散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

英雄たちの選択・天正伊賀の乱

2019年04月14日 | 忍者
番組の内容にはあまり触れませんが、伊賀か甲賀の忍術継承者という方が出ていました。

それで「手裏剣」とかを持ってくるわけです。

脳学者の女性が「当時も使っていたのですか」と聞くと、「使ってません」「当時は鉄が大事でしたし、こんなもの持っていたのでは疑われます」と答えていました。おもしろい。忍者とは我々がイメージするものとはかなり違います。

天正伊賀の乱は二回あって、1回目は天正7年(1578)です。

織田信雄、信長に相談なく一存で一万の兵で伊賀に侵攻
青山峠(伊勢地口)長野左京太夫1300人
長野峠(阿波口)柘植三郎兵衛1500人
鬼瘤峠(布引口)、信雄本隊8000人「伊乱記」

で、「ほうほうのてい」で信雄は逃げ帰ります。なんというか「負けたこと」「伊賀が勝ったこと」より「信雄が信長に相談もせず侵攻した」というのが凄いと思います。

そんなことやったやついるかなと考えると、いないと思います。秀吉、柴田、滝川ら方面司令官は「その場の判断」をしたから、すべてを信長に相談はしなかったでしょう。
しかし「大方針」は決まっているわけです。信長に相談もなく、一国に攻め入るなんてことはしていません。

織田信忠、、嫡男です。甲州攻めでは、信長が「急ぐな」と命令したのに、急いで攻め入って武田を滅亡させています。これも軍令違反ではなく、ただ「急いだ」だけです。

織田信雄はその後も色々「やらかして」いきますが、「信長の許しなく一国に攻め入った」人間は、まあ彼ぐらいでしょう。しかも「惨敗」しています。

第二次は天正9年です。信長の死の一年前、信雄総大将で4万越える兵、勝利します。丹羽長秀や蒲生氏郷、筒井順慶などもいたようです。


阿加(伊賀)郡 信雄  
山田郡 織田信包  
名張郡 丹羽五郎左衛門、筒井順慶
阿閉郡 滝川一益、堀久太郎
伊賀四郡のうち 三郡 信雄知行 一郡 信包知行「信長公記」  

滝川一益もいます。まあ伊勢が本国なので当然かな。織田信包もいます。

「織田信雄、大将としての最後の勝利」でしょう。「小牧長久手の戦い」は「引き分け」です。

繰り返しになりますが、織田信雄が「独断で伊賀にせめいって負けた」、、、これは信長軍の「おきて」を考える上で、おもしろいなと思います。


海道龍一朗・小説「我、六道を懼れず 真田昌幸連戦記」

2019年04月08日 | 真田丸
海道龍一朗・小説「我、六道を懼れず 真田昌幸連戦記」

前編・後編とありますが「厚い本」です。重い。

なんと表現したらいいのだろうか、とっても「古い作風」なのです。古い?というのは失礼でしょうか。

でも「重厚」というわけでもないのです。

「偉人伝」なのですね。真田昌幸を描く場合にも「表裏」の面白さはあまり描かないのです。

とにかく全員が「筋目を通す人」なんです。

じゃあクダケタ書き方ができないのかというと、恐らくできます。秀吉なんぞは随分クダケタ感じで書いているからです。

でも真田昌幸はあくまで「筋目を通す人」です。

変に新解釈を加えてない点はいいのですが、真田昌幸をあくまで「筋目を通す人」として描くというのは「一種の新解釈」です。

固くるしいと言えば、固苦しい作風です。武将には全部「殿」がつく。義経なぞに至っては「義経公」などと書いています。

面白みはありませんが、まあ悪くはない本だとは思います。

本郷和人氏の不思議・令和バブルへGO

2019年04月05日 | 令和
本郷和人さんが「まさかの大喜び」をしています。

歴史家の本郷和人さんが「モーニングショー」で令和批判をしたことについて、私は「マスコミでやるなんて勇気あるな」と書きました。思った如く非難はあるようです。

ところが、本郷さん、まったくめげてません。あの「産経新聞ネット版」でコラムを持っていて、4月4日の日付でこう書いています。

「新元号は「令和」に決まりましたね。ぼくはこのところ、新しい元号のことを各メディアからいろいろと聞かれていて、一発屋の「元号芸人」のようになっていました。なかなかない経験でしたので、一連のやりとりの中から、いくつかお話ししてみましょう。」(本郷和人)

その後はずっと私はこういう元号が良かったと思うという話です。非難も含めて「一発屋元号芸人」と言っているのでしょう。色々不思議です。

放送大学で中世の講座を持っていました。「惣村」とか「地味な研究」をしているのです。でもまあTVでは磯田さんの次ぐらいによく見る人です。

私が知ったのは大河「平清盛」です。「諸行無常はじまる」とか言っているのでコケてしまいまいました。諸行無常は「はじまったり終わったり」しません。で時代考証を調べたら本郷さんでした。

「韜晦」しているとしたら大したもんです。「一発屋元号芸人」とか自分でいって「こいつアホだな」と思わせる作戦です。それなら大したもんです。煮ても焼いても食えぬヤツということになります。




稲川怪談・不思議な夢

2019年04月05日 | 不思議な話
時々、気分転換で不思議話を書きます。ただし私は神秘主義者でもオカルト肯定論者でもありません。

夢を見ました。どうやら私は「親のいない高校生を預かる」慈善施設の「管理者」か「女子生徒」です。視点が入れ替わります。管理者の時は普通です。ところが「女子生徒」になると急に「霊感少女」になります。飾ってある絵画に悪霊が取りついているのが見えたり、「売店にだけは行くな」と言ったりします。霊感仲間がいるらしく、「そうあの売店はよくない」と賛同されたりします。
まあ夢の話です。

小学生の頃、よく「怪談」を読みました。学校の怪談が載っていました。少年が夜中にでるという学校のトイレの幽霊を探索にいきます。その時点で子供だましです。どこの少年が「夜中に学校に行ってトイレの幽霊を確認しようとしたり」するでしょうか。でもこっちも子供です。その矛盾は感じません。

ただ最後にこうありました。「少年は翌朝気絶した状態で発見されたが、何も覚えていなかった」。さすがに気が付きます。何も覚えていない?じゃあこれまでの記述はなんだと。

