鏡海亭 Kagami-Tei  ウェブ小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

生成AIのHolara、ChatGPTと画像を合作しています。

第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第59)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

形のない鬱憤と義憤とが混在、旧世界に対する少年の怒り!

連載小説『アルフェリオン』まとめ読みキャンペーン(?)、今晩は第9話と第10話をお届けします。

第9話、自分の日常的に抱えている漠然とした鬱憤を、旧世界の非道な○○実験に対する義憤とごちゃまぜにして、ぶつけるルキアン。いま思えば、このときのルキアン君の姿勢は、かつてのエインザール博士に通ずる部分があってコワイですよね。

第10話は、地味ですけど好きですねぇ(^o^)。嵐の前の静けさというのか、ひとときの戦士の休息というのか、独特の雰囲気を楽しんでください。

何気に、パラス・テンプルナイツ(パラス機装騎士団)が初めて出てくるのもこの回です。パラス騎士団って、本来ならこの人たちが主役でもおかしくない面々です(笑)。ややネタバレですが、パラス騎士団のキャラたちは、それぞれ、物語上、非常に重要な役割を背負ってます。たんなる思わせぶりな脇役の集団ではありません(^^;)。

かがみ
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第10話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


11

 ◇ ◇

 ルキアンは、シャリオに案内されてギルド本部の一室にやって来た。
 扉を開けるとクレヴィスの背中が見えた。彼は窓から外を眺めている。
 テーブルと椅子の他には目立った家具もなく、生活の臭いのしない寒々とした部屋の中では、遠く広がるイゼールの樹海や眼下のアラム川の豊かな眺望だけが、唯一の贅沢だった。
「急に呼び出して、申し訳ありませんね」
 クレヴィスはゆっくり振り返って、いつもの微笑を浮かべる。含みのある笑顔で口を閉ざしたまま、彼は窓際を行ったり来たりしている。そして不意に……全く唐突にこう尋ねた。
「ルキアン君。あなたは旧世界のことをどう思っていますか?」
 ごく緩慢な足取りで、クレヴィスはテーブルの前にやって来る。
「どうって言いますと?」
 何の脈絡もない質問を受け、ルキアンは答えに困っている。
 突っ立ったまま考え込んでいる彼に、シャリオが手振りで着席を促す。
 クレヴィスは話を続けた。
「少し違う角度から質問しましょう。ルキアン君は、旧世界に憧れを抱いていますか? 魔道士が血眼になって旧世界の超テクノロジーを発掘し、また一部の知識人たちが、旧世界の社会の《システム》やそれを支えた思想に心酔しているように」
 ルキアンは黙って頭を悩ませていた。どうしてそんなことを自分に聞くのだろうかと。彼はクレヴィスの顔色をうかがうように、上目遣いにちらちらと視線を走らせる。しばらくして、途切れ途切れに語り始めた。
「憧れ、ですか。あの……そうですね、旧世界に対する好奇心のようなものは確かにありますが、それが憧れだとは……僕は《思いたくない》んです。正直な話、あの《塔》の中で僕は感じました。何と言うのか、旧世界に対する漠然とした不信感、あるいは《反感》にも似た気持ちを」
「悪魔の技にも等しい、あの実験を知ったからですか?」
 シャリオが瞳を曇らせる。
 彼女の言葉を当然のように肯定しかけたルキアン。だが、ぼんやりと頷き始めたとき、彼は慌てて首を振った。
「はい、たぶん……いや……実は良く分からないんです。人体実験を行った人たちのことを、僕は確かに許せないと思いました。でも、後で冷静になってから考えてみたら……それが、その、どこか違うんです。僕はあのとき、本当は旧世界の全てを憎んでいたのかもしれないって。どうしてかは分からないです。僕は旧世界のことなんて何も知らないのに……」
 その言葉は、ルキアンが素直に心情を吐露した結果だったろう。しかし、それだけに理解しがたい部分を含んでいた。
 けれどもクレヴィスは、直感的にではあれ、彼の言いたいことをある程度つかんでいるようだ。
「やはりそうでしたか。バラミシオンでアルマ・マキーナと戦ったとき、ルキアン君は激しい敵意をあらわにしていましたからね。機械の大ムカデは、あなたにとっていわば旧世界の象徴であって……そしてあなたは、アルフェリオンを通して、その《象徴》に反感をぶつけたのですね。違いますか?」
 クレヴィスはそこで一息入れて、ルキアンの目をじっと見た。
「しかしアルフェリオンもまた、旧世界が生み出したものなのです」
「それは、そうですけど……」
 言葉を詰まらせたルキアン。
 クレヴィスは静かに頷いた。
「ただ、アルフェリオンを含めて、かつて一部のアルマ・ヴィオに用いられた技術……すなわち《ステリア》は、結果的に大きな災いを旧世界にもたらしたのです。その意味では、アルフェリオンはむしろ旧世界に仇なす者だったのかもしれませんが」
「災い?」
「そう。旧世界を滅亡に導いた原因のひとつが、多分、ステリアなのです……」



12

 ルキアンは思わず聞き返した。
「本当ですか? ステリアが旧世界を滅亡へと……」
「古文書による限りそう考えられます。正確に言えば、ステリア兵器を用いた戦争によって、旧世界の文明が事実上崩壊したという意味だと思うのですが」
 クレヴィスは瞼を閉じて、軽く腕組みする。しばらくして彼はおもむろに顔を上げ、また目を開いた。
「そして大いなる災いと呼ばれたステリアの力は、アルフェリオンと共にいま蘇りました。あなたは、その重大さをどれだけ理解していますか? ルキアン・ディ・シーマー君……」
 クレヴィスの眼鏡が光った。
 恐るべきステリアの力を前にしたとき、もちろんルキアンも懸念を感じなかったわけではない。彼が否応なく思い返したのは、ガライアとの戦いの後、メイに語ったあの言葉である。
 ――ねぇ! アルフェリオンのせいで、いや、僕のせいで……たくさんの人が死んでしまった。違う、殺してしまった……それなのに僕、わけが分からなくて。
 ――メイたちを助けようと思って、夢中で、戦っているときは何も感じなかった。でも後になって、哀しくなって……。自分のしたことが許せなくなって。

 ところが、そんな辛い思いに心を悩ませていたにもかかわらず、ルキアンは、バラミシオンの中で再びステリアの力を呼び出してしまったのだ。
 しかもそのとき、彼は我を忘れて――いや、半ば自覚的・肯定的に、アルフェリオンの力に自らの心を重ねていた。表面的には、あの非道な人体実験に対する義憤が、ルキアンの怒りをかき立てたのかもしれない。だが実際のところは、日頃の抑圧された感情を吐き出すために、彼が、自らの攻撃的な衝動を旧世界の遺物に向けていたのも確かである。彼自身にも漠然と分かっていた。
 ルキアンの顔から血の気が引く。
 今になって思い起こすと、あの時、確かに自分はステリアの魔力に魅入られていたのだろう。争いが嫌いだと?――己の矛盾した言動の中に、彼は恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。
「僕は、僕は……」
 言葉に詰まり、じっと黙り込んでしまったルキアン。
 シャリオが彼の気持ちを察して言う。
「ルキアン君は、戦争の愚かさや醜さを敏感に受け止めることができる人だと思います。私はそう感じるのです。彼がステリアの力を使ったのも、2回とも私たちを守るためにやむを得ず行ったことです」
 しかし彼女の言葉は、逆にルキアンの自責の念をいっそう強めた。彼は心の中で自分を嘲った。
 ――違う。僕はそんな立派な人間じゃない。いま分かったんだ。本当は自分の鬱憤が爆発するにまかせて、アルフェリオンの力を振りかざし……心の底では破壊することに喜びさえ感じていたじゃないか! きっと、壊してみたかっただけなんだ。アルフェリオンのおかげで、自分が圧倒的に強くて傷つかない立場になったら、その途端、僕は平気で戦いを始めてしまったんだ。僕は卑屈な奴なんだ……きっと今までは、争い事によって、弱い自分が傷つくのを嫌がっていただけに違いない。あぁ!!
 けれどもルキアンの自嘲を、シャリオが知ることはなかった。彼女はそのまま話し続ける。
「《力》というのは、それ自体、善でも悪でもないのです。それを人間がどう使うかによって、結果的に善にも悪にもなるのですわ。ステリアにしても、かつては旧世界の滅亡につながったかもしれませんが、使い方さえ誤らなければ人々の役にだって立つはずです。だから、ルキアン君のような人が……」
「いいえ! 僕は……」
 突然ルキアンが声を上げた。
「僕は怖いんです。とても怖いんです……アルフェリオンの力をこのまま受け入れてしまいそうな自分が! 分からないんだ!!」
 そう叫ぶと彼は頭を抱えた。半開きの口を振るわせ、ルキアンはうつろな目で震えている。
 シャリオは彼の背中に手を添え、厳かな口調で告げた。
「大丈夫よ。しっかりしなさい。あなたは優しい人です。決して力に心を委ねてしまうような人ではありません」
 だがその声はルキアンの心に届かず、彼の脳裏には、エルヴィンのあの暗示的な言葉が浮かんでいた。
 ――怖い人。そんな静かな顔をして、恐ろしいものを背負っているくせに。
 エルヴィンの超常的な感覚は、ルキアンの心の奥底を見抜いていたのだろうか。彼女と一緒にいたとき、言いようのない不安をルキアンが感じたのは、そのせいだったのだろうか。



13

 クレヴィスが無機質な声で言った。
「分かったようですね。巨大な力というものが必然的に持っている、本当の怖さについて」
 ゆっくり立ち上がったクレヴィスは、冷たい石の壁に手を掛けた。
「特にアルフェリオンは、そういう怖さを持ったアルマ・ヴィオなのかもしれません。格納庫で少し見せてもらったとき、私は落ち着かない気持ちになりました。何というのか、正直な話……私はアルフェリオンに乗って戦ってみたくて、じっとしていられなくなったのです。あれは、戦いへの本能を駆り立てる、危険なアルマ・ヴィオですね。強大な破壊力を美しい姿で飾りたてた、魅惑的な死の天使であるのかもしれません」
 ルキアンが蚊の鳴くような声でささやく。
「だから……だから、僕はもうアルフェリオンに乗るのが怖いんです」
「……では、やめるというのですか?」
 クレヴィスはルキアンに背を向けたまま、静かに問いかけた。
「もしあなたがアルフェリオンを捨て、ここから立ち去ったなら、別のエクターが代わりにあれを操ることになるでしょう。そして何万何千という人間を死に追いやるかもしれません。ステリアの力をもってすれば、ガノリスの都で神帝ゼノフォスが行ったような大虐殺も、ごく簡単なことなのですよ」
「だからといって、僕がアルフェリオンを……エクターになって操れとおっしゃるのですか? それに僕だって、このままではもっと多くの命を奪ってしまうかもしれません。もし誰かが悪いことに使う恐れがあるのなら、いっそ、アルフェリオンなんか壊してしまってください!」
 必死に答えるルキアンに対して、クレヴィスはあっさりとした口調で言う。
「壊す? そんなことはできませんよ。何者かに奪われたもうひとつのアルフェリオンが、万が一にも反乱軍の手に渡った場合、アルフェリオン・ノヴィーアなしでどうやって対抗するのですか? オリジナルのアルフェリオンを、あなたの師匠が敢えて2つの機体に分けたのは、恐らくそういう事態を予想してのことだったのです」
 クレヴィスの言葉は、ルキアンの逃げ道をさらに塞いでいく。
「それに、いま言ったでしょう。神帝ゼノフォスも、まず間違いなくステリア技術を手に入れています。あの浮遊城塞エレオヴィンスとまともに戦えるのは、現在のところ……この世界でただひとつ、アルフェリオンだけかもしれません」
「だったら、メイやバーン、いいえ、クレヴィスさん、あなたがアルフェリオンを……」
「そういうわけにはいきません」
 クレヴィスがにわかに振り返る。
「何よりもルキアン君、私たちはあなたが欲しいのです」
「えっ?」
 彼のその言葉が、ルキアンの胸の内を駆け巡った。
「僕……ですか?」
 頼りなげに尋ねたルキアン。
 クレヴィスはルキアンの声にうなずいて、それからシャリオに目配せした。
 彼は、微妙な笑みを浮かべて言う。
「そうです。たぶん自分では気付いていないかもしれませんが、ルキアン君とアルフェリオンの《相性》は、常識では考えられないレベルなのですよ。そしてルキアン君自身も、エクターとしての高い潜在能力を秘めている可能性があります。ご存じの通り、アルマ・ヴィオは《生きて》いますから、それぞれ自分の個性のようなものを有しています。エクターの能力というのは、結局のところ、アルマ・ヴィオのクセをいかに上手く把握できるか、そして、アルマ・ヴィオの心と自分の精神とをどこまで同化させられるか……その二点によって決まると言っても過言ではありません。もっとも実際のところ、ある特定のアルマ・ヴィオの個性を知り、それに自らを上手く合わせるためには、相当に長い時間を要します。だがルキアン君、あなたとアルフェリオンの場合を考えてみてください」



