちわる」と思っているので、そこは責めないでください。自覚はあります。

変な題名(ほめています)。なんだろ、「ようやく、あ、朝」の「もじり」だろうか。

最後は「もう40なのに(笑)」で終わっています。40であの文章をかける精神を僕は素晴らしいと思います。私はお世辞は言いません。

さて、柴田さんのブログからの引用。

あまりに広い宇宙なのに、
生命体は地球人だけで、
そんでもって、自分の星の海底にすら行けてない地球人が最先端技術を持っているなんて考えの方が、無理がある。
視野や思考が狭すぎる傲慢さすら感じる。

宇宙人はいない、とするのは「人間の傲慢さ」なんじゃないか。宇宙人といっても物質形態とは限らない。エネルギー体である場合もあるなんて話が載っています。

人間中心主義への批判の仕方は色々あるけど、宇宙論から持ってくるのは珍しい。小松左京さんの作品「人類裁判」だったかな、を思い出しました。

私なぞは何故「知的生命体」にこだわるのかと思います。人間が「知的」なのは「知的」じゃないと生きられないから。他の動物は別に知性なぞなくとも生きていけます。

その一方で「人間は万物の霊長である」、つまり人間が一番ってのは「よい面もある」と思います。「しっかりしないといけない」わけです。生物の王様だとしたら。王様としてしっかりしないといけない。

人間が聖なる生き物であるとしたら、それに見合った言動をしなくていけない。それを捨てて、全ての動物と一緒、ということになると、「動物並みの本能のままの行動でも仕方ない」となります。

この文章は既にこの数行で矛盾してますが、そういう矛盾した考えを私は同時に持っています。

宇宙を勉強すると、本当に面白い。 
宇宙の大半が物質的存在では無い、という時点でお手上げだからだ。 
理解できない世界であっても、それは確かに存在していると立証されているから、 
安心してそれを受け入れ、感動することが出来る。 

ダークマター、ダークエネルギーのお話。といっても僕もわかりません。完全にわかっている人間は地球にいません。観測不能だから。
ダークマターがないと、銀河の運動が説明できない。ダークエネルギーがないと、宇宙の加速度的膨張が説明できない。
だから「あるはず」なんです。でも全く観測できない。むろん今座っているベッドの周辺にもあります。「ある」けど誰も観測に成功していません。
感動的であるのは僕も同じです。だっって人間のゲノム分析までできている時代になって、宇宙の8割か9割は観測できないってことが分かったのです。
ダークエネルギーは真空のエネルギーって説明はあるけど、あれも仮説ですね。
ヒッグス粒子が見つかった時、これで最後の謎が解けたという人がいました。えっ、と思いました。全然解けてないのです。

知能指数の低い私には、全く未知の世界でしかなく、 
ただ、幽霊も宇宙人もいない、とは、100%言えなくなってしまったことだけは確か。 
宇宙は宗教やスピリチュアルが可愛く思えてしまうほど、理解の域を超えてしまってる変な世界。 
人間の確信なんぞ、太刀打ちできないほどの相手。 
そして訳わかめで寝落ちするのが今の私の生活習慣。 

訳わかめ?の意味を調べました。世の中には僕のしらない造語が沢山ある。「わけわかんねえ」のことのよう。
これダークマター、ダークエネルギーのことだけでなく、量子論にも言及しながら彼女は書いています。
不確定性原理のことだろうけど、彼女は観察者効果と少しだけ混同している。混同するのは当然で、わたしにだってその区別は分かりません。
「分からないことがあるから面白い」っていうのは単純すぎる(私が)かもしれません。
たしかに宇宙論を突き詰めようとした物理学者の中には宗教、特に仏教の「無」とか「空」に行く人もいるし、霊性、つまりスピリチュアルに行く人もいます。
量子論って、僕も何回か挑戦しましたが、ちっともわかりません。
僕は数学、科学が好きでしたが、究極のところでは、自分が「文系だな」といつも思います。
万物の働きを示す「神の数式」。NHKは難しくないというけれど、NHKスペシャル「神の数式」を30回観てもまだ分かりません。