最近は聞きませんが、「稲川怪談」も前はよく見たり聴いたりしました。

短いのに怖いのがあります。

ある男が河原でキャンプをして、酒を飲んでいるうちに寝てしまします。暗くなります。ふと気が付くと、向こうに少女らしい人影がみえます。少女はマリつきをしています。河原でマリつきとは変だな。しかも夜なのにこの少女はなんだと考えます。やがてそのマリが自分の方に転がってきます。少女が寄ってくるのですが、寝ているので下半身しか見えません。「マリをとって」という声がやけに近くで聞こえます。うんと思ってマリを手にします。やけに重い。少女が「ありがとう」と言います。その声が手元でしています。少女が言ったのではなく、マリが言うのです。見るとマリは少女の生首であった。「夜中に自分の頭でマリつきをする少女」。よくできた怪談です。

さて、これは「稲川怪談」ではなく、「ちょっといい話系の怪談」です。

トラックの運転手がいる。昔のトラックで「車の鼻部分が出ている」ので視界が悪い。ちょっとわき見して気が付くと、女性が道路にいる。慌てて急ブレーキをかけるが女性の姿はない。「ひいてしまった。倒れているのだろう」とドアを開けて外にでる。そこには4歳ぐらいの小さな子供がいて、父親らしい男が駆け寄ってくる。「お母さんはどこですか。お母さんをひいてしまいました。」と運転手は父親に聞く。父親は答える「この子に母はいません。妻は去年亡くなりました」
「お母さんの霊が子供を救った話」です。

怪談のルーツは「落語」かなと思います。そのせいでこういう「人情噺」も多いのです。

比叡山焼き討ちのこと・歴史秘話ヒストリアの新説?

2019年04月04日 | 織田信長
後白河法皇は「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたとされています。この3つは自由にならないということです。

山法師が比叡山延暦寺の僧兵です。延暦寺は山王社の暴れ神輿を盾にして、「強訴」を繰り返していました。平清盛はこの僧兵と小競り合いになり、神輿に矢があたります。で、大騒動になり、しばらく清盛の昇進は止められます。

積極的に矢を打ち「どうだ、神罰が下ったか。このおれが血反吐を吐いてしんだか!」とドラマでは叫びます。それを民が応援します。

歴史秘話ヒストリアでは「信長は延暦寺に中立を要請して待ったが、聞き入れないので、天下静謐のため仕方なく焼き討ちをした」として「新説」と銘打ちました。どこが新説なのか?「天下静謐のため仕方なく」の部分のみです。

「仕方なく」やったのだが、児童、智慧者、上人も殺したわけです。「信長公記」にはそうあります。「仕方なく」やったわりには、虐殺となっています。仕方なくは通りません。ウソです。

虐殺というと「聞こえ」は悪いですが、比叡山の山法師は冒頭に書いたように、好き勝手(彼らにも言い分はあるが)やっていたわけです。なにより「戦国時代の話」です。信長はもっとひどいこともしています。

「(悪人とは)叡山の坊主どもよ。僧でありながら、僧刀を携えて殺生を好み、女人を近づけ、学問はぜず、寺の本尊を拝まず、仏の宝前に供華灯明さえあげずに、破戒三昧の暮らしをしている。そういうやつらの国家鎮護に何の験があるか。」

「うぬが事ごとに好みたがる、古き化け物どもを叩き壊し、すり潰して新しい世を招き入れることこそ、この信長の大仕事よ。その為には仏も死ね。」

これが「ザ信長」とでも言うべきセリフです。それを「やりたくないのだが、仕方なくやるのだ」と「麒麟がくる」では言わせるつもりなのでしょう。俳優は染谷将太くんです。

信長好きの小泉純一郎が「自民党をぶっつぶす」と言った時、国民は喝采を送りました。できるわけないと思われていたことを「やる」(やらなかったが)と言ったからです。後白河法皇さえ「自由にならぬ」と嘆いた延暦寺(僧兵武装集団)を本当に「ぶっつぶした」のが信長で、しかも400年以上前のことです。なにか問題があるのでしょうか。

なんなのだろう?「お茶の間向けじゃない」からなのか。「守旧的な若者を取り込む作戦」なのか。たしか「お江」でもみっともなく「言い訳ばかりしている信長」が描かれました。それからも変な解釈ばかり。で、唯一、私が途中で見るのをやめた作品になりました。


誰がそんな信長を「望んでいるのか」「史実とも言い難いし。別に大河は史実を描いてこなかったし。ドラマだし。」、、、、不思議です。

補足
大河「平清盛」で「王の犬」というセリフを使ったら、批判が一部の人から起きました。天皇は中国の冊封を受けてないから王ではなく「帝だ」というわけです。平安文学を「王朝文学」というように、天皇を王と呼ぶのは普通のことです。まあ、騒いだ人たちは「皇室をいやしめた」と言いたいわけではなく、「中国の冊封を受けてないから王じゃない」と言いたかったのです。どうもあれ以来、大河は「皇室」「伝統的存在」を忖度し過ぎるような気がします。「西郷どん」ではしきりと「天子様」という言葉が出てきました。でも視聴率は最低ラインです。延暦寺=仏教=日本の伝統だから、その破壊者を描いてはまずいとでも勘違いしているのか。誰に忖度しているのか。全くもって奇々怪々です。


忍びの国・織田信雄・仮面の忍者

2019年04月04日 | 忍者
豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃、琵琶湖の南に「金目教」という怪しい宗教が流行っていました。

史実じゃありません。仮面の忍者赤影の「設定」です。いつの時代なんでしょうか。琵琶湖とあります。秀吉が長浜城主となったは天正元年(1573)です。でもその前年に秀吉は「羽柴秀吉」を名乗っています。木下藤吉郎だった頃ですから、元亀年間なんでしょうね。元亀は4年(1573年まで)ありますが、実質は3年とちょっとです。

さて忍者もの。

「忍びの国」をTVで放映していました。録画をなんとなく見ました。小説の方も読んでいます。

小説の方の少しの面白さは「織田信雄が副主人公並み」という点です。ただ全体に「サツバツとした小説で、救いがない」のです。主人公の無門は伊賀で最も腕がある忍者で「殺人マシーン」のような存在です。あ、ネタバレしますよ。ちなみに映画では織田信雄をジャニーズの知念くんが演じています。「おのれらは天下一の父を持ったことがあるのか」(その辛さが分かるのか)と泣き崩れたりしています。

主人公無門は殺人マシーン的ですが、しかし「お国」という女性だけは例外で、彼女の前でだけは「人間」です。お国はお国で無門を「甲斐性なし」として世間一般の女房のように叱り飛ばします。無門は「女房に頭があがらない亭主」となり、その間だけは「人間」となるのです。

が、最後はお国を殺され、お国を殺した「伊賀の国そのものを壊滅させようと」します。で、織田信長を脅かしてわざと伊賀に攻め込ませます。第二次天正伊賀の乱のことです。

映画は、、、なぜか信長が出てきません。だから無門、嵐の大野くんが「天正伊賀の乱を起こした」となっていません。嵐の大野くんが「非戦闘員をあわせて3万人を殺した伊賀の乱のきっかけを作った」ではまずかったのかなと思います。映画は特に面白いわけでもなく、つまらないわけでもなし。お国は石原さとみさんです。

