来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
野口英世のこと(渡辺淳一著「遠き落日」の紹介)(3)
明治31(1898)年7月、23歳のとき、清作は晴れて北里研究所入りを許された。
細菌学者は、世界でも新しい分野。世界一をめざす舞台。医学の最先端。清作は試験管の持ち方から勉強。帝大も出ていない見習い助手!
清作の渡米のために、先輩の歯科医は高利貸の所に駆け込み衣類から家具一切を抵当にいれてくれた。こうして大枚300円ができた。横浜出帆の亜米利加丸で行けそうになった。明治33年(1900)12月5日。横浜港から出発。
見送り人はこの先輩と東京歯科医学院の学友が一人のわずか2人。英世25歳(数え)のときだった。
12日間かかってハワイのホノルルに着いた。嵐の航海中で彼はシエクスピアを読んでいた。ハワイからサンフランシスコへ。6日間。そこからフイラデルフイアまで4日半。懐中乏しいので一日一食。12月29日の朝着いた。この地は、1776年7月4日にアメリカの独立宣言が行われた地。
ペンシルバニア大学、フレキスナー教授。教授は仰天した。「お約束どおり、先生の下で勉強するために来ました」と英世。この先生のところで仕事と学問。教授の私費で雇われた。1901年の元旦。
教授から、毒蛇の毒の研究助手として雇う。蛇の毒の研究。逃げ出したい、しかし逃げることなどできない。蛇の首を押さえ毒を吐き出させる。その仕事。怯えながら立ち向かっていた。
月8ドルの生活。パンと水だけ。3か月で、教授不在の間に蛇毒に関するあらゆる文献を整理した。これには教授も一驚!
細菌学者は、世界でも新しい分野。世界一をめざす舞台。医学の最先端。清作は試験管の持ち方から勉強。帝大も出ていない見習い助手!
清作の渡米のために、先輩の歯科医は高利貸の所に駆け込み衣類から家具一切を抵当にいれてくれた。こうして大枚300円ができた。横浜出帆の亜米利加丸で行けそうになった。明治33年(1900)12月5日。横浜港から出発。
見送り人はこの先輩と東京歯科医学院の学友が一人のわずか2人。英世25歳(数え)のときだった。
12日間かかってハワイのホノルルに着いた。嵐の航海中で彼はシエクスピアを読んでいた。ハワイからサンフランシスコへ。6日間。そこからフイラデルフイアまで4日半。懐中乏しいので一日一食。12月29日の朝着いた。この地は、1776年7月4日にアメリカの独立宣言が行われた地。
ペンシルバニア大学、フレキスナー教授。教授は仰天した。「お約束どおり、先生の下で勉強するために来ました」と英世。この先生のところで仕事と学問。教授の私費で雇われた。1901年の元旦。
教授から、毒蛇の毒の研究助手として雇う。蛇の毒の研究。逃げ出したい、しかし逃げることなどできない。蛇の首を押さえ毒を吐き出させる。その仕事。怯えながら立ち向かっていた。
月8ドルの生活。パンと水だけ。3か月で、教授不在の間に蛇毒に関するあらゆる文献を整理した。これには教授も一驚!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« Jアラートと陸... | 野口英世のこ... » |