量子力学、相対性理論、、、
1ミリくらいしか理解できてないけれど、
たった1ミリでこんなに面白いんだから、
もっともっと勉強したら、もっともっと楽しいんだろうなと思う。

超弦理論によると、この世は10次元なんでそうです。
相対性理論のウラシマ効果は既に実証されているそうです。
「そうです」の世界なんですよね。自分ではわかってないから「そうです」と引用するしかない。
でも、そういう科学的知見の「かけら」みたいなものを聞いただけでも、なんとも楽しい。


柴田さんは、自分のブログに「どん引き」する人がいるかもと書いています。
そうかもしれません。
でも「どん引き」せずに、こうして「とても面白い」と思っている人間もいます。
伝わらないけど、伝わったらいいと思います。では。

柴田淳さんのブログが面白い

2017年03月04日 | 日記

政治のことを前回ブログに書いて、それが結構醜い話題で、なんだか、気分転換をしたくなって、柴田淳さんのブログをみたら、これがまた面白こと。

話題は、宇宙、というか量子論 というか人間 というか生と死

宇宙論なら私も大好きで、思わず感想をメールで送りたくなったのだけど、ファン会員でもない私にはアドレスも分からない。

ということで、いつかどこかで柴田淳さんがこれを見る、それこそ量子論的な奇跡を信じて

でも本当は信じていなくて、読むはずないのは分かっているけど、それは当然だから、特に気にすることもなく書いている。

「この文章、文体」、実は柴田さんを真似ています。でも無理、全然似ていない。そりゃ当然で、文体ってのは体と同じで、そんな簡単に似せることはできない。

ああいう文体、「憧れ」がある。手が届かないものへの憧れ。

一つの中心的なテーマ、たとえば宇宙、量子論を中心に、話題がどんどん移っていって、普通なら「とっ散らかって」拡散してしまうのだけど

ギリギリのところで拡散しないで調和していく。ああいう文章、私には書けない。あれは「猿回しの猿」の文章ではない。

猿回しの猿?映画「アマデウス」の中のセリフ。モーツァルトの譜面を初めて見た時のサリエリさんのセリフ。

それはごく普通の譜面だった。出だしは驚くほど単純だ。バスーンやバセットホルンがぎこちなく響く。錆ついたような音。

だが突然、その上にオーボエが、自信に満ちた音色で、揺らぐことなく、、

そしてクラリネットが引き継ぐと、甘くとろけるような調べとなる。あれは「猿回しの猿」に書けるような音楽ではない。

初めて耳にする音楽。それは満たされぬ切ない想いに満ちていた。まるで神の声を聞くようだった。

柴田さんの文章は「神の声」ではありません。わたしもそこまで「うつつをぬかしては」いません。

うまい文章ではない。話題は急に移るし、どっちかというとヘタな文章かも知れません。でも全体としてみれば統一があるのです。

ああいう文章。私のような人間にはとても書けません。「うまくまとめようと」する意識がどっかで働くのです。だから、柴田さんの文章には「憧れ」を感じます。


坂本龍馬の遺産

2017年03月03日 | ドラマ
坂本龍馬の遺産を継承した人間は無数にいましょうが、板垣退助、後藤象二郎、岩崎弥太郎などがまず挙げられるでしょう。

岩崎は亀山社中を発展させ、三菱財閥のもとを作りました。もっとも色々汚いこともやっています。

後藤象二郎は大政奉還案を容堂に伝え、慶喜に伝えたことで有名ですが、明治以降は「金で失敗」した感じが強くする人物で、偉人としての扱いはされていません。

板垣退助は長く生きましたから、「こういう人物だ」というのが難しい人物です。ただ「野党精神」が旺盛であったという印象が強くします。実際は与党の側にいたことも多いのですが。

板垣は土佐の上士で、本来なら坂本龍馬など土下座しないといけない「藩内貴族」です。しかし明治後は「私が今日あるは、坂本先生のおかげである」と言ったという話も残っています。

明治後すぐ参議という高官中の高官となりますが、明治6年の政変で下野します。

戦闘指揮官としての力は抜群で、戊辰戦争ではその力を世間に示しました。土方たちを甲府で敗退させたのも板垣だと思います。もともとは「乾退助」でしたが、甲府に行くということもあって「板垣」に改名します。「板垣」は信玄を扱った作品には必ず出てくる苗字ですね。

