かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

昨年の昨日は浜名湖の観光をしたようである

2019-08-20 20:33:41 | ブログ記事

夕方Gooblogからのお知らせがあって、

昨年の今日、浜名湖の観光をした記事が届いた。

浜松~浜名湖観光

これは昨年の昨日、8月19日に「塔」の全国大会があって、

私は講演だけ聞かせていただきに浜松までいったのだった。

「塔」の全国大会は要約筆記がつくから難聴の私でも聴かせていただけるのである。

それで昨年の昨日は浜松市内のホテルに泊まって、

今日は一人で浜名湖に鰻丼を食べに行った。

Gooblogが毎日、前年のその日の記事を送ってきてくれるから、

こうして思い出すことができて有難い。

「塔」の全国大会は今年は地元、京都である。

私は申し込みをしていないが、どうしようかな。

行こうとすれば、すぐ行けるが、行くのには、やはり勇気が要る。

明日一日考えて、結論を出すとしよう。

*

★行きたくもあり行きたくもなしそれはいろいろありて今があるゆゑ

★お祭りは行きて楽しく行かざればそれもよろしと思へるもので

★単純に楽しむ段階過ぎたればあとは悩みとなるや大会

★活躍をしてゐるものに楽しかる大会なればわれは行けずも

★わが道を行くと決めても結社内力関係それを許さず

★結社内ヒエラルキーに軽蔑をされるがために行きたくはなし


やさしい孫息子

2019-08-20 13:11:30 | ブログ記事

昨夜はちょっとしたハップニングがあった。

夕食に天ぷらを揚げていて、

その天ぷら鍋をひっくり返してしまったのだ。

台所の床は一面天ぷら油の海になり、

私はありったけの雑巾をもってきた。

拭いてくれたのは、主に夫と娘であった。

私は、右手に軽いやけどをしてしまったから、患部を冷やすことが先決だった。

火傷は大したことないと思っていたが、だんだん赤く腫れてきたから、

これは本格的に冷やす必要があると思って、夫にアイスノンをもってきてもらって冷やした。

が、しばらく冷やしているうちに解けてしまう。

すると、それを見ていた小学校5年の孫が、

頼んだわけでもないのに、冷凍庫から別のアイスノンをもってきてくれた。

使ったアイスノンは洗って、また冷凍庫へ入れていた。

孫は食卓で計算のプリントをしていたのに、私のことを気遣ってくれていたのだ。

この孫は、シャイで、ふだんはほとんどしゃべらない。

が、ピアノが驚くほどうまくピアニストのような演奏をする。

硬筆も東京都で同学年の中で2位に選ばれたというだけあって力強い字を書く。

絵も、以前、宝塚の手塚治虫記念館に連れて行ったとき、

夫と二人が並んで描いたのだが、

最後の最後まで手を抜かずに描くから、出来上がった絵は夫のよりも上手かった。

大人しいけれど、何をしても手を抜かずにする子だ。

母親である私の娘の言うことを痛々しいほどよく聞くよいこでもある。

あまりにもよいこ過ぎて、かわいそうになるくらいである。

その子が、昨夜は、こんな優しい思いやりを見せてくれたから、涙が出た。

で、火傷のほうは、大したことないと思っていたけれど、

夜中もずっと痛みがあったから、朝の4時ごろまで何度かアイスノンを取り替えた

寝たのは明け方近くになってからである。

懸命に冷やしたおかげで、痕は少し茶色っぽいが、大したことにならなかった。

それにしても、私も老化したものだ。

顛末を話せば長くなるが、

昨日は図書館の本の返却日だったから、午後出かけた。

返却して、予約してあった本を受け取ってからデパートに回った。

その後ちかくのスーパーも回ったが、結局何も買わずに

天ぷらなら家でしたほうが揚げたてでおいしいからと始めたのだった。

が、自分では意識していなかったが、あちこち歩いたことで疲れていて、

そのまま天ぷらに取り掛かったから身体が頼りなかったようだ。

私は心臓の薬をたくさん飲んでいるが、

その中に眩暈を催す作用のある薬も含まれていて、ときどきふらつことがあるのだ。

ふだんは一休みしてから取り掛かる台所仕事を

昨日は帰宅直後にとりかかったのがよくなかったようである。

ちょっとしんどかったから、夫と娘に手伝ってほしいと声をかけた直後にやってしまった。

天ぷら油をひっくり返したあとは二人が片付けてくれたが、

まあ、この程度のことで済んでよかった。

これからもっと年を取ってくるから、これからはもっと注意深くしないといけない。

また無理は禁物ということも思った。

しかし、不幸中の幸いは、

小5の孫息子の思わぬ優しさに触れることができたことだった。

*

★ママ好きのわが孫息子婆も好きらしく火傷の世話してくれき

★ブログには家族のことを書くなとぞ言ひにし娘は父親つ子で

★義母義妹夫のことは書くなとぞ命令すなりわが産みし子は

★わが子でも夫の子でもありしかば夫をかばふ娘となりぬ

★姑はわれには厳しくありしかど孫なるわれの子らは溺愛

★姑の娘の義妹もわが子には叔母にて悪く言ふてはならぬ

★われの子でありつつ義母の孫なればわれのみの味方するにあらざる


障らぬ神にたたりなし

2019-08-20 11:40:57 | ブログ記事

昨日は、娘のことを書いたことで娘に偉く叱られた。

私は日記替わりにこのblogを書いているから、

日々の出来事を書くと、家族のことも自然に出てくる。

娘や孫が帰ってきているのに他のことを書くほうが不自然だから。

しかし、娘は、それがいたく不満のようである。

父親思いの娘は、私が夫のことを書くことも責める。