こっから映画を離れて、織田信雄の話です。

第二次天正伊賀の乱は、1581年(天正九年)です。信長の死の一年前です。

その前1576年に「織田信雄」信長の次男は、第一次天正伊賀の乱を起こしています。勝手に1万の兵で伊賀に攻めこみ、負け、信長にしばかれています。でも結局は信長も伊賀攻めを決め、第二次天正伊賀の乱が起きます。総大将は信雄でした。5万を動員して非戦闘員も殺し、3万人を虐殺しています。

第一次天正伊賀の乱は「信長の命もなく勝手に攻め込んだ」わけです。で勘当だとは信長から言われますが「殺すぞ」とまでは言われていないようです。アホな子ほど可愛かったとか、信長も普通の父親だったとかされます。

大河では天正伊賀の乱(二回もしくは三回あった)はあまり描かれません。「虐殺シーン」になるからです。大河「国盗り物語」では描かれました。総集編が残っているので分かります。それ以後、大河で描かれた記憶が私にはありません。

さて織田信雄。清須会議の後、三法師を抱え込んだ織田信孝への対抗上。織田家の家督扱いとなります。で尾張美濃で100万石です。その後徳川家康と組んで、小牧長久手の戦いを起こします。

1590年の小田原攻めまでは、豊臣大名として安泰です。小田原攻めの後、移封を拒んだら100万石改易です。この時織田信包も改易されています。織田家を秀吉が切り捨てるわけです。ただし、三法師、織田秀信は、岐阜13万石です。三法師だけは小田原後も安泰でした。秀吉としてはかつての織田家家督である三法師に13万石は惜しくなかったのでしょう。信雄は100万石です。これは取り上げたかったのだと思います。

その2年後の朝鮮の役の時に許され、でも2万石程度です。

この辺り伊藤潤の「虚けの舞――織田信雄と北条氏規」に描かれています。しかしその2万石も関ケ原で「傍観者」だったため、家康に取り上げられています。

その後14年間、大坂城で「居候」です。茶々と信雄は「いとこ」です。が大坂の陣の直前に城を出ます。大坂にいたら名目上の「総大将にされていた説」もあります。その後、家康から5万石を与えられました。間者であったともされますが、証拠はないようです。

結局この信雄が信長の血筋を残します。織田有楽も残していますが、彼は信長の子ではなく弟です。信雄はどうにも絵にならない感じがします。一方三法師、江戸期まで生き延びたら、彼の生涯を面白く描くこともできたと思います。惜しいことに関ケ原では西軍について、あっという間に岐阜城を落とされ、高野山追放。その後若くして亡くなります。三法師が東軍について、20万石ぐらいになっていたら「織田家の逆襲」ということで、色々なドラマ、小説で取り上げれていたと思います。もっとも少なくはありますが、三法師を主人公にした小説は存在します。

歴史秘話ヒストリア・世にもマジメな魔王・織田信長・最新研究が語る英雄の真実

2019年04月04日 | 織田信長
NHKは来年の大河「麒麟がくる」では、信長の保守的側面を強調すると既に予告しています。歴史秘話ヒストリア・世にもマジメな魔王・織田信長・最新研究が語る英雄の真実は、「その線に沿ったもの」で、「最近の流行りの学説」を採用してました。

来年「麒麟がくる」が放映されると「信長のイメージがおかしい」となるはずで、その防止も狙っているようです。
 
と私が書いた歴史学者、金子拓氏の監修です。

ただ面白いのは「信長像は揺れ動いてきた。永遠に確定することはないだろう」と金子拓氏自身が出演して言っていることです。「一応今の段階ではこうだけど、論争は果てしなく続くよ」と言っているわけです。その割に内容は「これが史実だ」という感じに仕上がっています。

なんというか、逆説的なんですが、問題点は「当時の一次資料」を用いて織田信長像を再現しようとしていることです。

例えば上洛時に「足利義昭公を奉じて、足利幕府を再興します」と書いている。そりゃ書いています。まさか「足利義昭を傀儡にして、天下は自分が治めます」なんて書くわけないわけです。上杉謙信なんか最初はこの手紙を信じて、喜び、信長に好意的でした。

手紙なんて戦略的なウソばっかり、なんですが、「一次資料」ということで採用されます。そうすれば信長像が守旧的になるは当然です。

明智光秀は「細川忠興のために本能寺の変を起こした」と手紙に書いています。細川を味方にするためです。学者のほとんどは「ウソ」としています。でも「一次資料だから信頼できる」となると、「ウソが史実になる」ことになります。

1、信長は朝廷、公家を重んじていた。

そりゃ重んじているふりはしています。それは徳川家康だって同じです。しかし家康は天下をとるや「禁中並公家諸法度」を金地院崇伝に命じて起草させます。建前としては家康だって重んじているのです。が実際はこの法度によって朝廷の政治力を奪います。家康はそうかも知れないが、信長は本気だった、なんてのは成立しがたい意見です。朝廷そのものが問題というより、朝廷と大名の結びつきが問題なのです。明智光秀が謀反を起こした時、朝廷は光秀を恐れ、もろ手を挙げて光秀を支持しました。この「定見のなさ」に家康のみが気が付き、信長は気が付いていなかったなんてことはありえないことです。

2、天下布武というが天下とは畿内である。

これについては今まで散々書いてきたので省略します。

3、信長は足利義昭を奉じて、足利幕府を再興しようとした。

既に書いたように、建前としてはずっとそういう態度です。各大名に手紙も送っています。だから謙信などは黙って見ていた。その戦略的態度を「本気だった」とするのは無理です。最後の最後までそうした態度ですし、義昭も殺していません。追放にとどめています。

4、比叡山焼き討ちに至っては新説ですらない。

前もって中立を要請したが、聞き入れないので1年待って「仕方なく」「天下静謐」のために焼き討ちをした、そうです。
何が「新しい」のか。全く新事実はありません。1年だったかなぐらいは思います。前に読んだ本では3か月となっていました。
要するに「しぶしぶやった」から「新説」らしいのですが、話にもなりません。「しぶしぶ」「天下静謐」という「言葉遊び」をしているだけです。そんなの解釈だけの問題です。

では何故、僧侶だけでなく、「児童、智者、上人一々に首をきり」と「信長公記」にあるのか。子供も知者も上人も殺しているのです。「しぶしぶ」やったなら、「子供は助けよ」「上人は助けよ」ぐらいの命令となるでしょう。金子氏の言っている(この番組の言っている)ことは単なる言葉遊びであり、全く事実を反映していません。