14

 クレヴィスの言葉は、ルキアンにとって全く意外なものだった。己の不器用さにコンプレックスすら抱いていたルキアンだが、そんな自分に、アルマ・ヴィオを巧みに操る能力があるかもしれないとは……。
「あ、あの……それは、きっとアルフェリオンの性能のおかげだと思います。僕は何も分からず、ただ夢中で動かしていただけなんです。まぐれです。僕なんか、僕なんかに、そんな才能があるわけが」
 よく考えることもせず、彼はクレヴィスの言葉を機械的に否定した。《自分なんかに》という諦めの言葉は、彼の潜在意識すら支配していたのだ。
「いいえ、あなたには……」
 シャリオが何か言いかけたが、クレヴィスの声とぶつかったので、彼女は言葉をいったん飲み込んだ。
 やれやれといった表情のクレヴィス。だからといって彼は、ルキアンが自らをあまりに卑下することに対して、呆れているのでもなさそうである。
「いいですか。初めて操るアルマ・ヴィオでまともに戦うことなど……よほどのベテランでもない限り困難です。にもかかわらず、エクターでもないルキアン君にはそれが可能だった。いくらアルマ・ヴィオの基本的な操作を知っているとはいえ、あんな事は到底できるはずがないのです。後でメイから聞いて驚きましたよ。アルマ・マキーナと空中で戦っていたあなたが、実はアルフェリオンにたった2回しか乗ったことがなかったなんてね。まったく……飛べない鳥だなんて言っていたのは、どこの誰ですか? ふふふ」
 天才的なエクターであるクレヴィスが、そこまではっきりと断言したので、ルキアンもすぐには言い訳できなくなってしまった。
「そ。それは……」
 口ごもる彼の隣で、シャリオが首をゆっくり左右に振る。
「ルキアン君、自分をもっと信じてあげてください。それだけではない、あなたにはもっと素晴らしいものがあるのです」
「素晴らしい……もの?」
「そう。それはルキアン君の持つ心です。たとえ傷つきやすくても、優柔不断になることがあっても、私はそれで構わないと思う。今のままの、そんな感じやすい心こそ、あなたの立派な個性なのですから。これから胸を引き裂かれるような場面がどれだけあったとしても、そして、その苦しみを敢えて大きくする原因が、あなたの心のあり方なのだとしても……それでも優しい感受性を捨てさえしなければ、あなたがステリアの魔力に溺れてしまうことはないでしょう。ステリアの力に心を奪われることのない者だけが、あのアルフェリオンを、真にイリュシオーネのために役立てることができると思いますわ」
「シャリオさん……」
 ルキアンの目から、理由もなく涙が流れた。
「そうですわね、副長?」
 シャリオの言葉にクレヴィスも同意する。彼は言った。
「ルキアン君、ひょっとすると、あなたは現実の中で疎外感を覚えていたかもしれません。繊細な心が欠点や邪魔物にしかならないようなこの世界を、無意識のうちに憎んでいたかもしれません。けれどもルキアン君、あなたはこの世界とはまさに異質であるがゆえに、この世界にとってなくてはならない人なのです。他の誰でもない、君がしなければならないことがあるのです……」
 さらにクレヴィスの口をついて出たのは、ルキアンにとって計り知れない重さを持つ提案だった。
「はっきりと言いましょう。ルキアン・ディ・シーマー、私たちと共に戦ってほしいのです。一刻も早く内乱を鎮め、彼らの背後にいる神帝ゼノフォスをうち倒し、再び世界に安らぎを取り戻すために。そして、君と私たちのそれぞれの未来のために。もちろん、無理は申しません……もし戦うことに疑問を感じているのなら、君自身の答えが見つかるまで、ただクレドールに乗って旅を続けてくれるだけでも構いません。すぐに答えろと言う方が無茶な話ですから、クレドールがネレイを出港するまでに君の結論を聞かせてください。せかして申し訳ありませんが、明日の朝までに……」
 ルキアンは呆然と身体を震わせた。声は喉に絡みついている。
 まさかの言葉だった。
 目の前が真っ白になったまま、ルキアンはじっと宙を見つめていた。


【第11話に続く】



 ※2000年5月~7月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第10話・中編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン




 ◇ ◇

 孤愁に浸る少年の目は、うら寂しい運河の風景を見つめている。
 いつになく空が高く思えた。
 その下に這いつくばるようにして、暗く濁った緑色の水路が伸びる。
 錆びた水門はもう開くこともない。苔むした鉄格子は役割を終えていた。
 土手に置かれた古い木の車輪は……
 誰が考えたのか、野草を寄せ植えした小さな花壇に造り替えられていた。

 けだるい午後の光と空気は、ルキアンの思考をむやみに鈍らせる。
 食事も手に着かず、過ぎ行く時に彼は心をゆだねた。
 そんな彼の様子を見て、メイが軽い溜息を付く。
「ところでルキアン。これから、どうするの?」
 彼女の視線が不意に真剣さを帯びる。
「えっ?」
 ルキアンの胸中で、彼女の言葉が何度も反響した。
 答えなんて、考えていなかった。
 途端に沈黙するルキアン。
 彼は曖昧に視線を泳がせ、隣のテーブルでレーナたちと遊ぶメルカを見た。
 マイエとノエルを加えて、4人でカードを楽しんでいる。
 メルカの澄んだ瞳は……いや、無邪気に透き通っているだけに、いっそう哀しみをはっきりと映し出していた。愛くるしさを振りまき、あどけない輝きを一身にまとっていたあのメルカは、もうそこにはいなかった。
 少女を見つめるルキアンに、苛酷な現実が静かに突きつけられる。
 心配したセシエルが、メイの隣からささやく。
「ルキアン君、話は聞いているわ。行方不明になった先生とそのお嬢さん、早く見つかるといいのにね」
 いまルキアンの為すべき全てのことが、彼女の言葉の中に簡明な形で含まれていた――それは、一昨日までの自分の《日常》を取り戻すこと。コルダーユの街で魔道士カルバの弟子として暮らしていた毎日へと、今の現実を少しでも復帰させること。
 分かっていた。そしてメルカを見るにつけ、あの日常へと回帰するための道を必死で探し求めるべきだということも、分かっていた。
 ――しかし、胸を締め付けるようなこの迷いは? 僕は何を迷っている?
 口に食べ物を詰めたまま、バーンが言った。
「ルキアン、そう難しく考えんなよ。しばらくはギルド本部でやっかいになるといいさ。王国の中でも、ここ以上に裏の情報が集まるところは少ないだろうからな。先生の消息とか……何かいいネタが舞い込んでくるかもしれないぜ。本部の方にも、艦長が話を付けてくれただろうし。クレヴィーじゃねェけど、まぁ何とかなるもんだぜ」
 相変わらずバーンの食欲は満たされるところを知らない。困惑するルキアンの顔から、目の前の料理へと、彼はたちまち視線を戻している。
 彼のそんな素朴さ……一部は無神経さではあっても、それが今のルキアンにはなぜか嬉しかった。





「あの、もう少し考えることにします」
 言葉をにごしたルキアンに、メイが鋭く告げる。
「考えるだけでどうにかなるのかしら? キミの《迷い》というのは」
 ルキアンの心の奥底を、彼女の言葉は雷光のごとく射抜いた。
 本当なら、今は迷う必要もないはず。やるべき事は決まっているはず。
 それなのになぜ……。
 動揺するルキアン。
 だがそこで、別の声によって場の雰囲気が一挙に変わってしまった。

「あらら、みーんなっ! 楽しんでますかぁ?!」
 そのとぼけた声には、メイとルキアンの間に漂う緊張感をも打ち消すだけの、思いも寄らぬ威力があった。暴力的なまでに脳天気な口調である。
「げっ、この声はフィスカ……」
 急に寒気を催した様子で、メイは恐る恐る振り向く。
 その瞬間、白衣を着た娘が飛び込んできた。
「わーい、おっ久しぶりー、メイお姉さま! ばふっ!!」
 彼女がメイにいきなり抱きついたので、もう少しでお茶や料理がひっくり返るところだった。
「離しなさいフィスカ! 暑苦しいっ。誰か、笑ってないで助けてよ!」
「寂しかったですよぉ。でも、こうしてまたご一緒できるなんて、感激ですぅ」
「あたしは感激してない。ちっとも嬉しくない。セ、セシー、助けて!」
 やや過激なほどメイを慕っている彼女は、クレドールの看護助手、フィスカ・ネーレッドである。彼女がいるだけで船が何倍も騒々しくなる……と、クルーの間ではもっぱらの評判らしい。
 良く動く黒い瞳と、少し上向き加減の可愛らしい鼻、茶色いお下げ髪。
 キュートな外見と天真爛漫な性格を持つフィスカは、男女両方の仲間たちから人気を得ていた。彼女に会いたいがために、仮病で医務室を訪れる乗員も多く、それはシャリオの苦笑の種になっている。
「ふふふ。いいじゃないの、仲がよろしいことで」
 セシエルは、フィスカとメイの大騒ぎを慣れた様子で無視すると、続いてやって来た2人の男に黙礼する。
 一方は、多くの点で普通のオーリウム人とはどこか違っていた。珍しい漆黒の髪は言うに及ばず、エキゾチックな濃褐色の目、少し黄白色がかった肌。ローブにも似た単純な白装束を、太い帯で体に巻き付けるようにして着こなしている。その上には革のマント。彼の得物も独特で、ゆるやかに湾曲した刀を大小2本、腰に差している。
 まずこの男に向かって、ヴェンデイルが手を振った。
「よぉ、サモン! それに……」
 彼は、そこでバーンに小声で尋ねる。
「サモンの横にいるのは誰だい?」
「お前、知らないのか? カリオスだよ、カリオス・ティエント……」
「カリオスって、あのカリオスか?!」
 ヴェンデイルは好奇の目を走らせた。





 そう、もう一人はギルド屈指のエクター、カリオス・ティエントである。
 顔なじみらしいバーンが大声で言う。
「おーい、カリオス、元気か?!」
 生真面目な笑顔を見せ、カリオスも黙って手を挙げた。
 最強のエクターという呼び声も高い男だが、拍子抜けするほど物静かだ。
 背格好も、顔も、振る舞いも至って平凡だった。しかし何というのか、常人にはない謎めいたオーラの如きものが、彼の全身に漂っている。ごく普通の姿の中に、そのくせ何を隠しているのか分からない、一種の不気味さがあった。
 バーンが2人に同席を勧める。
「まぁ、茶でも飲んでいけよ、カリオス、サモン。なんなら、酒もあるぜ」
 サモンと呼ばれているのは、ギルドのエクター、サモン・シドーである。孤独を好み、以前は一匹狼の賞金稼ぎとして知られていた彼だが、いつの頃からか、ときおりクレドールに同行することも多くなった。
「そうするかぁ。じゃあ、またな、カリオス……」
 抑揚の乏しい、寝ぼけた感じの声でサモンが言う。
 飄々としてつかみどころのない男だ。少年時代から20代半ばの今まで続けてきたという、浮き雲のような放浪生活が、彼の人格にもいくらか反映しているのかもしれない。
「何だ、カリオスは寄ってかないのか?」
 残念そうなバーン。カリオスは申し訳なさげに答える。
「すまない。私は今から、急いでミンストラに乗り込まなくてはいけない。艦長たちを待たせてしまっていることだし……」
「ミンストラ、もう出るのですね。行き先はやはりレンゲイルの壁ですか?」
 ほとんど面識がないのであろう、セシエルがよそ行きの口調で尋ねる。
「そうです。後でカルダイン艦長からお話があると思いますが、ミンストラは皆さんとは別のルートで反乱軍を攻撃します。またベレナで会いましょう。どうかお気をつけて」
 そう告げた後、カリオスは運河沿いの道を港に向かって歩き始めた。
「そっちもな! まぁ、お前なら心配いらねェだろうけどよ」
 彼の背後からバーンが呼びかける。
 聞こえているのかいないのか、カリオスはそのまま静かに歩き去っていく。

 食の進んでいなかったルキアンは、ようやく料理に手をつけ始める。
 メイが皿の上に取り置いてくれた魚の薫製。鮭を連想させるピンク色の肌は、残念ながら中途半端に生温くなっていた。
「あのカリオスさんって、どういう方なんですか?」
 ルキアンは誰にともなく尋ねた。
 当のカリオスの姿は、もう港の方へと遠ざかってほとんど見えなくなっている。
 目を凝らしてその後ろ姿を追いながら、バーンが答える。
「あぁ見えても、ギルドで一、二を争う凄腕のエクターさ。《魔獣キマイロス》を操るカリオス・ティエント、その名を聞けば、賞金首になってる奴らは震え上がるぜ。なんせ、あいつの強さはハンパじゃねェからな。最近も、盗賊と化した某傭兵団をたった1人で壊滅させたって話だ。20体だったか30体だったかのアルマ・ヴィオを全部片付けたというんだから、ほとんど化け物だな。敵でなくてよかったぜ」





「まったくね……。それにしても世の中、分からないものだわ。あんな凄いエクターが野に埋もれていたなんて。以前からそこそこ腕が立つ人だったらしいけど、正直言ってここまで成長するとは誰も思わなかったんじゃない?」
 フィスカの抱擁からようやく脱出したらしいメイ。彼女は意味ありげな笑みを浮かべて、ルキアンの目を見た。
「たぶん、彼の才能が呼び覚まされるためには、ちょっとした《きっかけ》が必要だったのよ」
「きっかけ、ですか?」
「うん。何て言うのかな、今ここで思い切って飛び込んでみたなら、ひょっとして何かが変わるかもしれないって……そんなふうに感じる瞬間。たいていは幻想かもしれないし、思いこみにすぎないかもしれない。だけど、そういう場面、これまでキミにも色々とあったでしょ?」
 メイの髪が揺れて、彼女の香りがふんわりと宙に漂った。
「そ、それはもちろん……」
 ルキアンは喉を涸らした。
 アラム川のほとりから水路沿いに風が吹き抜ける。
 運河に浮かぶ廃船の周囲で、緑の水面が細波を立てた。
 ――何かが変わるかもしれないって……そうなのかな、そうかも、だからあのとき、僕はアルフェリオンの翼を信じた? ここで羽ばたかなきゃ、僕は埋もれてしまうって、永遠の日常に……心地よい溜息の中に? 本当にそうなの?分からないよ!
 言葉を上手くまとめることができないルキアンに代わって、彼の背後で語る者があった。彼にもよく聞き覚えのある女の声だった。
「たとえ《きっかけ》があったとしても、難しいですね……人が自分の意志で生まれ変わるということは。それは自分に付与された《意味》に対する、孤独な叛乱なのですから」
「イミへの反乱?」
 やってきたその人に会釈しつつ、メイが素っ頓狂な声で復唱する。
「えぇ。《私》を形作っている様々な《解釈》……この砂の塔をいったん取り壊して、己の《生》に自分自身の手で新たな解釈を施そうとするとき、私たちは、諸々の《評価》というお仕着せの上着を脱ぎ去って裸になった自分の、その存在の頼りなさに直面し、激しく震えるのです。大抵の人間はその恐怖に耐えられません」
 そう告げたのは、白い法衣姿の小柄な女性だった。彼女はワインやチーズの入った篭を手に立っている。
「あ、シャリオ先生ーっ!! 遅かったですねぇ」
 椅子の上で跳ねるような仕草をしながら、盛んに手を振るフィスカ。
「先ほどまで、医薬品の補給について港で打ち合わせをしていたのです。今回もお世話になりますね、フィスカ」
 シャリオは静かに一礼した。
 全く対照的な船医と助手だが、だからこそ、かえって2人が上手くやっていけているのかもしれない。
「そうそう。これ、ギルド本部からの差し入れですの。船の方にもたくさん運んでもらいましたから、どうぞ気を使わずに召し上がってください」
 シャリオがそう言って篭をテーブルに置くやいなや、バーンとヴェンデイルがわれ先に酒瓶へと殺到する。
「こらぁっ、また行儀の悪い!!」
 彼らの動きを予想していたのだろう、メイが素早く篭を引ったくって、自分の背後に回した。
「アンタたちに渡したら、あっと言う間になくなっちゃうじゃないの」






