子ども・若者の自殺が増えていること、今「反抗期」がなくなってきていること?(2)

例えば、学生運動が事実上なくなった感がしてしかたがない。個別の大学ではそれらしい活動があるのかも知れないが、60年代から80年ころまでのように、全学連とか中核とか民青とか、こういう語がとびかうことはなくなったといっていいのではないか。

若者たちの怒りの声とか不満、あるいは抗議、反抗はなくなったと言っていいのか。私はこのような現象が日本のある種の今日的特性だというなら実に情けない感がする。というより日本の将来への希望がこれからの若者たちにもつことができないことを意味するのではないか、と実に心配になる。

大人、現状、政治、未来への希望、学校の今のあり方、総じて自分たちへの教育のあり方、こういう問題に関するあれこれについて、若者たちは、怒り、不満、抗議、要求、などの気持ちをもつ必要がなくなったのだろうか。「もってもしようがない」「何か文句をいったとしてもよくなることなど期待できない」「教師を含めて大人への不満は声を大にしていうほどはない」、こんな気持ちなのだろうか。

私がいうまでもなく、社会の進歩、改革、革新、総じて「最大多数の最大幸福」は、これを要求する人たちの数が大きく、また多くなることによって前進してきた。今、この要求がなくなったとすれば、日本の未来はどうなるのだろう、そんな心配が残り少ない人生の私などにとっては深刻な憂いになっている。

政治・社会の問題だけでなく、科学・化学の世界の新しい分野の開拓・展開に通じることだ、と私は心配しているのだが…。

若者たちへの警鐘は誰が鳴らすのか。どうやってそれが展開されるのだろう。なかなか難しい。

学校の先生も、生徒・若者に先んじて穏やか、不満なし、抗議なし、の状態になっているのかも知れない。

深刻に考える若者は自らの命を抹殺する、という選択をしているのだろうか。

かつて、「矛盾があることが発展の要因だ」などという「弁証法哲学」らしいことを学んだことがあった。まさに、対立、抗争、矛盾、それがより高次の条件を生み出してきた。そして戦後の日本の「発展」があった。だから、対立などがないということは「発展」がとまってしまったことを意味するのではないか。
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