教育ひとすじ半世紀 ~ わが80年の人生のスケッチ ~(7)

フリースクールに託した夢
 1993年10月1日、私が責任者となった「フリースクール札幌自由が丘学園」を北21条のアカシアビルで開くことができた。集まった子どもたちはこの時は6名。しかし数か月で生徒数は20名前後にまで増えた。スタッフも、常勤者として今は亡き柴田宏樹さん(元小学校の先生)の二人。ボランティアスタッフが北大の院生など2名がかかわってくれた。その後、田村慈さんや杉野建史さんが加わってくれた。自由が丘運動の基本形が定まった。
 ここでの運営取り組みを行いながらも、スタート間もなくいろいろな問題が出てきた。同じビルの利用団体との関係が主たる問題である。そういう事情が重なる中で、学校設立運動のセンター(兼教室)を移転することにした。「北16条教室」と呼ぶ一軒家である。古い木造2階建ての建物だったが、丸ごと使えるということでスタッフも生徒も含めてそれまでよりははるかに安心できる条件をつくることができたといえる。

 フリースクールを求めてくる子どもたちは、当初中学生よりもむしろ中卒者が多かった。
 このいわば私たちが身銭を切って取り組んだフリースクールの運営と活動は、次第に社会的な支持を受けるようになった。
 当初、「不登校」の子どもたちは「社会的不適応」のレッテルを貼られる傾向があったが、「不登校の子どもたちの居場所と学びの場」をつくっていこうという取り組みは次第に教育界で「市民権」を得ることができたといえる。
 文科省は「不登校に関する実践研究事業校」としてフリースクール札幌自由が丘学園を認定した(2005年から13年まで)ことなどもあって、フリースクール運動が公的にも評価されるようになったと言える。

 次に私たちが目ざしたことは、フリースクールで学び、ここを居場所とした体験をもつ子どもたちの進む自前の高校を創ることだった。しかし新しい学校を創るということは「設置基準」からいって容易ではない。であれば、まず他の高校の「ひさし」をかりて自前の高校教育を考えようということになった。北海道芦別市に本部をもっている星槎高校の一分校として認めてもらうことはどうだろうか、などの議論の末、星槎の理事長と会ったり、札幌の学習センターの先生方と意見交換をしたりして、ついに2002年に札幌自由が丘学園高等部(星槎高校のある種の分校)の位置を確保することができた。おりしもこの年、苦楽を共にして札幌自由が丘学園の基礎をつくるために共同の活動をしてきた柴田宏樹さんが逝去するという不幸にみまわれた。01年10月に倒れ、その後意識をなくして病床にいたがついに02年12月26日帰らぬ人となった。今(2018年1月)も忘れられない人だ。悲しい。
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