 3人の馬鹿騒ぎに吹き出しながら、シャリオはルキアンの隣に座った。
「昨日は良く眠れた、ルキアン君?」
「はい。色々と考えて眠れないかと思ったんですが、疲れていたせいで、すぐ寝ちゃいました」
 にっこり微笑むルキアン。わずかに1時間余りの間だったとはいえ、旧世界の塔で冒険を共にしたことにより、彼はシャリオにも親近感を覚えていた。
 それはシャリオの方も多かれ少なかれ同様だった。何しろあの特異な経験を共有したのだから、無理もないかもしれない。
「それはよかったですわ。本当によく頑張ったから、疲れたでしょう?」
「えぇ、とっても。コルダーユを離れてから大変な出来事の連続で……今になっても、僕がここにいるということ自体、現実じゃないみたいに思えて」
「そう感じるのも仕方のないことです。選択する余裕もないまま、成り行きでこんな所まで連れて来られたんですもの。でも次はあなた自身が決める番ですよ、ルキアン君……」
「えっ?」
 ルキアンは眼鏡の奥で目を細めて、不可解そうにシャリオを見た。
「クレヴィス副長が、あなたに話があるとおっしゃって本部でお待ちです。私もその件で呼ばれていますので、よかったら案内させていただきますよ」
「ひょっとして、あの《塔》の話ですか?」
「それもあるでしょうね。お食事中に申し訳ないのですが、明日の出発を控えて副長もご多忙なので、できれば今すぐにでもご一緒いただけると助かります」
 ルキアンの胸が、なぜか早鐘のごとく鳴った。
 恐れ……不安、否、期待?! どうして、何について?
 未知の感情が彼の戸惑いをいっそう大きくした。さきほどまでの迷いと共に。
「どうしたんです、シャリオさん。ルキアンに何か御用?」
 心配そうな顔つきで、メイが話に割り込んできた。いつのまにかルキアンの保護者といった口振りである。
「いえ、私ではなくて副長が、彼に大切なお話があると」
「クレヴィーが?」
「はい。では、メイ、私たちは急いでいるので……」
 シャリオは聖杖で地面を軽く突いた。杖の上端に付けられた幾つかの輪がぶつかって、澄んだ金属音を響かせる。
 半ば連れ去られるように、おずおずと席を立つルキアン。
 すると、彼のフロックの裾を小さな手がつかんだ。
「ルキアン……」
 いつの間に席を離れたのか、メルカが後ろに立っていた。
「行っちゃだめ」
「大丈夫だよ。どうしたんだい、急に?」
「行っちゃダメ。やだやだ。ルキアンとずっと一緒がいいの!」
 突然、メルカは必死になってルキアンの手を引っ張った。
 顔を真っ赤にして、今にも泣き出さんばかりのメルカ。
 シャリオは慌てて彼女の頭を撫でた。
「メルカちゃん、大丈夫よ。ルキアンお兄さんは、あそこに見える本部に行くだけなの。すぐに戻ってきますから」
「嫌、いやイヤっ! ルキアン、離れちゃダメーっ!!」
 メルカがこれほど駄々をこねるのを見たのは、ルキアンも初めてだった。
 異様なほどに取り乱した少女。いったい、なぜ?
「心配いらないよ。僕はいつでも一緒だから……」
 彼は背をかがめて、メルカの額に軽くキスをした。



10

 ◇ ◇

 オーリウムの都・エルハイン――内乱のさなかにあって、王城の警備に当たる近衛兵の数も普段より増えていた。赤紫のフロックに白のブリーチズという派手な衣装の兵士たちが、これまた過剰な装飾の施された小銃を手にして、城内の随所に立ち並ぶ。
 王家の威光を世に誇示するための、要するに《見せるため》の兵士であるせいか、みな一様に、比較的長身で整った顔立ちをしていた。
 城の本館から北館への廊下。宮廷の人々や各地からの使者が慌ただしく通り過ぎていくと、その度に近衛兵たちは物々しい敬礼を行う。精密な機械仕掛けさながらの彼らの一挙一動は、少なからず驚嘆に値する。この儀式張った振る舞いを磨き上げることに、日々の訓練のうち大半の時間を費やしているだけのことはあった。
 そして今、衛兵の間にいっそうの緊張感が漂う。その理由は、向こうから近づいてくる一群の人々にあった。
「我らが王国における真のエクターにして、国王陛下の栄光ある機装騎士団……《パラス・テンプルナイツ》に敬礼!」
 士官の号令と共に、いつになく気合いの入った儀礼が執り行われる。
 兵たちは微動だにせぬ姿勢を保ちつつも、好奇と驚嘆の入り混じった視線を走らせている。仏頂面の近衛兵たちが、日頃にはおよそ見せない態度である。
 先ほど仰々しい名前で呼ばれた《騎士団》が、いよいよやって来た。彼らの服装は様々だけれども、いくつかの点については統一されている。今どき鎧を身に着けているのも珍しい話だが――金色に輝く胸甲。誇らしげに巻かれた真っ赤なクラヴアット。そして何より目立つのは、竜の紋章を紺で描いた純白のマントだった。
「出迎えご苦労」
 先頭を行く男が手短に告げる。20代前半の超エリートである。上品さの中にも、気位の高さが露骨に漂っているような口振りだった。
 彼の髪はほど良く波打ち、色、つや、共に見事な黄金色だ。その瞳には、怜悧さと情熱とが同居した、常人にはない輝きが宿っている。胸甲と同じく黄金色の肩当てと篭手を身につけた彼の姿は、《ナイト》たちの中でも、文字通りの騎士のイメージに最も近かった。
 彼は前髪を手で軽くかき上げると、そのまま衛兵たちの前を通り過ぎていく。
 大きな帽子を被った青年が後に続き、敬礼を続ける兵たちに黙礼した。緑がかった長髪と、涼しげな目元が印象的な美形である。
 長い刀を背負った男。どこか斜に構えた感じの雰囲気だが、その目は狼の如く鋭い。マントと胸当て以外、全て黒ずくめの服装が目立つ。
 次は女だった。燃えるような赤で染めた髪、それに見合ったいかにも気性の激しそうな顔つき。ぴったりとした革の衣装で上から下まで固めている。
 髪を短く刈り上げた、中肉中背の若者――あるいは少年と表現した方が適切かもしれない――が颯爽と歩いていく。太い眉と、気合い十分な眼差し。
 単純な数比べという意味では、国王軍の戦力は議会軍に遠く及ばない。それにもかかわらず、オーリウム国王軍は、議会軍はおろかイリュシオーネの列強の軍隊にすら一目置かれている。その理由というのが、彼ら《パラス機装騎士団》、通称パラス・テンプルナイツの存在なのである。
 9人の機装騎士団のうち、いま5人がここに居るのだった。
 彼らが王城に召集されたことからすると、今後、ただならぬ動きが国王軍に起こる可能性もある。


【続く】



 ※2000年5月~7月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第10話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


  未来というものが持つ好ましい不確定性、
    つまりは希望と呼ばれる一筋の糸――それこそが、
      人の心をこの世につなぎ止める「絆」となる。

◇ 第10話 ◇

 ここ数日、ネレイの内陸港はいつになく慌ただしい。
 それというのも、エクター・ギルドの飛空艦が本部に続々と集結しつつあるからだった。普段は王国中に散らばり、各地のギルド支部を転々とする飛空艦だが……昨日前後から一斉に帰還し始めたのだ。全8隻のうち、現在停泊中の艦は5隻だという。それらの中にクレドールの白い船体もあった。
 港はネレイ市街の南の外れに位置する。背後に目を転じると、俗に《王国東部の辺境》と呼ばれる丘陵地帯が広がっている。この荒涼とした山並みの中で、かつて旧世界のアルマ・ヴィオが大量に発見された。それ以来、単なる田舎町にすぎなかったネレイの運命は著しく変わったのである。
 アラム河畔から上記の東部丘陵に向かって数百メートル進むと、ギルド本部の建物にぶつかる。その道筋に平行する形で、港湾から本部の方へ一本の運河が続く。昔、港から荷を運ぶための船が往来していたらしいのだが、現在では手狭になったため使われていない。動きのない深緑の水面は、川よりは池に近い雰囲気を醸し出す。
 運河沿いの土手には木製のベンチやテーブルが並べられていた。丁寧に管理されているとは言い難く、いい加減な間隔で転がしてあるように見える。多分ギルド関係者が据え付けて、休憩にでも使っているのだろう。実際、今日も10名ほどの人々が空の下に繰り出していた。よく見るとその顔ぶれは……クレドールのクルーたちである。

「この大変なときに、半日も休みをもらって申し訳ないわね」
 セシエルは苦笑いを浮かべて言う。
 対照的にお気楽な調子で答えるのはメイだった。
「また仕事を気にするんだからぁ。船が明日まで飛べないんだもの、仕方がないない! せっかく艦長が言ってくれたんだから、のんびりしようよ。今度はいつお休みになるのか分かんないし。ほら、セシー、これ美味しい!」
 少なくとも表面的には、メイの顔に疲れはもう見られない。昨晩ゆっくりと眠ることができたせいもあるのだろう。
「そうね……艦長や副長、技師さんたちには悪いけど、まぁ、いいかしら」
 仕事中には冷徹一点張りのセシエルも、久々に穏やかな表情に戻った。お気に入りの青紫のスカーフを風になびかせ、彼女は静かに空を見上げる。天気は上々、春の昼下がりは独特の淡い光に包まれていた。
 日頃は野ざらしの机の上に、オレンジと白の質素なテーブルクロスが掛けられている。やや遅い昼食の最中だった。さほど豪勢な食材は見あたらないが、様々なパンやサラダ、肉料理などが山盛りに置かれていた。
「おうよ。明日から当分、ゆっくり食事なんてできなくなるぜ。食えるうちに食っとかねぇとな……お、うめぇ! これ、メイも手伝ったんだって? 嘘だよなぁ。お前が料理だなんて」
 バーンが頬張っているのは、サンドウィッチ同様にパンで肉や野菜などを挟んだ物である。この世界では《エクター・スタイル》と呼ばれる食べ方だ。名前の通り、あるエクターが考え出した流儀だという。傭兵や冒険者として危険と隣り合わせの仕事中にも、素早く食事を取れるようにと。
 メイはバーンにフォークを投げつけかねない勢いだった。いつものことだが。
「うるさい、文句言うなら食べるな! それに……あんたは食うことしか頭にないの?!」
「まぁまぁ。メイ、こっちも美味しいぞ。前にどこの港だったかで、マイエおばさんが仕入れてきた南洋の香辛料、なかなか変わった感じだよ。この肉、ひとつ取ってやろうか」
 ヴェンデイルがすかさず懐柔に回る。彼が手にしているのは、鳥のもも肉を骨付きのまま焼いたものだ。チキンのそれよりも一回り大きめに見える。手が汚れないように骨の部分に紙が巻いてあった。





 ヴェンから肉をひったくると、メイは大口でかぶりつく。もし今の姿を誰かが見たら、彼女が名門貴族の生まれだとは到底思わないだろう。
「大体あたしはねぇ、ルキアンやメルカちゃんに沢山食べてほしくて、それで手伝ったんだから。この大食らい、バカ、もうちょっと遠慮しなさいよっ! ねぇ、ルキアン」
 当のルキアンはメイの隣にいた。ひとり、力の抜けたような顔で景色を眺めている。彼の瞳には遠くの東部丘陵がぼんやりと映っているはずだ。普段からそれほどお喋りではない彼だが、今日は特に無口である。何か考え事をしているらしく、メイの声など耳に入っていない。
「そうでしょ、ルキアン。何とか言ってやってよ。ルキアン、聞いてる?」
 やはり反応がない……メイはくすっと笑った。
「何、ぼーっとしてるのよ、少年っ!!」
 メイがルキアンの肩を勢い良くひっぱたく。
 少し間があった後、ルキアンは慌てて彼女の方を見た。
「あ、ボクですか。は、はい?」
「食べてる、キミ? ほらほら」
 パンを盛った編みかごを差し出して、メイが笑う。

