かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

眞子様が手話でご挨拶

2019-08-29 23:13:34 | ブログ記事

という動画を見つけたから、ご紹介させてください。

眞子さま 手話であいさつ

私は聴覚障碍者ですが、手話はできません。

が、この眞子さまの手話が素晴らしいものであることはわかります。

こんな素晴らしい手話のできるお姫様は日本の宝です。

国民のわがままを言わせていただければ、

眞子様には降嫁されずに、ずっと皇室にとどまっていただき、

悠仁様の御代を支えていただきたく存じます。

話は変わりますが、

今朝、BSテレビで「戦艦大和」を見ていたのでしたが、

戦艦大和は二重構造になっていたから、撃たれても沈まないのが特徴でした。

しかし、

そうなったとき、乗組員に盲腸の手術を受ける者が続出したそう。

なぜなら、撃ち込まれた時、乗組員は船の中に缶詰になり、

外の音を聞くことができなくなることでストレスを感じて盲腸になったのだそう。

盲腸にはストレスも関係していたのですね。

それを聞いて、

人間は外の音を聞いていないと不安に駆られてストレスを感じるものだと知り、

私が鬱病になりやすい原因がわかりました。

聞こえないと、いろんな場面で不安に駆られます。

せめて私も手話ができればいいのですが・・・。


「古典和歌の生命力」・・・2019年「塔」全国大会より

2019-08-29 14:51:08 | ブログ記事

旅日記以上に読者を減らすのが趣味の短歌の記事であることは承知しています

が、 

自分の備忘のために書きますから、興味のある方に読んでいただければと思います。

8月24日の短歌結社「塔」の全国大会の2部の対談の記録になりますが、

2部になると、

聞かせていただくほうも集中力が切れて、聞き流しがちでした。

ですから、不完全な記録です。

今回の対談は「コスモス」の小島ゆかりさんと「塔」主宰の吉川宏志さんでした。

題して『古典和歌の生命力』

昨日の記事「2019年「塔」全国大会備忘録」と同様に、

要約筆記したものを読ませていただいての記事になることを予めお断りしておきます。

レジュメは最初に配られていたから、

その写真(どういうわけか横向きになってしまった)を再掲載させていただきます。

【恋の荷物】

昔は歌を詠むということは大事なことだったから、

次のように、

叔母さんである坂上郎女が甥の大伴家持に次のような歌を贈って、

〇片思(かたおもひ)をふつまに負(お)ほせ持て越部に遣らば人かたはむか

坂上郎女

甥の大友家持に次のような返歌をさせて、歌の贈答の練習をさせている?

〇常の恋いまだやまぬに都より馬に恋来(こひこ)ば担(にな)ひあへむかも

大伴家持

「ふつまに」というのはどっさりという意味。漢字で書けば「太馬」か。

「かたはむか」は「詐はむか」。

歌意は、

(坂上郎女)片思いの気持ちをいっぱい馬に載せて越の国に遣れば、人はどのように答えるか。

(大伴家持)常の恋で手いっぱいなのに、都から馬で恋を寄こされたら担いあぐねます。

というあたりか。

この万葉集の歌を下敷きにして、

馬場あき子さんは次のような歌を詠われている。

〇父といふ恋の重荷に似たるもの失ひて菊は咲くべくなりぬ

馬場あき子

また、高校生万葉短歌バトルでは、

高校生は次のような歌にしている。

〇片思ひいつも寂しい風が吹くときに熱(ほめ)きて球体となり

 高3生

この高校生の歌には、あまりの上手さに驚かされる。(びこの感想)

和歌は目に見えない恋とか心を実体にするのが面白い。

古今集などは行儀のよい歌ばかりだが、個人の歌集にはエロチックな歌もあったりする。(by小島ゆかりさん)

 

【韻律の妙】

〇あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月

明恵『明恵上人集』

レッドでなく、明るいことを詠っている。

身体は言葉を持たない。月を見たときの身体の言葉。

「本当に月は明るいなあ」

華厳宗 月輪

〇あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり

斎藤茂吉『あらたま』

〇年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山

西行『新古今集』

 

【俗世の力】

〇行きなやむ牛のあゆみに立つ塵の風さへ暑き夏の小車(をぐるま)

藤原定家『玉葉集』

昔もこんなに暑かったんだ。

俗世に力点を置いた歌。

〇寒き夜肉焼きて食ひ酒のめり生まれて、食ひて、生きて、老いて、去る

高野公彦『地中銀河』

ロマンチック、シュールも好きだけど、一方で俗に満ちたものを作る気持ち

(by、小島ゆかりさん)