指揮官としては有能だった板垣退助。だたし、「近代国家のビジョン」は少なくとも明治初頭には持っていなかったようです。西郷と同じアジア的教養を持った人物で、近代政治家には不向きでした。むろん明治初頭段階の話です。

西郷は明治政府の金権体質や汚職には不満だらけであり、いつもいつも「死にたい」と言っていました。

ある日、西郷が同じように愚痴を言うと、板垣は怒気をはっし、「そんなことで倒幕、戊辰の戦役で死んだ人間に顔向けができるのか」と西郷を「叱った」という話があります。

西郷は膝を正して板垣にわびたそうです。

僕はこの逸話が大好きです。

時をかける少女、もしくはタイムトラベラー

2017年03月02日 | ドラマ
気が付くと、日曜歴史家もどき(日曜歴史家には到底及ばない者)として、歴史の話題を書いていますが、実はSFが大好きです。

私が子供の頃は、「科学の時代」です。「人類の進歩と調和」を信じていたのです。みんな20世紀少年でした。

星新一さん、小松左京さん、筒井康隆さんが特に好きでした。今でも好きです。

1972年、「時をかける少女」がNHKで映像化されます。題名は「タイムトラベラー」。

原田知世さんが演じたのはその11年後。

そして近年も日本TVで新作が発表されています。ちらと見たところ、主人公の名前すら違う「違う作品」になっていましたが。原作では主人公の名は芳山和子です。

さてNHK版のタイムトラベラー。今では全編を見ることは決してできません。ビデオの重ね撮りによって、消滅してしまったからです。ビデオが高価だったとはいえ、よくもまあ、あの作品を「消す」なんてことができたものだと思います。

最初にナレーションが入ります。城達也さん。そして超常現象的エピソードを語ります。控えめにそして懐疑を交えながら。その超常現象が「本物である」という姿勢ではありません。基本的には「そんなことこの世にありえない」という姿勢です。ただ、最後にこう言うのです。

「もしかしたら」

この「もしかしたら」は少年だった私の心を打ちました。私は今はすっかりオカルト否定派ですが、むやみに否定はしません。「もしかしたら」という実証的態度は必要と思っています。「もしかしたら」という態度は、きわめて科学的だとも思っています。

あとの内容は、実は覚えていないのです。でも原作がありますから、むろんストーリーはわかります。でもNHK版でラベンダーのシーンがどうなっていたか。細部が思い出せません。

ただ主人公が叫ぶ言葉「ケン、わたしを元の世界に帰して」。この言葉だけはよく覚えています。ちなみにケンとは「深町君」。未来人「ケン・ソゴル」です。日本人のようなのですが、どっちが苗字なんでしょう。たしか27世紀人だったはずです。

ああでも、ケン、私を元の世界に戻して、というセリフは「続タイムトラベラー」かも知れません。これ原作者が筒井さんではありません。ややこしい。

音楽も素敵でした。さすがに音楽は残っていて、今でも聴くことができます。

映像のテープはもう現存しません。ただし最終回のみなんとか復元されました。

せめてもの罪滅ぼし?として、NHKは当時の脚本で「復刻版」を作ってくれないだろうかと思います。きっと多くの「大人」が見るはずです。

三男坊が継ぐ朝鮮

2017年03月02日 | ドラマ
朝鮮王朝は1392年から1910年まで続きました。(最後の十五年ぐらいは大韓帝国)

実に500年です。日本で言えば室町初期から明治末年まで。

私は、朝鮮王朝の歴史に詳しいわけでもありませんが、この「長さ」には圧倒されます。

李成桂という軍人が作りました。が、3代目にあたる李成桂の五男、イヴァンオンが「本当の建国者」と言ってよいでしょう。

その強烈な政治力によってまず、親父から王権を奪取。そして私兵の解体、軍隊の整備といった中央集権化をなしとげました。

破壊者にして創造者ですね。日本史で言うと信長風でしょうか。外戚をことごとく殺し、それもあってか、正規の皇太子(世子)であったヤンニョン大君が世子の座を放棄したほどです。