 ――風が吹いた。
 運河沿いの並木が静かに音を立てる。

 ◇ ◇

 古き都市ミトーニア、その市庁舎の塔に立って周囲を見渡すと、あらゆる方角に草の海が広がる。一面の緑、また緑……広漠とした草原にぽつんと置き去りにされたような形で、小高い丘がひとつ、見る者の目を妙に引きつける。
 果てはレマール海にまで至る平原の中、所々に茂る森や街道沿いに点在する町・村をのぞいては、風景のアクセントとなるものがほとんど見あたらない。そんな土地柄にあっては、他の地域であれば取るに足らぬほどの起伏さえも、大きな山脈に匹敵する存在感を持つことがあるのだ。
 ミトーニア市街から眺めた場合、その丘の中腹部にナッソス公の壮麗な城館を望むことができる。白壁と青い屋根の対照が美しい建物、背後の庭園に2つの影が見えた。中央の噴水を起点にして、芝生に幾何学的な模様を描く散策路のひとつを、若い男女が親しげに歩いていく。
 男の方は、皮のブリーチズに暗灰色のダブルのコートを羽織り、胸元に青紫の……ギルド成員の証であるクラヴァットを巻いている。
 大きく膨らんだ薄紅色のロングスカートを揺らし、彼の隣を歩く娘は、ナッソス家の令嬢カセリナだった。
「一緒に戦ってはもらえないのね、デュベール?」
 カセリナは胸元に手を当て、深い藍色のブローチをそっと握りしめた。いつもなら丸く結っている髪を、今日はすっかり解いて風になびかせている。
 無言をもって彼女の言葉に答えたのは、年の離れた兄という雰囲気を持つ、誠実そうな青年である。カセリナへの接し方からみてナッソス公の家臣であろう。男は黒い山高帽を脱ぎ、深々と頭を垂れると、表情を抑えた声で語る。
「申し訳ありません、お嬢様。恩義を知らぬ男だと、あなたに嘲笑されても仕方がないところです。しかし私はギルドの人間。今回の内乱には、肩入れすることができません。私は戦いから手を引きます……」





 カセリナの眼差しは、いつもの気丈さにかろうじて支えられている。けれども彼女の青い目は、時に涙を溜めているようにも見えた。その裏にある心は、春風に吹かれる花びらのごとく、不安定で脆いものだった。
「分かってる。分かっています。貴方と剣を交えることにならずに済んだのが、せめてもの救い……だって私、アルマ・ヴィオの扱い方は全てデュベールから教わったんですものね。そんな貴方に刃を向けることはできない」
「カセリナお嬢様、聞き入れてくださらないとは承知のうえで、もう一度だけ申します。お嬢様までこの戦いの犠牲になることはありません……」
 少女は男を睨んだ。両手を広げ、全身で不満を現す。
「私に逃げろと言うの? そんなことは絶対に嫌! お父様と共に最後まで戦います。それにデュベール、戦いが始まる前から、私たちが敗れるとでも言いたげね。大丈夫よ。相手がギルドだろうと議会軍だろうと、そう簡単に負けたりしないわ」
 デュベールは言葉少なに頷く。ただし、カセリナの発言自体を肯定しているのではなく、単に彼女への同情を表す動作なのであろうが。
 しばらくして彼は立ち止まった。花壇から外れて道端に咲いた、青い花を、辛そうな面もちで見つめている。
「ある筋からの話によれば、ギルドは本格的に飛空艦を差し向けてくるそうです。しかも運の悪いことに、クレドールやラプサーがその任に当たるらしいのですよ。クレドールの艦長カルダイン・バーシュは、かつての革命戦争の際に、大国タロスをも震撼させたゼファイアの英雄。おまけに副長のクレヴィス・マックスビューラーは、ギルド随一の知恵者という呼び声が高く、魔道士としても底知れぬ実力を持っています。《奇跡の船》クレドールが成し遂げた仕事の数々は、お嬢様も噂に聞いていらっしゃるでしょう? それに、何よりも私は、この戦争に……」
 カセリナは何か言いたげだったが、口を開きかけた時点で声を飲み込む。微かな吐息だけが聞こえた。
「お嬢様、私は、帝国に組みする戦いには正義を感じられません。ゼノフォス皇帝の目指す《国家》自体は、ある意味で素晴らしいと言えなくもない。しかし実際に帝国軍のやっていることは、暴虐にすぎます」
「デュベール……私には政治の話は分からない。私はただ、自分が守りたいと思うものを守って戦いたいだけなの。それ以上の大義名分が必要なの?」
 言葉を交わすことなく、2人は足音を連ねる。
 やがてカセリナがささやいた。最後の一言だった。
「だから私は、貴方が……」
 彼女は言葉を詰まらせる。
 四季折々の花で彩られる庭園は、ちょうど今、最も華やぐ時期を迎えている。その目映いばかりの情景を前にしても、カセリナの心は深く沈んでいた。





 ◇ ◇

 先日、デュガイスとマクスロウとの会談が行われた場所――すなわちギルド本部・中央棟のテラスで、今度は4人の男たちが、昼食を兼ねた話し合いを開いている。
 客を迎えているのは、またもデュガイス。彼と同じテーブルに、カルダイン、クレヴィス、そしてランディの姿がある。
 真っ昼間、しかも緊急時だというのに……デュガイスは、はばかることなく豪快な飲みっぷりをみせていた。グラスに残った酒を一気に飲み干した後、彼は正面のカルダインを見据える。
「と、いうことだ。大変な仕事だが、よろしく頼む」
 数秒ほど間隔が開いた。無言のままのカルダイン。
 隣ではクレヴィスが、皿の上の肉を素知らぬ顔で切っている。
 ランディはテラスの端にある手すりに寄り掛かって、気ままに口笛を吹いていた。中央棟は本部の敷地内でも多少高い所にある。ここからは、ネレイの町並みやアラム川の流れを見事に一望することができた。その風景を特に深い感慨もなく眺めながら、彼は物憂げに首を伸ばした。
 しばらく黙っていたカルダインが、低い声でようやく答える。
「分かった。軍隊の真似事というのは……あまり気がすすまんがな」
「それを言うなよ。わしだって本音ではそう思ってるさ。まぁ、飲め飲め」
 デュガイスは細長い素焼きの瓶を手に取り、カルダインのグラスに注ぐ。
 この透明な火酒は、アラム川中流域特産の蒸留酒である。麦に似た穀類を原料とするのだが、醸造過程で幾つかの果実を用いることにより、柑橘類を思わせる香りがつけられている。
 その軽い芳香を楽しみつつ、今度はクレヴィスが言った。
「制空艦アクスはもとより、強襲降下艦ラプサーの精鋭たちが同行してくれるのは心強い限りです。私たちは彼らの後方支援に回って、楽ができそうですね。いや、それは冗談にせよ……グランド・マスター、ナッソス公は王国屈指の大領主です。それを攻めるとなると容易にはいかないでしょう。現に議会軍の攻撃も退けられていると聞きましたよ」
「そう、手強いぞ……もし正攻法で戦うとすれば、アルマ・ヴィオを何個師団も投入する必要があるだろうな。しかし今の議会軍にとっては、それはとてもできない相談だ。君も承知しているだろう? かといってナッソス軍に背後を抑えられたままでは、ベレナ総攻撃の成功自体が危うくなる。軍とギルドの主力が《レンゲイルの壁》に到着する前に、何としてでもナッソス公を降伏させてもらわねばならん」
「……いやぁ、残念だが、降伏はあり得ないだろうよ」
 ランディが初めて口を開いた。彼は皮肉っぽく語りながら、グラスを指でくるくる回している。
「ナッソスってのは、とことん頑固な親爺でね。ギルドに頭を下げるぐらいなら、死んだ方がましだと言うに決まってる。そういう男だ」
「だからこそ、彼をよく知る貴方に出向いてほしい。マッシア伯」
 デュガイスが珍しく気取った口調で言う。
 改まって《マッシア伯》などと呼ばれたので、ランディは顔をしかめている。
 その表情を見て、クレヴィスが本当に小さな笑みを浮かべていた。
「停戦交渉にしても、結局は無駄だと思うがねぇ。まぁ、こっちの地上部隊がミトーニア近辺に到着するまでの、時間稼ぎにはなるんだろ? とりあえず談判には行ってみるさ」
「申し訳ありませんね、ランディ……」
 親しい仲にも礼儀ありとは言うものの、儀式張った調子が少し行き過ぎて、クレヴィスの一礼は傍目にも堅苦しく見えた。それが彼なりの不器用な誠意だと十分承知しつつ、ランディは呆れ顔で悪ぶってみせる。
「おいおい、よせよ。たまには役に立ってやんないと、タダ飯食らいだとか何だとか、船の連中にどやされるからなぁ。それに、公爵のお嬢ちゃん……あのべっぴんさんの顔が久々に見たくなったんでね」


【続く】



 ※2000年5月~7月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第9話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


14

「えっ?」
 ルティーニが彼の肩をぽんと叩いた。
「ルキアン君、失敗しようとしまいとそんなことは関係ない。君のできる精一杯のことをしてくれたなら、それで十分なのです。ひとりひとりが自分の持っている力を出し合い、全体として何か大きな事ができれば、各自がどのくらい貢献できたかなんて問題じゃない。きれいごとかもしれませんが、私はクレドールのそういうところに惚れているのです」
「ルティーニさん……」
「失礼な言い方で恐縮だが、仮に君が役に立たないとしても、それでも今の我々は君に頼るしかない。それを後になって、君が失敗したからと言って非難するような……そんな情けない人間は、我々の船にはいませんよ」
 ルティーニが目を輝かせた。彼は心底から仲間たちを信じているらしい。
 ルキアンは少し勇気づけられたような気がした。
「僕が、僕ができることを……やらなきゃ、勇気をださなきゃ……」
 彼の背後で澄んだ金属の響きが聞こえた。
 振り返ると、そこにはシャリオが聖杖を手にして立っている。
「今まで挫折を繰り返し、飛ぶことを避けるようになった自分……そんな勇気のない自分が再び飛ぼうとするなんて、何か図々しくて不似合いなことだと、ルキアン君は己を責めているのではありませんか? しかしクレヴィス副長もおっしゃっていたように……何度もくじけた末に自らの中の影と向き合い、それさえも優しく受け入れ、自分自身を許してあげられた人こそ……かえって力強く飛ぶことができるのです。本当はそう信じたいのではないですか?」
 心中を見事に言い当てられ、顔を赤らめるルキアン。
「……そ、それは、分かっています。でも、でも……自分で納得するだけでは不安だったんです。だから、誰かにそう言ってほしかったんです……」
 シャリオは不意に尋ねた。
「翼を持つ魔法神、月の女神セラス様のお言葉を知っていますか?」
 彼女はつぶやく。

  我は光、我は奇跡。
  嘆きの海を越えて、希望へと導く者なり。
  我は光、闇の中の光。
  深き夜より生まれ、されど、いかなる輝きにも勝る者。
  すなわち闇を知るが故に。

 ある預言者にセラスが語ったとされる言葉……勿論ルキアンも知っていた。
 どこか悲しげな、しかし毅然とした顔でシャリオは続ける。
「《すなわち闇を知るが故に》、セラス様は、自らは光り輝く翼をお持ちでありながら、それでいて果てしない闇をもご存じだからこそ、多くの苦悩する人々にとって、偽りない希望の象徴として信じられてきたのです。ルキアン君の迷いや苦しみだって、それを知っているからこそ、あなたの翼は……」



15

 シャリオは、ルキアンの額に向かって聖なるシンボルを掲げた。
「セラス女神の名においてあなたを祝福し、翼の女神様のご加護があらんことを祈ります。光を知らぬ闇に救いが訪れないように、闇を知らぬ光もまた、本当の救いからはほど遠いものなのです。旧世界は……自らを包む光に陶酔するあまり、己の内で次第に大きくなる闇の声を聞くことができなかったのです。そして最後には、自分たちがあれだけ軽んじていたはずの闇に飲まれて崩壊したに違いありません。……私としたことが、つい喋りすぎましたか。さぁ、行ってください」
 シャリオは手を合わせ、恭しく一礼した。
「……ありがとう、シャリオさん、ルティーニさん」
 ルキアンの声の調子が変わった。怯える体を必死に立ち上がらせて、彼はついに決意したのである。ルキアンは剣帯を整え、姿勢を正した。
「僕は、僕は……戦います。あんな旧世界の魔物なんかに、アルフェリオンは絶対に負けません!」
 そう告げると、ルキアンは外に向かって駆け出した。

 ◇

少年は幻の大地を走り抜けた。 生い茂る潅木をかき分け、道なき草むらをひたすら進んだ。 向かい風の中、緑を黒く染めて広がる炎をも恐れず。 降り注ぐ爆音を頭上に聞きながら、全てを忘れてルキアンは走った。
 ――僕には何もできないかもしれない。だけど、それでも構わない。
 彼の意識に浮かんでいるのは唯一、あの強大な鋼の化け物を《消し去らねばならぬ》ということだった……クレドールの仲間たちのために? それとも、《失われた哀しみの花たち》のためか、いや、ルキアン自身のために?
 理由は分からない。むしろそんなものは必要なかった。彼の中で何かの糸が切れたのだ。それだけだった。
 ――じっと見ているだけなんて、もう嫌なんだ。
 陽光に輝く白銀色の巨体が見えた。
 
 ルキアンはハッチに飛びつき、そのまま《ケーラ》に身を滑り込ませる。
 ――僕は自分の翼を信じる。
 瞬時に体を封じ込めたクリスタル。目眩。そして意識の離脱。
 空気を引き裂きアルフェリオンが吼えた。
 ――だから!
 折り畳まれていた6枚の羽根が、一斉に開かれる。



16

「何よぉー、これ!」
 格納庫の中にメイの声が響く。
「武器がどこにも付いてないじゃないの。技師長、どういうこと?!」
「メイちゃんよ、だから言っとるだろ。こいつには通常兵器は積んでないって」
 大騒ぎする彼女を後目に、ガダック技師長はアルマ・ヴィオを見上げた。
 何と表現すればよいのか。手も足もなく……甲冑の胴体の上に兜を組み合わせたような異様な姿である。深緑の巨躯、その所々には赤と金の縁取りが描かれている。頭部には、羊のそれに似た螺旋状の角がふたつ。
 重厚かつ不気味な美しさを持つ、独特の姿だった。これがクレヴィスの愛用する魔法戦特化型アルマ・ヴィオ――《デュナ》である。アルフェリオンと同じく旧世界で造られたものらしい。
 でっぷりとしたお腹を揺らして、ガダックが笑う。
「全く変な機体だ。もともと《蛍》とネビュラだけしか、飛び道具を装備していないんだ。まぁMTソードは使えるらしいが」
「手もないのに、どうやって剣を使うのよっ! あら? そう言えばこの前にクレヴィーが使ってた時には、手があったわね。ときどき足も生えているような……? なんなのよ、何なのよぉ、この変なアルマ・ヴィオは!」
「へへん。メイなんかに動かせるわけねーよ。クレヴィーとメイとじゃ、ここのできが全然違うからね。ばーか!」
 急に出てきたノエルが、人差し指で自分の頭をつつく。
「べーっ」
 ノエルは舌を出し、メイの前で変な踊りをおどっている。
「こ、このガキ!!」
 いい年の女とは思えぬ言葉遣いで、メイはノエルに飛びかかった。子供と同じ次元で張り合っている。
「メイちゃん、あのなぁ……」
 ガダックは呆れて笑うばかりだった。