5、四国攻めだけが何故か「天下静謐」の為ではなく、「暴走」とされ、それが本能寺の変の原因であると金子氏、この番組は言う。

どうして「四国攻め」だけが特別な侵略行為とされるのか。藤田さんの本を読んだけど、実に変な理屈なのです。論理破綻もはなはだしかった。でもまたその変な理屈を読み直す気にはなりません。とにかく「強引で変な理屈」でした。お話にならない感じがしたのを覚えています。

ともかく信長は真面目な正常な人間らしいのですが、

では例えば「信長公記」には親父の葬式で「抹香をくわっとつかんで、仏前に投げかけて」ありますが、「これは若い日のあやまち」なんでしょうか。当時の資料に載っているわけです。一応一級資料です。異常な人格です。

それから一向一揆攻めにおける「なで斬り」をどう説明する。天正伊賀の乱における虐殺3万人をどう説明する。NHKご用達の磯田道史氏など「許せない。とんだサイコ野郎だ」と「英雄たちの選択」で発言しています。
 
さらに城の建て方の革新性をどう評価するのか。
 
戦略的ウソが多い手紙なんぞより、実際の行動の方を見るべきです。

一次資料など、使い方次第でどうとでも「解釈」できるわけです。

だから私の書いていることも「史実だ」ということではないのです。そもそも資料がすくな過ぎるのです。信長の妻たち、帰蝶も吉乃もお鍋の方も、実名すら分かりません。
 
それに何故「信長が人気ランキング1位か」を考える場合、その革新性が国民を引き付けていることは確かでしょう。「悪漢小説」というジャンルがあるように、「悪漢の魅力」というものがあるのです。それを真面目ないい子にされてもなーと思います。

まあ「麒麟がくる」で「守旧的な信長を描く」ことは良くはないけどしょうがないでしょう。ただそれが史実だとするのは無理というものです。

かつて山岡荘八が「聖人君子の家康」を描いてベストセラーになりました。あくまで勤王の人として描いたのです。でも今は「たぬき親父」扱いです。

信長をどう描こうと、それはドラマだから自由なんですが、「もし勤王の程度によって人を評価しようとしている」なら、それは愚行です。なんせ信長は上京を焼き払っているのです。京都焼き討ちです。本当は下京も焼くつもりで命令を出しています。勤王の志士にするのは、いかにも無理です。

こういう見方もある、はいいのですが「最新研究だから史実」とはなりません。学者さんの「一次資料の使い方」は極めて恣意的だからです。数日に一冊は歴史家の本を読んでますが、「わかってやってるな」と思うほど不誠実な人もいます。ただしごく少数、本当に真面目な方もいます。
 
大河の視聴率を高めるためには、若い層も開拓しないといけません。どうせ年寄りは「麒麟がくる」を見るだろう。じゃあ若者受けだ。最近の若者は守旧的だ。「それじゃあ信長も守旧的にしてしまおう」とうNHKの意図が「みえみえ」なのが、なんというか「お願いだからやめてくれ」と言いたくなるわけです。ウソだし。

そもそも「魔王信長」を散々デフォルメして描いてきたのはNHKです。「おんな城主直虎」のデフォルメなんて極端でした。

あとは、どーでもいい話ですが
大河ドラマにおける「狂気の度合い」で考えると、
「国盗り物語」ではさほどではありません。
「信長キングオブジバング」は狂気の人というより「変な人」という描き方です。
「功名が辻」では「かなり狂気が入って」きます。
「おんな城主直虎」となると「完全な魔王」です。市川海老蔵(団十郎)です。
「真田丸」には合計5分も登場しません。真田昌幸、草刈さんは「若い頃の信玄公のような気迫を感じた」と評価し、その妻高畑さんには「神仏を大事にしない人はろくな死に方をしない」と言わせています。計5分ですが重層的な描き方になっていました。

坂本龍馬と大村益次郎、西郷隆盛・薩長同盟

2019年04月04日 | 坂本龍馬
好きな人物ランキング、織田信長が1位、坂本龍馬は4位です。龍馬意外と人気ない。「歴史秘話ヒストリア」調べです。2位が秀吉、3位が家康、5位は西郷です。

龍馬は最近ドラマ化されていません。西郷どんの坂本龍馬、小栗旬も「ちょっと出てきた」感じでした。

薩長同盟の評価も随分と低い方へ変わりました。ウィキペディア(怪しい面も多い辞書ですが)などにも、「幕府による長州藩処分問題に関して、長州藩の状況が悪くなっても薩摩藩は長州藩を支援するという内容であり、共に倒幕へ向けて積極的に動き出そうとするものではない。 」とか書かれています。

歴史番組などでも最近は「過大評価だった」とするものが多いように思います。

薩長同盟運動は最初は失敗します。西郷が「ドタキャン」したせいです。桂小五郎は「激怒」します。長州は西郷が「大嫌い」でした。

そこで龍馬や薩摩藩は「幕府の命で外国から兵器が買えない長州、に代わって島津の名で武器を長州に調達」したのです。

当時長州の軍事担当だった村田蔵六(大村益次郎)は、元込め式回転弾の「ミニエー銃 」を購入したかったのですが、非常に「難儀」していました。

以下はドラマですが、そこに龍馬が現れ、「一か月もあればなんとかなるじゃろ」と言ったので大村は驚きます。さらに龍馬は言います。

「そもそも、あれだけ憎みあっている薩長が、簡単に手を結ぶと考えたのが失敗じゃった。まずはモノの交流で薩摩が誠意をみせれば、長州の感情も少しはやわらぐじゃろ」

大村は心でこう考えます。
「この男、世を動かすのは思想ではなく、経済だと言っている」

むろんドラマです。当時は思想とか経済という言葉もなかったはずです。しかしモノの交流はドラマではなく、史実です。ただし龍馬の海援隊が「一手に担ったかどうか」はまだ調べていません。

さて薩長同盟。締結段階において桂小五郎ら(他に品川弥二郎、三好重臣など)は、「長州から頭を下げる」ことはしません。それは薩摩側も同じでした。

遅れて京都に来た龍馬はこの薩長の態度に激怒します。ドラマでは「薩摩がなんだ。長州がどうした。武士なんぞ滅ぶべくして滅びるぞ。そんなものにこだわっているようでは、所詮、おまんらは、日本人じゃない」となります。

これに対し桂は、同盟がならねば長州は滅びるが、「悔いはない」と言い、
「たとえ長州が滅びても、薩摩が日本のために尽くしてくれるならば、天下の為に幸である」 と言います。