ヤンニョン大君が世子でなくなった為、急遽世子になったのは三男坊です。

これが大王世宗。ハングルのもとを作った人物。あまりにも聖君扱いされているせいか、面白みに欠け、ドラマになりにくいのですが、むろんいくつかのドラマには登場してきます。

ドラマ「大王世宗」はほとんどフィクションですが、「龍の涙」は「朝鮮王朝実録」に基づいており、史実風です。

「龍の涙」は朝鮮王朝史を学ぶ上で参考になりました。でもお話が180話以上あります。長い。長すぎる。「龍」とはイヴァンオンのことでで、大王世宗は脇役です。「全ての罪は自分が背負って死んでいく。だから(世宗は)聖君になれ」というイヴァンオンのセリフが印象的です。

つまりは、そういえば大王世宗も金ジョンウンと同じ「三男坊だった」なという話です。

でもこの三男坊。次男や長男を殺したりはしません。それどころか長男は三男の王様より長生きし、王族の長老として何かと譲位に口を出します。

実質的な建国者である暴れん坊のイヴァンオンは腹違いの弟を殺しましたが、14世紀の話です。

北朝鮮では、まだ朝鮮王朝が続いているのだな。でも親父の金正日が「すべての罪を背負って」死んで、後継の三男坊が聖君になるってわけにはいかなかった。

ドラマと現実は違うのだから当然ではあるけれど。

昨今の事件をみると、そんな感想を持たずにはいられません。

最後に大王世宗に戻りますが、ドラマ「大王世宗」はあまりに世宗が美化されており、その他の人物も美化ばかりで、長いわりには面白みに欠けます。あと字幕だから長いと見直す気になりません。

世宗を扱ったドラマのうち、個人的に一番面白いと思うのは、「根の深い木、大王世宗の誓い」です。悩んだり迷ったり泣いたり叫んだりする世宗が描かれます。俳優さんも実に味のある中年男性、ハンソッキュさんで、親しみが持てます。フィクションですが、内容は深い作品で、素晴らしいと思います。

信長の天才性とは

2017年03月02日 | ドラマ
金ヶ崎の戦い、は戦国ファンの間ではあまりにも有名です。

京都にいた信長が、あっという間に敦賀平野に出陣し、「朝倉攻め」を開始する。緒戦は勝利したものの、義弟の浅井長政が離反する。「金ヶ崎」に秀吉らを殿(しんがり)として残し、織田軍は撤退。信長自身もほとんど単身で戦線を離脱する。「信長生涯の最大の危機だった」とも言われます。

敦賀平野に舞い降りた速さもさることならが、勝ち戦の収穫に何の未練もなく戦場を離脱した異常な速さは、戦術の常識を破った「信長の天才」を示している。

と言われます。その通りかな、と感じます。

戦術の常識、が果たして当時存在していたかは問題になりますね。「用兵の妙」とか「少数をもって多数をうつ」とか言ったものでしょうか。

信長は、桶狭間でこそ少数でしたが、その後は「多数をもって少数をうつ」「事前に調略を行う」「兵器を改良する」といった作戦で勝ち続けます。「勝つべくして勝った」戦いがほとんどです。実はそれこそ本当の「信長の天才性」なのだ、と私などには思えます。(手取川では謙信に散々負けましたが)

車懸りの陣というような、「神秘的で魅力的だがその実態はよくわからない」ような作戦は、信長の戦いにはありません。

秀吉が殿(しんがり)をつとめたことで有名ですが、明智光秀も参加しています。それから徳川家系統の資料では家康もいたことになっています。ドラマになると、これに鉄砲衆の雑賀孫一なんかも参加してドラマ性を高めます。孫一は史実性の薄い人物ですが、小説「尻くらえ孫一」の主人公としてドラマの世界では有名です。

信長はこの撤退の際に狙撃されます。これは「信長公記」に出てきます。狙撃手の名前も記されています。

杉谷善住坊。

大河「黄金の日々」のサブ主人公です。おそらくこの名前は信長公記ぐらいにしか出てこないと思うのですが、彼と、同じくほとんど資料がない「ルソン助左衛門」を主人公にして50話もある大河を作ってしまう。作家の想像力というのは凄いものだと思えます。