 ◇ ◇

 塔の仲間たちを巻き込む恐れがあると考えたのか、クレヴィスはマギオ・スクロープを発砲せず、ネビュラで攪乱する戦法に出た。
 ラピオ・アヴィスの腹部付近から霧のような物が放たれる。それは白い輝きを時折見せながら、目にも留まらぬ速さで宙を舞う。疾風の中で躍動するのは、氷のネビュラだった。
 ――なかなかの動きです。ガダック技師長、良い仕事してますね。しかしこの機体の限界は、一度に複数のネビュラを創造できないところですか。
 氷の人工精霊をなるべく派手にぶつけることで、クレヴィスはアルマ・マキーナの注意をこちらに向かせようと試みる。
 ――速い?!
 天空めがけて黒い柱が吹き上がったかと思われた。が、それは敵の長大な体だった。一転、大ムカデは鎌首をもたげて飛びかかる。何百メートルもある体が、見る間に中空へと伸びきっていく。上昇を続けるラピオ・アヴィスを追って滑らかな動きで右へ左へとうねった。
 油断はできない。アルマ・マキーナはクレヴィスの動きを正確に捕捉し、致命的な威力を持つレーザーで波状攻撃を仕掛けてくる。
 ――マギオ・スクロープと違って、直ちに連射ができるのですか。これは手強いですね……。



17

 そのとき、大ムカデの頭部が爆発を生じ、横に向かって苦しげに退いた。
 続いて胴体部分にも炎が上がる。飛び交うマギオ・スクロープ。
 ――遅れてすまない。クレヴィー、俺たちも加勢する!
 ベルセアからの念信が入った。眼下の平原では、リュコスの肩に備え付けられた2本の砲身がうなりを上げる。
 比較的装甲の薄そうな腹部に攻撃を浴び、大ムカデは憤然と宙返りすると、今度は地上に標的を変える。雲を突く竜のようなアルマ・マキーナが、小さなアルマ・ヴィオに劣らぬ速さで攻撃を仕掛けた。
 ――うぉあっ! こんなのありかよ、デカいくせして結構素早いぜ?!
 そう叫んだのはバーン。鞭のごとくしなやかな尾がアトレイオスを突き飛ばし、付近の木々を根こそぎ倒していく。バーンは直ちに体勢を立て直すも、第二、第三の攻撃が地表で荒れ狂う。地震のようだ。全く手が着けられない。
 陸戦型のリュコスは野獣同様の敏捷さで攻撃をかわす。地上でのスピードなら、リュコスの動きはアトレイオスの比ではないのだ。しかしベルセアも回避を続けるだけで精一杯だった。
 ――ベルセア、バーン、気を付けてください。敵は旧世界のアルマ・マキーナです。それから、ヤツの頭部が放つ光に当たったら致命傷を受けますよ。
 クレヴィスの注意にバーンが応える。
 ――アルマ、何? 分かった。とにかくその光には気をつけるぜ!
 そう言った矢先、灼熱の光線が四方をなぎ払った。大ムカデが狂ったように体をくねらせると、周囲一帯は炎の海と化す。とてつもない破壊力。
 ――おいおい、今のはいったい……。
 ベルセアの声が少し震える。
 そのときだった。
 ――バーン、避けなさい! この武器は続けて何発でも撃てるのです!!
 クレヴィスの念信が聞こえた時点では、もう遅かった。
 アトレイオス目がけてレーザーが発射される。
 間に合わない。シールドを張っているとはいえ、大破は避けられないか?
 ――や、やべぇっ!
 ――バーン!!
 ベルセアの絶叫とともに、閃光が走った。

 アトレイオスは……。
 ――何ともねぇ? どういうことだ。こ、これはっ?
 前方に浮かぶ白い機体にバーンは目を見張る。
 6枚の翼を羽ばたかせて飛ぶその姿は、まさしくルキアンのアルマ・ヴィオだった。あの高出力のレーザー・キャノンをも阻んだのも、アルフェリオンの次元障壁である。
 ――ルキアン……ルキアンなのか?
 ――はい!
 ――やるじゃねぇか。けどコイツは手強いぞ、気ィつけろよ!
 2体のアルマ・ヴィオは素早くその場から離脱した。
 アルフェリオンの腰にある筒状の器官が正面向きに90度回転し、中から棒のようなものが飛び出した。それを握って引き出すとさらに伸張する。その先端では光が刃を形作っていく。柄の長い槍斧状の武器、MTランサーだ。
 その間にラピオ・アヴィスがネビュラを放つ。喉の部分に直撃を受け、アルマ・マキーナは後方に退いた。
 ――それでいいんですよ。それで……。ルキアン君。
 クレヴィスは心の中でうなずく。
 動きの鈍った大ムカデに対してエクターたちの集中攻撃が始まる。



18

 ――バーン、いつものヤツだ!
 リュコスが鋭いターンを見せ、四肢を柔軟に使って背後に飛び去った。
 着地と同時に今度は地を蹴って走る。抜群の運動性能を誇るリュコスと、ベルセアの巧みな操作とが一致して、電光さながらの俊速を生む。
 ――おう、いくぜっ!
 バーンのアトレイオスが腰を落とし、片膝を地面について身構える。
 息のあった動き。そのまま蒼き騎士に突進するベルセア。
 
 ――跳んだ?!
 ルキアンは、鋼の狼が空高く舞ったのを見た。
 リュコスがアトレイオスを踏み台にすると同時に、アトレイオスの方も見事なタイミングで投げ上げたのだ。
 アルマ・マキーナは2人の速さに着いていけない。その尻尾をリュコスの牙が貫く。分厚い装甲に食らい付いた狼が、激しく首を振る。おまけにMT兵器の爪で一撃を食らわせた。大ムカデの体から鋼板の一部が剥がれ、火花と共に機械の破片が飛び散った。何本かの足もばらばらと地面に落ちていく。
 ――そこだっ!
 リュコスと入れ替わりにアトレイオスが何かを投げつけた。
 大ムカデの裏側で爆発が起こる。リュコスが破壊した箇所を精確に狙い当てていた。呪文を封じ込めた手投げ弾、マギオ・グレネードの一撃である。
 空中でもがく大ムカデに立ち直る隙を与えず、ラピオ・アヴィスが突進。
 轟音を立ててすれ違ったとき、アルマ・マキーナの頭部から何かが落ちた。
 一瞬のことだ……ラピオ・アヴィスは全速力で飛び去っていく。
 ルキアンには何が起こったのか理解できなかった。クレヴィスは相手の正面からネビュラとマギオ・スクロープを叩き込み、次いでラピオ・アヴィスの鉤爪でレーザー砲を破壊したらしい。

 が、敵の頑強さも常識を越えていた。
 ルキアンの悲鳴。
 ――どうしたルキアン? おい、離れろ、早く逃げろ!!
 ――だめです、機体が! 全然動きません!
 慣れない動作のアルフェリオンを大ムカデが捕らえたのだ。長い体が銀の天使を締め上げ、何重にも巻き付いていく。
 ――いけません、これでは潰されてしまう!
 クレヴィスがマギオ・スクロープを何発も打ち込んだ。しかし相手はびくともしない。ますます強い力でアルフェリオンを押さえ込む。
 ――ど、ど、どうしよう?
 戦いに不慣れなルキアンは、焦るだけで何もできない。今の段階で押し潰されていないというだけでも、アルフェリオンの強靱な装甲に感謝すべきだった。だがこのままでは、いずれ……。
 必死に抜け出そうとするルキアン。だが彼の中途半端な抵抗は、敵をいっそう凶暴にさせるのみである。
 ――この、離れろ、離れろっ!



19

 ――あっ?!
 空っぽになった意識を……突然、あの寒気立つような光景がかき乱す。
 旧世界の塔に隠されていた凄惨な人体実験の事実。
 カプセルの中で腐乱し、黄白色にふやけた肌を見せる標本。
 むき出しの粘膜、這いずり回る内臓。おびただしい流血とともに。
 狂気のおもむくままに造り上げられ、無惨にうち捨てられた異形の数々。
 この世の地獄だった。決して信じたくないが、あれは全ては人間なのだ。
 繰り返す嘔吐感。思い出すたびに胸が張り裂けそうになる。
 いま再び言葉を失った。それと同時に、なぜかルキアンは恐怖を忘れた。
 ――酷いことを……同じ人間なのに、どうしてあの塔の人々は?!
 彼の心を怒りが満たしていく。清冽であると同時に歪んだ義憤が、怖さも、そして戦いを避ける気持ちさえも飲み込もうとする。
 ――僕は、僕は許さない。
 空想癖があり、思いこみが激しい少年ルキアンは、旧世界のあの実験について否応なく物語を膨らませる。その漠然としたイメージが、現在の彼が抱える諸々の不満といびつに結び付き……顔を持たぬ憎しみとなって溢れ出た。
 ――あんたたちの世界は汚い。厚顔な偽りの光で塗り固められた、虚構だ!
 ルキアンの熱情に同調するかのごとく、パンタシアの力も高まっていく。
 ――パンタシア変換最大値、臨界点を突破。ステリア系器官を作動開始。
 アルフェリオンの声が遠くで聞こえた。
 少年の怒りは頂点に達する。
 ――旧世界の化け物! お前なんか、消えてなくなれーッ!!
 ルキアンの絶叫に応えて、ステリアの力が荒れ狂う。

 他の3人には、いま目の前で起こったことが信じられなかった。
 無数の金属片が飛び散り、爆煙が空を飲む。
 アルフェリオンは敵の締め付けを解くどころか、アルマ・マキーナの尾を力ずくで引きちぎったのだ!
 猛襲する大ムカデの頭部から、残されたレーザー・キャノンが放たれる。
 だがそれは、ステリアを発動させたアルフェリオンの前では児戯に等しかった。白銀の鎧に命中するにも至らず、光線は反射されたり、どこへともなく吸収されてしまう。肉眼では確認できないにせよ、結界魔法系および次元障壁系の様々なバリアが機体を護っていると推測される。
 アルフェリオンは、敵のそれよりも遙かに強いビームを右手から発射した。その光は鞭のごとく空中を走り、アルマ・マキーナをずたずたに切り裂いていく。これこそ怒れる天の騎士が振るう剣……《ステリア・ソード》だった。



20

 ――ルキアン君、よくやった。後はクレドールに任せて離脱します!
 クレヴィスが念信を送る。
 銀の天使の持つ、想像を絶する破壊力を……バーンとベルセアは我を忘れて見つめるばかりだった。そんな彼らもクレヴィスの声でようやく動き出す。
 ――もう十分です、方陣収束砲に巻き込まれるといけません。早く!!
 ――え、あ……僕?
 すでにアトレイオスとリュコスは大地を蹴って走り始めている。今は可能な限り遠くに退避すべき状況なのだ。
 クレドールが速度を上げて接近してくる。
 ――ルキアン君、さぁ、いいから私について来なさい!
 極度の興奮状態にあるルキアンは、現状をうまく把握できないままに、とりあえずクレヴィスに従って引き下がった。
 鋭角的な鳴き声とともにラピオ・アヴィスが羽ばたいた。少し遅れてアルフェリオンも続く。今や翼を自分の物にし始めたルキアン……。
 他方、アルマ・マキーナは、容赦なく牙をむいたステリアの力によって行動不能に陥っている。装甲は防御の意味をなさないほどに寸断されており、打ち砕かれた関節の間から火花や白煙が生じていた。

 ◇ ◇

「方陣収束砲、発射用意!」
 機を逃さずカルダインが叫ぶ。
 ――方陣収束砲、発射用意。
 セシエルが心の中で復唱する。その言葉は念信を通じて砲座に送られる。さらにはエルヴィンのところにも届くはずであった。彼女の魔力を上乗せすることで、砲の威力はますます絶大なものとなるのだ。
 甲板の最前部、つまり魚型をした艦の頭頂部が開き、黒光りする砲身が持ち上がっていく。その先端には、4つのクリスタルを埋め込まれた円盤状の装置が備えられている。ひと抱えもある巨大な水晶玉がそれぞれ発光し始めると、前方に四角い図形が投影され、続いてその内部に幾何学模様や絵文字らしき物が描かれた。空中魔法陣だ。
 準備は完了に近づく。抜群の命中率を誇る砲術長ウォーダン・レーディックも、砲座ですかさず構えに入っていることだろう。
「相手が悪かったな。今度こそ永遠に眠るがいい……太古の幻と共に」
 カルダインが滅びを宣告する。
「撃て!」
 宙に浮かぶ魔法陣に膨大な魔力が蓄積されていく。そこで爆破的に増幅されたエネルギーが一挙に雷撃となって、アルマ・マキーナを襲った。瞬間、凄まじい電光が敵を貫く。いにしえの超兵器が炎に包まれる。
 いかにあの大ムカデといえども、方陣収束砲の直撃を受ければひとたまりもない。数度に渡る爆発の後、草原に残骸をまき散らしながら、旧世界の残夢はこの世から完全に消え去った。

 ◇

「艦長、アルマ・ヴィオ4体の着艦を確認しました」
 格納庫からの念信をセシエルが受け取る。
「よし。あとは頼んだぞ、カムレス」
 カルダインは椅子にゆったりと腰掛け、ひと息付いた。
「了解。座標軸合わせは完了した、全速前進!!」
 カムレスが黙って手を挙げると、セシエルも指で丸を造って応えた。
「星振儀の動きにも異常はないわ。そのまま進んで」