【あはれ(身にしむ)】

〇月をこそながめなれしか星の夜の深きあはれをこよひ知りぬる

建礼門院右京大夫『玉葉集』

月夜のように月がきれいだと飽くまで主役は月。星の美しさを発見した歌。

〇さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをり

河野裕子『歩く』

この世の他を見た人でないとできない歌。(by、小島ゆかりさん)

「身に沁みる」とか「しみじみ」とかという言葉が現代短歌では忘れられている。

 ①梅の花にほひをうつす袖の上に軒漏る月の影ぞあらそふ

藤原定家『新古今和歌集』

梅の香りと月光を競わせている。

「ふせろう」=お香を炊いた上に籠を伏せて、その上に着物を置いて匂いをつける。

体臭消し、防虫の目的以外に、男が忍んできたとき間違えないようにするため。

昔の夜は月の明かりだけで暗かったから、そうしていた。

当時の嗅覚を想像しないと読めない。

今の感覚で読んではいけない。

一度自分の感覚を消して読む必要がある。

②夜昼と人はこのごろたづねきて夏に知られぬ宿の真清水

藤原定家『拾遺愚集』

③こととなく君恋ひわたる橋の上にあらそふものは月の影のみ

西行『山家集』

友人と別れるときの歌。

物思いに更けているのは月とわれ。

④墓石と竹藪照らししづかなり月を離れし月の光は

伊藤一彦『月の夜声』

⑤ひきかへて花見る春は夜はなく月見る秋は昼なからなん

西行『山家集』

⑥うれしやと待つ人ごとに思ふらん山の端出づる秋の夜の月

西行『山家集』

同時刻に都の人も嬉しいと思っているんだろうなあ。

 ⑦うき世とやあだに契りし山桜まがふも峰に消ゆる白雪

『俊成卿女集』

 ⑧都鳥沖へ去りゆく夕暮れをみておりわれと昔男と

馬場あき子『ふぶき浜』

馬場さんの女歌。

古典和歌を読むことで現代和歌とは違うリズムが身に付く。

⑨山里のあはれをそふる夕霧に立ち出でん空もなき心地して

紫式部『源氏物語』夕霧

 『源氏物語』は物語が面白いから物語の中の歌は鑑賞あまりされないが、

もっと鑑賞しないともったいない。

⑩雲払う風のコスモス街道に母の手をひく母はわが母

小高賢『本所両国』

母の手をひいて「この人は本当にかけがえのない人なんだ」と。

以上です。


「俳句は叙事より写生」というタイトルを見たが

2019-08-29 09:14:25 | ブログ記事

短歌もそういうふうに言われている。

が、私に言わせれば、

「別に叙事であっても写生であってもいいんじゃない?」

である。

叙事であっても優れたものは優れているし、

写生であってもつまらないものはつまらない。

大体が、こんなふうに「叙事より写生」と決めつけることが間違っている。

もっと言わせてもらえれば、

私は、

短歌に選者という歌を撰する人間がいるのが間違っていると思っている。

短歌は詠む人もさまざまであるが、同時に読む人もさまざまである。

ある人を感動させる歌も、別の人には感動を催させないということは当然ありうる。

それなのに、選者と呼ばれて崇められている先生たちに選などされたくない。

殊に人生経験の乏しい若い選者には選を受けたくない。

世の中のことが十分わかっていない人に年寄りの気持ちがわかるとはとても思えないから。

たとえ歌歴が長くても、若さは未熟である。

若さゆえの輝きはあっても人様の歌を選別するほどの懐の深さは持ちえない。

もっとはっきり言わせてもらえれば、

未熟な人が人生経験豊富な人の歌の選をすることは傲慢であるとさえいえる。

「若輩」という言葉はそのことを端的に示している。

が、

それを短歌界は許している。

おそらく俳句界も同様であろう。

なぜこういうふうになっているのか、

誰も疑問に思わないところが疑問だ。

いや、疑問に思っていても言えない風潮が疑問なのだ。

こういうところは、未だに旧態依然としているところがある。

短歌は伝統の文芸ではあるが、

しかし、現代は、口語短歌も隆盛を極めているのだから、

結社等の運営も、もう少し柔軟にしたほうがいいと思う。

若い選者を起用することの是非はともかく、

運営自体が旧態依然としているのだ。

もとのタイトルに戻るが、

短歌は写生の文芸だという決めつけ方も思い込みが過ぎる。

ほかにも、こういう思い込みによる決めつけはあるが、

また気づいたときに書きたいと思う。