これを聞いた龍馬は薩摩藩邸に走り、
「いつまで見栄の遊びをしているのだ。長州が、長州がかわいそうじゃないか」

これは「竜馬がゆく」の最も大切なシーンでもあります。「長州がかわいそうじゃないか」という言葉を書くためだけにこの小説を書いた、と確か小説内でも述べています。

薩摩人は「かわいそう」に弱いのです。「弱い者いじめ」は私の子供の頃でも、「最も卑怯な行為」とされていました。

西郷は威儀を正し「坂本さーの言う通りごわす」と応じます。

最後の方はむろん、小説、ドラマの話です。どこまで史実かをちょっと調べましたが、分かりませんでした。わたしは西郷も龍馬も大好きというわけではなく、龍馬などはちょっとかっこよく描かれすぎかなと思っている人間です。それでも、これが史実に近いならば、それぞれの人物に大きな魅力を感じます。


元号不便という意見が噴出・わりとズレていなかった私の感覚

2019年04月03日 | 令和
官房長官の「元号使用見解」に対し、ネット上でも「異論」が噴出しています。元号の使用についてです。

7割程度の人が「元号不便」と思っているようです。私の感覚は割と「ズレて」いなかったのかと「ほっとしている」次第です。なら令和についてまだ書いてもいいかなとも思いますが、ここでは「元号の使用」について書きます。

官房長官が、
「元号の使用は政府として強制するものではない。国民は元号、西暦を自由に使い分けてもらっていい」と述べた。各省庁や地方自治体など公的機関については「従来、元号を使用してきた。この慣行は当然続けられるべきだ」と強調した。 

という記事がありました。それに対する国民のコメントです。

元号は伝統的、文化的財産。存続させたいが実用上は不便です。政府が「国民は自由に使い分けて」と明言したのは前進ですね。
いっぽう、公的機関で元号を使うべき理由に「慣行」しか挙げられなかったのは準備不足でした。なぜ「当然続けられるべき」なのか、説得力ある説明を聞きたかったです…たぶん無いけど。 

これは3000の賛成。700の反対です。「慣行つまり伝統問題」にこだわったからやや反対が多い。

それはそれでいいが、公的機関でも、間違い防止、能率の維持・向上の観点から必要と判断されるものは西暦主体とすべき。無理して元号使用に固執する方がむしろ、元号への疑問を招いて、その永続性を損ねる事になる。昭和と平成がわりと長く続いた為、元号の「弱点」をあまり感じなかったが、この先は、同じではない。 

これは賛成2000で反対500。令和は短いのではという部分が反対を増やしていますが、それでも圧倒的に賛成が多い。

官庁が元号を使用するのは良いが、我々が公文書に記入するのに元号でなければならないとなると面倒だし間違いも起きやすいので、西暦で統一してほしい。
あと免許や車検の「平成◯年まで有効」とかも西暦を併記してほしい。 

これは賛成650で反対160。実用性を「押していて」「官庁が使用するのはいい」としているから、反対が増えなかったのだと思います。

☆概して実用面から「不便だ」と感じている人が多いのが分かります。「お祭り騒ぎ」をしているから、多くの人が元号使用に関しても、賛成なんだと思っていました。天皇祝賀と元号不便は「それとこれとは別」なんだと知りました。なら令和について「もう少し書いてみようかな」と思っています。

田中角栄と日中国交正常化・中国にかけたご迷惑

2019年04月03日 | 政治
1972年2月、米国のニクソン大統領が大陸の中国を訪問します。予告はされていましたが、当時としては「考えられない」ことだったので「ニクソンショック」と言われました。なおニクソンショックは金融面でも起きました。

これを受けて、1972年の7月に総理になったばかりの田中角栄が9月には訪中し、「日中国交正常化」を行います。

ここで「わりと有名な」事件が起きます。

田中は「わが国が中国国民に対して多大のご迷惑をかけたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するものであります」 と言ったわけです。

そして「日本側の通訳」が、「迷惑をおかけした」の部分に「添了麻煩(ティエンラマーファン)」という中国語を用いました。迷惑は中国語だと「麻煩」となるようです。

それまで割と穏やかだった雰囲気が一変します。「麻煩」は「あっ水こぼしちゃった。ゴメンね」の「ゴメンね」ぐらいの意味しかないからです。うっかり迷惑をかけるという意味です。

例えば「広島・長崎に核爆弾うっかりおとしてゴメンね」なんて言われたら、日本人だって怒ります。(怒らない人もいるかな)

これは日本側が中国語をよく知らなかったせいだと私は思っていましたが、少なくとも「迷惑」という言葉を使おうということは田中と外務大臣大平らでよく「練った」そうです。

でも中国語訳である「麻煩」の意味まではどうもきちんと田中・大平に伝わっていなかったようです。なぜなら証言としてその夜「大平外務大臣は頭を抱え込んでいた」というものがあるからです。田中は大酒飲んで酔っていたそうです。

「迷惑をおかけした」の部分に、違う訳を使えばよかったのです。せめてもう少しまともな謝罪の意味を表す訳を使うべきでした。「多大のご迷惑をかけた」という田中の表現は、日本語では深い反省の意味を表現しているわけですから、それに見合う訳が必要だったわけです。それなのに「迷惑」という言葉を直訳風にしてしまった。

「うっかり迷惑かけて、深く反省します」では前と後ろの表現がつながりません。

田中は「日本では申し訳ない、もうしないといった非常に強い気持ちなのだ」と再度中国に説明します。結局、共同声明では「中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と書くことで決着します。

毛沢東は田中に対して「(周恩来総理と)もうけんかは済みましたか。けんかをしてこそ、初めて仲良くなれるものです。」と語ったと言われています。「わりとまとも」です。一方、毛沢東はこの頃、文化大革命という世紀の悪政を行ってもいました。「文革」です。周恩来総理は重篤な病気でしたが、文革を主導する毛沢東夫人ら「4人組」との「抗争」に体を張っていました。1976年に亡くなります。

政治家ですから「善悪両面」を持っていますが、概して今に至るまで中国の指導者の中では国際的評価が高い人物です。どうみても毛沢東よりは優れています。

さて、田中角栄。今は「伝説」が流布していますが、総理在任はわずか2年ちょっとです。1974年12月。日本列島改造論、狂乱物価・オイルショック、最終的な支持率は10%ぐらいでした。ロッキード事件は1976年ですから、この事件で退陣したわけではありません。

彼のライバルは福田赳夫でした。財務のプロで「財政均衡論者」です。今の時点ではまだ戦後最長の総理である佐藤栄作(現総理の祖父の弟)は、福田赳夫に総理を禅譲するつもりでしたが、田中派が独立し、総理になったという経緯があります。