 ◇

 幻影の世界と現実の世界との狭間に向かって、クレドールは高度を上げる。
 永遠に終わらない青空の中を、翼を持った白い巨魚が泳いでいく。
 いにしえの塔は再び沈黙し、緑の中にこれまでと変わらない姿を見せていた。
 その影が眼下で次第に小さくなる。
 時の止まった国を離れ、ルキアンたちは元の世界に帰ろうとしている。
 多くの謎に思いをめぐらせながら。
 そして、長かった昨日・今日を振り返りながら……。


【第10話に続く】



 ※2000年4月~5月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第9話・中編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン






 ――ベルセア、何だありゃ?!
 バーンからの念信が届く。
 返事よりも先に《リュコス》が銀色の体を持ち上げ、声高く吠えた。
 ――何って、あれは……そんなこと言ってる場合じゃないだろ。どう見ても俺たちを歓迎してくれてるんじゃなさそうだ。いや、副長たちが!
 頑強な緑の怪物を片づけ、バーンとベルセアは草原にアルマ・ヴィオを降ろして休んでいた。そんな時、《塔》の傍らにある小高い丘が崩れ、地面から巨大な影が這い出たのである。
 黒光りする鋼の蛇……いや、沢山の節を持つ姿は、ムカデと形容する方がよいだろうが、ともかくそれは外見や機械的な動きからして、明らかに人工的に造り出されたものだった。
 この大ムカデは、クレドールをも上回る長大な体をうねらせ、ゆっくりと宙に浮上していく。側面に並ぶ信号灯が点滅し、無数の足が規則的に波打つ。赤黒い腹部も不気味に見える。
 ――伝説の塔を守る守護竜のお出ましってか? どう見てもムカデ野郎って感じだけどな。何でもいいか、久々にでけェ獲物だ。やってやるぜ!
 気の早いバーンの一言。アトレイオスが腰からMTソードを引き抜く。左腕には光の楯、MTシールドが造り出された。
 ――あぁ。クレヴィーたちが中で何かやらかしたのかもしれないぜ。俺も、さっきのハエトリ草にはうんざりしたからな。ちょっと派手に暴れてやるか。
 リュコスの四肢の爪が中に入り込み、かわってナイフのような光の鈎爪が現れる。これこそ、素早い動きを駆使するリュコスにとって、超硬魔法金属の牙と共に最大の武器となるのだ。

 新たな脅威の出現にブリッジも騒然としていた。
 空中に影を認め、ヴェンデイルは複眼鏡の倍率を拡大する。
「前方に未確認物体を発見! こいつ……魔物(モンスター)? いや、アルマ・ヴィオ?! 随分でかいから、肉眼でも見えるはずだよ。方向は……」
 大ムカデが塔に巻き付くような姿勢を見せ始めたため、カルダインは艦を戦闘体勢にした。
「いかん、あいつらが危ない。ベルセアとバーンにヤツを引きつけさせろ」
「了解」
 セシエルが直ちに念信を送る。カルダインは命令を続けた。
「対物結界(*2)を前面に展開し、警戒速度で前進せよ。リュコスとアトレイオスを援護する。ただし主砲は敵からの攻撃があるまで使うな。万一のため、《方陣収束砲》(*3)に充填を開始。いつでも空中魔法陣を描画できるようにな」
「艦長、あたしも出る!」
 早々とエクターケープを身に着けたメイが、出口のところで軽くウィンクしている。


【注】

(*2) 飛空艦の防御フィールド、つまり結界には、大きく分けて対魔法タイプと対物タイプの二種類がある。飛空艦は、一般に敵艦のマギオ・スクロープ(呪文砲)回避のために結界を張るので、対魔法タイプの方がよく用いられる。単に結界と言った場合は、この対魔法タイプのことを指している場合が多い。他方、対物結界は、砲弾やアルマ・ヴィオの直接攻撃など、物理的な攻撃に対する防御に適している。

(*3) ある意味ではこれも大型のマギオ・スクロープなのだが、通常のそれとは威力が格段に異なる。空中に大規模な魔法陣を描き、その力を使って魔法を直接に発生させるため(《ランブリウス》とほぼ同様の原理)、通常の主砲の数倍から十数倍の威力があると言われている。多量のエネルギーを必要とし、砲台も大がかりなので、戦艦や戦闘母艦など大型の飛空艦に装備される。発射に時間がかかるのも難点と言えるが。ちなみに空中でしか使用できない。したがって、以前にガライア艦隊と戦った際には用いることができなかった。





「メイ、休んでた方がいいよ。俺たちが代わりに頑張るから」
 ヴェンデイルが心配して言ったが、メイの方はいつの間にか気合い満々だった。仲間たちが戦っているのをみると、たとえ少し無理をしてでも、自分も動かないと気が済まないらしい。
「だって、あいつらだけに任せておいたら、何やらかすか分かったもんじゃないからね。やっぱり、このメイ様がいかないとダメダメ」
 軽く肩慣らしをして、今にも艦橋から飛び出そうとしている彼女。
「お前自身が大丈夫と言うのだから、行くがいい。無茶するなよ」
 カルダインは彼女の出撃を認めた。基本的に何事も自己責任で行うのがエクター・ギルドの習いだ。好きにさせておこうというのだろう。
 ただし艦長は、その後に苦笑する。
「元気はいつも通りのようだが、メイ、格納庫に残っているのは《ティグラー》(*4)の火力支援タイプと、クレヴィスの《デュナ》だけだぞ。いいのか?」
「へへ、あたし実は陸戦型を扱ったことがないんだ。やっぱり空飛べなくちゃ。ということで、ティグラーの代わりに……仕方ないからデュナをクレヴィーに運んでいって、あっちで隙を見て乗り換える!」
 メイはぺろっと舌を出して、一目散に駆けていった。

 ◇ ◇

「ルキアン君、どうしたの? 返事をして!」
 何度も肩を揺さぶられて、彼は我に返った。
 心配そうな顔で覗き込むシャリオの顔が目の前にある。
 ルキアンはぼんやりとした様子で尋ねる。
「あ、シャリオさん……いま、女の人の声が聞こえませんでしたか?」
「声? いいえ、私には。それよりルキアン君、大丈夫ですか。この強い妖気の中です。心に隙を作ると……?!」
 突然、鈍く軋むような音がした。
 独房に似た小部屋のひとつをクレヴィスが開いたらしい。金属製の重い扉が、石造りの床と擦れ合って不快に響く。
「こ、今度は何です?!」
 ルキアンが叫ぶ。扉が開かれるのとほぼ同時に、建物が大きく揺れたのだ。
「地震ですか? いや、違う、これは!」
 壁に手を突いて体を支えながら、ルティーニが言った。
 揺れは足元からではない。真横からの衝撃が断続的に発生し、塔全体が揺れている。
 警報があちこちで鳴り響く。照明が消えてまた点灯した。
「この揺れ方は……なぜ? 何者かの攻撃ですか?!」


【注】

(*4) ティグラーとは、オーリウムの言葉で《虎》という意味である。その名の通り、虎の姿をした勇猛なデザインとなっている。このアルマ・ヴィオは、武装を様々に交換できるシステマティックな造りのおかげもあって、軍から冒険者まで幅広く利用されている。リュコスほど素早くないが、そのぶん装甲が丈夫で、武器の登載力も大きい。火力支援型の他にも、対空型、要撃(格闘戦)型、偵察型など様々な装備が可能。



10

 ほんの数秒ほどクレヴィスは考えていたが、すぐに仲間たちを手招きし、エレベータの方に向かって走り始めた。
「早く! 残念ですがここはひとまず降りましょう。このままでは塔が崩れ落ちるかもしれません」
 彼に続いてルキアン、シャリオ、ルティーニも、転びそうになりながら廊下を駆け抜ける。
 一列に並ぶ小部屋の横を通ったとき、強烈な腐臭が何度か鼻を突いた。
 それだけではなかった。一瞬、異様な鳴き声……いや、うめき声さえも聞こえたような気がする。
 すれ違いざま、クレヴィスは、鉄格子のはまった小窓から扉の中を覗き込んだ。普段は感情をほとんど表に出さない彼だが、その瞳に動揺の色が浮かぶ。
 彼はそのまま走り抜け、ルキアンたちに向かって叫んだ。
「見てはいけません!!」
 あまりに鋭い口調だったので、他の三人はクレヴィスの気迫に飲まれている。
 彼らは訳が分からないまま、エレベータに飛び込んだ。
 階段を使うことができないので仕方がない……幸い、この揺れの中でもエレベータは作動しており、全員を1階玄関まで運んでくれた。

 結局、塔に封じられた秘密は歴史の闇に埋もれ、《アストランサー計画》という謎の言葉だけが残される結果になったのだろうか?
 否。そうではない。
 ただし、いずれ驚くべき事実を知る運命にあるということを、ルキアンたちが知るはずもなかったが……。
 今は、そんなことを考えている余裕もない。
 クレヴィスはロビーの窓から外の様子をうかがう。赤黒く塗られた大ムカデの腹部が、ガラスの間近に見える。塔に絡みつく巨体を目にしても、彼はさほど驚くことなく冷静に言ってのけた。
「なるほど。そういうことですか。おそらくこの塔には、外敵の接近を見張る装置、例えば古文書に出てくる《レーダー》というものがあって、我々のアルマ・ヴィオの着陸が最初から捕捉されていたのかもしれません。その結果、この化け物が今ごろになって掃討に現れた、というところですか。秘密を知った者を生かして返さないとでも……」
「どうしましょう! このままじゃ、塔と一緒に潰されてしまいます」
 今までに見たこともない大きさの敵を前にして、ルキアンは慌てている。クレヴィスは、いつもの笑顔で彼をたしなめた。
「心配いりません。私が先に出て、ラピオ・アヴィスで注意を引きつけます。その間にルキアン君はアルフェリオンに乗ってください」
「いや、危険ですよ、副長! あんな相手からどうやって逃れると?」
 ルティーニが首を振ったが、クレヴィスは相変わらず微笑むのみ。
「大丈夫です。あれはアルマ・ヴィオではなく旧世界の《アルマ・マキーナ》(*5)です。つまり完全な機械……たぶん中に人間が乗っていることもなく、例の《知恵ある箱》によって、予め教えられた通りにしか動けない操り人形ですね。それに、人間のように小さなものの動きは上手く認識できないと思います。まぁ、何とかなります」


【注】

(*5) アルマ・ヴィオ(「生ける鎧」の意)が生体兵器であるのに対して、アルマ・マキーナ(「機械の鎧」の意)とは、要するにロボットに他ならない。あるいはアルマ・ヴィオが主として儀式魔術によって産み出される一方で、アルマ・マキーナは純粋に科学の産物だと言える。ちなみに現世界では魔法に比べて(自然)科学の水準が極端に低いため、発掘されたアルマ・マキーナを再利用することは不可能に近い。ただし旧世界のアルマ・ヴィオの中には、アルマ・マキーナのテクノロジーを応用している物も多く、その技術が現世界のアルマ・ヴィオにも結果的に取り入れられている。例えばアートル・メランの原型となったアルマ・ヴィオは、アルマ・マキーナの変形システムを生体パーツによって擬似的に実現していた。だからアートル・メランも変形できるのだ。またアルフェリオン・ノヴィーアがステリアン・グローバー使用時に行う変形(?)は、アルマ・マキーナの動きに極めて近い。その他に、飛空艦もアルマ・ヴィオ技術とアルマ・マキーナ技術との折衷の結果、生まれたと考えられる。



11

 クレヴィスは入り口に忍び寄ってから、こちらに振り向いた。
「ルティーニとシャリオさんは、危険ですからここにいてください。もしも建物が崩れる危険が出てきたら、その時は臨機応変にお願いします。それから、ルキアン君……」
「はい?」
「空中戦になるでしょうが、ラピオ・アヴィスだけでは戦力不足になる恐れがあります。かといってあのアルマ・マキーナにクレドールを近づけるのも危険ですから、ここは、あなたの頑張りに頼らなければいけません。やってくれますね?」
 自分も戦わなければと渋々思っていたルキアン。だが大ムカデの中に人が乗っていないという話を聞いて、少し気分が楽になったらしい。しかし……。
「はい。でも、あの、僕は飛べません、アルフェリオンを使っても、空では戦えないんです。だから足を引っ張ってしまうかも……僕、いつも失敗ばかりで、またどうせ《飛べない》です。無理です、ごめんなさい」
 ルキアンの言葉には、色々と複雑な思いが込められているようだった。
 その具体的な中身までは読み取れないにせよ、クレヴィスは彼の心境に気を使いつつ、柔らかに諭した。
「《飛ぶこと》ができないのではなく、自分は飛べないのだと君が思い込んでいるだけですよ。色々な意味でね。しかしできるはずです。本当は誰もが、心の中に翼を持っているのですから」
「でも、僕……」
 何か辛い記憶に触れるような表情で、ルキアンは言葉を飲み込んだ。
 クレヴィスは目を細める。とても優しい笑顔だった。
「君がどんな事に遭ってきたのかは分かりませんが、人は何度も傷つくたびに、心の翼から羽根が一枚一枚抜け落ちていくような気分になって、ついには羽ばたく勇気すら失いそうになるものです。でも、その目を閉じてよく感じてください……引き裂かれ散らばったはずの羽根は、君が挫折や傷を乗り越えるごとに、むしろいっそう強い輝きをもって生まれ変わっているはずです。ひとたび《虚しさ》を知り、それすらも受け入れ、自分の中の傷跡をそっと許してあげることのできた人には……輝く翼が知らず知らずのうちに備わっているのだと、私は思いますよ」
 そう言いながら、彼は肩から剣帯を外した。
「だからルキアン君、きっと飛べるはずです。恐る恐るでもいい……その翼を広げてください。飛ぶときが来たのですよ、君自身のために、そして我々のためにも。君の力が必要なのです、ルキアン君……」
 クレドールのシンボルである三色の帯が、うつむいたままのルキアンの肩に掛けられる。はっと顔を上げるた後、ルキアンはしばらく動かなかった。
「クレヴィスさん……」
 外に向かって歩き始めたクレヴィスの背中が、ルキアンの瞳の中で次第に小さくなっていく。