もうこうなれば、またblogを作り直すしかない。

または、うさこさんのようにやめてしまうか。

難聴で人としゃべることのない私にとってblogは生きがいである。

blogぐらいは自由に書きたい。

が、娘にこれほど文句を言われるのなら、やめるか作り変えるしかない。

このblogは、夫に読まれないように前のblogから作り変えたが、

以前から読みに来てくれている人達のために似たブログ名にしたのが失敗だった。

私も歳だから、もう新たに作る気力もない。

かと言って、こんなに娘に責められるのなら、やめるしかないか。

いまハムレットの心境である。

*

★家族には見せていけないblogなり家族のことを書いてゐるゆゑ

★家にしか居場所なければ家のこと書くしかあらず嗚呼むづかしい

★わたくしは家族が宝blogには宝のことを切に書きたし

★小説であれば許してもらへるかならば小説書かむblogに

★娘にもわからぬらしき難聴のわれの孤独や悲しみなどは

★わが子ゆゑわからぬ親の悲しみや辛さつらつら書くのがblog

★近況が伝わるblogの便利さを思へど書かれることは嫌らし

★母親にことに厳しき娘とも思ふわたしもさうでありしよ

★生け花を教へる母に反発し会ふたび文句つけてゐしかな

★義理母に厳しかりにし義妹なり最後は喧嘩ばかりしてゐき

★親の世話するのは義理のほうがよい場合もありて義妹とわれと

★わたくしは叱り役していたりけり義姉は無視して叱りもせずに

★叱るのと無視するのでは叱るのがまだましならむ無視するよりも

これをアップすると、また叱られるだろうな。桑原桑原


耳の聞こえない両親と生きた娘の後悔

2019-08-20 06:22:27 | ブログ記事

昨日、

耳の聞こえない両親と生きた娘の後悔「私たちは、どのくらいお互いのことを理解できていたんだろう」

という記事(↑クリックしてください)を見つけた。

私も、全然聞こえないというわけではないが、最近は意思疎通にも困難をきたすほど難聴が進んだ。

長男は、むかし、「僕も手話を覚えたほうがいいかなあ」と言ってくれていたが、

現在は自分の障害のある娘のことで手いっぱいでそれどころではないだろう。

それに、難聴者の私自身が手話ができないのだから、

長男が覚えてくれても宝の持ち腐れになる。

しかし、最近は、子供達も、電話のできない私より、

夫に連絡をしてくることが増えて、私は疎外されている。

夫から知らされるのみであるから、それがとても寂しい。

子供達は、相談事も夫にするようになって、私は事後報告を聞かされるだけになった。

子育ての最中は、そんなことはなかった。

そのころも聞こえは悪かったが、私一人で奮闘した。

本当に苦労した。

が、夫は仕事があったから、私がせざるを得なかった。

学校のPTAの役員もさせてもらってきた。

さすがに次男のときの学級委員は辞退したが、

それ以外は、たいがいしてきた。

学級委員だけは連絡網の責任があったから、

長男のときにして、電話のベルを聞き逃すことがある私には不向きだと悟った。

噂では親が学級委員をすれば、子供の内申書にプラスになると言われていたが、

無理なものは無理だった。

長女のときは、中学校から遠方の私立に通わせていたことと

年の離れた幼い次男がいたこともあって、

学級委員等の役員の指名はなかった。

が、大学受験のときは、指定校推薦の推薦もしていただけたから、

親が役員をしなかった不利は幸いなかった。

そんなわけで、

難聴であっても、ずいぶん頑張ってきたと思っている。

それなのに最近では子供とのパイプは完全に夫に奪われてしまった。

子供達とのパイプのみでなく、

私の母の晩年も、夫が母と私の連絡係であった。

その意味では、

夫には大変世話になっている。

こんなふうに主婦であるのに家庭の要にいられないから、

ときどき「私はもういなくなっても」と思うときもある。

難聴であるだけでもこれだけ生きにくいけれど、

まったく聞こえない人の苦労はいかほどであろう。

そこで思うのである。

現在、小学校から英語を教えることになっているらしいが、

私は、手話も小学校から教えたらどうかと。

誰でも、

現在は耳に障碍がなくても、

いついかなるときに聞こえが悪くなるかわからない。

自分が悪くならなくても家族の誰かが聞こえなくなることもある。

そういうとき、

皆が最低の手話ができたら、聞こえが悪くなったとき、どれだけ救われるだろう。

私は、自分が耳に障碍があるから聴覚障害について希望を述べるが、

これは、目の見えない人、脚が悪くて歩けない人とかにも、

それぞれこうしてほしいという希望はあるだろう。

障碍者が障害のない人と対等に生きていける社会が、やはり理想だと思う。

私達が政治家を選ぶときは、

どれだけ障碍者に思いやりがあるかということを一番の基準にするべきだ。

山本太郎の「れいわ新選組」は、

その点に賛同できたから投票したのだったが・・・。

*

★難聴でいかほど苦労してきしか自ら労はる自らの身を

★三人の子のPTAの委員もし自治会委員もすべてしてきし

★三人の学校三か所それぞれに行くだけさへや忙しかりき

★長女とは十歳ちがひ長男と九歳ちがひの次男を連れて

★実家には助けてもらふことできず熱を出しても寝られずゐたり

★仕事もつ実家の母はときに来て泊りてすぐに帰る忙しさ

★親の世話こどもの世話を難聴のわれはしたりき難儀しながら

★難聴であるそれだけで疲れるもありてしばしば熱を出したり

★疲るれば咳がとまらぬやうになり咳きこみながら家事をせし日も