山陽新幹線計画(佐藤総理の地元山口を通る)を巡っては、推進する田中に佐藤は反対していました。
「でも総理の地元も通るのですよ」
「誰が乗るのだ。タヌキでも乗せるのか」
という会話があったとされています。

話戻して、結局田中は狂乱物価対策で福田赳夫を大蔵大臣として起用します。
福田「なら日本列島改造論はもうひっこめてくれ」
田中「あれはおれの一番看板だから、オイルショックが」
福田「違うよ。列島改造が問題なんだ。おれの財政政策に口だすな。それなら引き受ける」

こういう感じの経緯があって、福田は大蔵大臣を引き受けます。そこから福田は「無駄な予算」をビシバシ削ります。「鬼の如き気迫」があったそうです。

1974年、立花隆の記事が契機になって「金脈問題」が発生します。
狂乱物価、オイルショックで落ちていた田中の支持率はさらに落ちます。

金脈問題を受けて、派閥の長だった三木や福田が大臣を辞任。そして田中の退陣です。

田中は退陣後、自民党離党後も隠然たる勢力を持ち「目白の闇将軍」と言われました。しかし旧田中派でも造反がおきます。ダイゴの爺さん、竹下が田中の反対を振り切り旧田中派をまとめて総理になります。

角栄さんが故人であることを考え、「いいこと」も書きますと、中国では今でも日本の「友人」として尊敬されているそうです。また中学出だったことから「今太閤」と言われ、就任時は大変な人気がありました。

令和・万葉集・梁塵秘抄・漢詩

2019年04月02日 | 令和
もう令和のことはなるべく書きません。そういえば万葉集も久しく読んでいないなと思いました。「読む」でいいのだろうか。まあ「詠む」ではないですね。

で代表的な200ばかりの歌を見てみました。有名順というランキングがあって、上位二首はこの歌でした。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る  額田王
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも  天武天皇

これは贈歌と返歌です。「こっそり交わされた恋の歌」ではなく、宴で堂々と交わされた歌です。二人の年齢もそんなに若くはなかったはずです。

ちなみに天武の歌を万葉仮名で表記すると、

紫草能  尓保敝類妹乎  尓苦久有者  人嬬故尓  吾戀目八方 

これが私が前に書いた「全部漢字です」の意味です。全部漢字なんです。
音だけを利用しているわけではないことが分かります。
「紫」「妹」「有」「人嬬故」「吾」などは正確に使っています。
妹は貴女ぐらい意味です。「いも」、「いもうと」とは読みません。

「きれいな歌だな」とは思うのですが、なんかちょっと物足りないとも感じてしまいます。

これが平安末の「梁塵秘抄」となると、凄いことになります。後白河法皇 が好み、そして選んだ今様(流行歌)です。お上品じゃありません。

恋しとよ君恋しとよゆかしとよ
逢はばや見ばや見ばや見えばや

(訳) 恋しいと 君が恋しい 慕わしいと ただそれだけ
    逢いたい 見たい 見たら 逢えたら 

後半部分の過剰な「攻撃」はなるほど「下品」かも知れません。しかし「恋とはこんなものかな」と思わせる説得力を持っています。

もっと凄いのもあります。

われを頼めて来ぬ男
角三つ生いたる鬼になれ さて人に疎まれよ
霜雪霰降る水田の鳥となれ さて足冷たかれ
池の浮草となりねかし と揺りかう揺り揺られ歩け

(訳) 口説いたきりで来なくなった男
    角三本の鬼になれ さあ人に嫌われろ
    霜 雪 霰降る水田の鳥になれ さあ足も冷たかろ
    池の浮き草になればいい 揺り揺られしてふらふら歩け 

12世紀、平清盛、源頼朝と渡り合った後白河法皇 はこういう歌が好きだったわけです。平安末だから凄いわけではなく、後白河法皇 の好みです。まあ詠んだ民衆(または貴族)が凄いのですが。彼のおかげで、残るわけない歌が残っているのです。梁塵秘抄。りょうじんひしょう、と読みます。

それに対して、漢詩で非常に有名なのはこれです。

元二を送る<王維>                        
渭城の朝雨 軽塵を浥す
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む更に尽くせ 一杯の酒
西のかた陽関を出ずれば 故人無からん

げんにをおくる<おうい>

いじょうのちょうう けいじんをうるおす
かくしゃせいせい りゅうしょくあらたなり
きみにすすむさらにつくせ いっぱいのさけ
にしのかたようかんをいずれば こじんなからん

この「書き下し」は「日本語」です。中国では当然中国音で読みます。そして「日本語の美しさ」と「格調」という面から見た場合、この「書き下し」は実に美しい。日本語として美しいという意味です。

わたしは中国びいきじゃないし、行ったこともありません。中国音でどう読むのかも興味ありません。

ただ「日本語としての漢詩の音の美しさ」は素晴らしいと思います。
西のかた陽関を出ずれば 故人無からん、、、美しい。

万葉集のうつくしさ。梁塵秘抄の情熱。漢詩の日本語としての格調の高さ。それぞれ長所があり、あとは個人の感性の問題かなと思います。

映画「空海」・「わたしの空海の風景」

2019年04月02日 | 空海
わけあって「こもる」ことを余儀なくされているので、ブログばかり書いています。「伝えたい」というより「書くことが楽しい」のです。

「空海の風景」は司馬さんの作品ですが、もう十年も読み返していません。だからこの文章は「わたしの空海の風景」です。要するに空海に対する「感想文」です。

小説「空海の風景」では、空海が「ちょっとした業師」として描かれていたと思います。「密教を国に売りつけることがうまかった」というか、「最澄が奈良仏教と戦っているのに、空海はそういう戦いをさけて、うまいこと密教の価値をつりあげた」という感じだったでしょうか。むろん「日本史上最大の巨人」という評価をした上でのことです。なにせ一留学僧として唐に渡り、2年で当時最新だった密教の全てを恵果阿闍梨から「奥義伝授」されて帰ってくるのです。どれだけの才能を持っていたのか。底知れません。

そもそも四国の人です。一族の期待を担って上京します。儒教を学んで、官吏として出世することを望まれていましたが、あきたらず、仏教の世界に飛び込み、修験者のような荒修行のあと、唐に渡ります。密教を正統後継者として伝授され、真言宗を開きました。9世紀初頭の話です。

と書きながらも、私は別に密教に詳しいわけでも、まして修行をしたわけでもありません。私が書けるのは密教の「イメージ」だけです。

まず風や嵐といった自然のエネルギーと一体化するというイメージがあります。映画「空海」にそんなシーンがあるのです。唐に渡る途中、空海らの船は大嵐にあって沈没しかけます。橘逸勢らは怯えますが、空海は「本当のことが知りたいか」と言って甲板に飛び出します。「風を恐れるな。己が風になれ。雨を恐れるな。己が雨になれ、人も大地も空も風も、みんな生きているのだ」というセリフがあったと思います。

