来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
唐僧「鑑真」のこと
唐(618~907の中国の王朝)の時代、日本は盛んに唐からもろもろのものを得た。政治や経済、そして宗教(仏教)など(遣唐使)。中国人も来て、政治や宗教の面で重要な役割を果たした。今の時代でいえば、日本とアメリカの関係みたいなものだったろう。
この期に忘れられない人物として僧侶の鑑真(がんじん)という人がいる。この人は688年に生まれ中国でも有数の仏教の指導者だった。当時、奈良の朝廷は本場の仏教界からすぐれた指導者を招いて本格的な仏教の思想や形式を整えさせようとした。742年、日本から栄叡(ようえい)と普照を中国に派遣した。彼らは当時著名な僧侶であった鑑真のもとを訪ね、ぜひお眼鏡にかなったすぐれた人材を日本(当時まだ「日本」という国名はなかった?)に派遣して頂きたいと懇請した。
鑑真は周囲の僧侶たちに「日本に行って崇高な使命を果たそうという志を持つ者はいないか」と問うた。しかし弟子たちの中で「よし私が」と手を上げるものはいなかった。
鑑真は「お前たちの中で日本という国で仏の教えを広げようというチャレンジ精神を持つ者はいないのか、それでは私がこの使命を自ら果たそうではないか」と宣言した。それでは、という弟子たち21人がともに日本にむかったのが743年夏のことだった。しかし航海は成功しない、これを繰り返し、日本太宰府に着くことができたのは753年12月のことだった。10年かかって5回の渡航チャレンジの末のことだった。日本からの使者だった栄叡は、この間に命を落としている。そして鑑真自身この間に失明しているのだ。
一向が奈良に着いたのは754年2月だった。
鑑真は自分の想いを籠めた「唐招提寺」の建立に成功した。彼の心眼はこの寺をしっかりと心に刻んだころだろう。759年のことだったという。763年、彼は76歳でこの寺で最期を迎えた。
今、私はこの鑑真を主人公とする小説「氷輪」(ひょうりん)を読んでいる。著者は永井路子という作家。鑑真が来日することに成功したところまで読んだのだが、これ以降どういう展開になるか楽しみだ。
30数年前かつて勤務していた高校の修学旅行でこの寺を訪れたことがあった。ガイドの坊さんが、寺の山門をたたきながら「はい皆さん鑑真和上の声が聞こえたでしょう」などと言っていたことを思い出す。
この期に忘れられない人物として僧侶の鑑真(がんじん)という人がいる。この人は688年に生まれ中国でも有数の仏教の指導者だった。当時、奈良の朝廷は本場の仏教界からすぐれた指導者を招いて本格的な仏教の思想や形式を整えさせようとした。742年、日本から栄叡(ようえい)と普照を中国に派遣した。彼らは当時著名な僧侶であった鑑真のもとを訪ね、ぜひお眼鏡にかなったすぐれた人材を日本(当時まだ「日本」という国名はなかった?)に派遣して頂きたいと懇請した。
鑑真は周囲の僧侶たちに「日本に行って崇高な使命を果たそうという志を持つ者はいないか」と問うた。しかし弟子たちの中で「よし私が」と手を上げるものはいなかった。
鑑真は「お前たちの中で日本という国で仏の教えを広げようというチャレンジ精神を持つ者はいないのか、それでは私がこの使命を自ら果たそうではないか」と宣言した。それでは、という弟子たち21人がともに日本にむかったのが743年夏のことだった。しかし航海は成功しない、これを繰り返し、日本太宰府に着くことができたのは753年12月のことだった。10年かかって5回の渡航チャレンジの末のことだった。日本からの使者だった栄叡は、この間に命を落としている。そして鑑真自身この間に失明しているのだ。
一向が奈良に着いたのは754年2月だった。
鑑真は自分の想いを籠めた「唐招提寺」の建立に成功した。彼の心眼はこの寺をしっかりと心に刻んだころだろう。759年のことだったという。763年、彼は76歳でこの寺で最期を迎えた。
今、私はこの鑑真を主人公とする小説「氷輪」(ひょうりん)を読んでいる。著者は永井路子という作家。鑑真が来日することに成功したところまで読んだのだが、これ以降どういう展開になるか楽しみだ。
30数年前かつて勤務していた高校の修学旅行でこの寺を訪れたことがあった。ガイドの坊さんが、寺の山門をたたきながら「はい皆さん鑑真和上の声が聞こえたでしょう」などと言っていたことを思い出す。
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