無味乾燥な

つまらぬ話でございます

年末恒例の

2017-12-10 22:05:08 | 日記
近所の50年以上前に建てられたお屋敷の解体が終盤になり、土が表出し、その陰になっていた建物が見えるようになった。小学生の頃は、アイスクリームの倉庫があって、店で買うより少し安くしてもらっていた。土地はもっと広いように記憶していたが、それほどではない。自分が小さかったからそう思っていたのかもしれない。相続税はこういう事象を見せる。そう思って見ると、猫の額のようなものである我が家は適度なのかもしれない。

昨日は、夕方から国分町に出かけた。
アーケード街の中は、七夕祭りぐらいに混雑して、人々を掻き分けて進む。
ページェントが始まったからなのだろう、仙台三越の椅子は普段以上にジイさんバアさんが座っている。一階のトイレは、男用にも列をなしていた。初めて見た。
itoのやつは、また少し遅れて来た。
タイから帰ってきたとのことで、散々値切って買ったという魔除けになるらしいお面をもらったが、ハシゴしたどこかの店に置いて来てしまった。
一軒目は、居酒屋で、田酒の弁慶を呑んだ。能書きを垂れられ、高かったが、なるほどうまかった。

itoのやつは、あと三軒回わらないとダメだと言う。オイラ達が行かなくても、店は無くならないと言ったのだが、三軒回って、最後には、客が溢れている中華料理屋で担々麺を食った。仙台の酒飲みは、野戦場のような中華料理屋で終わる。
itoのやつは、財布にいれておいたお金が、なぜか全部なくなった、と騒いでいたが、これだけハシゴすれば残るわけがない。

出かける時に、家の周りが激変したので、ちゃんと帰宅できるのか心配だったのだが、なんとか帰還した。

しゃん

2017-12-03 21:59:06 | 日記
当世ゆえ、なんでも、「しゃんしゃん」を付けるならば、可愛い感じがするのであるから、果たして現世を生きているのか、幻を彷徨うのか、分からないうちのおふくろにも、無理矢理そうしてみると、「ばあしゃん」である。
「ばあしゃんしゃん」、とやはり二回付けることが必要か。
パンダのしゃんしゃんは、見ていて全く飽きないが、老人ホームのばあしゃんしゃんを見に行くと、話がほとんど通じないので、直ぐに飽きる。
席替えがあって、最近は、お爺さんの隣に座っている。世話してもらっている職員さんは、会話が成立しているわけではないが、なんだか、楽しく喋っているように見えるのだ、と言う。
息子である吾輩が行くと「何でこんなところに居るんだ?ああ、今日は休みか。」と言って、吾輩の返事とは無関係に「ここは、学校関係の人が多いんだよなあ。おかしいなあ。」と眉を潜めながら言って、首を傾げる。その後の話はどんどん内容が分からないようになってくる。よほど子供達の学校でいろんなことがあったのか?
吾輩の忘れ物の話をするのは得意だった。教員免許がない吾輩を見て、そう言うのであるから、小学校の頃の吾輩の失敗に関わる記憶がよほど印象的だったのだろう。よくそんなことだけを少し覚えているものだとあきれる。姉のことも認識できないのだがなぁ。
隣のお爺さんに対しても何かわからないことを言うので、お爺さんのほうも何か言い出して、お互いにわけがわからないことを言って、聞いている方は収拾がつかない感じになるから、こいつあ「やべっ」と思って職員さんに礼を述べて、辞する。
吾輩が、見に行ったほうが良いのかどうか分からないのだが、偽善者たる自分は、ばあしゃんしゃんを預けっぱなしも気が引けるので、「どうしたろうかしゃん」になって、また来週迷うことにする。