それから「性のエネルギーを生のエネルギーに」というイメージ。実際これは理趣経という経典に書かれています。例えば「男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である 」と書かれています。これは「単に性を肯定したわけではない」とされ、「小難しい解釈」がなされます。

私はそういう「小難しい解釈をして、欲望の肯定だけではないのだ」とする必要があるのかなと思います。

ただしこれ以上深く書いてしまうと、いかにも道徳に欠けた人間と誤解されるので、これ以上は書きません。

密教なんだから、世俗の道徳は超えて真理を示してくれないと、ぐらいは思っています。

宗教のことは、本当に「何も知らない」人間です。だからイメージだけで書いています。高野山のお坊さんに怒られるかも知れませんが、高野山のお坊さんはたぶん「読まない」ので大丈夫だろうと思います。



小学生の時の不思議な体験・火の玉

2019年04月02日 | 日記
私には「霊感めいたもの」はありません。昔は「怪談」が好きでしたが、今はそうでもありません。「不思議な体験」なんて「ほぼない」と言っていいでしょう。

ただ小学生の時に、というより最終的には中学生の時に、一つだけ不思議な体験があります。

「お墓で火の玉を見た」から始まる話なんですが、そんなもの不思議でもなんでもありません。燐光だったかも知れないし、「見間違い」かも知れません。

本当の不思議は「後日談」なのです。

でもまずは火の玉の話から。

近くのお寺には広大な「公園」があって、その頃は野球もできました。小学5年だと思います。その「公園」から自宅に帰る場合、「お墓の横の急な階段」を利用すると便利なんですが、薄暗くて物騒なので、学校から「使用禁止」とされていました。

でもまあ無視です。私を含め4人の友人と、夕方、その階段を降りていたわけです。すると墓の向こうで、明らかに不自然な光が光っています。「火の玉だ」(人だまだ)、誰かが言い、私たちは「転げ落ちるように階段を降り」、走って逃げました。やっと明るい所に出て、相談しました。火の玉の話をすると、「使用禁止の階段を使った」ことがばれる。これは秘密にしておこうと。

次の日、学校でまた4人が集まり、家族にも話していないことを確認しました。私は家に帰り、自宅の壁の下のほうに、えんぴつで、凄く小さな字で「火、ひみつ」と書きました。

4年が経ち、中学3年生です。「火の玉」のことなんかすっかり忘れていました。「火、ひみつ」の文字も見返したことなんかありませんでした。

卒業も迫り、廊下で他のクラスの生徒と話していました。ふと気がつくと「例の4人」になっているのです。それぞれ別のクラスです。私は「あっ」と思いました。火の玉を見た4人だなと思ったのです。

もう4年も経っています。それで「あの時は怖かったな」と話を切り出しました。すると3人は「きょとん」としています。

「そんな経験はしていない」というのです。「夢と現実を混同しているのだ」と笑われました。わたしはぞっとしました。

家に帰って壁を確かめると、薄くはなっていますが確かに「火、ひみつ」の文字があります。

可能性は2つです。
すべて私の夢で、夢をもとにして「火、ひみつ」の文字まで書いた。
現実だったのだが、何故か3名が完全に忘れている。

前者なのかも知れませんが、その時の私は後者だと思いました。あれだけの体験を、なぜか3人が完全に忘れているのです。

今でも、これだけは不思議です。

司馬遼太郎さん「覇王の家」再読・ノストラダムスの大予言

2019年04月02日 | 徳川家康
「覇王の家」司馬遼太郎さん作。徳川家康が主人公です。久々に再読しました。ノストラダムスの大予言は最後の最後に触れます。

 書きたくないって感じが伝わってくる本です。司馬さんは、豊臣秀吉「新史太閤記」は喜んで書いているように思います。でも信長と家康はそうではない。信長に関しては「書く気がなかった」とはっきり言っています。「国盗り物語、後編」です。前編の斎藤道三で終了させるつもりが、諸事情で信長編を書いたと書いています。「後編」は信長単独主人公ではなく、明智光秀も主人公です。小説「功名が辻」にも信長は一切登場しません。

 家康は「関が原」にも登場しますが、あくまで主人公は石田光成です。大阪の陣を描いた「城塞」は主人公がいない小説ですが、家康について多量の叙述があります。がまあ批判的叙述の方が多いかなと思います。 

さて「覇王の家」

 徳川家康を「ただ一点においてのみ」評価しています。 

「徳川家康というのは虚空の中にいる。地上にいるなまの人間と思えないほど、この男は自分の存在を抽象的なものにしようとしていた。中略。この男のこの精神をあらわす適当な既成の言葉がなさそうで、無私といえば哲学的でありすぎる。かれは俗流の人物で、とうてい無私という透明度の高いことばはあてはまらない。」 

ほめているのか、けなしているのか分かりません。

「自分の存在を抽象的なものとする」「でも俗な人間」、、読み終わっても司馬さんの言いたいことは私には3割も理解できなかったような気がします。 

どこまでも自分を客観視し、「自分の怒りも悲しみも喜び」も政治に利用した。自分を平凡な人間ととらえ、「殿様」「天下様」である自分を「まるで他人を教育するように」作り上げていった。 たぶんこの理解では駄目かなと思いますが、わたしはそんな風に受け取りました。

 司馬さんは「例」を挙げています。自分が天才ではないと分かっていた家康は、武田を滅ぼすや、それまでの自分の「軍法」をすべて捨て、「武田家の軍法」を「まるまる採用」した。史実かはまだ調べていません。そういう風に「今までの自分を平気で切り捨てられる」「そうして天下様の自分を作り上げていく」ことなどを「例」としてあげています。 

さて話題転換。 

「書きたくないのでは」と私は書きました。前に読んだ時も不思議に感じたのですが、ほぼ秀吉との「小牧長久手の戦い時点」で終わっているのです。関が原も大阪の陣もなし。小田原攻めもなし。いきなり「家康の最期」に移行します。 

司馬さんは秀吉の家康臣従後の歴史を描きません。これは「新史太閤記」も同じで、「家康の上洛・臣従」時点で終わっています。「覇王の家」は「さらにその前」で終わりです。 四国征伐、九州征伐、小田原攻め、そして無論朝鮮の役も描きません。「播磨灘物語」(黒田如水)はどうであったか。今手元にないので、この作品がどこまで描いていたかは記憶にありません。 そして「関が原」「城塞」(大阪の陣)に「飛ぶ」のです。 