 アルフェリオンの姿が、ルキアンの心に浮かび上がった。
 白銀に輝く大きな翼は、
 かつて彼が涙の向こうに見た、あのセラス女神像を思い起こさせる。
 真に憧れていたもの。
 それが今……少年が抱きしめた羽根の欠片と、ひとつになろうとしていた。



12

「あ、動いたわ! もう大丈夫よ、メルカちゃん」
 クレドールがゆっくりと前進し始めたのを感じて、レーナは安堵の声を上げた。厨房の隣にある小さな部屋で、彼女はメルカと一緒に事態の成り行きを見守っていた。予備の調理器具や空樽、穀類・保存食の入った麻袋や木箱の類が壁際に積み上げられており、もともと狭い場所がいっそう窮屈に感じられる。
 二人の少女は粗末なテーブルを挟んで向かい合っていた。卓上には、若干の皿と小さなポットがひとつ。白磁の茶器に寄り掛かるようにして、熊のぬいぐるみも座っている。
「よかったね、バーンたちがあの蔓のお化けをやっつけてくれたのよ!」
 レーナはわざと弾んだ声で話しかけた。どちらかと言えば大人しい彼女だが、ふさぎ込みがちなメルカを元気づけようと、今日は少し無理をして口を動かし続ける。
 けれども肝心のメルカの方は、レーナの話にあまり興味を示さなかった。
「くまちゃん、くまちゃん」
 少女は無心にぬいぐるみの手を取り、独りで何事かつぶやいている。
 父親は行方不明、その生存も絶望的であり、姉は何者かに拉致され、さらに家までも失って……メルカの受けたショックは計り知れない。あまりの苦痛のためかメルカの目は呆然と開かれたままで、哀しみの影を浮かべる余裕さえないように見えた。
「メルカちゃん……」
 妙に澄み切ったその瞳が痛々しくて、レーナはうめくように言った。
 そしてつぶやく。
「パパ……」
 メルカではない、レーナがそう言ったのだ。彼女の父はもうこの世にいない。だがメルカを見ているうちに、父への思慕の情が込み上げてきたのである。突然の死を知らされたのは、レーナがまだ4歳の時だった。あれから10年、いつも負ぶってくれた父の背中の暖かさは、今も記憶に焼き付いている。
 気丈な母マイエは女手ひとつでレーナを育て、事あるごとにこう言った。
 ――父さんはタロスの大艦隊を向こうに回して、いつも互角に張り合った立派なエクターだったよ。ジェド・エゼヴィルと相棒のカルおじさんは、ゼファイアにその人ありと言われた英雄なのさ。いいかい、お前も勇士ジェドの娘なんだから、どんなに苦しくても負けちゃいけないよ。

 ◇ ◇

 クレヴィスの行動は迅速だった。
 彼が出て行ってからほどなく後、ラピオ・アヴィスの赤い翼が上空に姿を現す。しかし彼の接近を物ともせず、鋼の大ムカデ、旧世界の超兵器アルマ・マキーナは塔をじわじわと締め付けている。ラピオ・アヴィスも、この巨大な敵を前にすると小鳥のように頼りなく見えた。
 ――まずは塔から引き離さないと。ならば……。
 何度か旋回していたラピオ・アヴィスが不意に高度を下げた。衝突しそうなほどの速度で大ムカデの頭部に近づいたかと思うと、甲高い鳴き声を上げて急上昇する。
 大ムカデが予想外に素早い動きで首をひねったのと、それは同時だった。
 閃光が空を切り裂き、瞬時に地面まで振り下ろされる。何が起こったのか? 緑の野原に地割れが走り、その周囲に真っ黒な焼け跡が残されている。
 恐るべき破壊の光は、ラピオ・アヴィスの尻尾すれすれの位置をかすめて、刹那のうちに走り抜けたのだ。まともにくらえばアルマ・ヴィオでも簡単に真っ二つにされてしまうだろう。
 ――危ない危ない。古文書に言う《レーザー》とは、これのことですか?!シールドを張っていたとしても、直撃を食らえばただでは済みませんね。
 先の先を見切った動きで、クレヴィスは辛うじて回避する。だが今の攻撃には彼ですら息を飲んだ。



13

「さすが副長です。慣れない機体で、あれだけの動きをやってのけるとは……」
 外の様子を見ていたルティーニが溜息まじりに言う。
「さぁ、今のうちに早く、ルキアン君!」
 しかしながら、ルキアンは塔の出口で立ちすくんでいた。
 クレヴィスから手渡された三色の剣帯。それを肩にぶら下げたまま、彼は独りで呟いている。口元は弱気に震える。誰にも聞こえない小さな声でルキアンは繰り返した。
「行かなくちゃ、飛ばなくちゃ……でも、でも僕……」
 唇を噛み、苦しげに頭を振るルキアン。
「あの時だって僕がもっとしっかりしていれば」
 ソーナを助けられなかった自分。彼女がさらわれたとき、ルキアンは何もできなかった。アルフェリオン・ドゥーオの黒い影が飛び去っていくのを、無力に眺めることの他には。
 ――こんなだから、ソーナは僕のことなんて……。
 ルキアンは焦点の定まらない目をして突っ立っていた。戦う勇気を必死になって奮い起こしているのだが、体の方がついて来ない。あのアルマ・マキーナが怖くないと言えば嘘になる。しかしそれ以上に……自分がいつも通り失敗して、クレドールの人々に非難や嘲りを受けはしないかと、ひたすら怖れていたのだ。
 ――あぁ、僕は、僕は……。
 惨めな記憶の欠片が、いびつに寄せ集まって回る走馬燈。思い出すことを無意識のうちに拒んだ。だから漠然とした忌まわしい表象だけが、目まぐるしく浮かんでは消えていく。忘れたい言葉と共に。

 ――まったくこの子は! のろまっ、何度言ったら分かるんですか!!

 ――お前だけだぞ、ルキアン! それでも王国貴族か!!

 ――ルキアン君、いい人よねぇ。でもあの人と一緒にいても面白くないの。

 ――ごめんね。今日はヴィエリオと演奏会に行くのよ。

 ――ねえ、あなた……あんな子なんてもらわなければ良かったわ。
 ――声が高いぞ。あの子が聞いていたらどうするんだ。
 ――大丈夫ですわ。もう寝てますよ。
 ――まあ、やむを得まい。金になるんだ。わが家を守るためには……。

 大きく見開かれた目から、涙がこぼれた。

 ――僕は、いらない人間。誰にも必要とされない……。


【続く】



 ※2000年4月~5月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第9話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


  からっぽの手を空にかざして、私は溜息に別れを告げる。
  凍った時間の中で、色あせた翼を 震えながら羽ばたかせた。
  虚しさの檻を越えて、本来あるべき自分に還るために。

◇ 第9話 ◇

 腕組みしながら、カルダインは窓の外をじっと見つめていた。
 何を思ってなのか……それを彼の瞳から読み取ることは難しい。眼下に広がる緑の幻想界に見惚れているのであろうか。元の世界で続いている反乱軍との戦い、あるいは迫り来る帝国の脅威が、彼の心に重くのしかかるのか。それとも、未知の遺跡に向かった盟友クレヴィスのことを気遣っているのだろうか。
 戦士の透徹した瞳は、そういった様々な想像を超えたところで輝いていた。そこに映るのは、鍛え抜かれた強い意志と、彼が恐らく終生手放そうとしないであろう哀しみの影だけだった。
「艦長。あの……カルダイン艦長? 今、バーンからの念信が入りました」
 先ほどから返事をしようとしないカルダインに対して、セシエルが普段より大きな声で告げる。黙っている時には本当に話し掛けづらいのが、この猛々しい飛空艦乗りである。
 彼は、席から一度立ち上がると、体をしばらく伸ばしてまた座った。
 セシエルはそのまま続ける。
「アトレイオスとリュコスは、あの植物の根を必要な範囲で破壊し、本艦に取り付いた触手もほぼ取り払ったとのことです」
 彼女の言葉を聞いていたカムレスが、艦長に向けて親指でサインを出す。
「こっちも、船を出す準備が整った。いつでも指示を出してくれ。《柱の部屋》のエルヴィンも頑張ってくれているから、出力も普段より数割増しというところだ」
「そうか、引き続き待機を頼む。クレヴィスがまだ戻らないが……後20分経ったら船を出す。今のうちにベルセアとバーンを収容。セシエル、脱出経路の特定を急いでくれ」
 そう言って懐中時計を閉じたカルダイン。実際には、約束の時間まで10分しか残っていなかったのだが。
「了解。事前に副長から大体のことをうかがっていましたから、進路の割り出しは終了しています。後は正確な座標の確定だけです。もうしばらくお待ちください」
 セシエルは落ち着いた様子で返事をする。彼女の表情を見ていると、二つも三つも先の仕事まで計算に入れているかのような、自信がうかがえる。
「大体の座標、分かったんだったら教えてよ。近くの状況を調べるからさぁ」
 周囲の監視を続けているヴェンデイルが、《複眼鏡》のスコープギア(*1)を被ったまま言った。鉄仮面のような装具を被り、沢山のケーブルを頭から生やしている格好はどこかユーモラスだ。
「分かったわ。でも、後ほんの少しで正確な位置がつかめるから、それまで待ってくれない?」
 ――セシーのやつ、《とりあえず》って言葉を知らないんだから。
 いかにも完璧主義者の彼女らしい答えだと思い、ヴェンデイルは口元をゆるめた。


【注】

(*1) 複眼鏡と鏡手の視覚とをリンクする装置。多数のケーブルを介して複眼鏡本体と接続されており、帽子のように頭から被る。形状はヘルメットと似ている。





 他方、セシエルは《星振儀》の揺れ具合や手元の計器類を見ながら、盛んに何か計算している。あの財務長ルティーニをして、《計算をやらせたら、私なんかよりよっぽど速いですよ》と言わしめたほどの彼女だった。
 そんな彼女の仕事ぶりを見て、誰もが驚嘆の念を覚えるのだが、ひとりだけ、よせばいいのに時々邪魔をする者がいる。
「はぁい、セシエル。あたし、もう元気になったからね。調子はどう?」
 いつの間にか艦橋に入ってきて、声を掛けているのはメイだった。
 先ほどまで医務室で寝ていた彼女に肘鉄を食らわすのは、さすがに忍びないと思ったのか……セシエルは短い言葉を返した。
「本当にいいの? 無理しないでよ」
 あまり仕事を中断させるとまた怒られそうだったので、メイはカルダインの方に向かった。エクターである彼女にとっては、艦橋で特にする仕事もない。かといって、こうしてうろつかれると他のクルーにとっては迷惑なのだが……元気な彼女は雰囲気を明るくしてくれるので、それはそれで人気があった。どうやら今のメイは、本人が言っているように実際に元気になったらしい。
 艦長は席にゆったりと腰掛け、黙って手を挙げる。メイは臆面もなく拳を振り回して応えていた。
「ねぇ、艦長。クレヴィーがあたしのラピオ・アヴィスに乗って行ったんだって? 最初からそう言ってくれたら、いくら疲れていても、送ってあげるぐらいはできたのに」
「そう言わずに、ここは休んでおく方がいい。暇があったら、クレヴィスがラピオ・アヴィスをどうやって操るか見ておくのもいいぞ。きっと参考になる」
 この跳ねっ返りの娘を、カルダインは一種の感慨をもって眺めていた。

 ――もしあの革命がなかったとしたら、彼女も立派な貴婦人になっていたかもしれません。しかし今の彼女も決して不幸ではないのだと、あなたなら多分おっしゃるのでしょう。エレア様……。

 彼は傷だらけの手を静かに見つめる。
 長い歳月の中でも輝きを失うことなく、真新しく磨かれた銀の腕輪。
 そこには今は無き旧ゼファイア王国の言葉でこう刻まれていた。

   未来の勇者カルダインに、神のご加護があらんことを。
             ゼファイア第一王女 エレア・ルインリージュ

 ◇ ◇

 クレドールの《柱の人》――エルヴィン・メルファウスは、翡翠色の水面にゆらゆらと浮かんでいた。幼さの残る白い身体からは、靄のような霊光が絶えず立ちのぼり、微かな波紋を残して広がっていく。
 少女は祈り続ける。神に対してではない。自らの内に潜む力とひとつになるために……精神の淵深く眠る、透明な闇に魂を投げ入れるのだ。
 魔を導く者。生まれながらにして不思議な能力を持っていた彼女は、かつて周囲から疎まれ、怖れられ、孤独な日々の中で心を閉ざしていた。
 今でも心から笑うことをしない。どうすればよいのか、分からないから。

 この《柱の部屋》で瞑想しているときには、エルヴィンは緑色の液体に浮かんだまま眠っているように見える。実際、彼女の意識のほとんどは無意識の下に沈んでいる。だがそうしている間にも、エルヴィンの超自然的な感覚は目を覚ましたままであるばかりか、普段よりもいっそう研ぎ澄まされるのだった。
 そして……この瞬間にも、その未知なる力は何者かの到来を察していた。近い将来、降りかかるであろう危機が、彼女の脳裏に漠然と描かれる。