「覇王の家」は意外にも「アクが強い作品」で、どっちかというと家康を批判している感じすら受けます。「三河武士」もほめているのか、けなしているのか、わからない作品です。 

まとまりなく書いてきましたが、最後に「ノストラダムスの大予言」

 ノストラダムスは1999年に世界が滅びるなんて予言してません。その解釈は五島勉氏のもので日本だけの解釈です。紀元後3000年以上まで予言すると本人は言っているのです。 勝手に「予言したこと」にされ、勝手に「当たらなかった」と言われては、ノストラダムスも迷惑でしょう。わたし自身はもう予言を信じるほど純粋ではないですが。 

信長は「中世の破壊者だ」と司馬さんは書いたことにされています。実際書いてはいます。でも最初に書いたように、「信長のことはほとんど書いていない」のです。「国盗り物語」信長編があるのみです。これは編集部に要請されて書いたもので、さほど積極的ではなかったことは本人も言っている通りです。 

それが「司馬は中世の破壊者だと書いたが、あれはウソだ」と言われ「本当はこうだった本」が量産されています。

ノストラダムスと違って「書いてはいる」ので仕方ない面もありますが。 そもそも「虚構」でありましょう。

だって「小説だから」です。編集部に要請され小説を書いたらウソつき扱い。「国民作家」とはつらいものです。

発音しにくい令和・中国排斥・でも万葉集は漢字で書かれている

2019年04月01日 | 天皇

今日は令和について色々書いてきました。本来、このブログは「日本史ブログ」です。政治的なことは書いてきませんでした。

でも令和の出典に関して、「しきりと漢籍排斥」が言われるのは、なんというか「滑稽」で「狭量の極み」という気がして、また少し書きたくなりました。でも「政治のことは書きたくない」のが本音で、「狭隘なナショナリズムと戦おう」なんて「戦意」は私にはありません。

元号は中国では紀元前から使っています。今は使っていません。日本では645年の「大化」が最初の元号です。つまり「元号そのものが中国由来」なのです。「漢籍排斥」に何の意味があるのでしょうか。しかも令和の出典である「万葉集」は「漢字で書かれている」のです。万葉仮名です。全部漢字です。「ひらがな」も「カタカナ」もなかったからです。

漢文ではないのです。まだ漢文を書く力を持った者は少なく、漢字の「音」を利用して書いています。時代が下ると、和製漢文で和歌を記すことが可能となったようです。「変体漢文」と言われます。わたしは詳しくはありません。

私が書いた「日本では大化が最初」も間違いです。「日本」という国名は成立していません。「倭国」です。「ワコク」か「ヤマト」と読みます。「日本」も「天皇」も、使用は早くて7世紀後半からです。これは「日本」で検索すればすぐわかることです。「天皇」で検索すれば、最初にこの「文字を使った」のが7世紀後半の天武天皇か持統天皇だとすぐに分かります。

天武天皇以前の大王は「天皇」と呼ばれてもいなかったし、「日本」という国号も使用されていませんでした。

なお天皇という号は13世紀で廃れ、再び使用されるのは19世紀初頭です。これは「光格天皇」で検索すれば分かります。

さて漢字・漢文について、

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。これは「土佐日記」です。女性が書いてはいません。紀貫之です。でも女性だと嘘をついています。なぜなら「かな」は主に女性が使うものだったからです。では男はどうやって日記をつけていたのか。漢文です。役所の公式文書も漢文です。土佐日記は10世紀の作品。この頃になると、男性は「漢文をつかいこなして」いたわけです。女性でも紫式部などは「漢文をつかいこなした」と言われています。

時代下って戦国武士にとっても漢文は重要でした。家康は大変な読書家で中国の「孫子」「論語」などを読んでいました。日本製の「吾妻鏡」なども「変則的な漢文」で書かれています。ちなみに家康は本当に読書好きで、やがて1万冊を集めた日本一の図書館を作ります。

私は「漢文が大切だ」なんて言ってるわけではありません。日本文化と漢文は「切り離せない」と言っているのです。「科挙」を採用しなかったおかげで、極端な中国化は起きませんでしたが、江戸時代に至っても、漢文は「基本的な教養」だったのです。

ここで韓国の「漢字排斥」に触れます。韓国は「科挙」を採用し、ずっと中国文化の深い影響のもとに政治を運営してきました。15世紀に国王世宗が「ハングルを発明」します。表音文字で日本で言えば「かたかな」です。でもやはり政治の公的場では「漢文」が主流でした。1910年まで。

ところがナショナリズムが台頭し、「中国文化を排除せよ」とばかりに漢字排斥・当然のことながら漢籍排斥(令和におけるような)が唱えられます。朴正煕(逮捕された朴大統領のおやじ)は、1970年に漢字廃止宣言を発表、普通教育での漢字教育を全廃してしまいます。「使用禁止」ではないのです。でも漢字を教えません。だからどんどん読めなくなります。漢字排斥が「文化破壊だった」と気がついた韓国は、今、漢字教育を復活させようともがいていますが、反対運動もあり、混乱しています。企業は漢字が読める人間を求め、だから金に余裕のある家庭は、学校外で漢字を習わせてきました。貧富の差が漢字力の差に連動してしまっています。漢字能力検定試験合格者を優遇する韓国企業が増えてきている、とのことです。娘の朴槿恵大統領が漢字「教育」復活を政策としたのは、「歴史の妙」というものでしょう。

1、歴史を「俯瞰的」に広くみるならば、日本文化と漢籍文化は切り離すことなどできない。
2、万葉集だって漢字で書かれている。
3、漢籍排除・漢字排除、、、韓国が行い、今はそれで困っている「文化破壊」を日本は行ってはならない。

 令和は「初めて漢籍ではなく日本の古典(国書)から選定された」なんて言って「一部の人々が」喜んでいるのは、実に滑稽である、というより交流する文化の本質、文化の複合性と重層性をわかっていない行為だと思えてなりません。

追記 私は知りませんでしたが、この指摘は面白いですね。

「令和」の二文字がとられた序文は中国の有名な文章をふまえて書かれたというのが、研究者の間では定説になっている。
 小島毅・東大教授(中国思想史)によると、(中略)「初春の令月」「風和(やわら)〈ぐ〉」が新元号の典拠(万葉集)だ。この序文(は実は)中国の書家である王羲之(おうぎし)の「蘭亭序(らんていじょ)」を下敷きにしている。
 さらに「梅は中国の国花の一つで中国原産ともされ、日本に伝わった。『中国の古典ではなく日本の古典から』ということにこだわった今回の元号選びは、ふたを開けてみれば、日本の伝統が中国文化によって作られたことを実証したといえる」とも指摘する。(引用ですが、勝手に中略をしています)