 ――何かが潜んでいる。鋼の、巨大な何かが……。
 ――あれは……。





 その頃、ルキアンたちは塔の最上階へと到達しつつあった。
 恐るべき人体実験の事実は彼らを大いに震撼させ、また嘆かせたのだが、それだけにいっそう、旧世界の醜い実態を暴き出そうとする気持ちが、4人の中に新たに芽生えたのだ。
 勿論、残虐の限りを尽くした実験の場面に、もうこれ以上出くわしたくないというのも確かな気持ちではある。それに、人はこう問いかけるかもしれない――そこまでして、旧世界の恥部を白日の下にさらけ出すことに、いったい何の意味があるのか? と。
 実際、多くの人々は、露骨な利害から旧世界の超テクノロジーの発掘のみに魅力を感ずるか、あるいは、現世界に比べて《豊か》で《幸福》だったという旧世界を、曖昧な憧憬でもって一面的に賛美しているにすぎない。結局のところ、いずれの立場にとっても、古の世における繁栄の部分だけが関心事であり、影の側面など、どうでもよい……むしろ見たくない部分ですらあった。
 何が自分を塔の秘密へと駆り立てるのか、正直なところ、ルキアンにもよく分からなかった。ただ敢えて言えば、彼の心中で頭をもたげ始めたのは、旧世界に対するある種の《反感》かもしれない。それは純粋な正義感から来る憤りではなく、いまだ形を取らぬ仄暗い心情だった――ルキアン自身の抱える密かな不満が、何らかの一見無関係で抽象的な接点を機に、旧世界に対して怒りとなって向けられたのである。
 あの大規模な実験室の吹き抜け部分に、赤い螺旋階段が幾重にも弧を描いて8階へと伸びる。例のエレベータを使う手もあったが、また入り口まで戻るだけの時間はなかった。
 クレヴィスを先頭にして、4人は中空のループを上っていく。
 時折、頭上から物凄い妖気の流れが吹き降りてくる。そう、今の時点では、それはもう単なる負の波動などではなく、はっきりとした妖気に変わっていた。
「……ルキアン君、剣は使えますか?」
 不意にクレヴィスが尋ねた。ルキアンが黙っていると、彼はこう続ける。
「仮に私が、長い詠唱を必要とする呪文を使うことになったら、あなたは剣かピストルで援護してください」
 《長い詠唱を必要とする呪文》とは、いささか婉曲的な表現だが、恐らく高レベルの攻撃魔法のことを指している。一般に、より強力な魔法を発動させる場合ほど、より長い呪文を唱えなければならないのだ。
 ルキアンはベルトに下げた細身のサーベルに目をやった。貧乏ながらも伝統にこだわる生家の方針のためか、彼も一応、幼少の頃から剣術の簡単な手ほどきを受けている。しかしそれは、たとえ形ばかりの訓練とはいえ、彼にとっては苦痛に他ならなかった。
 ――剣なんか、使いたくないのに。でも……。
 争いを避け、ましてや流血沙汰など全く毛嫌いしているルキアン。
 だが、あのとき……。
 海を引き裂く巨大な閃光が、彼の心に蘇った。
 アルフェリオンの持つステリアの力が、2隻の船を沈め、おびただしい数の人間の命を奪ったのだ。それを考えると、剣を抜きたくないという自分の思いは、滑稽な偽善に感じられてくる。
 ――僕は、汚れてしまった?
 ぼんやりと階段を登っていくルキアン。





 ◇ ◇

「ギヨット中将、帝国軍の先遣隊からの念信をお伝えいたします」
 議会軍の制服を着た士官が弾んだ声で告げる。
 その報告に横目で応じつつ、一人の男が剣を振るっていた。
 鋭いうなりと共に宙を切る剣閃。彼はすでに初老の域に達しているが、その太刀筋には衰えの影さえも見られない。
 気合いを込めて剣を突き出し、しばらく無言で切っ先を見つめていた男は、やがて姿勢を正して振り返った。今までの鋭い目つきが和らぎ、目元の皺にも微かな笑みが感じられる。
 若い士官は、軽い驚嘆の念を込めて一礼する。
 額にかかった銀髪を手で流しながら、中将は赤い絨毯の上を歩いていく。そして部屋の中央に置かれた大きな執務机に着いた。
「ゾルナー君。報告を続けてくれたまえ」
「かしこまりました。現在、帝国の本隊はバンネスク郊外に駐留し、ガノリス王国全土の掌握を進めているとのことです。続いて……」
 ゾルナーと呼ばれた男は、肩章からすると少佐らしい。しかし彼もギヨットも、右腕に黄色い帯を巻いていた。つまり彼らは正規軍ではなく、反乱軍に属していることになる。
 中将と呼ばれているのは、《レンゲイルの壁》の元長官にして現在は反乱軍の総司令官、トラール・ディ・ギヨットである。若い頃には議会軍屈指のエクターとして知られ、彼が生まれた都市の名にあやかって、《メレイユの獅子》という名で隣国ガノリスのエクターたちにも怖れられていた。
「帝国の先遣隊は、ガノリス軍の散発的な奇襲に足止めされつつも、もう少しで国境付近に達するということです。あと1週間もあれば十分かと……」
 部下の言葉を受けて、ギヨット総司令は静かにうなずいた。
「そうか。早急な援軍を頼む、と先遣隊に要請してくれたまえ。飛行型アルマ・ヴィオなら地上軍よりもかなり早くこちらに到着できるだろう。ご苦労。引き続き頼む、ゾルナー君」
 ゾルナー少佐は素早く敬礼し、部屋から出ていった。謹厳な雰囲気を持ち、短く刈り上げた青い髪が印象的な男である。

 わずかな後、少佐とほぼ入れ違いに姿を見せた者がいた。
 ベレナ市付近一帯の地図を机に広げながら、中将はその男につぶやく。
「君の働きがまた必要となりそうだ。帝国の先遣隊が着く前に、議会軍は全力でこの街を攻撃してくるだろう。あと1週間……」
 遠目には黒にも見える、濃い紫色のフロックがひるがえった。その紫は確かに高貴ではあったが、底知れない魔の闇を表現しているようにも見える。
「1週間?」
 彼は不遜に鼻で笑う。濡れたように輝く長い藍色の髪をかき上げ、余裕の表情を見せた。静かな気品とはうらはらに、情熱に満ちた顔つきをしている。
「その前に、3日もあれば議会軍など壊滅させてご覧に入れますが」
 男はうやうやしく一礼する。
「冗談と理解してよいのかどうか、困ったものだよ。君のアルマ・ヴィオなら本当にやりかねんからな。まぁ、議会軍をもう少し引きつけてからにしたまえ」
 ギヨット総司令は、そう言って、謎の男に地図の一部を示すのだった。





 ◇ ◇

 ようやく《塔》の最上階にたどり着いた4人。
 目眩がしそうなほどに醜悪な妖気の中、入口で彼らを出迎えたのは、四隅を残して完全にねじ曲げられ、突き破られた大扉だった。
 単に扉と言っても、その材質は恐らく特殊合金と思われる未知の金属で、さらには厚さが15センチ近くもある。場違いなほど強固なこのドアが、あたかも薄い鉛版のごとく貫かれているのだ。
 呆気にとられたルキアンは、口をぽっかり開けたまま、破壊の跡をまじまじと見つめている。言葉も出ないといったところだろうか。
 そんな彼の様子に苦笑しながら、シャリオもいささか驚いた調子で言う。
「なまじの城門よりもしっかりとした扉ですわね。それをこんなに……」
「まったくです。これほどのものは、たとえ飛空艦の砲撃でも簡単には撃ち抜けませんよ。それなのに、どうやら建物の内側から壊された様子です。さきほどの研究室の場合と同じですね。信じられない」
 人間が歩いて通れるほどの大穴から、ルティーニは中を覗き込んでいる。
 クレヴィスは眼鏡を人差し指で軽く持ち上げた。鋭く光るレンズの奥で、彼の目は冷静に状況を分析する。
「もうひとつ気になるのは……ここまで大げさな扉が、なぜ必要だったのかということです。しかも《電気の鍵》や《言葉の鍵》で何重にもロックされていたようですから、余程の秘密が隠されていたのかもしれません」
「あの……クレヴィスさん、どうでも良いことかもしれないですけど、この紋章みたいな絵は何でしょう?」
 ルキアンは扉の残骸を指差した。そこには、赤いリボンを無限大の記号(∞)と似た形にひねったような、何かのマークが描かれている。
「実はさきほど、研究室にも同じ図柄があったのですよ。恐らくこの塔を作った組織を示すものかもしれません。考えてみれば、このような施設を建てるほどですから、相当の規模と財力を有していたのでしょうね。例えば、旧世界で言うところの《巨大企業》であるとか、まさかとは思いますが、国の機関という可能性もあります」
 そう言いつつ、クレヴィスは懐中時計を見た。残り時間はあと10分足らずしかない。
「ともかく、何者の仕業かは分かりませんが、この扉を壊してくれたのは我々にとって幸運でした。急ぎましょう。いや、そうはいかないようですね……」
 突然、クレヴィスは話を打ち切って扉の向こうに飛び込んだ。瞬時のうちに彼は剣を構え、場合によっては呪文も繰り出せる体勢を取っている。
 その間に、ルキアンは異様な気配にようやく気づく。
「これって?!」
「そう。元々この階全体が強い妖気で覆われていたものですから、《彼ら》の気配に気づくのが遅れました」
 緊張したシャリオの声。だが彼女の表情自体は、かなり落ち着いて見える。
 クレヴィスは、3人に急いで入ってくるよう合図した。
「その狭い場所では不利です。早くこちらへ!」
 慌てて駆け込んだルキアンたち。
 漠然とながらも状況を理解し、ルティーニは懐からピストルを取り出した。





 シャリオが杖に念を込め、呪文を詠唱し始める。彼女を取り巻いていた穏やかな雰囲気は、一転して厳しさを帯び、同時にその魔力の強さも格段に大きくなったように感じられる。
「聖なる光よ、大いなる恩寵をもって……邪悪なる者から我らを護り給え!」
 シャリオが杖を高くかざすと、オーロラに似た青白い光の幕が4人の周囲を包み込んだ。
 高位の神官だけが使える防御の魔法、《対暗黒結界》である。生命を失った後も、現世への執着や邪悪な魔力によって動き続ける者たち――いわゆる不死の魔物たち――の接近を阻み、彼らの攻撃をほぼ無効化する力を持つ。
「この階に存在する強大な妖気に、色々な悪霊たちが引き寄せられていたのでしょうね。彼らは強い闇を求めてさまよっていますから。ルティーニとルキアン君は後ろへ。奴らに対して武器で攻撃しても意味がありません」
 クレヴィスは手短に説明して、自らも呪文の用意を始める。
 彼の言葉通り、廊下の暗がりの向こうから目に見えない霊たちが……生者に憎しみを持つ命なき者の群が殺到する。だが押し寄せる悪しき霊たちは、全て光の幕に当たって跳ね返されている。勿論その様子は目に見えないが、死霊が結界に触れたであろう途端、心の中にうめき声らしきものが伝わってくるのだ。
「不死の者たちには、生半可な呪文では効き目が薄いですね。ならばここは、一気に片づけますか……」
 そう告げるクレヴィスの前で、シャリオは静かに首を振った。
「待ってください、副長。彼らも元々は、この世に恨みを残して死んでいった哀れな人たちです。わたくしに任せていただけませんか?」
 首に掛けた聖なるシンボルをシャリオは胸元に引き寄せた。彼女は目を閉じ、力の言葉を丁寧に紡ぎ出す。それは邪悪なる者たちを消し去る神聖魔法ではなく、彼らをあの世へと渡すための鎮魂の祈祷だった。
 彼女の厳かな声に応じて、霊たちの動きが止まったような気がする。
 シャリオは祈り続けた。彼女のオーラが、今度はいつもの暖かな雰囲気に戻っていく。
「去るがよい、汝らの世界へ。さらばいつの日か、新たなる生を受け、再びこの世に……」
 悪霊たちが光に包まれた。いや、むしろそれは彼らの内から迸る最後の輝きのようにも見える。さまよう魂たちは、柔らかなきらめきに包まれながら天に召されていく。
「あの霊たちは……旧世界の人々だったのでしょうか?」
 ルキアンがぽつりと言った。
 わずかに考えた後、ルティーニが答える。
「どうでしょう。でも、そうだとしたら、彼らは本当に長いこと苦しみ続けたわけですね。バラミシオンという時のよどんだ世界で……永劫にも近い憎しみの時間を。せめて、彼らが安らかに眠ってくれることを祈ります」





 悪霊たちの気配はやがて完全に失われた。だが8階全体にわたって、相変わらずあの息苦しい闇の力が支配している。
 真っ暗な廊下。落ち着いて目を凝らすと、これまでのフロアとは全く異なる様相が浮かんできた。通路の片側に扉が一列に並んでおり、そのひとつひとつには鉄格子付きの窓が設けられている。他には何もない、空っぽの陰鬱な空間だった。
「監獄? いや、もしかするとこれは……。気を付けてください、廊下を曲がってさらに進んだ奥に、妖気の源があるようです。何と凄まじい憎悪のエネルギーなのでしょう。そして痛ましい心……」
 クレヴィスの表情が不意に曇った。だが次の瞬間には、いつもの淡々とした微笑を浮かべて歩き出す。
 肌を刺す魔力の流れ、シャリオはその強さに脅威を感じ始めた。
「このまま進んでも大丈夫なのでしょうか? 正直な話、不安ですわ」
「……そうですね。危険を感じたらすぐにでも立ち去ることにしましょう。あれを見てください」
 クレヴィスは廊下の突き当たりを手で指し示す。
 どこか毒々しい青色の明かりに照らされ、エレべータの入口がぼんやりと光っていた。

 最上階を支配する妖気は、凄まじい憎悪に満ちていると同時に、胸を締め付けるような悲壮感を漂わせる。ただでさえ感受性が強く、魔道士の素質も備えたルキアンは、その無言の叫びを生々しく感じ取っていた。むしろ憎しみの波動よりも強く……。
 あまりに強い情念の渦は、そこに巻き込まれたルキアンを不安定にし、彼の胸の内を激しく揺さぶった。具体的なことは何も分からなくても、漠然とした哀れみの衝動が……彼の心をたちまち覆い尽くしていく。思いこみが強いといえばそれまでかもしれないが、そう一言で片づけられないほどに彼の感情は高ぶり、無意識の涙となって流れ出た。頬を伝う雫の感触で、彼自身、初めてこの涙に気づいたにせよ。

 すると、不意にルキアンの脳裏に言葉が浮かんだ。忘れもしないこの響きは、彼を導いた謎の声である。

 ――涙を流してくれるのですね? 失われた哀しみの花たちのために。

 カルバの研究所が炎上する直前や、ガライア艦隊との交戦中に聞いた、あのしめやかな女の声だった。
 ――でも、今はここから早く立ち去るのです。外に危険が迫っています。
 ――危険? あなたは誰、なぜ僕のことを?!
 しかし声の主は何も答えず、二度と返事をすることもなかった。


【続く】



 ※2000年4月~5月に鏡海庵にて初公開
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